第六章 恋人が二人になりました
オーボエより長い黒いケースは、両手で抱えても少し重い。後ろをついてくる陽菜に、何ですか、と小声で聞かれても答えられず、先生の前へ運ぶ。
外された留め金の向こうに、イングリッシュホルンが収まっていた。
下の方が丸く膨らんだベル。見慣れたキイに似ているのに、全体は長い。別にしまわれた細い金属の管が、光を受けていた。
「ひかり、これ、前に吹いたことあった?」
「音を出させてもらったくらいなら」
「今日、もう少しやってみて」
私だけでなく二人の目も先生に集まる。その不審そうな三人を前にして、先生はますます楽しそうだ。
「五重奏、やめます」
誰も返事をしなかった。
廊下から、別の生徒が笑う声がした。
今、私たちが聞いた言葉だけ、そこから切り離されていた。
「……やめる?」
私が聞き返すと、先生は頷いた。
「この二人、どちらも残したい。ひかりを下の声部に置けば、三人でいい組になると思う」
利香先輩が、ゆっくり先生を見る。
陽菜はケースと私を交互に見た。
「オーボエ、二人ともですか」
「そう」
先生は机の引き出しから、三部の楽譜を出した。
「ベートーヴェン。二つのオーボエとイングリッシュホルンのための三重奏曲。ハ長調、作品八十七」
私は表紙を見た。
知っている曲だった。全部の楽章を通して聴いたことはあるが、自分で吹くとは思っていなかった。
「全曲ではなく、大会には終楽章を中心に五分以内へまとめます。まずは、この三人で合うかどうか」
「先生」
陽菜が手を上げた。
「オーディションの結果は」
「二人とも選出。合奏を少し聴いてから、担当を確定します」
陽菜は手を下ろしたきりで、利香先輩も楽譜を受け取ろうとしない。二人の喜ぶ顔を待っていたらしい先生が、首を傾げる。
「嬉しくないの?」
「嬉しいです」
また二人の声が揃った。
今度はさっきより小さかった。
私は、笑ってはいけない気がして、楽器のケースを見下ろした。
オーボエのリードをそのまま使うことはできないので、先生が用意した専用のものをボーカルの先へつける。構えた手に、慣れない重さがかかる。
最初の音に二人が振り向く。そのまま隣の音へ移る指はさほど迷わないのに、口の中で思う音と、身体に返る響きとの距離が違う。一度下ろして息の入り方を変えると、二回目はさっきより楽に鳴る。
先生が頷く。
「早いね」
「まだ、低いところが少し」
「そこは慣らして。オーボエと同じつもりで押しきらないこと」
私は音階を途中まで吹いた。
利香先輩が譜面を持って近づく。
「ひかり、すごい」
「まだ全然です」
「私より先に言わないでください」
陽菜が、先輩の横から顔を出した。
「何を?」
「すごいって」
「感想を言う順番まで決まってるの?」
二人が言い合いを始めたので、先生は鉛筆で机を二度叩いた。
「吹いてから話す」
二人がすぐ楽器を構えるので笑いかけると、先生の視線はもう私に向いている。
「あなたも」
「はい」
渡された譜面を開く。
イングリッシュホルンの声部を、目で追った。オーボエの旋律だけを外から聴いていたときには気づかなかった動きがある。二本の音を下から受け止めながら、こちらから先へ押す場所もあった。
先生は短い区間を指定した。
「利香が第一、陽菜が第二。ひかり、最初は二人を支えて。そのあと出てくる自分の動きは、ちゃんと歌って」
私は頷いた。
「この三人なら、イングリッシュホルンをいちばん安心して任せられるのはひかり。花形の旋律を吹く人を決めたいんじゃなくて、この組が動く場所を作りたいの」
陽菜が、少しだけこちらを見た。
利香先輩は譜面へ視線を落とした。
先生の数える四つに合わせ、二本のオーボエが入る。少し後ろから支えるつもりが、陽菜は先輩より先へ進み、私はどちらを待つのか決められない。三つの音の端が、それぞれ違う場所へ落ちてしまう。
先生が止める。
「ひかり、全部待たなくていい。進む場所を示して」
「はい」
二回目は、自分から拍の形を渡してみる。利香先輩の音が乗り、急ぎかけた陽菜もこちらへ戻ってくる。終わりの音まで三人で着いたとき、初めて、響きの向こうの音楽室まで聴こえた。
先生が、小さく笑った。
「ほら」
ほら、と言われても、私たちはまだ返事ができなかった。
でも二人の顔を見れば、同じことを感じたのだと分かった。
陽菜が一番先に口を開いた。
「もう一回、いいですか」
先生の頷きを待って譜面を戻す利香先輩も、私と同じ気持ちだろうか。楽器の位置を直して息を吸う。勝ち負けを決めるためではなく、今の音をもう一度聴くために。
担当が決まると、先生はほかの楽器の希望者にも説明した。
クラリネットとホルンは、今日の演奏から一人ずつ選ばれた。ファゴットには香帆の名前が呼ばれる。けれど、五重奏を取りやめる話へ移ると、譜面を受け取ろうとしていた三人の手が止まった。
「別の組に入れるかどうかも含めて、考え直します。急に変えて、ごめんなさい」
香帆が私を見て、それから机の三重奏の譜面へ目を落とす。さっき、私から音を受け取るつもりで吹いたと言ってくれたばかりだった。
何か言いたくても、私が謝ればいいのかさえ分からない。そのあいだに香帆は自分の譜面を重ね、角を揃えた。
「先生。私たち三人で、別の五重奏を組んでもいいですか」
先生のペンが止まる。
「あと二人は?」
「フルートと、ピッコロに声をかけたいです。上の音が二本あれば、クラリネットと受け渡しもできると思うので」
そこまで言うと、香帆は隣の二人へ身体を向けた。
「まだ、私がやりたいってだけなんですけど。一緒に考えてもらえますか」
クラリネットの子が、閉じかけていたケースから手を離す。
「うん。今日のために練習したし、合わせてみたい」
ホルンの先輩も、いいよ、と頷いた。
その返事をもらってから、香帆は出入口へ目を向ける。利用表を回収していた聡美先輩と、隣で椅子を寄せる海香先輩がいた。
二人は同じフルートパートで、海香先輩は普段の合奏でもピッコロに持ち替える。
「海香先輩、聡美先輩。もう、組む相手は決まっていますか」
海香先輩が、椅子を持つ手を止めた。
「まだ。ひかりたちが何を吹くか、先に聴こうと思って」
「自分の予定も決めてください」
聡美先輩に言われても、部長は悪びれず、今決まりそう、とこちらを指す。香帆は笑いかけたあと、譜面を胸の前へ持ち直した。
「私たちと、五重奏をやっていただけませんか。海香先輩にピッコロ、聡美先輩にフルートをお願いしたいです」
今度は、二人ともすぐに冗談を返さなかった。
聡美先輩がクラリネットとホルンの二人を見て、最後に香帆へ視線を戻す。
「曲は、これから?」
「はい。この五人で吹けるものを、先生に相談したいです」
「合わせる時間は?」
「皆さんの予定を聞いて、全体合奏と重ならないところで。利用表は私が出します」
聡美先輩は手元の表を一枚めくり、木曜日の空欄へ指を置く。
「私はここなら。海香は?」
「私も大丈夫。香帆ちゃんが呼んでくれるなら、ぜひ」
香帆の肩が、そこでようやく下がった。
先生は五人を見渡し、黒板に楽器名を並べ直す。ピッコロ、フルート、クラリネット、ホルン、ファゴット。さっきまで私たちの名前があったところに、別の五人が揃っていく。
「この編成で吹ける曲を用意しましょう。まず合わせて聴かせて。それから大会へ向けて作っていく」
「お願いします」
香帆が頭を下げると、ほかの四人も頷いた。
海香先輩はもう、ピッコロならあの入りを試してみたい、と先生へ話し始めている。その横で聡美先輩が、曲はまだです、と念を押した。
笑い声の中、香帆がこちらへ戻ってくる。
「びっくりしたね」
小さく言われて、私は頷く。
「香帆と吹くんだって、思ってたから」
「私も。先生の前で、ひかりの名前まで出したのに」
譜面の端には、指で押さえすぎた跡が残っている。もう何も気にしていないわけではないのだと、その跡を見て思った。
香帆は私の抱える長いケースへ目を移す。
「その音、今度聴かせて。こっちも五人でできたら、聴いてほしい」
「うん。聴きたい」
答えると、香帆は少し笑って、新しく集まった四人のところへ戻る。最初の練習日を確かめる声が、今度はさっきよりはっきり聞こえた。
私は長いケースを抱え直した。
楽器の貸出手続きをしなくてはいけない。
家へ持ち帰る場合の記入欄、保護者の確認、使用後の点検。学校の備品だから、いつもの自分のオーボエより注意することが増える。
陽菜は、私の手元を覗き込んだ。
「先輩、今日、二つ持って帰るんですか」
「これはまだ。書類を出してから」
「手伝います」
「書類は自分で書けるよ」
「荷物の方です」
利香先輩が、私の鞄を指した。
「それなら私が」
同じ持ち手へ伸びてきた二人の手を避け、自分で鞄を引き寄せる。荷物一つでも、油断できない。
「自分で持ちます」
今度は、はっきり言えた。
二人とも手を下ろした。
「職員室、行ってきます。戻るまでに、片づけ終わらせておいてください」
二人が素直に頷くのを見て、私は少し安心した。
まだ早かった。
ひかり先輩が職員室へ行ってから、私は机の上の譜面をもう一度読んだ。
同じ曲の別の声部が、三枚。二枚なら話は簡単だったのに。譜面台を畳む利香先輩の音が向こうから聞こえるので、余計にその一枚を意識してしまう。
「どうする?」
利香先輩が尋ねた。
私は答えず、譜面を重ねた。
「何をですか」
「勝負」
何の話かなんて、聞かなくても知っている。すぐ答えたくなかっただけだ。
私は椅子を引いた。
座るつもりはなかったが、立ったままでは落ち着いて考えられなかった。
「ひかり先輩と同じ組で、アンサンブルコンテストに出るメンバーに選ばれた方」
自分が言った条件を、声に出す。
利香先輩が頷いた。
「二人とも選ばれたね」
「五重奏ではないですけど」
「五重奏の、とは言ってなかった」
私は利香先輩を見た。
利香先輩は勝ち誇ってはいなかった。その方が、少し悔しかった。
「あの時点で、三重奏になるなんて分かりません」
「私も分からなかったよ」
「もう一回、別の勝負を」
そこまで言って、私は口を閉じた。
別の勝負。
条件を変えて、どちらかが勝つまでやり直す。
それは、自分が最初に言ったことを、都合が悪くなったから取り消すのと同じではないか。
利香先輩は黙って待っていた。
私は机の下で拳を握る。
負けたわけではない。
ひかり先輩の隣で吹ける。そうなったのは自分が練習したからでもある。そのことを、編成が変わったために、なかったことにはしたくなかった。
利香先輩の演奏も、よかった。
聴いていなくても言えるような慰めではない。扉の向こうから聴こえた音を、私は覚えていた。自分がまだできないことを、あの人はしていた。
でも自分にしかないところも、ちゃんとある。
ひかり先輩がそう言った。
「同点です」
私は言った。
利香先輩が顔を上げた。
「うん」
「勝負は同点なので」
そこで、もう一度だけ息を吸う。
「利香先輩にも、ひかり先輩と付き合う権利をあげます」
言ってから、胸の中がざわざわした。
自分があげるものなのか、という考えが、少し遅れて来る。
でも今それを考えると、最初に勝負を申し込んだところまで全部戻らなくてはいけなかった。
利香先輩は私を見ていた。
「私は、ひかりに断られたら、どうするの」
「それは、先輩がどうにかしてください」
私はすぐ答えた。
「私は邪魔しないってだけです。でも、最初の恋人は私ですから」
利香先輩の口元が、少し動いた。
「そこは譲らないんだ」
「譲りません」
「分かった」
利香先輩は頷いた。
私は立ち上がり、椅子を元へ戻した。
ひかり先輩が帰ってきたら、ちゃんと説明しなくてはいけない。
一番に好きになってもらえばいい。
最初に付き合ったのも自分で、今いちばん近いのも自分だ。
そう考えれば、少しは落ち着けた。
ただ、利香先輩がさっきより静かに笑っていることだけが、気になった。
職員室で貸出票を書いて戻ると、音楽室は綺麗に片づいていた。
譜面台は決められた場所へ戻り、椅子も揃っている。陽菜と利香先輩が窓のそばに立っていた。
二人とも、こちらを見る。
二人の顔を見て、入口で足が止まる。何か話がついている。私のいないところでついていい話だったのか、聞く前から心配になる。
「片づけ、ありがとうございます」
無難なことを言った。
陽菜が頷く。
利香先輩が近づいてきた。
「ひかり、勝負、同点だったの」
「はい。それは、そうですね」
私はまだ書類を持っていた。
利香先輩が、その端を見た。
「だから、陽菜ちゃんと話したんだけど」
私は陽菜を見た。
陽菜は腕を組み、少し不満そうに頷いた。
「私も、付き合っていいって」
先輩が言った。
二人の顔を見比べても、今、誰が誰と何をするのか、言葉がうまくつながらない。時計だけが一秒進む。意味が分かるまで、それも止まっていてほしい。
「……先輩も?」
「うん」
「陽菜と、私が、付き合ってて」
「うん」
「そこに?」
利香先輩は、驚くほど落ち着いた顔で頷く。私は助けを求めるように、陽菜へ視線を戻した。
「陽菜、これ、どういう」
「私だって、こうなるとは思ってませんでした」
それは、分かる。
私も、思っていない。
でも、思っていなかった同士で相談したら、なぜこういう結論になるのだろう。
「一回、待ってもらって」
私の言葉に、利香先輩がほんの少し首を傾ける。
近い。いつの間にか、すぐ目の前に立っていた。
「これからよろしくね、ひかり」
そう言った先輩が、私の頬へ手を添えた。
考えるより先に、唇に触れられた。
冬の廊下と、春の譜面台と、今日の最後の音。唇が触れている短い間にいくつも浮かんで、どれも思い出しきれない。先輩はもう離れたのに、息を吸うところまで戻れずにいる。
「ちょっと!」
陽菜の声がした。
声の方を見たいのに、首の動かし方まで遠くなっている。
「順番がおかしいです!」
陽菜が近づいてくる。
先輩は私の頬から手を離した。
「何の順番?」
「キスです! 私、まだなのに!」
その言葉で、私の頭に別の情報が入ってきた。
陽菜と、まだしていない。
利香先輩とは、今した。
陽菜が最初の恋人で、利香先輩は、今、二人目。
二人目。
「ひかり先輩、私も」
陽菜が私の腕を取った。
私は慌てて二人を見た。
何か言わなくてはいけない。
順番の話でも、人数の話でもなく、まず私の話を。
「待っ……」
床が少し遠のいたかと思うと、急に近づいてくる。
二人の声が同時に私の名前を呼んだところで、景色が切れた。
目を開けると、音楽準備室の天井だった。
私は古いソファに座らされ、両側から支えられていた。
右に陽菜、左に利香先輩。
二人とも、さっきまでとは別の意味で必死な顔をしている。
「ひかり先輩、大丈夫ですか」
「頭、ぶつけてないから。ゆっくりして」
私は瞬きをした。
先生の声が、扉の近くから聞こえた。
「立たないで。そのまま少し休んで。何があったの?」
陽菜と利香先輩が、顔を見合わせた。
今度は二人とも、何もありませんとは言わなかった。
私も言えなかった。
水を受け取り、少しだけ飲む。
陽菜が肩から手を離しかけた途端、先輩の腕が強くなり、それを見た陽菜も手を戻してくる。コップを抱えたまま二人を見比べても、どちらも消えてくれない。
夢ではない。どうやら私には、恋人が二人いる。




