↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/38

第五章 選ばれるのは、一人だけ

 オーディションまでの三週間、私は楽器を吹く以外の時間の使い方が下手になった。

 陽菜と帰る日は、利香先輩の練習を聴いていないことが気になった。利香先輩に呼ばれて立ち止まると、陽菜を待たせたのではないかと思った。

 無理に時間を作らなくていい、と二人は言う。どちらも、その言葉のために無理をして笑うので、分かりましたと答えてから、また空いている時間を探してしまう。

 ある日、聡美先輩に練習室の利用表を出すと、先輩は私の名前を三か所見つけた。

 「これ、同じ時間」

 「すみません。あとで、ずらそうと思って」

 「あとで考えても、ひかりが三人になるわけじゃないよ」

 私は訂正用の紙を受け取った。

 聡美先輩は少しだけ声を柔らかくした。

 「自分の練習も入れてる?」

 「入れてます」

 「聴く時間じゃなくて、吹く時間」

 紙に残っているのは、十分だけの隙間と合奏後の短い時間。それで自分の練習を済ませるつもりだった私の手元へ、先輩が消しゴムを置く。

 「先に、自分の名前の一枠を決めて」

 私は木曜日の放課後を選んだ。

 その一枠を埋めただけで、少し息がしやすくなった。


 木曜日、私は第一練習室で一人で吹いた。

 基礎練習をして、苦手な音の移り方を確かめて、それから新歓で吹いた旋律を出した。もう吹く予定のない曲だった。でも短い十六小節には、その日の自分がよく出る。

 録音を聴くかぎり、汚い音はない。なのに最後まで吹いても落ち着かないのは、綺麗に終えることだけを考えて、途中のどこへも行こうとしていないからかもしれない。

 私は携帯を止め、窓を見た。中庭の木の下を、陽菜と茜が歩いていた。二人とも楽器は持っていない。陽菜が何かを強く言い、茜がそちらを見ずに返事をする。すると陽菜は茜の歩く先へ回り込んだ。

 昔から、あんなふうだったのだろうか。

 私は二人が知っている時間を知らない。

 少し羨ましく思っていると練習室の扉が鳴り、利香先輩が顔を出した。

 「ごめん、今、一人の時間だった?」

 私は頷いた。

 いつもなら、何ですか、とすぐに尋ねていた。

 先輩は私の楽器を見て、扉から少し下がった。

 「じゃあ、あとで」

 「あの、何か」

 「録音、送っていいか聞こうと思っただけ。返事は今日じゃなくていい」

 先輩はそう言って、扉を閉めた。

 閉まった扉の前に、先輩を追いかける用事はもうない。一人でいたいと認めてもらえたことが、こんなに楽だとは思わなかった。

 構え直した楽器から、同じ十六小節をたどる。途中の長い音で、今度は自然に息の向きが変わる。


 利香先輩から届いた録音は、三つあった。

 ファイル名には日付と番号がついていた。聞いてほしいと言われたのは三番目だったが、私は最初から聴いた。

 一番目の柔らかな音が途中で弱くなると、二番目では、それを避けるように全体を強く吹いている。三番目まで来て、ようやく強くする場所と戻す場所が聴こえた。先輩が一人で試した時間を、順番に追いかけている気がする。

 『三つ目が、一番好きです。後半へ行く前、音を急いで戻さないところ』

 私はそこまで打って、好きです、の部分で指を止めた。

 演奏のことだ。

 でも、先輩はどう読むだろう。

 少し考えてから、そのまま送った。

 返事は数分後に来た。

 『私も三つ目が好き。ありがとう』

 それだけだった。

 私は画面を閉じた。

 そのあと陽菜から電話が来た。

 「先輩、明日、少しだけ聴いてほしいです」

 「うん。何時なら」

 「先輩の時間が空いてるところで」

 先週までの陽菜なら、先に時間を言っていた。

 私は利用表を思い出した。

 「四時半からなら、十五分」

 「はい」

 「そのあと、一緒に帰る?」

 向こうが静かになった。

 「陽菜?」

 「今、先輩から言いました?」

 「言ったよ」

 「帰ります。絶対」

 少し笑ってしまった。

 オーディションの日が近づくほど、私は二人に対して何かを選ばなくてはいけないような気持ちになった。

 でも、一緒に帰りたいと思ったときに、それを言うくらいはしてもいい。

 陽菜の嬉しそうな声を聞きながら、そう思った。


 金曜日の陽菜は、楽譜をめくるたびに眉を寄せた。

 速いところは、前よりかなり整っていた。

 指を見なくても、音で分かる。急いで飛び越えていた二つの音が、今はちゃんと隣り合っている。

 私はそのことを伝えた。

 陽菜は、でも、と言った。

 「利香先輩みたいな音にならないです」

 私は楽器を膝へ置いた。

 「なる必要、ある?」

 「綺麗だから」

 「陽菜の音も綺麗にできるよ。違う音で」

 「でも、ひかり先輩は」

 言いかけた陽菜の指が、楽譜の端をつまむ。待っていないと、今の続きを別の質問に変えてしまいそうな顔だった。

 「利香先輩の音、好きですよね」

 私は嘘をつけなかった。

 「好きだよ」

 陽菜の目が下がる。

 「でも、同じ音が二つ欲しいわけじゃない」

 私は譜面の最初を指した。

 「ここ。陽菜は、入る瞬間にみんなを振り向かせられる。それ、すごくいいところだと思う」

 「うるさいってことじゃなくて?」

 「違うよ。次を聞きたくなるってこと」

 陽菜が私を見る。

 私は少しだけ照れた。

 普段の話と違って、音について褒めるときは、言葉を惜しみたくなかった。

 「そこから急がないで、聞いてる人を連れていけばいいと思う」

 いつもより長く息を整えた陽菜の、最初の音はやはり強い。けれど、こちらが聴くより先へは進んでいかない。膝の上で拍を取りながら、その余裕を最後まで確かめる。

 音が止まると、陽菜は楽器を下ろし、私の顔を見た。

 「どうですか」

 「今の、すごく好き」

 陽菜は目を見開いた。

 それから、自分の楽器へ額をぶつけそうなくらい、急に下を向いた。

 「……もう一回言ってください」

 「今の、よかった」

 「言葉、変えましたね」

 確かに変えた。私が小さく笑うと、陽菜も口を尖らせたまま笑い出す。


 ひかり先輩が職員室へ行ったあと、第二練習室には私と利香先輩が残った。

 譜面を閉じたら先に帰るみたいで、開いたままにしておく。向こうも片づけの手が遅い。ひかり先輩が戻るのを待つつもりなのだろうか。

 廊下からは、遠くの打楽器の音が断続的に届く。誰かが同じ場所を繰り返している。失敗したあとに短い笑い声が入った。

 「今の、よかったね」

 利香先輩が言った。

 私は顔を上げた。

 「聴いてたんですか」

 「最後の方だけ」

 「ひかり先輩に言われたから、そう言ってるんじゃないですよね」

 「私がそう思ったから」

 返事なんかしたくない。褒められて嬉しい相手ではないはずなのに、この人の耳が確かだと知っているから、楽譜を見つめる顔まで緩みそうになる。

 利香先輩は自分のリードをケースへしまった。

 「陽菜ちゃんは、中学でもそうやって吹いてた?」

 「どんなふうにですか」

 「前へ行くみたいに」

 私は少し考えた。

 「そうしないと、聴こえなかったので」

 上手な子も下手な子もいる中学の合奏は、いつも賑やかで、オーボエは私一人。自分の場所に入ったときには、ここにいると分かってほしかった。

 言葉にしてみると、今も似ている。

 ここにいる。

 ひかり先輩の隣に、自分はいる。

 「先輩は、ずっとあんな音ですか」

 私が尋ねた。

 「どんな?」

 「……ずるい感じの」

 利香先輩は小さく笑った。

 「それ、褒めてるの?」

 「分かりません」

 「昔はもっと硬かったよ。今でも、焦ると戻る」

 ケースの留め金の上で、利香先輩の指が止まる。そのためらいが気になって、聞き返さずにいられない。

 「先輩も、焦るんですか」

 「焦るよ」

 利香先輩は顔を上げた。

 「一年生が、どんどん上手くなるから」

 私は息を吸い、何か言い返そうとしてやめた。

 利香先輩は少し疲れたように笑った。

 「でも、譲らないからね」

 「こっちの台詞です」

 今度はすぐ返せた。

 私たちはそれぞれの譜面を鞄へ入れた。

 ドアを閉める直前、私が電気へ手を伸ばす。利香先輩の手も同じスイッチへ向かっていた。

 二人とも一度止まる。

 最後は私が押した。

 利香先輩は、それについては何も言わなかった。


 六月の第一土曜日は朝から晴れ、私はいつもより早く学校へ向かった。

 選抜を受けるのは私ではないのに、自分の本番みたいに落ち着かない。家にいるより音楽室へ行こうと職員室を覗くと、先生はもう来ていた。

 「ひかり、今日の進行、これ」

 渡された紙には、楽器ごとの時間が書いてあった。

 オーボエは最後だった。

 「私、聴いていてもいいですか」

 「聴いて。あなたの組でもあるから」

 私は頷いた。

 「ただし、決めるのは私」

 「はい」

 先生は私の顔を見た。

 「そんなに怖い顔をしなくても、落ちたら音楽できなくなるわけじゃないよ」

 私は返事をしようとして、一度止まった。

 先生はもちろん、勝負のことを知らなかった。

 知っていたら、たぶん先に私たち三人を並べて話をする。

 進行表を手に戻った廊下で、楽器を組み立てる陽菜を見つける。

 「おはよう」

 顔はすぐ上がるのに、いつもの大きな笑顔にはならない。管体を握る手も、心なしか慎重に見える。

 「寝られた?」

 「寝ました」

 「朝ご飯は?」

 「食べました」

 「リードは」

 「ひかり先輩、お母さんみたいです」

 そう言われて、私は口を閉じた。

 陽菜が少し笑った。

 「でも、もう一個聞いてください」

 「何を?」

 「応援してくれますかって、聞こうとしてたので」

 私は陽菜を見た。

 「応援してるよ」

 答えは決まっていた。

 陽菜は頷き、自分の譜面を持った。

 「行ってきます」

 「まだ、ほかの楽器からだよ」

 「……知ってます」

 知らなかった顔だった。

 私は進行表を一緒に見せた。

 二人で笑うと、少しだけ朝の空気が軽くなった。


 利香先輩は、別の練習室にいた。

 扉を開けると、楽器を持たずに座っている。

 「吹かないんですか」

 「吹きすぎるから、一回止めた」

 先輩は膝の上に両手を置いていた。

 爪は短く、指先に少し跡がついていた。

 私は隣の椅子を見たが、座らなかった。

 先輩が顔を上げる。

 「ひかり、今日は、私のことも聴いて」

 「聴きます」

 「陽菜ちゃんだけじゃなくて」

 胸が少し痛んだ。

 「ちゃんと、聴きます」

 もう一度答えると、先輩からありがとう、と返ってくる。そのあとは二人とも黙り、手も触れないまま距離を保つ。それなのに、ドアを閉めると、何かをあの部屋へ置いてきた気がする。


 オーディションは、驚くほど静かに進んだ。

 聴くのは三枝先生と私。廊下で待つ人の足音まで、扉越しに分かった。

 クラリネット、ホルン、ファゴット。

 同じ教室で毎日聴いている音でも、一人で部屋へ入ってくると違った顔になる。得意な場所で体が少し動く人。難しいところに近づくと楽譜へ顔が寄る人。私はその全部を、自分にもある癖として聴いた。

 ファゴットの番で入ってきたのは、香帆だった。

 椅子を少し引き、長い楽器の先が譜面台に触れないことを確かめる。こちらへ小さく頷いてから先生へ向き直る、その順番までいつもの香帆らしい。

 低い音が鳴ると、さっきまで気になっていた廊下の足音が遠くなる。大きく聞かせようとしなくても、次の音を乗せられる場所がそこにできていた。

 途中で一つ、指の動きが乱れた。香帆は眉を寄せながらも旋律をつなぎ、最後の長い音まで息を運ぶ。

 「今のところ、自分ではどう?」

 先生に聞かれると、譜面へ指を置いた。

 「ここを、ひかりから受け取るつもりで吹きました。少し待ちすぎたと思います」

 まだ一緒に吹いてもいないのに、私の入る場所を考えてくれていた。

 先生が、合わせるときに試しましょう、と書き留める。礼をして扉へ向かう香帆へ、私も頷き返した。

 最後のオーボエの審査になり、陽菜が入ってきた。

 譜面を置いた陽菜がこちらを見るので、一度だけ頷き返す。最初の音が少し硬く、膝の上で手を握りそうになったけれど、次の音でもう立て直している。

 速くなりたがる指をちゃんと待ち、高い音から降りるときにも、息の勢いだけを残さずに吹いている。何度も止めてやり直した場所を、今度は通り過ぎた。

 自由課題へ移る前、陽菜が少し長く息を吐く。

 続く最初の一音で、部屋の空気が彼女の方へ向いた。

 本人も、そのことが分かったのかもしれない。

 次へ急がず、その音の届いた場所から続きを始める。

 私は陽菜の唇や指を見ていたはずなのに、途中から、ただ曲を聴いていた。

 こういう音を出す子だったんだ。

 毎日隣にいるのに、知らないところがある。

 最後の音が止まったとき、私は思わず息を吐いた。

 陽菜が、ちらっとこちらを見た。

 私は笑っていたと思う。

 先生の、ありがとう、を受けて礼をした陽菜は、扉の外へ出る直前に大きく肩を下げる。あんなに力が入っていたのか。

 次に来る先輩を待ちながら、譜面の端を押さえ直す。いつもどおりに歩いてきて椅子の位置を直す、その小さな動きまで気になってしまう。

 最初の音が出る。

 陽菜の音がまだ残っていた耳へ、別の温度が入ってきた。

 先輩の音は、すぐに全部を見せない。

 聴いていると、少しずつ奥が見えてくる。

 基礎課題を終え、自由課題へ入る。練習室で何度も聴いた旋律だった。

 途中の息継ぎで、音が途切れない。

 実際には息を吸っているのに、次の音をこちらが待っているから、切れたと思わない。

 握っていた手が開く。顔を見ても、利香先輩はこちらに気づかない。楽譜と、その先で鳴らしたい音に向かっている横顔を、久しぶりに邪魔せず見ていられる。

 その姿が、初めて先輩の演奏を聴いた日のことを思い出させた。

 好きだった。

 今も、聴いていたかった。

 先輩が最後の音を終える。

 私は、拍手をしてはいけない場所なのに、手を動かしかけた。

 ペンを置いた先生は、先輩が楽器を膝へ下ろしてもまだ何も言わない。二枚の用紙を並べ直して、ひとりで少し笑う。採点のときにする顔ではない気がして、私は背筋を伸ばす。

 「ひかり」

 「はい」

 「棚の一番下に、長い黒いケースがあるでしょう」

 私は頷いた。

 先週、留め金を確かめたケースだった。

 先生はペンでそちらを指した。

 「持ってきて。それと、陽菜も呼んできて」

 私は立ち上がった。

 利香先輩と目が合う。

 先輩も、何が起きるのか分かっていない顔だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。