第四章 たとえ先輩でも、勝負しましょう
その日の練習は、オーボエだけ三人とも音が悪かった。
私が入りを間違える一方で、陽菜の音はいつも以上に鋭く、利香先輩は妙に慎重になる。三枝先生は三人を順に見て、何かあったの、と尋ねた。
「何もありません」
陽菜と利香先輩の声が揃う。返事のない私へ先生の目が向き、逃げ遅れたように背筋が伸びる。
「ひかりは?」
「……ありますけど、今は、演奏と関係ないので」
「関係なくしてから吹いてね」
その通りだった。
先生は理由を追及しなかった。私たちを後ろの和音へ戻し、クラリネットからやり直した。
音楽室には、たくさんの人がいる。
私が誰を好きで、誰に振られて、今誰に手を握られているかは、この部屋で作る曲のテンポを変える理由にはならない。
それなのに私の心拍だけ、楽譜よりずっと速い。
さっき第二練習室を出るとき、利香先輩は、今日はもういい、と言った。その「今日は」を、陽菜は聞き逃さない。
「明日ならいいわけじゃありませんから」
「分かってる」
「分かってないです」
私は二人の間で、明日も部活があるという、ごく当たり前の事実に途方に暮れた。
合奏を終えると、陽菜は椅子を私の方へ寄せた。
「今日、一緒に帰ります」
「うん」
「約束です」
「分かった」
向こう側では利香先輩がリードを拭いている。こちらの視線に気づいた先輩が少し笑い、私もつられかけて、隣の陽菜と目が合う。笑い返すだけのことも、今は二人きりのやり取りにはならない。
「恋人がいるって、ちゃんと言いました」
私はその夜、陽菜へ電話で伝えた。
昼のことを整理して話そうとすると、どうしても言い訳みたいになった。陽菜は途中で口を挟まずに聞いていたが、利香先輩がまだ好意を持っているというところで、息を強く吐いた。
「ずるい」
小さな声だった。
「うん」
「ひかり先輩も、そう思うんですか」
「思う」
「なのに、嬉しそうでした」
私は返事ができなかった。
電話なら、顔を見られずに済むと思っていた。でも沈黙の長さは、見られるより分かりやすいのかもしれなかった。
「ごめん」
「謝ってほしいんじゃないです」
陽菜の声は、いつもの勢いより少し遅かった。
「私と付き合うって言ったの、やっぱり間違いでしたか」
それには、すぐ答えられた。
「間違いじゃない」
「……本当ですか」
「陽菜といるの、楽しいよ。メッセージ来ると嬉しいし、待ってると、来ないかなって思う」
向こうで何かがぶつかった。
「陽菜?」
「今の、もう一回」
「何か落とした?」
「クッションです。落としてないです。押さえました」
押さえるほどのことを言ったのだろうか。
私は頬が熱くなって、携帯を持ち替えた。
「でも、先輩のこと、急にはどうにもできなくて」
「そこは、もう一回じゃなくていいです」
少しだけ、いつもの陽菜の声に戻っていた。
「ひかり先輩、明日も一緒にいてくださいね」
「うん」
頷くだけでは電話の向こうに届かない。もう一度声にしてから通話を切り、まだ温かい携帯を伏せる。
利香先輩に好きだと言われたら嬉しい。
陽菜に間違いだったのかと聞かれたら悲しい。
二つとも本当だった。
答えが一つでないことを、自分の中だけで認めるのにも時間が掛かった。
五月半ばの金曜日、三枝先生が冬の話を始めた。
音楽室はまだ夏の曲の譜面でいっぱいで、窓の外の葉が急に濃くなり始めたところだった。先生は黒板の端へ「室内楽」と書き、その下に六月の予定を並べた。
「夏のコンクールだけで一年を使い切らないように、小さい編成も先に決めます。全体練習を邪魔しない範囲で、長く育てて」
毎年やっている取り組みだった。
昨年は二年生と三年生が中心で、私は先輩たちの組を手伝う側だった。大会へ出す組だけでなく、文化祭や学内の発表会で吹く組もある。
今年は少し違うらしい。
「ひかり」
呼ばれて、私は顔を上げた。
「あなた中心で、管楽の五重奏を一つ作りたい」
みんなの視線を感じながら頷きかけ、黒板の字に引っかかる。オーボエ、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット。最初の二つが同じだ。
「フルート、なしですか」
「なし。普通の木管五重奏とは違う。ここの編成に合わせて譜面を考える」
先生は二つのオーボエのうち、片方を丸で囲んだ。
「ここはひかり。もう一人は、聴いてから決める」
背筋が、自然と伸びた。
ひとりで上手に吹くことと、誰かと曲を作ることは違う。中学のころも、大きな合奏では隠れていた自分の悪い癖を、少人数で何度も見つけられた。
私が中心になる。
その言葉には、嬉しさと少しの重さがあった。
「アンサンブルコンテストも、この組で?」
私が尋ねると、先生は頷いた。
「そのつもり。今から聴き合う習慣を作っておきたいの。ほかの楽器も希望者の演奏を聴く。曲は人を見てから最終決定」
隣で陽菜が身じろぎし、反対側の利香先輩も黒板を見上げている。ここに椅子は三脚あるのに、黒板には二人分しかない。しかも片方には、もう私の名前が入っている。
「オーディションは六月の第一土曜日。課題は同じものにします。個別に聴きますから、学年は関係ありません」
最後の言葉を自分へ向けられた陽菜は、まっすぐ頷く。一方、譜面の端を揃える先輩の手つきは変わらず、その落ち着きに惑わされて、目の強さを見落としそうになる。
その日の片づけのあと、話は変な方へ転がり始めた。
私は先生に頼まれ、備品の棚から五重奏に使えそうな古い譜面を探していた。一番下には普段使わない楽器のケースもあり、オーボエより長い黒いケースの留め金を確かめていると、後ろで陽菜が声を上げる。
「利香先輩、勝負しましょう」
私は振り向いた。
利香先輩は鞄を持ったまま、陽菜を見ていた。
「オーディションなら、勝負と言わなくても選ばれる人は決まるよ」
「それを、はっきり勝負にするんです」
「何を懸けて?」
陽菜の目がこちらへ向いた瞬間、棚の留め金を確かめている場合ではなくなった。二人の間へ近づく。
「待って。今、私を見た?」
「ひかり先輩と、同じ組でアンサンブルコンテストに出るメンバーに選ばれた方」
陽菜は最後まで言った。
「選ばれた方が、ひかり先輩と付き合います」
私は、一度ゆっくり瞬きをした。
棚の上の箱が、なぜか妙にはっきり見えた。
「私の話?」
「そうです」
「私に、先に聞いてもらっても」
「先輩が、どっちかを断れないからです」
図星を突かれ、黙ってしまう。だからといって返事を諦める必要はなかったと、あとからなら思えるのに。
何も言えずにいる私をよそに、利香先輩は陽菜を見た。
「あなた、今ひかりと付き合ってるのに、負けたらどうするの」
「負けません」
「そういうことを聞いてない」
「負けたら、私からひかり先輩を引っ張るのはやめます」
陽菜の声は、少しだけ硬くなった。
「でも、勝ちます」
利香先輩が黙る。
私は陽菜の横顔を見た。
陽菜は、私の手を離したくないのだと思う。
それなのに自分から、離すかもしれない条件を口にした。
どうしてそうなるのか、分からない。
でも、陽菜が私の前で自信のない顔をしたくないことは、少し分かった。
「利香先輩が選ばれなかったら、もう、ひかり先輩を困らせないでください」
「私が選ばれたら?」
「……約束は守ります」
やめよう、と言うには十分な間があった。恋人を決めるための勝負なんておかしい。それには二人だって頷くはずだ。
では、ひかりはどうしたいの。
続いて来るはずの問いまで浮かんでしまい、最初の一言さえ喉を通らなくなる。
利香先輩は、私の方を見た。
私が何も言わないことを、肯定と受け取ったのかもしれなかった。
「いいよ」
先輩は陽菜へ答えた。
「受ける」
陽菜の顎が、少しだけ上がった。
「たとえ先輩でも、手加減しません」
「私も、一年生だからって譲らない」
私は二人の間に立った。
「せめて、私の話も」
「もちろんです」
陽菜の返事に利香先輩も頷き、二人ともこちらへ向き直る。ようやく話せる。話せるのに、二人の真剣な顔を前にすると、私の口は別の心配を選んでしまう。
「……オーディションの前に、リードの調子、ちゃんと整えてきてください」
自分でも信じられないことを言った私に、陽菜は頷き、先輩まで分かってる、と答える。二人に通じたことが恥ずかしくて、その場にしゃがみ込みたい。
翌週から、二人の練習が変わった。
変わったというより、もともとあった性格が音にも出るようになった。
陽菜は速いところを何度も吹いた。できない箇所があると、次の休憩もそこへ戻る。利香先輩は一つの長い音の終わりを何回も確かめた。録音を聴いては、少し首を傾ける。
私が近づくと、二人とも質問をした。
「先輩、今の」
「ひかり、さっきの」
同時だった。
私は時計を見た。
「順番に聴く」
二人が止まる。
「陽菜は、速くする前にゆっくりやって。最後の指が動いてない」
「でも、本番の速さで」
「動かないまま速くしても、できない場所を覚えるだけだよ」
陽菜が口を閉じる。
私は利香先輩の方を向いた。
「先輩、最後の音だけ柔らかくしようとして、途中で息が止まってる気がします」
「そんなに?」
「録音、もう一回聴いてもいいですか」
先輩が携帯を差し出す。
三人で同じ短い旋律を聴く。
最後の音へ行く前に、ほんの少しだけ細くなる場所があった。そこを指すと、先輩は頷いた。
「ここね」
「はい。最後だけ特別にしなくても、先輩の音は柔らかいから」
言ってから、私はしまったと思った。
利香先輩の顔が、少しだけ明るくなった。
隣で陽菜が楽器を持ち直す。
「私の音は?」
「今は指の話」
「音も聞いてください」
「聞いてるよ」
「ちゃんと」
「陽菜の音は、ちゃんと聞かなくても目立つ」
口にしてから、今のは褒め方を間違えたと思った。
陽菜は少し笑い、すぐに真剣な顔に戻った。
「いい方で?」
「いい方にしよう」
私は譜面の一点を指した。
「ここから。二人とも同じ速さで。最初は私が数える」
二人が楽器を構えるのを待って、膝の上でゆっくり四つ数える。吸う息が揃い、音が出れば、さっきまでの言い合いより旋律の続きが気になってしまう。
二人とも、いいところがある。違うところも苦手なところも聴こえるけれど、どちらか一人に決めるのは先生の仕事だ。
私には、できなかった。
選ばれなかった方の顔を、私は思い浮かべた。その人に、先生が決めたことだから、と言う自分まで。
音が止まり、二人が答えを待つ。どちらを先に見ればいいかは分からなくても、さっきよりよかった、という言葉だけは迷わず出てくる。




