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第三章 付き合えないとは、言ったけど

 陽菜と付き合うことになった、と利香先輩に伝えるタイミングは、なかなか来なかった。

 正確には、来ていたのかもしれない。

 朝、譜面を出すとき。片づけのあと。廊下で二人になったとき。あとから数えれば機会はあって、そのたび、わざわざ報告することなのかと迷っていた。

 付き合えないと言ったのは先輩なのだから、私がそのあと誰を好きになるかは関係がないはずだ。それなら伝えなくてもいい。一方で、黙っていると何かを隠しているようで落ち着かない。

 陽菜は、誰にでも言いふらしたいとは言わなかった。

 「先輩が嫌なら、内緒にします」

 そう言って、でも茜にはいつか言うかも、と付け加えた。

 「仲いいんだね」

 「うるさいので、気づきます」

 そんな説明ができるくらい、仲がいいのだろう。

 連休中も部活はあり、午前は全体の合奏、午後は自主練習という日々が続く。私は夕方、陽菜と駅で待ち合わせて帰る約束をした。同じパートで練習しているのに、いったん別れる必要はない。それでも、駅で先輩を待ってみたいという彼女の希望を聞くと、付き合うことには新しい作法があるらしいと気づかされる。

 実際、駅で私を見つけて手を振る陽菜は、部室にいるときとは少し違って見えた。

 見つけてもらうことが、嬉しい。

 それを言うと陽菜が喜びすぎそうだったので、まだ言えなかった。


 「ひかり、午後、少し空いてる?」

 合奏を終えた利香先輩の手に、学校の曲とは違う譜面がある。どこを合わせたいのか、頼まれる前に目で追ってしまう。

 「合わせたいところがあるの。十五分くらい」

 「私でよければ」

 答えてから陽菜をうかがうと、リードのケースを閉じていた彼女が、にこっと笑う。会話は聞こえていなかったらしい。

 その笑顔に隠し事をしたような気がしてしまう。先輩と練習するだけなのに、何を後ろめたく思う必要があるのだろう。

 第二練習室は、音楽棟の廊下の一番奥にあった。窓から中庭の木が見える。二人で座ると、互いの譜面台の端が近くなるくらいの広さだった。

 去年はよくここで合わせた。

 利香先輩がコピーを一枚差し出す。

 「難しくないところなんだけど、息がうまく続かなくて」

 「見せてください」

 私は楽譜を追った。

 書いてある音を鳴らすだけなら、確かに難しくはない。でも一息でつなげようとすると、終わりだけ痩せる。途中で吸うと、旋律が分かれる。

 「ここ、先輩は一人で吹くんですか」

 「先生に聴いてもらうときは」

 「だったら、途中で吸ってもいいと思います。最後まで足りなくなるより」

 「ひかりなら足りるでしょう」

 「私でも、たぶん、苦しいです」

 先輩は、そう、と少し笑った。

 私は旋律を吹いてみせた。途中で息を取り直す場所を決め、直前の音を少し早く終える。戻った音が遅れなければ、線は切れにくい。

 先輩が真似をする。

 三度目には、最後の音まで綺麗につながった。

 「そっちが好きです」

 私が言うと、先輩は楽器を下ろした。

 「そっち?」

 「今の吹き方」

 「うん」

 先輩が鉛筆で印をつけるあいだに、時計を確かめる。十五分はもう過ぎているのに、あと一度と言われれば吹けてしまう。その一度を、去年は何度重ねただろう。

 「用事?」

 「四時には、出たいので」

 「まだ少しあるね」

 先輩はそう言って、譜面を最初へ戻した。

 前なら、私も同じように戻していたと思う。

 でもその日は、膝の上の鞄が重く感じた。

 「先輩、ここまでにしませんか」

 思ったよりはっきり言えた。

 先輩の鉛筆が止まった。

 「そっか。ごめんね、長く付き合わせて」

 「いえ。今の吹き方で、一度先生に聴いていただくといいと思います」

 長すぎる敬語のあと、先輩が楽譜をしまう音だけが残る。ケースを閉めて立ち上がるまで待ってくれる、その間にも落ち着かなさが募る。

 「途中まで、一緒に帰れる?」

 私は、今日こそ言わなくてはいけないと思った。

 「陽菜と、待ち合わせてるんです」

 先輩の目が、私の顔に戻った。

 「そうなんだ」

 「はい」

 「最近、仲いいね」

 言うなら今だ。

 私は息を吸った。

 「……後輩なので」

 出てきた言葉は、違うものだった。

 利香先輩は、そうね、と答えた。

 私はその声を背中で聞きながら、練習室を出た。


 駅に着くと、陽菜は改札の柱のそばにいた。

 私に気づいて手を上げたが、顔を見るとその手を下ろした。

 「疲れました?」

 「ううん。ごめん、遅くなった」

 「約束の時間、まだですけど」

 壁の時計は約束の二分前。遅刻でもないのに謝った私を、陽菜はケースから顔へと目を移して確かめる。

 「先輩と、練習してたんですよね」

 「うん」

 「どうでした?」

 「……何が?」

 「曲」

 曲の話なら、どこまでも説明できる。最後まで聞いてくれる陽菜に、練習室での「後輩なので」だけを伝えられない。

 嘘はついていない、なんて言い訳をする相手は、この子ではないはずなのに。

 陽菜は電車へ乗る直前、私の袖をつまんだ。

 「次は、私も合わせてください」

 「毎日合わせてるよ」

 「部活の曲じゃないのも」

 「うん。探そう」

 袖をつまむ指が、少しだけ緩む。

 私はその指を見て、今度こそ先輩に言おうと思った。


 言おうと決めてから三日後、利香先輩に先に尋ねられた。

 掃除当番で遅くなった私は、廊下で先輩と出会った。先輩は職員室から戻るところで、手に薄い封筒を持っていた。

 「陽菜ちゃんと、付き合ってるの?」

 私は、口を開けた。

 反射的に、誰から聞いたんですか、と言いかけた。

 それを聞く権利はない気がした。

 「……はい」

 先輩は頷いた。

 それだけだった。

 もっと驚くかと思っていた。あるいは、よかったねと言うかもしれない。何を言われても困るくせに、何も言われないことにも困った。

 「いつから?」

 「四月の、終わりからです」

 「そっか」

 先輩の指が封筒の端を揃える。もう揃っているはずの紙が、指の下で何度も擦れる。

 「言ってくれればよかったのに」

 胸の内側に、小さく硬いものができた。

 「言おうとは、思ってました」

 「うん」

 「でも、先輩には」

 関係がない、とは言えなかった。

 先輩が私を見ている。

 私は視線を落とした。

 「報告しなくてもいいことかと、思って」

 言えたあとの沈黙の方が長く感じる。先輩の口元を見ないようにしていると、

 「そうだね」

 短い返事が落ちてきた。

 廊下を、別の学年の生徒たちが通り過ぎる。私たちは壁際へ寄った。距離が少し近くなる。先輩の袖が私の腕に触れて、私は動けなくなった。

 そんなことにも、まだ体が反応する。

 それが嫌で、私は先輩の方へ向き直った。

 「陽菜、すごく真っすぐで」

 「うん」

 「一緒にいると、楽しいです」

 話しているうちに、これは報告ではなく、自分に言い聞かせているようになっていると気づいた。

 先輩は、よかったね、とは言わなかった。

 「ひかりは、私のこと、もう好きじゃない?」

 顔を上げても、先輩は冗談にしてくれそうにない。静かな表情のまま、私の答えを待っている。

 「それを」

 喉が詰まった。

 「どうして、先輩が聞くんですか」

 言った瞬間、先輩の指が封筒を強く押さえた。

 小さく折れ目がつく。

 喉まで出かかった謝罪を、封筒の折れ目を見つめながら飲み込む。答えは、まだ聞いていない。

 利香先輩は一度目を伏せた。

 「少し、話せる?」

 私は頷いてしまった。


 第二練習室は空いていた。

 先輩が電気をつける。夕方の光が窓から入っていて、天井の明るさが少し余計に見えた。

 椅子には座れず、先輩も立ったまま、二人分の空席を挟んでいる。

 「ひかりが、誰かと付き合うのが嫌なの」

 先輩は、部屋へ入るとすぐに言った。

 私は、言葉をそのまま受け取れなかった。

 「でも」

 「うん」

 「先輩が、付き合えないって」

 「言った」

 先輩は頷いた。

 その頷き方があまりに確かで、冬の廊下を思い出した。

 私は先輩の正面に立ち、好きです、と言った。先輩は驚いたような顔をして、それから困ったように笑った。

 返事が来るまでの数秒に、私はどれだけ都合のいい続きを考えただろう。

 「付き合えないとは言ったけど、好きじゃないとは言ってない」

 先輩が言った。

 私は聞き間違えたのかと思った。

 好きじゃないとは、言っていない。

 それなら。

 そう思いかけた自分に、腹が立った。

 それなら、のあとに何を続ければいいのだろう。冬から春までの時間を巻き戻せるわけでもない。今の私は陽菜と付き合っていて、明日も一緒に帰る約束をしている。

 先輩が嫌いじゃなかったなら、泣かなくてよかった?

 そんなことには、ならない。

 「でも、私は振られたんです」

 自分の声が、部屋の中で少し強く響いた。

 「付き合えないって言われて。だから、忘れようとして」

 先輩は私の言葉を遮らなかった。

 「上手くできなかったけど、でも、今は」

 今はもう好きじゃない。その一言が出てこない。続きを待つ先輩の顔を見ていると、黙ったままでも返事をしている気がする。

 「ひかり」

 先輩が近づく。

 私は一歩だけ下がった。背中が机の端に触れる。

 先輩はそこで止まった。

 「ごめん。嫌なら、近づかない」

 嫌なら。

 また、私が答えられない言葉だった。

 先輩の手が、私の手の近くに置かれた。触れてはいない。それでも、その距離だけで、去年の自分が戻ってきそうになる。

 「私、先輩に、好きって言ってほしかったです」

 口にしてから、胸が痛くなった。

 ずっと言わないようにしていたことだった。

 「うん」

 「今、言われたら、嬉しくなるかもしれないから。だから、困ります」

 利香先輩の目が揺れた。

 私は逃げるように、扉の方を見た。

 そのとき、外から足音が来た。

 「ひかり先輩、ここですか」

 陽菜の声だった。

 私が返事をする前に、扉が少し開く。

 開きかけた扉のところで、陽菜の目が机の上に止まる。触れそうで触れていない私と先輩の手。その距離を測るように、顔から笑いが消えていく。

 「何してるんですか」

 声は、思ったより低かった。

 利香先輩が机から手を離した。

 「話してただけ」

 「どんな話ですか」

 「陽菜ちゃんに、全部説明することではないと思うけど」

 私は先輩を見た。

 陽菜は部屋へ入ってきた。

 「私の恋人のことなら、説明してほしいです」

 私の恋人。

 音楽室では一度も言わなかった呼び方だった。

 利香先輩が小さく息を吐く。

 「そうだね。そこは、ごめん」

 陽菜は私の横へ来たが、先輩との間には入らなかった。

 私を見る。

 「ひかり先輩、嫌なこと言われました?」

 首を振りかけて、途中で止まる。嫌なことなら、こんなに困っていない。

 嬉しいかもしれないからだと、今の私には説明できなかった。

 「……前に、好きだった人の話、したよね」

 陽菜の目が、私から利香先輩へ移った。

 すぐに戻る。

 「利香先輩ですか」

 私は頷いた。

 陽菜が唇を結ぶ。振られた相手と毎日隣で吹いていることを、私は今まで、この子にだけ知らせずにいた。

 「ごめん。ちゃんと、言えばよかった」

 「先輩は、今、どっちと付き合ってるんですか」

 「陽菜」

 すぐ答えると、陽菜の肩が少し下がる。けれど目の強さは変わらず、そのまま利香先輩へ向き直った。

 「今さら、何なんですか」

 私は息を呑んだ。

 先輩にそんな言い方をする一年生を、見たことがなかった。

 利香先輩は怒らなかった。

 「今さらでも、言わないままでいたくなくなったの」

 「振ったんですよね」

 「うん」

 「ひかり先輩、まだ傷ついてたんですよ」

 「……うん」

 少し遅れた先輩の返事に重なるように、陽菜の手が私をつかむ。掌が熱い。怒っているのは私のためでもあるのだと、その強さで知る。

 「私、そういうところも知って、付き合ってほしいって言いました」

 つながれた手へ、利香先輩の視線が下がる。その寂しそうな目を、私は見逃せない。陽菜に手を握られながら、それを嬉しいと思ってしまう。

 陽菜は手を握り直した。

 「返してくださいなんて言われても、返しません」

 「陽菜、私、借りられてるわけじゃ」

 「分かってます」

 陽菜は私を見た。

 ほんの少し、目が潤んでいた。

 「だから、先輩の気持ちを、勝手に決めないでほしいんです」

 先輩に向けた言葉なのか、私に言ったのか。答えない先輩と陽菜の間で、どちらからも目をそらせなくなる。

 廊下では練習を終えた誰かが笑っている。扉一枚向こうの放課後には、何の変化もない。


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