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第二章 先輩、私と付き合ってください

 陽菜が入部届を出したのは、見学から三日後だった。

 三日掛かったのは迷ったからではない。保護者の署名欄を見落として、最初の一枚を先生に返されたからだ。

 「私の気持ちは初日に提出済みです」

 「書類も出してください」

 聡美先輩に言われ、陽菜は二枚目を両手で差し出した。

 隣にいた茜が、今度は見なくても大丈夫なの、と尋ねる。陽菜は見なくていいと答えたが、聡美先輩が点検しているあいだ、視線はずっと紙の上にあった。

 正式に部員が増え、オーボエの椅子も三脚になった。窓側に利香先輩、その隣に私。新入部員が出入りしやすいよう空けた廊下側の席で、陽菜がにこにこしている。まだ何も教えていないのに。

 「何?」

 「近いですね」

 「パート練習だから」

 「そうですね」

 そう言いながら、椅子を半分だけこちらへ寄せる。

 「譜面台、ぶつかるよ」

 「音、近い方が聴こえるかなって」

 「近すぎると、よく分からないこともある」

 音の話だと分かると、陽菜は真剣な顔で椅子を戻す。こういうときだけは素直だ。

 三枝先生は新入部員に一通り楽器を吹かせ、経験や希望を聞いていた。茜のところでは少し長く話して、ファゴットの貸出票を出した。同じ二年生でファゴット担当の村田香帆が、嬉しそうに椅子を持ってくる。

 「低い音、好きだったの?」

 休憩のときに尋ねると、茜は楽器のボーカルを外す手を止めた。

 「自分で吹くとは思ってませんでした」

 「どうして選んだの」

 「見学で音を出したとき、お腹に来たので」

 お腹に来た、という言い方に笑うと、茜はボーカルを握ったまま少し身を引く。からかったつもりではないのに。

 「変ですか」

 「ううん。私も初めて吹かせてもらったとき、そうだった」

 「藤沢先輩も?」

 「一回だけね。あんまり上手に出なかった」

 「何でも吹けるんだと思ってました」

 「そんなわけないよ」

 茜はまだ意外そうに楽器を見下ろしている。それでも、初対面のときより肩が下がって見えて、何でもは吹けなくてよかったと思う。

 「ひかり先輩、休憩終わります」

 後ろから陽菜の声がした。

 壁の時計は、まだ休憩の終わりまで二分あった。

 「あと二分あるけど」

 「準備も二分掛かります」

 「さっき三十秒で組み立ててなかった?」

 茜が言うと、陽菜は聞こえないふりをして、私の譜面を持ち上げた。

 「ここの指、見てほしいです」

 「うん。戻る」

 茜に手を振り、陽菜の待つ席へ戻る。毎日これだけ質問を用意してくれる後輩なのだから、先輩としてはありがたい。休憩が少し短くなるくらい、たぶん。


 一週間経つと、教えてもらいたいことの中に、楽器と関係のないものが混ざり始めた。

 「ひかり先輩、好きな食べ物は?」

 「今、音階」

 「吹き終わりました」

 「最後、上がりきる前に急いでたよ」

 「そこ、もう一回やります。そのあと、好きな食べ物」

 逃がしてもらえないらしい。

 私は考えて、茶碗蒸し、と答えた。

 陽菜はリードを口へ持っていきかけて止めた。

 「差し入れしにくいですね」

 「差し入れしなくていいよ」

 「分かりました。外で食べましょう」

 何が分かったのか、分からなかった。

 利香先輩は隣で楽譜に書き込みをしていた。小さく笑った気がして、私はそれ以上言えなくなる。

 陽菜は私の選択科目を聞き、帰りの電車の時間を聞き、学校へ来るのに何分掛かるかも聞いた。

 誰にでもそうなのかと思ったが、クラリネットの同級生と話しているときは、ごく普通だった。茜に対しては普通より少し雑だった。

 私にだけ、質問が多い。

 「憧れてるんじゃない」

 昼休み、同じクラスの子に言われた。

 私は卵焼きを箸で割りながら、そうかもしれない、と頷いた。

 「一年生、結構ひかりの話してるよ」

 「演奏の?」

 「それもあるけど。昨日、廊下歩いてたら可愛いって」

 「歩いてたら?」

 「歩き方が、じゃなくて」

 「それは分かった」

 分かったところで、何をしたらいいのかは分からない。

 机の端で携帯が光る。

 陽菜からだった。

 『今日、先生に呼ばれてて少し遅れます。待っててください』

 待ってて、と言われても、放課後は部室にいる。

 気をつけて来て、と返してから、校内の移動に何を気をつけるのだろうと首を傾げる。

 向かいの子に顔を見られて笑われ、私は携帯を伏せた。


 陽菜が遅れたのは、委員会の集まりが長引いたからだった。

 音楽室の扉は三回開いた。

 一回目は打楽器の一年生、二回目は配付物を持った先生、三回目は忘れた筆箱を取りに来た二年生だった。

 三回とも顔を上げてしまい、四回目こそは、と譜面に目を据える。

 「ひかり先輩」

 名前を呼ばれて、ようやくそちらを見る。

 陽菜が、肩で小さく息をしていた。

 「走ったの」

 「途中だけです」

 「廊下は走っちゃ駄目」

 「はい」

 普段より素直な返事に、私は廊下側の椅子を少し引く。陽菜はそこへ鞄を置くと、まず私の譜面を覗き込んだ。

 「どこまでやりました?」

 「今、ここ」

 「追いつきます」

 「今日は別の課題でもいいよ。疲れてるでしょ」

 「一緒のがいいです」

 鉛筆を持ち直しても、さっきまで練習していた箇所がすぐには見つからない。隣に陽菜が座っただけなのに、もう扉を気にしなくていい。

 待っていたんだな、と今になって思う。

 利香先輩が私たちの方を見た。

 「じゃあ、ひかり。そこ、二人で先に合わせてくれる?」

 「先輩は?」

 「先生に呼ばれてるから」

 譜面を伏せて楽器を置く先輩に、戻るまで待ちましょうか、とは尋ねなかった。はい、とだけ答えて見送る。空いた椅子が二人の間に残るより早く、陽菜の顔がこちらへ向く。

 「二人ですね」

 「合わせるんでしょ」

 「合わせます」

 楽譜を見ながらも、声は笑っていた。

 最初の音が近すぎるくらい強く届き、思わず手を上げる。

 「そんなに頑張って出さなくても、聴こえる」

 「はい」

 「私も聴いてるから」

 陽菜はこちらを見たまま、一拍だけ息を止める。けれど次の音では、聴いてほしいと押し出す力が抜けていた。隣で吹く私にも、入っていく余地がある。


 四月の最後の週は、三日続きの雨。湿気でリードの調子が変わり、廊下の窓が曇る。下駄箱の前に傘の水が溜まるその日は、先生も早めに練習を切り上げた。

 私は音楽室に残って、貸し出す譜面の順番を直していた。新入部員の分だけコピーが増え、紙の大きさも端の折れ方も揃っていない。

 「手伝います」

 陽菜が扉を閉めた。

 「帰ったんじゃなかったの」

 「傘、忘れて」

 「傘、そこにあるよ」

 扉の横を指すと、陽菜はそちらを見た。

 一本しかない黄色い傘だった。

 「ありました」

 「うん」

 「でも手伝います」

 私は譜面を半分渡した。

 陽菜は椅子を引き寄せ、私の正面に座る。

 雨音がよく聴こえた。楽器を吹いているあいだには気づかなかった音が、空になった音楽室にいくつも残っている。窓枠を打つ雨、廊下の遠い足音、陽菜が紙の角を机で揃える音。

 「ひかり先輩」

 「うん」

 「私が先輩のこと好きなの、分かってますか」

 私は一枚だけ違う順番に置きかけた。

 「オーボエ……」

 「オーボエも好きです」

 陽菜は譜面から手を離した。

 「ひかり先輩のことも好きです」

 雨が、急に近くなった気がした。

 私は陽菜を見た。いつもと同じ場所にいるのに、さっきより近く感じる。

 「私も、陽菜と練習するの、楽しいよ」

 「それ、先輩としてですか」

 「えっと」

 「私は、後輩としてだけじゃないです」

 陽菜の指が、机の縁を握った。

 強気な声に反して、そこだけ白くなっていた。

 「付き合ってください」

 私は、息を吸った。

 その言葉を口にするまで、どれくらい考えるのか知っていた。

 練習して、やめようと思って、やっぱり言うと決めて。相手を呼び止めてから、気が変わる前に全部言ってしまわなくてはと思う。

 利香先輩に告白した日の自分を、突然思い出した。

 「……私」

 声が小さくなる。

 「好きだった人が、いるんだ」

 陽菜の瞬きが一度止まる。机の縁を握る指は、そのままだ。

 「今も、ですか」

 私は正直に答えようとした。

 今は違う、と言えたらよかった。

 そうすれば、こんなに真っすぐ待っている子を困らせずに済む。

 「よく、分からない」

 情けない答えだった。

 陽菜は少し視線を落とした。

 「その人と、付き合ってるんですか」

 「ううん。振られたから」

 「いつですか」

 「冬」

 また少し、雨音だけになった。

 陽菜は机の縁から指を離し、自分の膝へ手を置いた。

 「じゃあ、私は言っていいですよね」

 私は頷いた。

 「好きです。先輩と、付き合いたいです」

 二度目の言葉は、最初よりゆっくりだった。

 「忘れるために、でいいとかは、言いたくないです」

 「うん」

 「私も、先輩に好きになってほしいので」

 譜面を見下ろすと、陽菜が来るのを待っていた時間を思い出す。昨日も下校の時間がずれて会えなかったぶん、届いたメッセージが嬉しかった。

 初めて演奏を褒められたとき、どうしてもやってみたいと言った目を、また見たいと思っている。

 それを、何と呼んだらいいのか。

 名前をつけるのが遅いあいだに、陽菜の手は冷えてしまうのかもしれなかった。

 「私、上手にできないと思う」

 「何をですか」

 「付き合うの」

 陽菜の肩が、少しだけ下がった。

 「私も、上手かどうか分かりません」

 「そうなの?」

 「何でそんなに意外そうなんですか」

 少し怒った顔がいつもの陽菜らしくて、つい笑う。その口元までつられて緩むのを見ていると、返事をしないまま家へ帰る方が、寂しい気がした。

 「……うん」

 「うん、って」

 「付き合う」

 言ってから、自分の声を追いかけるようにもう一度頷いた。

 「陽菜と、付き合ってみたい」

 陽菜はすぐには動かなかった。

 さっきまであんなに言葉を出していた子が、口を少し開けたまま私を見る。

 「本当に?」

 敬語がなくなっていた。

 私は頷いた。

 陽菜が両手で自分の頬を押さえる。その仕草がおかしくて、また笑いそうになったけれど、目が少し潤んでいたのでやめた。

 「今、すごい嬉しいです」

 「うん」

 「先輩、私、たぶん明日からもいっぱい話しかけます」

 「今日までも、いっぱいだったけど」

 「もっとです」

 それは少し困るかもしれない。

 でも私は、いいよ、と答えた。


 翌朝の陽菜は、いつもと同じ声で挨拶した。

 「おはようございます、ひかり先輩」

 ほかの生徒もいる下駄箱なら、普通に挨拶ができる。そう安心して顔を見たのが間違いで、陽菜は、隠す気があるのか心配になるほどにこにこしている。

 「……おはよう」

 「昨日、寝られました?」

 「うん」

 「私、ちょっとだけ寝不足です」

 急に目を逸らされ、何を考えて眠れなかったのか、聞いていないことまで伝わってくる。手から滑った上履きが床を叩いた。

 拾おうとすると、陽菜も同時にしゃがんだ。ぶつかると思って二人とも止まり、結局、私は変な姿勢のまま上履きを取った。

 恋人になっても、朝から上手くできることは増えないらしい。

 放課後には、いつも通り練習をした。

 陽菜の指は相変わらず急ぐし、利香先輩の音は相変わらず綺麗だった。私は二人の間に座りながら、昨日のことが顔に出ていないかばかり気にしていた。

 片づけのとき、陽菜が私の耳元へ少し近づく。

 「帰り、寄り道しませんか」

 私は頷いた。

 それだけで、陽菜の顔が昨日の返事のときみたいになる。

 駅前の商店街には、小さな焼き菓子屋があった。陽菜はそこのガラスケースを見て、私が選ぶまで待とうとした。

 「陽菜は?」

 「先輩と同じの」

 「選んでないのに」

 「何選んでもいいです」

 私は少し考えて、苦いコーヒーのタルトを指した。

 陽菜の眉がほんの少し動いた。

 「……それ、好き?」

 「好きになれると思います」

 思わず笑ってしまった。

 「違うの頼んで、半分ずつ食べようよ」

 陽菜は初めてガラスケースを自分のために見た。

 苺の焼き込みタルトを選んだあと、小さい声で、これがよかったんです、と言う。

 店の奥の小さな机で紙皿を差し出し合うと、二つのタルトが真ん中に並ぶ。陽菜が選んだ苺の方も、近くで見るとおいしそうだ。

 「初デートですね」

 陽菜が言った。

 私はフォークを持ったまま止まった。

 「これ、デートなんだ」

 「嫌でした?」

 「嫌じゃない」

 慌てて答えると、陽菜は嬉しそうに笑った。

 窓の外を、同じ学校の生徒が通っていく。私は少し肩を引いたが、陽菜の皿を自分から遠ざけることはしなかった。

 苦いタルトを一口食べ、陽菜がやっぱり眉を寄せる。

 「無理しなくていいのに」

 「先輩が好きな味、知りたかったんです」

 味を知りたい、なんて言われると、こちらもいい加減には食べられない。苺のタルトを一口もらうあいだ、陽菜はずっと私の顔を覗き込んでいる。

 甘い、としか答えられなかったのに、自分が褒められたみたいに笑うから、次の一口まで落ち着かない。

 帰りのホームでは、振り返る陽菜に何度も手を振り、姿が見えなくなってから電車に乗る。先輩からの連絡を確かめるのは、降りてからになった。携帯を開くまで思い出さなかった自分を、少しだけ喜んでしまう。


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