第一章 もう、先輩のことは好きじゃない
私を振った先輩と、二人きりになりたくない。
だから私は、譜面台を三本まとめて抱えた。
新入生を迎える演奏の準備で、音楽室から体育館へ運ぶところだった。ほかの部員はもう下へ行っている。残った三本を私が持てば、先輩はここにいていい。
「ひかり、一本持つよ」
「大丈夫です。先輩は、楽譜の確認をお願いします」
なるべく普通に答えて、扉へ向かう。
二歩目で、腕の中の一本がずり落ちた。
落とさないよう抱え直すと、残りの二本まで滑りそうになる。立ち止まった私の横から、利香先輩が手を伸ばした。
「ほら、じっとして」
先輩は落ちかけた一本を支え、そのまま私の腕から抜き取った。
簡単に、二人で運ぶことになってしまった。
「三本は無理でしょう」
「持てます」
「今、落としそうだったけど」
「持ち方を変えようとしただけです」
言い終えてから、自分が何に意地を張っているのか分からなくなる。
先輩は笑わなかった。一本減ってもまだ持ちにくそうな私の手元を、少し心配そうに見ている。
そういうところが、困る。
振った相手にも、前と同じように優しくできるところが。
「もう一本、持とうか」
「二本なら大丈夫です」
今度こそ抱え直して、私は先に音楽室を出た。
すぐ後ろから、先輩の上履きの音がついてくる。
去年なら、振り向かなくてもその足音が分かることを少し嬉しく思っただろう。今日は分からないふりをして、階段を下りる。
踊り場の開いた窓から花びらが一枚滑り込み、磨かれた床を軽く跳ねた。拾おうにも両手が塞がっている私を追い越し、利香先輩がしゃがんでつまみ上げる。
爪の先が薄い桃色をしている。
爪の色まで見なくていい。
「今年、オーボエの子、来るかな」
「見学の申し込みはありました」
「経験者?」
「一人は」
「ひかり、教えるの上手だからね」
返事を探して一段下りる。譜面台の脚が、膝に当たって邪魔だった。
「先輩もいらっしゃいますし」
変な言い方になった。いることを確認する必要なんかない。高瀬利香先輩は三年生になったばかりで、同じ部にいて、今年も私とオーボエを吹く。
一緒にいる理由なら、これからだってたくさんあった。
付き合えない。
冬の廊下でそう言われても、部活は一緒にできるからと自分に言い聞かせた。翌日も先輩の隣に座り、楽譜の休符を数えてソロに入る。吹き終わると顧問に音程を注意され、その日はそちらのことで悩んでいることにした。
そうやって三学期を終え、春休みには先輩からの連絡を待たない日が二日、三日と続く。四日目に、まだ数えていることが嫌になった。
もう、だいぶ平気なはずだった。
少なくとも、運ぶ譜面台の本数をわざと増やすくらいには。
「ひかり」
体育館の前で足を止めると、先輩の指が私の肩へ向く。譜面台一本なら、そういうことも簡単にできる。
「桜」
「え」
「ついてる」
持ち直した譜面台の向こうから先輩の指が近づいてくる。自分で取ろうとしただけなのに、肩ごと避けてしまい、行き場のなくなった手だけが二人の間に残った。
「自分で取れます」
「うん」
先輩は手を下ろした。
声は変わらなかった。そのことがありがたくて、少しだけ腹立たしくて、私は何を感じればいいのか分からないまま、体育館の重い扉を押した。
「ひかり、顔が」
部長の花村海香先輩に言われて、私は頬を触った。
「何かついてますか」
「いえ。何も。朝から素晴らしいなと思って」
隣にいた副部長の水野聡美先輩が、部長の手元の名簿を裏返した。
「話しかける前に仕事してください」
「してる。譜面台、二本受け取った」
「ひかりが運んだのを眺めてただけでしょう」
部長は抗議の口を開きかけ、それから私の向こうにいる利香先輩を見た。なにか察したような顔をしたので、私は急いで譜面台を置いた。
察していただけると助かることと、今は察さないでほしいことがある。
「ソロ、ここで大丈夫?」
聡美先輩が指した場所は、二列目の中央だった。
私たち白鷺女子高校の吹奏楽部が新歓で演奏するのは、二曲で十分半ほど。顧問の三枝先生が編曲した春のメドレーには、オーボエだけが立つ箇所がある。私が吹くのは十六小節で、そのあいだ他の楽器が薄くなる。
前の席に誰かがいると、客席から見えにくい。
「ここ、半歩だけ右にしてもいいですか」
「もちろん」
椅子を半歩ずらし、向かいのホルンの譜面受けと自分のベルが重ならない位置に置く。確かめに客席へ下りてみると、誰も座っていない椅子の列が思いのほか長い。
こんなに広かっただろうか。
昨日も同じ体育館で練習したのに、椅子がずらりと並んでいるだけで、こちらの音を受け取る場所ができている気がする。
「調子は?」
聡美先輩が尋ねた。
「たぶん、大丈夫です」
「たぶん?」
「吹けば分かります」
答えると、先輩は少し笑った。
「それを言えるなら大丈夫ね」
楽器を組み立て、リードをケースから出す。二本のうち、昨日の午後に使った方を選んだ。今朝の空気では少し硬いかもしれない。水につけているあいだ、譜面の角を押さえ、頭の中で最初の音を鳴らした。
利香先輩が隣へ来る。
私の隣は、ずっと先輩の席だった。
「さっき、聡美に何言ったの」
「吹けば分かるって」
「ひかりらしい」
先輩は椅子に座り、細い管体をつなげた。キイが小さく光る。私のものより少し暗い木の色。遠くからでも、先輩の楽器なら見分けられる。
見分けられるものが多すぎるのは、困る。
舞台袖から先生の声がした。
「音出し、まとめて長くやらない。必要なところだけ確認して」
ざわめいていた空気が、楽器の息に変わった。
最初の音は、唇に少し硬く返ってくる。リードを含む位置を変えて吹き直せば、今度は思ったところへ届く。これなら大丈夫。
隣で先輩が同じ高さを出す。二つの音が近づいて、重なる直前に、私は一度止めた。
「先輩、少しだけ低く取ってもらえますか」
「こう?」
「はい。その方が、後ろのクラリネットとつながると思います」
頷いた先輩が吹き直すと、よく知っている柔らかさが戻ってくる。私よりも、終わりに少し温度を残す音。その余韻を次の自分の音で受け取るのが好きだった。
好きだった、でいい。
今は新歓の演奏をしなくてはならない。
体育館に人が入ると、音の返り方が変わった。
空の椅子ばかりを相手にしていた昨日より、響きが早く落ち着く。制服の肩が何列も重なり、その上に、まだ校内で見慣れない顔が並んでいる。
一年生。
去年の私は、あの中のどこかにいた。
入学してすぐの部活紹介で、利香先輩のオーボエに耳を奪われた。よく知っていた曲なのに、そこだけが別のものみたいに聴こえる。音の良さを確かめようとして顔を見たはずが、演奏が終わっても、目を離せずにいた。
今年、同じことを考える子がいてもおかしくない。
先輩は綺麗だから。
自分で考えて、自分で少し傷ついた。
譜面台の前に先生が立ち、客席の声が静まっていく。その静けさに合わせて息を吐き、先輩の横顔から先生の手へ目を移す。
最初の曲が始まると、やることは決まっていた。
ひとつの入りが前のめりになる。打楽器が立て直し、低音がそこへ座る。私たちの旋律が上へ伸びていく。
楽しい。
そう思えるまでに、いつも何小節もかからない。
二曲目の中ほどで、私は立った。
椅子が鳴らないように、左の踵を引く。
後ろの和音が軽くなり、先生の視線がこちらへ向く。その合図に、頭の中で鳴らしていた最初の音を外へ置いた。
客席の顔は一人ずつ見えない。誰かに向けて吹こうとすると近い席までしか届かなくなることがあるから、体育館の後ろの壁より少し先を思い描く。
四小節目で息を使いすぎない。
六小節目の長い音は、真ん中で一度だけ明るさを変える。
去年、先生に言われてできなかったことが、今は指示の言葉なしに体に残っている。
旋律を吹き終え、クラリネットへ渡した。
座る直前、客席の中央近くで、ひとりの女の子が身を乗り出していた。
肩のところで切りそろえた髪が、前へ滑っている。
目が合った気がした。
私はすぐ譜面へ戻った。次の入りまで八小節だった。
最後の和音が体育館の天井へ上がり、先生の手と一緒に止まる。
拍手の中で立ち上がり、礼をする。顔を上げても、さっきの女の子はまだこちらを見ていて、今度こそはっきり目が合う。
拍手しながら、なぜか深く頷いている。合格、と言われたみたいで、こちらまで頷きそうになった。
演奏のあと、私は自分が失敗した場所を先生に聞きに行こうとした。
そこまでは、普通の予定だった。
「オーボエの先輩ですよね」
楽器をケースへ戻す前に声を掛けられた。
一年生が二人いる。
「はい」
「すごかったです」
「ありがとうございます」
「中学、桐原でしたか」
「そうです」
「やっぱり。妹が同じ中学で、先輩のこと聞いてて」
質問に答えているうちに、二人が四人になった。
私はリードをどこへ置いたか分からなくなった。右手に持っていた。
「全国行かれたんですよね」
「部で、です」
「ソロ、ずっと担当してたんですか」
「曲によります」
「写真、お願いしてもいいですか」
「写真?」
私の反応に、一年生たちが笑った。
どうして笑われたのかは分からなかったが、怒ってはいなさそうだった。聡美先輩に助けを求めようとして横を向くと、先輩は少し離れたところで、楽器を持ったまま撮られないように、と口の動きだけで言った。
助けには来ないらしい。
楽器を片づけてから、壁際へ移動した。
名前を聞かれ、私は背筋を伸ばした。
「二年の藤沢ひかりです。オーボエを吹いてます」
「藤沢先輩、もう少しこっちへ」
呼ばれるままに、半歩寄った。初対面の人との距離を決めるのは、教室でもまだ得意ではない。
しかも全員、一年生だ。
全員に対して私が先輩だということが、今さら体に追いついてきた。
「次、私もいいですか」
よく通る声に振り向く。演奏中、身を乗り出していたあの女の子だ。
「写真?」
「いえ。お話です」
その子は迷わず一歩近づいてきた。
周りの子たちが少し場所を空ける。
「一年の宮坂陽菜です。オーボエやってました」
「見学の申し込みくれた子?」
「はい」
目が明るかった。
近くで見ると、髪は真っすぐではなく、毛先だけ内側へ向いている。姿勢がよくて、こちらを見上げる角度にも遠慮がない。
「ひかり先輩って呼んでもいいですか」
「え。あ、うん」
「私のことも、陽菜でお願いします」
返事をする前に、呼び方が二つ決まった。
「ひかり先輩、最後のソロ、六小節目で音を変えましたよね」
私は思わず、その子を見直した。
「変えた、というか」
「急に遠くまで見える感じがしました。あれ、どうやるんですか」
褒められたときの返事を考えていた頭が、少しだけ楽になる。
「最初からいっぱいに響かせると、盛り上がるところで変化をつけにくいから。息は止めないけど、最初は少し、響きを抑えてる」
「響きを?」
「ただ小さく吹くんじゃなくて……ごめん。今の、分かりにくいね」
「分かりたいです」
陽菜は即答した。
「だから、教えてください」
こういう子に教えるのは、たぶん楽しい。
私は初めて、さっきまでとは違う理由で笑った。
「部活見学で、楽器持ってくる?」
「持ってきました」
「今日?」
「はい。入るつもりだったので」
陽菜が肩に掛けていた黒いケースを見せる。その後ろで、もう一人の一年生が小さくため息をついた。
「まだ入部届もらってないくせに」
「もらえばいいでしょ」
「まず自己紹介」
「した。宮坂陽菜ですって」
「私が」
言い返された陽菜が口を閉じた。
もう一人は、陽菜より少し背が高かった。長い髪を低い位置でまとめ、手には入学式でもらったらしい封筒を持っている。
「一年の小宮茜です。同じ中学でした」
「陽菜と?」
「はい。中学ではトランペットを」
「吹部、見に来る?」
茜は頷きかけて、少しだけ考えた。
「楽器、変えても入れますか」
「もちろん。何か気になるのある?」
「ファゴット」
予想していなかった答えだった。
うちの部には学校のファゴットが二本あり、今の二年生が一人で吹いている。先生は、もう一人いるとできることが増えると言っていた。
「今日、触ってみる?」
私が尋ねると、茜の指が封筒の端をつまみ直した。
「いいんですか」
「先生に聞いてみよう。たぶん喜ぶ」
茜はほんの少し笑った。
陽菜の笑い方と違って、口元が先に動く。そのあとで目が追いつく。
「ひかり先輩」
陽菜が呼んだ。
「私もいます」
「うん。知ってる」
「オーボエも見てくださいね」
「見るよ」
なぜか二つ約束したような気分で顔を上げると、少し向こうに利香先輩の姿がある。いつからこちらを見ていたのだろう。
目が合うと、先輩はいつものように微笑んだ。私も笑い返したつもりだったが、その前に陽菜が何か尋ねてきて、顔を戻してしまった。
何を聞かれたのか、一度聞き返した。
見学の一年生たちが帰ったあとの音楽室に、椅子が余っている。陽菜は言ったとおりに楽器を出し、真っすぐな、少し急ぎたがる音を吹く。私が一度吹いてみせれば、すぐ試して、できないと眉を寄せる。それでも三回目には入り方が変わるので、もう一度聴きたくなる。
茜の方はファゴットの大きさに驚いている。立てて抱えると本人より楽器の方が落ち着いて見えておかしかったけれど、最初の音が出たときには、一緒に顔を見合わせて笑ってしまう。
先輩はそのあいだ、別の見学者を案内していた。同じ部屋で過ごしたはずなのに、今日はあまり話していない。
椅子を戻し終え、私は携帯を取り出す。
登録したばかりの陽菜から、もう連絡が来ていた。
『今日はありがとうございました。絶対入ります』
そのすぐ下に、もう一通。
『明日も、ひかり先輩いますか』
います、と打ってから、当たり前すぎる気がして消す。
『いるよ。放課後、音楽室に来てね』
送ると、ほとんど間を置かずに返事が届いた。
『行きます!』
携帯をしまって部屋を見渡す。椅子も窓も、もう確かめるところはない。それでもゆっくり扉を閉めたのは、廊下に利香先輩が立っていたからだ。
「ひかり、駅まで一緒に帰る?」
去年だったら、少し早口で返事をしていたと思う。
私は鞄の持ち手を握り直した。
「今日は、先生にソロのことを聞いてから帰ります」
「そっか」
「すみません」
「謝らなくていいよ」
階段へ向きかけた先輩が、もう一度私を見る。何か言ってくれるのを待ってしまいそうで、じゃあね、という声に急いで、さようならを重ねた。
職員室へ向かう途中で、鞄の中が震える。
陽菜だと思って取り出した画面には、利香先輩の名前が出ていた。
『今日のソロ、好きだった』
絵文字も句点もない文の終わりを、廊下の端に寄って見つめる。演奏のことだ。そう決めたはずなのに、家に帰っても何度も読み返してしまう。
画面を閉じてベッドへ置き、部屋の電気を消す。暗くなったところで、もう一度だけ、先輩の言葉を開く。




