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第十章 となりにいる先輩

 約束をした翌日、先輩は行き先を二つ用意していた。

「駅前のお店か、川の方。どっちがいい?」

 返事を迷っていると、先輩が付け足した。

「川なら、あまり人がいないよ」

「川の方が、いいです」

「うん。じゃあ、途中で飲み物を買おう」

 先輩はあっさり歩き出す。

 半歩後ろへ下がりかけると、先輩の指が、鞄を持っていない方の手首へ触れた。

「そこだと、声が聞こえない」

 先輩は私を引っ張らず、隣へ来るのを待っている。

 私はその位置まで歩き、腕をつかむ指が離れると、今度は自分から手に触れた。

 先輩は何も言わず握ってくれた。


 川沿いの小さな休憩所には、屋根とベンチが二つある。

 散歩の人が通り過ぎると、遠くの道路の音と、葉の擦れる音だけになった。楽器のケースを直射日光の当たらない足元へ置き、先輩が先に座る。

 私は鞄を二人の間へ置こうとした。

「それ、そっちでもいい?」

 先輩が自分の反対側を指す。

「はい」

 置き直すと、二人の間に空いた場所ができた。

 詰めていいのか迷っている私を見て、先輩が少し笑う。

「今日は、遠くに座らないで」

 言われたとおり近づく。

 膝が触れそうになったところで止まると、先輩はようやく飲み物の蓋を開けた。

「昨日から、何を言おうか考えてた?」

 頷く。

「まとまった?」

 今度は首を振った。

「じゃあ、まとまってない方を聞くね」

 先輩の膝には、教室から持ってきた薄い封筒が載っていた。角に大学の名前がある。見ないようにしても、その文字のあたりだけが視界に残る。

 私の目に気づいた先輩は、封筒を隠さなかった。

「これが、気になる?」

 嘘をつけず、私は頷いた。

「先輩、もう、行くところ決めたんですか」

「まだ。見に行って、話を聞いて、それから」

「そう、ですか」

 ほっとした自分が嫌になる。

 決まっていないなら、そのぶん長くここにいてもらえるわけではないのに。

 先輩は封筒を鞄へ戻し、私の方を向いた。

「ひかりは?」

「私は、まだ、二年なので」

「進路の話じゃなくて。今日、何がつらかった?」

 私は飲み物を両手で包んだ。

 冷たい水滴が指の間を滑っていく。

「先輩が、最後だって」

 そこまで言ったところで、涙が出そうになった。

 先輩が黙っているので、そのまま続きを探す。

「みんな、最後の夏って言うじゃないですか。私、去年も聞いてたのに、そのときは、ちゃんと考えてなくて」

 去年は演奏が終わってから泣いたのに、今年は、まだ隣にいる先輩を見ても涙が出そうになる。

「今年が終わったら、来年は、先輩がいなくて」

 自分の声が、ひどく幼く聞こえた。

「何をしてても、そこへ戻っちゃうんです。楽譜を見ても、勉強してても。先輩に、いい音を聴いてほしいのに、先輩のことを考えると、吹けなくなる」

 言ってしまってから顔を上げた。

 先輩のせいだ、と聞こえなかっただろうか。

 慌てて言い足そうとする私へ、先輩の手が伸びる。

 飲み物を持った手の、すぐ横へ置かれた。

「話してくれて、ありがとう」

 それだけで、息が崩れた。

 私は俯く。涙が落ちる前に拭こうとしたのに、両手が塞がっていて、うまく動けなかった。

「貸して」

 先輩がボトルを預かり、蓋を閉めてくれる。

 空いた手で顔を隠しかけると、先輩の指が袖へ触れた。

「こっち、来る?」

 頷いたつもりだった。

 実際には顔を動かすより先に身体が寄っていて、気づけば先輩の肩へ額が当たっていた。

 制服越しに、先輩が息を吸うのが分かる。

 背中へ回った腕は、強く抱き込むのではなく、私がずり落ちないところで止まった。

「まだ、隣にいるよ」

 その声が、耳の近くで聞こえる。

「知って、ます」

「うん」

「知ってるのに、怖いんです」

 先輩の手が、背中を一度だけ撫でた。

 すぐに泣き止めなくてもいいのだと、その遅さで分かった。

 部活では、分からないところを聞く側になっても、どうして分からないかまで説明しようとしてしまう。陽菜の前なら、頼られたときくらいは先輩らしくしたい。茜が困っていれば、私にできることを探してしまう。

 今は何も考えられず、先輩の袖を握っているだけだった。

 それでも先輩は、私を離さない。

 肩へ触れる髪の匂いが、音楽室で隣に座っているときより近かった。


 少し落ち着いてから、私は顔を上げた。

 先輩の袖に、小さな濡れた跡がある。

「すみません」

「乾くよ」

「そういう、ことじゃ」

「うん。でも、乾く」

 私が少し笑うと、先輩もようやく口元を緩めた。

「私も、最後って言われるの、平気じゃない」

 先輩は川の方へ顔を向ける。

「三年生なんだから、ちゃんとしようと思うし、後輩には大丈夫って言いたくなる。でも、進路も、全部決まってるわけじゃない。説明会の場所、昨日は違う校舎の地図を見てた」

「先輩が?」

「先輩も、間違えます」

 少しだけ拗ねた声だった。

 私は袖から手を離そうとして、途中で止める。

 先輩がその手を見て、握り直してくれた。

「だからね。ひかりに、一人でいい夏にしてもらおうとは思ってない」

 先輩の親指が、私の手の甲に重なる。

「私も吹くし、間違えたら直す。陽菜ちゃんにも、助けてもらう。ひかりが一か所うまくいかなかったら、それで全部終わり、じゃないでしょう」

 私は頷いた。

「全国へ、行きたいです」

「私も」

「先輩と」

「うん。でも、今日もひかりと、楽しく過ごしたいよ」

 顔を上げると、先輩は私を見ていた。

「大会までの日を、全部、準備だけで終わらせないでほしい。帰りに話したり、くだらないことで笑ったりする時間も、私の夏にほしいから」

 私はつないだ手へ目を落とす。

 先へ勝ち進むことばかり考えて、目の前で私を待ってくれている人の時間まで、過ぎるに任せていた。

「じゃあ、今日、もう少しだけ」

「うん」

「このままで、いてもいいですか」

 先輩は返事の代わりに、自分の肩を少し私へ寄せた。

 今度は泣くためではなく、そこへ頭を預ける。

 先輩の頬が、髪にそっと触れた。

「ひかりが甘えてくれると、私、嬉しい」

「……こんなに、何もできないのに」

「今、してくれてるよ」

 何を、と聞こうとして、やめた。

 先輩の指が、私の指の間へ入ってきたから。


 帰り際、先輩は携帯の予定表を開いた。

 日曜日には、学校説明会とある。

 私は、今度はその文字から目を逸らさなかった。

「終わったら、連絡してもいい?」

「はい」

「校舎を間違えなかったか、報告する」

「それは、先に確かめてください」

 笑うと、先輩も笑った。

 駅へ向かう道の途中で、つないでいた手を離す。人が増えてきたからだと分かっていても、指先が名残惜しくて、私は鞄へ手を戻すのが遅れた。

 先輩がそれを見つける。

「明日も、会えるよ」

「はい」

「朝から」

「聞きました」

「知ってても、言っていいでしょう」

 少しだけ自信のある顔に戻った先輩へ、私は頷く。

 夜、机へ向かったら、また寂しくなるかもしれない。

 それでも今日は、その寂しさを説明し直さなくていい相手がいる。

 改札の手前で振り返ると、先輩はまだこちらを見ていた。

 私は、明日、と口を動かした。

 同じ二文字が、向こうから返ってきた。


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