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第十一章 私の音も聴いてください

 陽菜は、私が一度で椅子を運べなかっただけで、少し嬉しそうな顔をした。

「今日は、ちゃんと重いって言うんですね」

「椅子は、いつでも重いよ」

「昨日までは、何でも大丈夫って言ってました」

 体育館で合奏をするため、椅子と譜面台を運ぶ朝だった。陽菜は一脚受け取ると、私の顔を横から覗いた。

「利香先輩と、話せました?」

 椅子の脚を柱へぶつけそうになった。

「どうして」

「昨日、一緒に帰ったでしょう」

「うん」

「今日、目はちょっと腫れてますけど、ちゃんとこっちを見るので」

 私は片手で目を触ろうとして、椅子を持っていることを思い出した。

 陽菜が笑う。

「いいです。そこ、気にしなくて」

「よくないよ」

「私、嬉しいんですけど」

 返事を探すうちに体育館へ着く。椅子を下ろした陽菜は、次を取りに戻る前に、私の袖を引いた。

「でも、私もいますからね」

 その言い方は、いつもの勝負を申し込むときとは少し違った。

「困ってない顔をしてても、います」

 私は頷いた。

 頷くだけで済ませてはいけない気がして、歩き出す彼女へ追いつく。

「今日、陽菜の音、ちゃんと聴く」

「今日だけじゃなくて、お願いします」

 早い返事に、笑ってしまった。


 体育館の響きは、教室より遅れて戻ってきた。大きく吹いた分だけ細かな音が重なって聞こえ、先生は海香先輩を前へ呼んで、一緒に聴くよう頼んだ。

 短いところを吹き終えると、部長が私たちを見渡す。

「前で聴くと、内側で頑張ってる音が届かないところがあります」

 金管の列が少しざわつく。

「誰かが大きいから悪い、じゃなくて、前に出す音を決めたい。全部が一番だと、どれも分からない」

 陽菜の肩が、ほんのわずか動いた。

 私も何となく彼女の方を見てしまう。

 海香先輩がその動きに気づいて、口元を緩めた。

「これは音楽の話です」

「部長が、余計な顔をしないで」

 聡美先輩の声で、木管の列に笑いが起きる。

 陽菜は笑いながら、自分が一番聞こえなくてもいいところへ印をつける。次に吹くと、その音の終わりが柔らかくなった。

 今の、聴いたよ。

 そう伝えたくて顔を向けると、陽菜は目元だけで笑ってくれた。


 休憩中、私は陽菜の譜面を借りた。

 余白の字は私より濃く、訂正したところも隠していない。何度も消して薄くなった音符の隣に、ここで慌てない、と書いてある。

「陽菜も、慌てるんだ」

「先輩、私を何だと思ってますか」

「決めたら、迷わない人」

 陽菜はすぐ答えず、少し唇を曲げる。

「迷ってると、先輩、すぐ誰かに連れていかれるので」

「それは楽器の話じゃないよね」

「今は、違います」

 正直に言われ、何も返せなくなった。

 陽菜は譜面の角を押さえた。

「中学では、一人で吹けたら、もうできたつもりになってました。茜に、隣も聞いてよって怒られて」

「茜がトランペットだったころ?」

「はい。大きい音で怒るので、私も大きい声になって」

 光景が浮かび、二人で笑う。向こうでは茜が香帆と譜面を見ていた。

「あの子、言わないことは全然言わないんですけどね」

 陽菜は水筒を開け、私へ向き直る。

「私は、ちゃんと言います。思ったことは」

「うん」

「言いすぎたら、言ってください」

「分かった。私も、できるだけ」

「できるだけ、は、弱いです」

「じゃあ、まず、今日のこと」

 陽菜が顔を上げる。

 昨日、先輩へ話したことを、私は全部は言わなかった。どこで泣いたかも、どんなふうに抱きしめてもらったかも。

 ただ、最後の夏という言葉を考えすぎて、今の合奏まで怖くなっていた、と話した。

 陽菜は茶化さなかった。

 最後まで聞いて、少しだけ考える。

「利香先輩の最後だから、失敗しちゃいけないってことですか」

 頷くと、彼女は眉を寄せた。

「私の最初でも、あるんですけど」

 私は口を開けたまま止まった。

「ひかり先輩と出る、初めての夏のコンクールです」

 陽菜は少し照れたように、自分の膝を見る。

「私、それ、楽しみです。利香先輩の最後の邪魔をしたいんじゃなくて。私の今年も、ここにあるので」

 終わる側のことしか、考えていなかった。

 隣で、始まる人がいることを。

「……うん」

 返事が小さくなる。

 陽菜はようやく私を見た。

「だから、二つとも、大事にしてください」

「難しいことを、簡単に言うね」

「先輩の彼女なので」

 小さな声で付け足したあと、耳が赤くなった。

 その赤さが嬉しくて、私は笑った。人が近くにいるので触れることはできなかったけれど、水筒を持った彼女の手の横へ、自分の手を置いた。

 少しして、指の先が一度だけ触れた。


 片づけのころには、背中が汗で張りついていた。香帆が扉を開け、陽菜は入口の荷物を寄せて、人の通る場所を空けている。

 私が運んでいた椅子を利香先輩が一脚受け取り、隣へ並んだ。

「今日、陽菜ちゃんと、よく合ってたね」

 その一言を、今度は怖がらずに受け取れた。

「はい。私が、聴いてなかったところ、教えてもらって」

 先輩は嬉しそうに頷く。

 後ろから陽菜が、そこはもっと褒めてくださっていいです、と言ってきた。

「誰が?」

「ひかり先輩が」

 私は先輩の前で急にそんなことを求めないでほしくて、陽菜を見る。

 陽菜は引かない。

 先輩まで待っている。

「……助かったよ。ありがとう」

 言うと、陽菜の顔がぱっと明るくなった。

 利香先輩はその顔を眺めてから、私へ少し近づく。

「私も、椅子、運んだ」

「先輩まで」

 少し離れたところで、海香先輩が何かを言いかけた。

 聡美先輩が先に、片づけ、と告げる。

 部長は口を閉じ、フルートのケースを持ち上げる。私は二人から同時に見つめられたまま、結局、どちらにもお礼を言うことになった。

 合奏で迷ったところは、まだいくつもある。それでも帰るころには、明日直したい場所が、怖がらなくても思い浮かぶようになっていた。


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