第十二章 明日のために
茜の練習室には、椅子が三脚あった。
本人のものと、香帆のもの。それから、誰も座っていない、少し小さな椅子。
入口から覗いた私に気づくと、茜は楽器を構えたまま、空いた一脚へ目を向けた。
「先輩、今、お時間ありますか」
「少しなら」
「では、座ってください」
何をするのか聞く前に、香帆がこちらへ譜面を差し出す。
「合奏の曲。岸先生に教わったところ、二人で確かめてたの」
県大会へ向け、二人は低音木管の外部講師、岸先生に見てもらっていた。
小さな椅子へ座ると、二人の楽器の長さがよく見えた。似た姿勢で構えていても、香帆の左手は落ち着いていて、茜の指は次へ行く前に少し浮く。
同じ音から始めても、終わり方が違った。
茜は途中で止まり、もう一回、と口を開く。
「その前に、今の、どこが違った?」
香帆が尋ねた。
茜はすぐには答えず、リードを見下ろす。
「最後が、細くなりました」
「うん。じゃあ、最初から全部じゃなくて、その前の息を考えよう」
香帆は自分の譜面へ指を置く。茜も同じ場所を探した。
「今は、音を切る前から、息を抜き始めてるように聞こえた」
私が言うと、茜が顔を上げた。
「私が、ですか」
「うん。次へ行く準備を、少し早くしたのかなって」
言ってから、自分へ言っているようで落ち着かなくなる。
茜は気づかず、もう一度構えた。
二度目は、最後まで低い響きが残った。
香帆が頷くより先に、本人の眉が少し上がる。
「今の、違いました」
「うん」
私も頷いた。
できたことに気づく茜の顔を見ていると、こちらまで少し息が深くなる。
香帆が打ち合わせへ呼ばれたあとも、茜は同じページを開いていた。
「今のところ、もう少しだけ」
「休憩した?」
「さっき」
「いつ?」
時計を見た彼女の顔で、返事は分かった。楽器を置くのを待ち、二人で廊下へ出る。
廊下の窓辺は風が通る。二人で並び、水を飲むと、音を出し続けていた耳へ遠くの部屋の練習が入ってきた。
「先輩、今日は、何回吹きましたか」
突然聞かれ、私は少し考える。
「何を?」
「イングリッシュホルンの、あそこです」
「数えてない」
「私は、同じところ、数えちゃいます」
茜は水筒の側面を両手で持った。
「たくさんやったら、少しは追いついた気がするので」
できたかどうかは迷っても、吹いた回数なら数えられる。私にも覚えがあった。
「回数が増えた分、疲れてることもあるよ」
「はい。香帆先輩にも、言われます」
返事は素直だった。
けれど、その顔はまだ、早く部屋へ戻りたいと思っている。
私は蓋を閉め、茜を見た。
「今日できなかったところ、明日も聴くから」
茜の目がこちらへ向く。
「今日のうちに、全部できなくても」
彼女はすぐには頷かなかった。
水筒の中で、氷が一度鳴る。
「先輩も、そうしてください」
思いがけない返事に、私は瞬きをした。
「私?」
「先輩、最近、今日のうちに全部しないといけないみたいな顔をするので」
茜は言ってから、少し困った顔になる。
「私に言われたくないと思いますけど」
笑ってしまった。
茜も、口元だけ緩める。
「でも、私は先輩の曲、明日も聴けます」
自分にも明日があることを、利香先輩のことばかり考えて忘れていたらしい。
「じゃあ、今日は、お互い、終わる時間を決めようか」
私が言うと、茜は露骨に時計を見た。
「今の話、そうなりますか」
「なるよ」
「……あと、少しだけ」
私は香帆が戻ってくる方を見る。
ちょうど廊下へ現れた彼女は、その一言だけで事情を察した顔になった。
「少しの長さを、数字で言って」
茜は私と香帆を順に見て、とうとう観念した。
「十五分」
「じゃあ、十五分。そのあと片づけ」
香帆が決め、私も頷く。
茜は少しだけ不満そうにしていたけれど、部屋へ戻ると、最初から全部吹こうとはしなかった。
十五分で滑らかになったのは、一か所だけ。それでも香帆が時計を示すと、茜は楽器を下ろした。
「明日、ここからにします」
「うん」
私が返事をすると、彼女は顔を上げる。
「先輩も、何か書いてください」
「何を?」
「明日やるところです」
私の鞄から楽譜を出すことになった。
休憩を取らせるつもりだったのに、いつの間にかこちらが見張られている。香帆が隣で笑い、私にも鉛筆を渡した。
私は「雪の川」の余白を見た。
陽菜の書いた、息、という字の下へ、自分の字を足す。
最初から歌う。
それだけ書いて閉じると、茜が少し満足そうな顔をした。
「明日、忘れてないか確かめます」
「忘れてくれてもいいんだけど」
「駄目です」
返事が、陽菜に似ていた。
片づけを終え、三人で音楽棟を出る。
茜は校門のところで少し迷い、ケースを持つ手を変えた。
「あの、藤沢先輩」
「うん」
「今日、ありがとうございました」
「一か所、できたね」
「はい。それも、ですけど」
その先を言わず、彼女は香帆の方を見る。
香帆は携帯で時刻を確かめていた。聞かないでいてくれているのかもしれない。
茜が声を小さくする。
「先輩が、少し笑ったので」
返事を探す私へ、茜は、その方がいいです、とだけ告げて歩き始めた。
香帆が私の横へ来る。
「明日も、あの子を止めてあげて」
「香帆がいるでしょう」
「いるよ。でも、私が言っても聞かない日もあるから。岸先生にも、練習の区切りを一緒に考えてもらってる」
前を行く茜の背中を見ながら頷く。見守っているつもりの後輩にも、こちらの顔はよく見えているらしい。
明日は、今日よりいい音を聴いてもらいたかった。




