↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/38

第十三章 ホール練

 ホールの中央の席へ座ると、いつも前にいる先生が、急に小さく見えた。

「そこから、聞こえたことを教えてください」

 舞台の上から言われ、私は慌てて頷く。

 県大会の前に借りたホールで、午前中だけ練習をする。先週の地区大会を通過したからといって、そのときの演奏を何も変えず持っていくわけではなかった。

 私はイングリッシュホルンを舞台のスタンドへ置き、客席へ下りてきたところだ。

 自分の座るはずの椅子だけが空いている。

 そこを見つめていると、先生が手を上げた。

 私の旋律を抜いた「雪の川」が始まる。

 初めは、穴が空いたように聞こえた。

 当然だ。そこへ私が吹くはずだったのだから。

 けれど耳を澄ませていると、後ろで保たれる響きが少しずつ姿を現した。伸びているだけだと思っていた音の中で、誰かが息を継ぎ、別の誰かがわずかに色を変える。音の重なりが変わる場所には、私が進みたくなる理由があった。

 香帆が自分の譜面から目を上げる。

 茜の肩が、その隣でゆっくり下がる。

 普段、座っている位置からは見えないところで、みんなが私の旋律を待つ準備をしていた。

 先生の手が止まる。

「どうでしたか」

 私は立ち上がりかけ、座ったままでいいと言われた。

「私が、勝手に急いでたところ、分かりました」

 客席で話す声は、不思議なくらい自分へ戻ってくる。

「ここまで待ってもらってたのに、私、終わりの方ばかり、見てました」

 先生が頷いた。

「では、戻って、もう一度」

 舞台への階段を上がると、利香先輩が私の椅子を少し引いてくれる。

 陽菜は、どうでした、と言いたそうな顔をしていたけれど、今は聞かなかった。

 私は二人の間へ戻り、長い楽器を持ち上げた。


 最初の音を出す前から、さっき客席で聴いた響きが耳に戻ってくる。

 ここなら、入れる。

 息を送ると、内側に暗い色を残した音が伸びていった。その手触りが好きで、この楽器を何度も吹いてきたのだと思い出す。

 次の音へ指が動くあいだも、歌は途切れない。旋律が高い方へほどけると、周りの響きもそこへ場所を作ってくれる。

 譜面と先生の手、その横に先輩の頬が見える。この場所から歌ってよかった。

 静かに息をほどいたあとも、曲は先へ進んだ。私はすぐ先輩の顔を確かめず、続いていく音を聴いていた。


「今の、好きです」

 休憩になった途端、陽菜が言った。

 私はリードを外しかけて、顔を上げる。

「どこ?」

「全部、って言いたいですけど、今は、一番高くなって戻ってくるところ」

 具体的だったので、かえって照れた。

 陽菜は私の譜面を見ず、自分の胸のあたりへ手を置く。

「次、どう吹くのか、聴きたくなりました」

 利香先輩も頷く。

「私も。終わってほしくない、じゃなくて、続きが聴きたい感じ」

 その言葉で、私は楽器を膝へ下ろした。

 終わらなければいいと思っていた曲を、二人は、先へ進むから聴きたいと言ってくれる。

 うまくお礼が言えずにいると、背後から海香先輩が顔を出した。

「今の録音、残しておこうね」

「はい」

「私、客席で聴きたかったな」

「部長も演奏してください」

 聡美先輩が、離れた席から言う。

「してたよ。ひかりちゃんに聴いてもらってた」

「なら、いいでしょう」

 部長は残念そうな顔をしたけれど、そのまま先生のところへ行き、録音の置き場所について相談を始めた。

 さっきと同じ演奏が毎回できるかと聞かれたら、まだ自信はない。

 それでも、どこへ戻ればいいのかは、少し分かった気がした。


 午前の最後の通しでは、最初の音がまた少し細くなった。

 けれど、後ろの響きは続いている。そこへ息を送り直すと、歌も戻ってきた。一音目を気にしたまま、最後まで小さくなる必要はなかった。

 先生に振り返る時間をもらい、余白へ、出だしを細くしない、と書く。

 その下には、途中から戻れた、とも。


 ホールを出る前、利香先輩が空いた客席を見に行こうと言った。

 片づけを終えた三人で、最後列の近くへ立つ。陽菜が、遠いですね、と舞台を見下ろした。

 私はついさっきまで、自分の息が届いた場所を眺めた。

「本番、ここにも人が座るんですね」

「うん」

 先輩が隣で頷く。

 ここに座る人にも、あの旋律を渡してみたかった。

「あの」

 二人がこちらを向く。楽器を持っていない手の置き場に迷い、私は鞄の紐を握った。

「本番、楽しみにしても、いい気がしてきました」

 自分で口にして、少し驚いた。

 利香先輩は私の肩へ軽く触れた。

 陽菜は遠慮なく、反対側の手を取った。

「楽しみにしてください。私も、ちゃんと吹くので」

「うん」

「私の音も、聞き逃さないでくださいね」

 舞台の上から聡美先輩が、出発、と呼ぶ。

 海香先輩の声が続いた。

「三人、降りてきて。そこからは演奏できません」

 それは、そうだ。

 私たちは顔を見合わせて笑い、並んで階段へ向かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。