第十三章 ホール練
ホールの中央の席へ座ると、いつも前にいる先生が、急に小さく見えた。
「そこから、聞こえたことを教えてください」
舞台の上から言われ、私は慌てて頷く。
県大会の前に借りたホールで、午前中だけ練習をする。先週の地区大会を通過したからといって、そのときの演奏を何も変えず持っていくわけではなかった。
私はイングリッシュホルンを舞台のスタンドへ置き、客席へ下りてきたところだ。
自分の座るはずの椅子だけが空いている。
そこを見つめていると、先生が手を上げた。
私の旋律を抜いた「雪の川」が始まる。
初めは、穴が空いたように聞こえた。
当然だ。そこへ私が吹くはずだったのだから。
けれど耳を澄ませていると、後ろで保たれる響きが少しずつ姿を現した。伸びているだけだと思っていた音の中で、誰かが息を継ぎ、別の誰かがわずかに色を変える。音の重なりが変わる場所には、私が進みたくなる理由があった。
香帆が自分の譜面から目を上げる。
茜の肩が、その隣でゆっくり下がる。
普段、座っている位置からは見えないところで、みんなが私の旋律を待つ準備をしていた。
先生の手が止まる。
「どうでしたか」
私は立ち上がりかけ、座ったままでいいと言われた。
「私が、勝手に急いでたところ、分かりました」
客席で話す声は、不思議なくらい自分へ戻ってくる。
「ここまで待ってもらってたのに、私、終わりの方ばかり、見てました」
先生が頷いた。
「では、戻って、もう一度」
舞台への階段を上がると、利香先輩が私の椅子を少し引いてくれる。
陽菜は、どうでした、と言いたそうな顔をしていたけれど、今は聞かなかった。
私は二人の間へ戻り、長い楽器を持ち上げた。
最初の音を出す前から、さっき客席で聴いた響きが耳に戻ってくる。
ここなら、入れる。
息を送ると、内側に暗い色を残した音が伸びていった。その手触りが好きで、この楽器を何度も吹いてきたのだと思い出す。
次の音へ指が動くあいだも、歌は途切れない。旋律が高い方へほどけると、周りの響きもそこへ場所を作ってくれる。
譜面と先生の手、その横に先輩の頬が見える。この場所から歌ってよかった。
静かに息をほどいたあとも、曲は先へ進んだ。私はすぐ先輩の顔を確かめず、続いていく音を聴いていた。
「今の、好きです」
休憩になった途端、陽菜が言った。
私はリードを外しかけて、顔を上げる。
「どこ?」
「全部、って言いたいですけど、今は、一番高くなって戻ってくるところ」
具体的だったので、かえって照れた。
陽菜は私の譜面を見ず、自分の胸のあたりへ手を置く。
「次、どう吹くのか、聴きたくなりました」
利香先輩も頷く。
「私も。終わってほしくない、じゃなくて、続きが聴きたい感じ」
その言葉で、私は楽器を膝へ下ろした。
終わらなければいいと思っていた曲を、二人は、先へ進むから聴きたいと言ってくれる。
うまくお礼が言えずにいると、背後から海香先輩が顔を出した。
「今の録音、残しておこうね」
「はい」
「私、客席で聴きたかったな」
「部長も演奏してください」
聡美先輩が、離れた席から言う。
「してたよ。ひかりちゃんに聴いてもらってた」
「なら、いいでしょう」
部長は残念そうな顔をしたけれど、そのまま先生のところへ行き、録音の置き場所について相談を始めた。
さっきと同じ演奏が毎回できるかと聞かれたら、まだ自信はない。
それでも、どこへ戻ればいいのかは、少し分かった気がした。
午前の最後の通しでは、最初の音がまた少し細くなった。
けれど、後ろの響きは続いている。そこへ息を送り直すと、歌も戻ってきた。一音目を気にしたまま、最後まで小さくなる必要はなかった。
先生に振り返る時間をもらい、余白へ、出だしを細くしない、と書く。
その下には、途中から戻れた、とも。
ホールを出る前、利香先輩が空いた客席を見に行こうと言った。
片づけを終えた三人で、最後列の近くへ立つ。陽菜が、遠いですね、と舞台を見下ろした。
私はついさっきまで、自分の息が届いた場所を眺めた。
「本番、ここにも人が座るんですね」
「うん」
先輩が隣で頷く。
ここに座る人にも、あの旋律を渡してみたかった。
「あの」
二人がこちらを向く。楽器を持っていない手の置き場に迷い、私は鞄の紐を握った。
「本番、楽しみにしても、いい気がしてきました」
自分で口にして、少し驚いた。
利香先輩は私の肩へ軽く触れた。
陽菜は遠慮なく、反対側の手を取った。
「楽しみにしてください。私も、ちゃんと吹くので」
「うん」
「私の音も、聞き逃さないでくださいね」
舞台の上から聡美先輩が、出発、と呼ぶ。
海香先輩の声が続いた。
「三人、降りてきて。そこからは演奏できません」
それは、そうだ。
私たちは顔を見合わせて笑い、並んで階段へ向かった。




