第十四章 県大会
県大会の朝、校舎の出口で台車が段差に引っかかった。
手伝おうと人が集まるほど入口は狭くなり、私も荷物を抱えたまま動けない。
「一回、止めよう。ケースを右へ寄せて」
利香先輩はしゃがんで車輪を確かめる。私は荷物を脇へ寄せ、陽菜へ次のケースを渡した。道が空くと、台車はすんなり段差を越えた。
「楽器、大丈夫?」
立ち上がった先輩の横顔を見つめていたら、陽菜に肘をつつかれる。
「先輩、顔。今、すごく分かりやすかったです」
慌てて前を向いたけれど、先輩まで少し嬉しそうに笑っているので、もう遅いらしかった。
バスでは、海香先輩が人数を数え、聡美先輩が名簿を確認した。
部長が二度目を数えようとすると、副部長が紙を差し出す。
「全員いる。あとは、自分が座って」
「忘れ物も確認したい」
「それも済んだ。今、立っている人が一番危ない」
海香先輩は素直に座った。
その途端、後ろの一年生から、部長の水筒です、と声が上がる。
聡美先輩が目を閉じた。
前の方で小さな笑いが起こり、私も少しだけ肩の力を抜いた。
窓の外を朝の道が流れていく。鞄の上で重ねた指先は、少し冷たかった。
陽菜は隣で、何も言わずに自分の手を差し出してくる。
「何?」
「手、冷たそうなので」
「陽菜もじゃない?」
触れた指は、私と同じくらい冷たい。
彼女は少し不服そうに眉を寄せた。
「一緒に温めれば、いいでしょう」
誰かに見られないよう、鞄の陰で指を重ねる。
すぐ温かくなるわけではなかった。それでも、二人とも黙ってそのままでいられた。
前の席の背に、利香先輩の髪が少しだけ見える。
私は、その先へ何かを言いに行かなかった。
今日、隣にいる陽菜の手を、ちゃんと握っていたかった。
会場で待たされた分だけ、音出しの時間は短く感じた。
リードがいつもより重く感じて、私は一度だけ別のものを手に取った。
利香先輩が隣から見ている。
「今、変えたい?」
私は少し考えた。
怖いから何かを変えたいのか、本当に今のリードでは吹きにくいのか。
短く音を出し、もう一度息を送る。
「これで、いきます」
先輩は頷いた。
「うん」
正解だとは言わなかった。
自分で決めたことを、そのまま受け取ってくれた。
少し離れたところでは、茜が香帆に構えを見てもらっている。目が合い、頷き合うだけで、それぞれの準備へ戻れた。
舞台袖で、学校名が呼ばれた。
白鷺女子高校。
その名前で立ち上がる人たちの中に、私もいる。
ライトの下へ出ると、客席は思っていたより暗かった。けれど、全部見えないわけではない。前の列に座る人の膝の上で、プログラムの白い紙が光っている。
自分の椅子に座り、スタンドの位置を確かめる。
普段なら利香先輩の顔を見てから落ち着こうとするところで、今日は先に、自分の足を床へ置いた。
隣の陽菜が楽器を構える。
後ろで、誰かが静かに息を吐く。
先生が指揮台へ上がった。
課題曲Ⅳが始まると、先生の手と隣の音へ自然に気持ちが向いた。
体育館で何度も直したところが来る。
陽菜の音の終わりを聞き、そこへ自分の息を渡した。彼女の顔を見る時間はなかったけれど、今度は追いかけ合わずに揃ったのが分かった。
響きが切れる。
客席の静けさが戻る前に、私は次の楽器の位置を目で確かめた。
自由曲では、吹いていないところでも身体の中の拍が続く。《三つのジャポニスム》の大きな響きの中で、自分の出番を待った。
持ち替えの場所が来る。
オーボエを置き、イングリッシュホルンを持ち上げる。
指へ触れる銀色のキーは、少しだけ温かい。
リードを唇へ運んだとき、先生の左手がこちらへ開いた。
「雪の川」の最初の音は、細くならなかった。
自分を確かめるために小さく出して、あとから膨らませるのではなく、始まりから、行きたいところを持っていた。
柔らかく、けれど奥まで芯のある音が、周りの響きからゆっくり浮かぶ。
私はその音を、途中で引き戻さなかった。
低いところに残る暗い色から、旋律が少しずつ明るさを帯びていく。
ひと息で何もかも運ぼうとしない。息を継いだ先にも、歌が続いている。その続きへ入れるように、周りの人たちが、途切れずに響きを保ってくれる。
胸の中が広がった。
旋律の頂点へ向かうとき、私は、きれいに終えよう、とは考えなかった。
もう少し、聴いてほしい。
客席の奥へ向かって、息を開く。
楽器の暗い温かさを残したまま、歌が大きく立ち上がった。強く出した一音が目立つのではなく、そこまで歩いてきた音がみんな一緒に、遠くへ届いていく。
先生の手が、止めずに先を示す。
私はその長さを信じて吹いた。
先輩も陽菜も、みんなも、今ここで吹いている。その中に自分の音を置くのが嬉しかった。
高くほどけた旋律が、ゆっくり戻ってくる。
小さくするために息を捨てず、最後まで歌の形を持たせる。音が消えるところまで、自分のものであり、周りの人と一緒のものだった。
リードから唇を離したあと、私はすぐに満足しようとしなかった。
まだ曲は続いている。
「祭り」へ向かう音楽に身体を戻し、次の人の音を聴く。熱を増していく合奏の中に、自分がさっきまで吹いていた静けさも残っている気がした。
最後の響きで、みんなの息が同じところへ着いた。
舞台袖で陽菜が、よかった、と息だけで言う。利香先輩も振り向いて笑い、私たちは片づけるまでその顔のままだった。
結果発表までの間に、お腹が空いていることを思い出した。
おにぎりの包みがうまく開かず、茜に端を押さえてもらう。舞台の上では何とか吹けた指が、海苔の袋には役に立たない。
「先輩、力を入れるところが違います」
「今日は、それ、よく言われる」
私が答えると、茜は少し笑った。
香帆が隣で、お互い様、と呟く。
茜の膝には、まだ開けていないおにぎりが載っていた。
食べ終わったころ、会場へ戻る時間になる。
賞を聞くだけのときの方が、膝の上の手をどこへ置けばいいか分からない。
金賞。
そこまでは聞き取れた。
県代表の学校名が続き、その中に自分たちの学校が呼ばれた瞬間、周りから一斉に息が上がる。
陽菜が両手で顔を覆った。
茜と香帆が何度も頷き合う。
私は隣の利香先輩の肩へ、そっと触れた。
先輩が振り向く。
同じ顔をしていた。
嬉しい、と言う前に、分かってしまう顔だった。
「行けますね」
「うん。行こう」
先輩の返事を聞いてから、私はようやく笑った。
先輩の夏を終わらせずに済んだ、という安堵だけではない。
同じ学校名で呼ばれた人たちと、今日の演奏を、もう一度先へ持っていける。
そのことが、何より嬉しかった。




