↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/38

第十四章 県大会

 県大会の朝、校舎の出口で台車が段差に引っかかった。

 手伝おうと人が集まるほど入口は狭くなり、私も荷物を抱えたまま動けない。

「一回、止めよう。ケースを右へ寄せて」

 利香先輩はしゃがんで車輪を確かめる。私は荷物を脇へ寄せ、陽菜へ次のケースを渡した。道が空くと、台車はすんなり段差を越えた。

「楽器、大丈夫?」

 立ち上がった先輩の横顔を見つめていたら、陽菜に肘をつつかれる。

「先輩、顔。今、すごく分かりやすかったです」

 慌てて前を向いたけれど、先輩まで少し嬉しそうに笑っているので、もう遅いらしかった。


 バスでは、海香先輩が人数を数え、聡美先輩が名簿を確認した。

 部長が二度目を数えようとすると、副部長が紙を差し出す。

「全員いる。あとは、自分が座って」

「忘れ物も確認したい」

「それも済んだ。今、立っている人が一番危ない」

 海香先輩は素直に座った。

 その途端、後ろの一年生から、部長の水筒です、と声が上がる。

 聡美先輩が目を閉じた。

 前の方で小さな笑いが起こり、私も少しだけ肩の力を抜いた。

 窓の外を朝の道が流れていく。鞄の上で重ねた指先は、少し冷たかった。

 陽菜は隣で、何も言わずに自分の手を差し出してくる。

「何?」

「手、冷たそうなので」

「陽菜もじゃない?」

 触れた指は、私と同じくらい冷たい。

 彼女は少し不服そうに眉を寄せた。

「一緒に温めれば、いいでしょう」

 誰かに見られないよう、鞄の陰で指を重ねる。

 すぐ温かくなるわけではなかった。それでも、二人とも黙ってそのままでいられた。

 前の席の背に、利香先輩の髪が少しだけ見える。

 私は、その先へ何かを言いに行かなかった。

 今日、隣にいる陽菜の手を、ちゃんと握っていたかった。


 会場で待たされた分だけ、音出しの時間は短く感じた。

 リードがいつもより重く感じて、私は一度だけ別のものを手に取った。

 利香先輩が隣から見ている。

「今、変えたい?」

 私は少し考えた。

 怖いから何かを変えたいのか、本当に今のリードでは吹きにくいのか。

 短く音を出し、もう一度息を送る。

「これで、いきます」

 先輩は頷いた。

「うん」

 正解だとは言わなかった。

 自分で決めたことを、そのまま受け取ってくれた。

 少し離れたところでは、茜が香帆に構えを見てもらっている。目が合い、頷き合うだけで、それぞれの準備へ戻れた。


 舞台袖で、学校名が呼ばれた。

 白鷺女子高校。

 その名前で立ち上がる人たちの中に、私もいる。

 ライトの下へ出ると、客席は思っていたより暗かった。けれど、全部見えないわけではない。前の列に座る人の膝の上で、プログラムの白い紙が光っている。

 自分の椅子に座り、スタンドの位置を確かめる。

 普段なら利香先輩の顔を見てから落ち着こうとするところで、今日は先に、自分の足を床へ置いた。

 隣の陽菜が楽器を構える。

 後ろで、誰かが静かに息を吐く。

 先生が指揮台へ上がった。


 課題曲Ⅳが始まると、先生の手と隣の音へ自然に気持ちが向いた。

 体育館で何度も直したところが来る。

 陽菜の音の終わりを聞き、そこへ自分の息を渡した。彼女の顔を見る時間はなかったけれど、今度は追いかけ合わずに揃ったのが分かった。

 響きが切れる。

 客席の静けさが戻る前に、私は次の楽器の位置を目で確かめた。

 自由曲では、吹いていないところでも身体の中の拍が続く。《三つのジャポニスム》の大きな響きの中で、自分の出番を待った。

 持ち替えの場所が来る。

 オーボエを置き、イングリッシュホルンを持ち上げる。

 指へ触れる銀色のキーは、少しだけ温かい。

 リードを唇へ運んだとき、先生の左手がこちらへ開いた。


 「雪の川」の最初の音は、細くならなかった。

 自分を確かめるために小さく出して、あとから膨らませるのではなく、始まりから、行きたいところを持っていた。

 柔らかく、けれど奥まで芯のある音が、周りの響きからゆっくり浮かぶ。

 私はその音を、途中で引き戻さなかった。

 低いところに残る暗い色から、旋律が少しずつ明るさを帯びていく。

 ひと息で何もかも運ぼうとしない。息を継いだ先にも、歌が続いている。その続きへ入れるように、周りの人たちが、途切れずに響きを保ってくれる。

 胸の中が広がった。

 旋律の頂点へ向かうとき、私は、きれいに終えよう、とは考えなかった。

 もう少し、聴いてほしい。

 客席の奥へ向かって、息を開く。

 楽器の暗い温かさを残したまま、歌が大きく立ち上がった。強く出した一音が目立つのではなく、そこまで歩いてきた音がみんな一緒に、遠くへ届いていく。

 先生の手が、止めずに先を示す。

 私はその長さを信じて吹いた。

 先輩も陽菜も、みんなも、今ここで吹いている。その中に自分の音を置くのが嬉しかった。

 高くほどけた旋律が、ゆっくり戻ってくる。

 小さくするために息を捨てず、最後まで歌の形を持たせる。音が消えるところまで、自分のものであり、周りの人と一緒のものだった。

 リードから唇を離したあと、私はすぐに満足しようとしなかった。

 まだ曲は続いている。

 「祭り」へ向かう音楽に身体を戻し、次の人の音を聴く。熱を増していく合奏の中に、自分がさっきまで吹いていた静けさも残っている気がした。

 最後の響きで、みんなの息が同じところへ着いた。


 舞台袖で陽菜が、よかった、と息だけで言う。利香先輩も振り向いて笑い、私たちは片づけるまでその顔のままだった。


 結果発表までの間に、お腹が空いていることを思い出した。

 おにぎりの包みがうまく開かず、茜に端を押さえてもらう。舞台の上では何とか吹けた指が、海苔の袋には役に立たない。

「先輩、力を入れるところが違います」

「今日は、それ、よく言われる」

 私が答えると、茜は少し笑った。

 香帆が隣で、お互い様、と呟く。

 茜の膝には、まだ開けていないおにぎりが載っていた。

 食べ終わったころ、会場へ戻る時間になる。

 賞を聞くだけのときの方が、膝の上の手をどこへ置けばいいか分からない。

 金賞。

 そこまでは聞き取れた。

 県代表の学校名が続き、その中に自分たちの学校が呼ばれた瞬間、周りから一斉に息が上がる。

 陽菜が両手で顔を覆った。

 茜と香帆が何度も頷き合う。

 私は隣の利香先輩の肩へ、そっと触れた。

 先輩が振り向く。

 同じ顔をしていた。

 嬉しい、と言う前に、分かってしまう顔だった。

「行けますね」

「うん。行こう」

 先輩の返事を聞いてから、私はようやく笑った。

 先輩の夏を終わらせずに済んだ、という安堵だけではない。

 同じ学校名で呼ばれた人たちと、今日の演奏を、もう一度先へ持っていける。

 そのことが、何より嬉しかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。