第十五章 勝った日の続きに
県大会の翌日、最初に直されたのは、金賞の演奏の出だしだった。
録音を流した三枝先生が、同じところをもう一度聞かせる。昨日の会場では勢いに乗れたと思っていたのに、ここで聴くと、前のめりになった音がいくつかあった。
「いい演奏ができたことと、直すところがないことは、違います」
先生の言葉で、みんなの鉛筆が動く。
私も「雪の川」の余白へ書き込む。昨日よりよくしたいところが聞こえたことは、金賞の嬉しさを消さなかった。
休憩中、海香先輩が昨日の写真を見せに来た。
全部で何枚あるのか分からない。賞状を囲んだ集合写真の次には、積み下ろしをしているところまで入っている。
「これは、聡美が撮った」
「荷物の置き方を記録したの。記念写真じゃない」
「でも、利香ちゃんとひかりちゃん、同じ方を見てる」
「台車が来てるから」
淡々と返す聡美先輩の横で、私は携帯の画面を覗いた。
確かに、二人とも同じ方を見ていた。
その向こうで陽菜が何かを持ち上げ、茜が邪魔にならないところへケースを寄せている。
ちゃんと写るために並んでいない私たちが、そこにいた。
「その写真、私にもいただけますか」
頼むと、海香先輩は少し意外そうにしてから、すぐに頷いた。
大会へ行った日の写真が、賞状の前の一枚だけではなくなった。
八月の初めの合奏後、茜に呼び止められた。自由曲の入りが合わないというので、香帆と三人で確かめるうち、思ったより時間が経っていた。
廊下へ出ると、陽菜が鞄を持って待っている。
校門を出てすぐ、彼女が聞いた。
「ひかり先輩、私も下手だった方がよかったですか」
私は立ち止まる。
「どういうこと?」
「茜には、いっぱい教えてるので」
陽菜は前を向いたまま歩こうとして、私が止まったことに気づき、少し先で振り返った。
怒っているより、拗ねている声だった。
でも、それだけで済ませてはいけないのは分かった。
「陽菜にも、聞かれたら教えてるよ」
「聞かなくても、見てほしいときがあります」
私は口を閉じた。
合奏では彼女の音へ耳を向けるようになったのに、終われば困っている人の方へ行ってしまう。元気な陽菜なら平気だと、決めつけていたらしい。
「ごめん」
陽菜は首を振る。
「茜に教えないでって、言いたいわけじゃないです」
「うん」
「……ちょっとは、あるかもしれませんけど」
最後だけ小さくなった声に、笑ってしまった。
陽菜は笑い返しかけ、まだ納得していない顔へ戻る。
私は川沿いの方を指した。
「少し、歩かない?」
「今から?」
「嫌?」
「行きます」
返事は早かった。
売店でアイスを買い、木陰のベンチへ座る。
陽菜は苺、私はバニラ。受け取ったときには、どちらの縁も少し溶け始めていた。
「今日は、何も教えないんですか」
陽菜が聞く。
「うん」
「曲の話も?」
「したかったら、するけど」
少し考えたあと、彼女は中学のときの夏休みの話を始めた。
茜と二人で宿題をやろうと約束し、お互い相手が数学を終わらせていると思っていたせいで、集まってから二人揃って一問目を開いたのだという。
「二人とも、写すつもりだったの?」
「教えてもらう、です」
「同じじゃない?」
「違います。たぶん」
私が笑うと、陽菜もとうとう笑った。
「でも、茜は、途中でやめないんですよ。お菓子を食べても、テレビをつけても、結局また問題へ戻るので」
心配する声には、昔から知っている友達への親しさも混じっていた。
私は陽菜のアイスを指す。
慌てて口へ運んだ彼女が、冷たさに目を閉じた。
「陽菜が、上手でも下手でも、一緒にいたいよ」
今なら言える気がして、口にした。
陽菜は目を開けたけれど、口いっぱいのアイスに返事を邪魔されている。
飲み込んでから、私を睨んだ。
「今じゃなくても、よかったでしょう」
「今、言いたかった」
「……そうですか」
声が弱くなる。
陽菜は私の隣へ、少しだけ近づいた。
それから、自分の膝を見ながら言う。
「先輩が元気になったの、嬉しいんです」
「うん」
「でも、元気になったら、またみんなのところへ行くから」
私は、ちゃんと返事をしようとした。
けれど、もう行かないとも、陽菜だけを見るとも言えない。
言えない約束を探して黙った私へ、彼女が顔を向けた。
「私、先輩が誰にも優しくしなくなったら、それも嫌です」
「難しいね」
「はい。面倒だと思います」
自分でそう言う顔が、いつもの勢いよりずっと素直だった。
私は食べ終わった容器を袋へ入れ、空いた手を彼女の横へ置いた。
「じゃあ、こういう時間、忘れないようにしたい」
「先輩から、誘ってくれますか」
「うん」
陽菜はしばらく私を見てから、手を重ねてきた。
「今の、覚えました」
約束を取る速さは、いつもの陽菜だった。
駅へ向かう途中、利香先輩から連絡が来た。
説明会で聞いた話と、帰りに駅を一つ通り過ぎそうになったことが、短い文で並んでいる。
私は画面を見て笑ってしまった。
「利香先輩ですか」
陽菜が聞く。
「うん。説明会の帰り」
「ちゃんと、行けたんですね」
「そこ、心配されてるの、知らないと思う」
二人で笑う。
知らない場所へ行った先輩の一日も、ここで陽菜と過ごした私の一日も、あとで話せるものになっていた。
私は、間違えなくてよかったですね、と返してから、すぐもう一文を足した。
今度、話を聞かせてください。
送ると、陽菜が私の手を軽く引いた。
「今は、こっちです」
顔を上げる。
彼女は前を向きながら、少しだけ笑っていた。
私は携帯をしまい、つないだ手を握り直した。




