第十六章 終わらせたくない夏
東海大会の前日、海香先輩は、最後の通しと言わなかった。
「今日の通しをします。終わったら、確認と片づけ」
それだけ告げ、フルートを構える。
聡美先輩が時計を見て頷いた。
私は譜面を開く。七月に陽菜が消してくれた丸の跡も、県大会のあとに書き足した字も、全部、同じ紙の上に残っている。
最初に配られたころより、ページが少し柔らかくなった。
目を上げると、利香先輩がこちらを見ていた。
「大丈夫?」
小声で聞かれる。
私は、まだ少し怖い、と答えた。
先輩は頷く。
「私も」
それから、二人とも前を向いた。
怖くなくなってから吹くのでは、きっと本番に間に合わない。
今の息で、今できる音を出す。
先生が指揮棒を上げると、教室の窓の外で蝉が鳴いた。
七月と同じように聞こえたのに、その音の向こうにある季節は、もう同じではなかった。
帰り支度をしていると、香帆が予備のクリップを一つ差し出した。
「もう持ってる?」
「あるけど、もう一つあったら助かる」
「じゃあ、明日はそれ探すために鞄ひっくり返さないでね」
しまう場所まで見届けて、彼女は茜のところへ行く。その背中を見送っていたら、利香先輩が隣へ来た。
「準備、できた?」
「物は、できました」
先輩は笑い、私もつられて笑った。
大会当日の会場には、聞いたことのある学校名がいくつもあった。
中学のころの大会で見かけた人の姿もある。声を掛けられて短く挨拶をすると、隣の陽菜が少し背筋を伸ばした。
「お知り合いですか」
「前の大会で、一緒になったことがあって」
「そうなんですね」
返事が妙に丁寧だった。
私が顔を見ると、彼女はすぐ前を向く。
「別に、何でもないです」
利香先輩が反対側で笑いかけた。
「陽菜ちゃん、今、ひかりと一緒の学校でしょう」
「分かってます」
「一緒に吹くのも」
「分かってますって」
声が少し大きくなり、陽菜は慌てて口を閉じた。
私は二人に挟まれて、困りながらも笑ってしまう。
この会場でまで、私はいつもの私に戻されるらしい。
それが、ありがたかった。
進行の係の人が学校名を呼ぶ。
利香先輩が先に返事をし、私たちは荷物を持って列を作った。
舞台袖では、リードを確かめる陽菜と、香帆の隣に立つ茜が見えた。聡美先輩が列を見渡し、海香先輩の袖を引く。
全員、そろっている。
あと何回一緒に吹けるかを数える代わりに、今日の顔を見ておきたかった。
利香先輩が私の方を向く。
「行こう」
頷いて顔を上げると、舞台へ続く明るい床が見えた。
課題曲が始まると、客席の広さを考える余裕はなくなった。
さっきまで静かに座っていた人たちが、同じ速さで動き始める。音楽室ならすぐそばへ戻ってきた音が、今日は一度遠くへ届いてから、薄く返ってくる。
その響きを追いかけず、前の拍へ乗る。
一度、後ろの音が思ったより強く聞こえた。そこへ自分まで重く乗せないよう、息の先を細く保つ。
次のまとまりに入るころには、合奏の足並みが戻っていた。
課題曲を終え、自由曲の譜面へ手を掛ける。
利香先輩の左手が視界の端にある。何度も見てきた指の動きが、今日も同じ場所へ戻っている。
私はそれを、別れの予告にしなかった。
曲が始まる。
大きな景色の中へ、次々と音が立ち上がった。
「雪の川」へ入る前、ホールの空気が一段、静かになった。
静かさは、誰も何もしていない時間ではない。
ここまで来るのに、みんなの息が要った。
私は長い楽器を持ち、指揮の手を見る。
深く吸う。
どこかへ閉じ込めずにその息を出すと、自分でも驚くほど、楽器の奥がよく鳴った。
無理に太くしようとしなくても、暗い響きの中に温かい芯がある。そこから次の音へ移る指は、もう私が一つずつ考えて動かすのを待っていない。
昨日まで何度も確かめたことを、今は信じていられる。
旋律が長く伸びる。
私は、そこに別れの言葉を押し込まなかった。
夏が終わるのは寂しい。先輩が卒業することを思えば、今でも胸は苦しくなる。
でも、その気持ちだけが私ではない。
隣で陽菜が笑ったことも、茜の一音が初めてつながったことも、先輩の肩へ頭を預けて、ただ休ませてもらった夕方も、この息を吸っている私の中にあった。
歌が、少しずつ前へ出る。
周りの響きに支えられながら、私は遠い客席へ目を上げるくらいの気持ちで、旋律を大きく開いた。
音量のためだけに押し込めた息ではない。
そこまで来た旋律が、もう狭いところへ戻りたがらなかった。
高く広がる音に、ホールが応える。
自分のすぐそばで鳴っている楽器よりも、遠くへ届いた歌の方が大きく感じられた。
まだ先へ行ける。
先生の手を見て、もう一度息を送る。
私は、歌い上げた。
きれいにまとめるより、今の自分がこの曲を好きだと伝わるように。誰かを引き留めるためではなく、一緒にいる人たちと、今ここまで来られたことを喜ぶように。
旋律が下り始めても、その気持ちは急に小さくならなかった。
最後の音を手放すところまで、息は歌を支えた。
静かになったあと、耳に残ったのは自分の音だけではない。
その下をずっと流れていた、みんなの響きだった。
「祭り」の熱が、身体の内側へ戻ってきた。
私は自分の役目へ戻り、周りの音を追う。速い動きの中で、陽菜の音がはっきり聞こえた。利香先輩も、いつもより少し思いきりよく前へ出ている。
譜面を見ているのに、三人の顔が分かる気がした。
後ろから押し出される響きに、全体の音が大きくなる。
このまま終わらなければいい、とは思わなかった。
最後まで、吹きたかった。
先生の両手が、終わりへ向かう形を作る。
私たちは、そこまで行った。
音が切れ、ほんの少し遅れて、拍手が来る。
膝の上へ下ろした楽器の重さが、急に戻った。
私は息を吐く。
先輩と吹いた夏の演奏が、今、終わったのだと分かった。
でも、隣を見ると、泣くより先に頬が緩む。利香先輩も陽菜も、こちらを向いている。
その顔へ、まず笑って応えたかった。




