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第十七章 夏の後にも

 銀賞と聞いたとき、私は一度、頷いた。

 次の学校、その次の学校へと発表が進み、全国へ行く代表も告げられる。白鷺女子高校の名前がないことを確かめながら、拍手をした。

 隣の陽菜は前を向いたままだった。いつもなら何かを言う口元が、今日はまっすぐ結ばれている。

 利香先輩の手も、膝の上に戻った。

 その手へ触れたいと思いながら、私は触れられなかった。

 私の方が、先に泣いてしまいそうだったから。


 外へ出ると、八月の暑さは朝と変わっていなかった。

 日陰へ集まり、先生の話を聞く。悪い演奏ではなかった、という言葉に、私は頷けた。

 あの「雪の川」は吹けた。それでも悔しくて、楽器のケースを持つ手へ力が入る。

 周りにも、似た顔がいくつもある。茜は目の下を指で押さえ、香帆は何かを言って励ますより先に、その足元のケースを日陰へ寄せている。

 海香先輩が全員を見回し、学校へ戻ってからの順番を説明し始めた。いつもどおりよく通る声に、俯いていた子たちも顔を上げる。

「泣いていても、荷物の数は減りません。置いていかないように、確認だけはお願いします」

 少し笑いが起きる。

 部長も笑おうとして、途中で鼻をすすった。

 聡美先輩が、すぐ横から続きを引き取る。

「説明は以上。分からない人は私に聞いて。部長は、先に水を飲んで」

「私、まだ話せる」

「知ってる。だから、今、飲んで」

 差し出された水筒を、海香先輩が受け取った。

 いつもなら笑えるやり取りが、その日は少しだけ眩しかった。


 利香先輩は、泣いている一年生と一緒にケースを閉めていた。私のところへ来てほしいと思っても、その背中を呼ぶのはためらわれる。

 陽菜が隣へ来る。

「ひかり先輩」

「うん」

「さっき、すごくよかったです」

 私は彼女を見る。

 陽菜の目は赤かった。

「結果は悔しいです。でも、先輩の演奏がよかったことは、別に伝えたいので」

 言い終えると、彼女は一度だけ唇を結ぶ。

「私、あの隣にいて、嬉しかったです」

 返事をしようとして、息が詰まった。

 陽菜は慌てず、私の鞄の持ち手へ触れる。

「今、泣いても、困りません」

「陽菜も、泣いてる」

「はい」

 その返事で、二人とも少し笑った。

 私は目元を拭き、もう一度彼女を見た。

「私も、陽菜の音、聴こえたよ」

「どこですか」

 すぐ聞き返される。

 泣いていても、そこは譲らないのが陽菜だった。

 私は舞台の上で聞いた場所を話した。

 全部を説明しなくても、彼女には分かる。

 分かって、少しだけ嬉しそうな顔になった。


 帰りのバスへ乗る前、利香先輩が「学校に着いたら、少し話せる?」と聞いてくれた。

 頷いて乗り込み、前の席に見える髪を眺める。夏の大会は終わったけれど、先輩はそこにいて、このあと会う約束もしてくれた。


 学校へ戻るころには、空が暗くなり始めていた。

 荷物を運ぶ私から陽菜が譜面台を一本受け取り、声を落とす。

「あとで、って言われてましたよね」

「うん」

「行ってきてください。利香先輩も、今日は、そういう日だと思うので」

 私は少し驚いて、陽菜を見た。

「いいの?」

「よくない気持ちも、あります」

 彼女は真面目に答える。

「でも、今日は、ちゃんと言ってきてほしいです」

 何を、と聞かなくても、分かった気がした。

 私は頷き、最後の荷物を棚へ戻した。


 利香先輩は、音楽室の窓際にいた。

 部屋の大きな明かりはもう半分消えていて、外から廊下へ入る声の方がよく聞こえる。

「お疲れさま」

 先輩が言う。

「先輩も」

 隣へ行くと、椅子が一脚空いていた。

 先輩の椅子と、肩が触れるくらいの位置にある。

 私はそこへ座り、膝の上で手を重ねた。

 言いたいことを上手にまとめようとしたら、また何も言えなくなる。

 だから、最初に出てきた言葉を、そのまま言った。

「悔しいです」

「うん」

「先輩と、全国へ行きたかった」

 先輩はすぐに慰めなかった。

 私と同じように、膝の上の手を見ている。

「私も、行きたかった」

 私を励まそうとする前に同じ気持ちを聞かせてもらえて、目元が熱くなった。

 私はそっと、その腕へ触れた。

 先輩がこちらを見る。

「少しだけ、くっついてもいいですか」

「少しじゃなくても」

 返事を待っていたみたいに、先輩の腕が開く。

 私は肩へ頭を預けた。

 川沿いで泣いた日と、同じ側だった。

 先輩の手が背中へ回ると、ようやく、今日が自分の身体の中で終わっていく気がした。

「『雪の川』、私、好きだった」

 耳の近くで、先輩が言う。

 私は顔を上げかけた。

「あの、途中から、先輩のことばっかりは、考えてなくて」

「うん」

「それで、よかったんでしょうか」

 先輩が少し笑う。

「よかったと思う。私のことを考えて苦しい顔で吹かれるより、ずっと」

 頬の近くへ、先輩の髪が触れる。

「ひかりが、あの曲を好きなのが、ちゃんと聞こえたから」

 私は目を閉じた。

 その言葉だけ、しばらく何度も聞き直していたかった。

 先輩の制服の袖を、少し握る。

「明日、何時に来ますか」

 前なら、いなくならないことを確かめるために聞いた。

 今日は、違った。

「午後から。午前は家で勉強する」

「じゃあ、午後、一緒に片づけできますね」

「片づけだけ?」

 少し拗ねた声が返る。

 私は顔を上げた。

 先輩は、泣いたあとの私を見ても笑わず、答えを待っている。

「お話も、したいです」

「うん。私も」

 先輩の指が頬の涙をそっと拭う。

 私は今度こそ、少し笑えた。


 廊下へ出ると、海香先輩がお菓子の小袋をくれた。聡美先輩は隣で戸締まりの順番を確認している。

 部長は私と利香先輩を見て、何かを言いかける。

 聡美先輩が静かに名前を呼んだ。

「海香」

「まだ何も言ってない」

「分かってる。今日はそのままで」

 部長は口を閉じ、代わりに、いい夏だったね、と言った。

 私は頷く。

 いい夏だったから、悔しい。

 悔しいから、いい夏ではなかった、とはならない。

 校門の近くで、陽菜と茜が待っていた。少し離れたところに香帆もいる。

 利香先輩が音楽棟を振り返る。

「次は、三人だね」

 頷いて隣へ並ぶ。冬に吹くベートーヴェンが、あの部屋で待っている。

 先輩を失わないためではなく、あの曲も、三人でよくしたかった。

 茜が、藤沢先輩、と私を呼ぶ。

「今日の『雪の川』、また聴きたいです」

「うん。また、吹きたい」

 答えると、彼女は頷いてケースを持ち直した。陽菜が隣から、私もですよ、と加わる。

 私たちの声に、利香先輩も笑う。

 先輩との最後の夏は終わった。

 そのあとにも会える人たちと、私は並んで校門を出た。


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