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第十八章 二股なんて許しません

 夏の大会から数日たった八月末、階段の踊り場でケースの角がぶつかった。二つ持ちには慣れたつもりでも、急ぐとうまくいかない。抱え直そうとしたところへ、下の階から茜が上がってくる。

「藤沢先輩、少し、話してもいいですか」

 夏の練習中にも、何度かこうして呼び止められた。ただ今日は、茜の手に楽譜がない。

 楽器のことだと思った。

 茜の譜面には、最近、指番号や音の読み方が細かく書き込まれていた。自分で調べてから聞きに来る子なので、質問はいつも具体的だった。

「いいよ。ケースだけ置いてきても」

「私、持ちます」

 長い方を受け取る茜の手つきには、ファゴットを持ち慣れた落ち着きがある。そのまま空いた練習室へ入って机に置くと、背後で扉が閉まる。

 いつもの楽器の質問なら、閉めなくても話せるはずだ。

「先輩、陽菜と付き合ってますよね」

「うん」

「利香先輩とは?」

 時計の音ばかり大きく聞こえる。鞄の持ち手を握り直しても、茜の視線を避けられる場所はない。

「夏の間、ずっと気になってたんです。仲のいい先輩、だけですか」

 否定したら、嘘になる。

 曖昧にしたら、さっきよりもっと悪いことになる気がした。

「……付き合ってる」

 茜は少しだけ目を細めた。

 怒るより先に、傷ついたように見えた。

「陽菜、知ってるんですか」

「知ってる」

「それで、いいって?」

「うん。というか、二人で決めて、その」

 説明がひどくなるのを感じた。

 二人が決めたから。

 私はそう言えば、自分が何もしていないことにできると思っているのだろうか。

 茜は、私の答えを待った。

 私は目を伏せた。

「私も、付き合うって言った」

 茜が息を吸う。

「二股なんて、許しません」

 思っていたより強い声だった。

 私は思わず顔を上げた。

「陽菜、すごく嬉しそうだったんです」

 茜は続けた。

「付き合うことになった日から、何でも先輩の話で。メッセージの返事が来たとか、今日先輩から帰ろうって言われたとか」

 私が帰ろうと言っただけで、陽菜は茜に話してくれていた。その顔が容易に浮かぶことが嬉しくて、なのに今、この子に責められながら聞いているのが苦しい。

「だから、藤沢先輩は、そういう人じゃないって思ってました」

 そういう人。

 私はその言葉を、避けられなかった。

「ごめん」

「私に謝られても困ります」

 茜は眉を寄せた。

「陽菜がいいって言ったら、何でもいいんですか」

 茜の握りしめた両手を見ていると、言い返せない。二人を羨ましく眺めていた時間にも、この子は陽菜の話を聞き、心配していたのだ。

 だからといって、利香先輩と別れれば全部が元に戻るのか。そこだけは、頷けずにいる。

「茜、私は」

 扉が開いた。

「何してるの」

 陽菜が立っていた。

 私の顔を見て、次に茜を見る。

 茜はすぐ顔を向けた。

「陽菜、ちょうどいい」

「全然、ちょうどよくなさそうだけど」

 陽菜は部屋へ入り、扉を閉めた。

「ひかり先輩に何言ってたの」

「二股のこと」

 陽菜の顔から表情が消える。間へ入るための一言を探すより、茜の問いの方が早い。

「何で認めたの。嫌なんでしょ」

「自分で決めたから」

「何で」

「茜に全部説明しなきゃ駄目?」

「分からないから聞いてる」

 二人の言葉は速かった。

 普段の軽口と似ているのに、返ってくる場所が少しずつ鋭い。

 私はそのあいだで、どこに声を入れればいいか分からなかった。

「同じ組に選ばれたらって、勝負したの」

 陽菜が言った。

「二人とも選ばれたから、同点。それだけ」

「先生が三重奏に変えたから?」

「そう」

 茜は呆れたように息を吐いた。

「馬鹿みたい」

 陽菜の目が強くなった。

「馬鹿でも、私たちの話だから」

「藤沢先輩のことなのに?」

 私はそのとき、初めて茜を見た。

 陽菜のことだけで怒っているのではないのかもしれない。

 でも、それ以上は分からなかった。

「茜、ずっと見てるだけで、何でも言えると思わないで」

 陽菜の言葉に、茜が口を閉ざす。今のは少し強すぎると、私にも分かった。

「陽菜」

 呼ぶと、陽菜は私を見る。

 言いすぎたと気づいたような顔をした。

 でも、茜へ謝るより先に、茜が返した。

「見てるだけかどうか、分からないでしょ」

 陽菜は口を開きかけ、閉じた。

 それから、二人の間にあった話とは別のことを言った。

「じゃあ、茜も勝負してよ。口で言うだけじゃなくて」

 茜が眉を寄せる。

 陽菜は壁の掲示板を指した。

 青葉管楽器ソロコンクール。

 夏の大会が済んでから掲示された案内には、九月末の地区予選、十月の県大会、翌年一月の東海大会の日程が並んでいる。申込みの締切は九月の初めだった。

「ファゴットであれに出て、東海まで行けたら、何でも一つ、願いを叶えてあげる」

 また勝負だ。陽菜の声が響く部屋で、私は二人の顔を見比べる。追い詰められると、どうして自分でも後戻りできない約束をするのだろう。茜まで、怒っていた表情のまま動かなくなっている。

「何でも?」

 茜が聞いた。

 陽菜は頷いた。

「一つなら」

「県大会で、東海の代表に選ばれればいいの」

「そう」

「東海で金を取れ、とかじゃなくて?」

「出場が決まればいい」

 茜は少し黙った。

 私はその時間に口を挟もうとした。

「二人とも、いったん」

「二股を解消させてもいい?」

 茜の声が重なった。

 陽菜が、一瞬だけ私を見た。

 その一瞬で、何を約束しようとしているか理解したのだと思う。

 やめて、と陽菜を見返す。けれど止めたいのは勝負なのか、それとも先輩と別れる可能性なのか。自分の気持ちにつまずいているうちに、陽菜は茜へ向き直ってしまう。

「いいよ」

 言ってしまった。

 茜の目が、少し大きくなる。

 陽菜は腕を組んだ。

「でも、ファゴットだからね。トランペットへ戻して出るのはなし」

「戻さない」

「協奏曲で。途中だけでもいいけど、先生に認めてもらった曲」

「分かった」

 やり取りが妙に具体的だった。

 普段から何度も、こういう勝負をしてきたのだろうか。

 私は二人の間へ手を伸ばした。

「ねえ、もう、決まったことにしないで」

 二人がこちらを見る。

 私は陽菜へ言った。

「茜、持ち替えてから、まだ半年も経ってないよ」

 そうでしょう、と言いたげに陽菜の顔が緩む。その表情を見ながら、私は続きを口にした。

「無理な練習をしなきゃいけないような約束、しないでほしい」

 陽菜の表情が変わった。

 茜が私を見た。

「私、やります」

 静かな声だった。

「自分で決めます」

 その声に向き直ると、茜はもう怒った顔をしていない。こちらの返事を待たずに動き出せる行き先を、見つけてしまったように見える。

「申し込んでいいか、先生に聞いてきます」

 壁際から応募要項を一部抜き取る音がして、茜は振り返らずに出ていく。追おうとした私の袖が、後ろへ引かれる。

「先輩」

 振り返ると、陽菜は少し不安そうに立っていた。

「本気、だと思いますか」

 私は扉の方を見た。

「本気だったよ」

 答えると、陽菜は小さく唇を結んだ。


 その日の帰り、陽菜はいつもより口数が少なかった。

 私は電車の窓へ映った二人を見ていた。

 陽菜の指が、鞄の持ち手を何度も撫でる。

「茜、中学では、上手だったの?」

 尋ねると、陽菜は頷いた。

「トランペットは」

「どんな感じ?」

「……腹が立つくらい、諦めないです」

 演奏の感想ではなかった。

 私は陽菜を見る。

「できないところがあると、そこだけずっとやって。こっちが先にできても、一週間後に追いついてくるんです」

「すごいね」

「でも、今回は楽器が違います」

 陽菜は少し早口になった。

「まだ、速いところになると指が止まるんですよ。夏の曲だって、香帆先輩に見てもらって、やっとで。東海って、そんな簡単じゃないです」

「うん」

「だから」

 そこから先が、続かなかった。

 窓の外へ目を移しても、ポスターを見た茜の顔が浮かぶ。できるかどうかは私にも分からないけれど、できないはずだから構わない、とは思えない。

「陽菜は、茜が上手くなったら嬉しくない?」

 尋ねると、陽菜はすぐ答えた。

「嬉しいです」

 その返事は、迷わなかった。

 自分で言ってから、陽菜は困ったように笑った。

「嬉しいんですけど」

 私は、うん、と答えた。

 電車が次の駅へ着く。

 陽菜が降りる駅だった。

 立ち上がる前に、彼女は私を見た。

「先輩、茜に、優しくしすぎないでください」

「困ってたら、教えるよ」

「分かってます」

 陽菜は少しだけ、私の手へ触れた。

「そういう先輩が好きだから、困るんです」

 ホームへ出た陽菜にガラス越しの手を振っていると、動き始めた電車の揺れとは別に、鞄の中で携帯が震える。表示されているのは茜の名前だ。

 『先生に、曲を探してもらえることになりました』

 私は画面を見たまま、しばらく動けなかった。

 そのあと、短く返した。

 『決まったら、聴かせてね』

 送信の印を確かめて携帯をしまう。窓の外には、八月の終わりの夕焼けが残っていた。


 『決まったら、聴かせてね』

 家の玄関でその返事を開いて、私は、靴を片方だけ脱いだまま止まった。

 怒られるかもしれないと思っていた。

 謝る文章も、電車の中で考えた。陽菜を心配して、言いすぎました。それなら、嘘にはならない。

 けれど、本当にそれだけなら、陽菜が知っていると聞いたところで話は終わったはずだ。

 私はもう片方の靴を脱いで部屋へ上がり、机に応募要項を広げた。風で持ち上がる端を、消しゴムで押さえる。

 付き合うことになった日の帰り道、陽菜は改札までに二度、先輩の返事を聞かせてくれた。二度とも同じところで笑えたし、どんな顔で聞けばいいか迷うこともなかった。

 おめでとう、と言えたことは、今でもよかったと思う。

 その日から、分からない指使いはまず香帆先輩に聞いた。藤沢先輩と二人になりそうで、水筒を取りに戻った日もある。

 それでも練習を聴いてもらえば嬉しくて、夏の間には自分から呼び止めるようになった。先輩が笑える日が増えると安心して、その笑顔を見ている自分には困った。

 陽菜が選ばれたのだから。

 そう決めていれば、言わずに済むはずだった。なのに利香先輩は、自分も隣にいたいと言って、その場所を手に入れた。初めから空いている席を見つけたわけではない。

 応募要項を裏返す。正しいことを言っているあいだなら、私も先輩の前に立てる。ただ振り向いてほしいだけだと、知られずにいられる。

 『陽菜だけにしてあげてください』

 返事の欄に打つ。

 先輩が、そのとおりにすると答えたら。

 利香先輩の席がなくなって、陽菜だけが残る。私はまた、水筒を取りに戻る。

 文字を消した。

 だからって、二人とも恋人でいいなどとは、まだ思えなかった。今日、二人の名前を並べただけで、藤沢先輩はあんなに困っていた。

 私はその顔を、自分のためにもさせようとしている。

 応募要項を表へ戻すと、申込者の欄が白かった。

 大会に出ると決めたことだけは、取り消したくなかった。先輩に顔向けできないような気持ちが混ざっていても、音まで、吹かなかったことにはしたくない。

 鉛筆で名前を書いた。

 最初の一文字だけ濃くなり、消して書き直す。

 先輩への返事は、まだ、送れなかった。


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