第十九章 ヘ音記号の1番下から
九月に入ってすぐ、茜は三枝先生に確認してもらった申込書を提出した。
曲も決まり、初めて持ってきた譜面には、音符の下へ細かい文字が書いてある。
「全部、音の名前?」
私が尋ねると、茜は恥ずかしそうに紙を少し引いた。
「まだ、反射で読めないので」
トランペットで見慣れた譜面と、ファゴットの譜面は違う。目に入った音を、すぐ指へ渡すまでの道がまだできていない。
茜は書き込みの上へ指を置いた。
「頭では分かるんですけど、吹くと戻ります」
「前の楽器の癖が出る?」
「はい。慌てると、違う指で違う音を出します」
本人が困ったように笑うので、私もつられる。ただ、それで済ませるつもりはないらしく、茜は次の譜面を手前へ引き寄せる。
「先生、モーツァルトの協奏曲を選んでくれました」
第一楽章の、先生が印をつけた部分を使うという。
ピアノの伴奏譜も一緒に置かれていた。ひとりで吹く曲というより、もう一人の人と会話をするための譜面に見えた。
「すぐに全部吹こうとしないで、って言われました」
「うん」
「でも、最後まで一回くらい」
「止まる場所を全部知りたくなるよね」
茜がこちらを見た。
私は、自分も同じことをするので、と付け加えた。
「止まったところに印をつけて、それから戻るのならいいと思う。ただ、毎回最初から最後まで無理に吹くと、同じところで止まる練習になるから」
鉛筆を握り直した茜は、答えを書き留めるあいだ、質問のときよりずっと静かになる。二股なんて許さないと私を見据えた目で、今は楽譜から離れない。その集中を途中で切りたくなくて、私は次の言葉を待つ。
土曜日は、月に一度の岸先生のレッスンだった。二年生の香帆と一年生の茜が、ファゴットを抱えて並んで練習室へ入っていく。
廊下でリードを確かめていても、扉越しの茜の音が気になる。いつもより硬い。直したい箇所ほど、聴いてもらうときに強く出てしまうのは、私にも覚えがある。
やがて音が途切れ、岸先生の低い声が届く。
「今、何を一番よくしようとした?」
茜の返事は聞き取れなかった。
「音を外さないことは必要。でも、外さなかったら音楽になるわけじゃないでしょう」
自分も言われたことのある注意に、リードを持つ手が止まる。先生の短い手本を追いかけて、茜が吹き直す。今度は遅いけれど、一つずつ音に留まってから次へ進んでいる。
扉が開いたとき、茜は少し怒ったような顔をしていた。
私に気づくと、表情を隠そうとした。
「どうだった?」
尋ねると、茜は楽器を抱え直した。
「曲、ほとんど吹けませんでした」
「基礎?」
「一番最初の音だけ、何回も」
頷く私を、茜が顔色を探るように見つめる。
「笑わないんですか」
「何で?」
「東海とか言ってるのに、最初の音も駄目だったので」
私は少し考えた。
「最初の音がよくなれば、毎回、前よりいいところから始められるよ」
茜の沈黙の向こうに、こちらを見る陽菜がいる。気づいても今は動かず、茜から返事があるまで待つ。
「……もう一回、やってみます」
私は頷き、茜がもう一度楽器を構えるのを待った。
その音が終わったところで、岸先生との相談を済ませた香帆が練習室から出てくる。
「今の出だし、さっきより楽そうだった」
茜はリードを離し、私を見るときとは少し違う、確かめるような目で香帆を見た。
「香帆先輩も、聞こえました?」
「うん。次の音へ移るたびに、息を押し込まなくなったでしょ」
香帆が自分の息を短く区切ってみせると、茜はあ、と頷く。
「明日のパート練習で、続きも聴かせて。指の移り方、先生に教わったところを一緒に確かめよう」
「お願いします」
茜は譜面の端を開き、次に聞きたいことを書き足した。香帆も自分の楽譜を取り出し、その隣へ立つ。二人の指が同じ音符の上で止まるのを見て、私は少し椅子を引いた。
翌週には、音楽棟の朝が賑やかになった。
授業前の練習をする生徒が増え、校門の開く時間に合わせて来る子もいた。音楽棟の利用には届け出が必要で、入口の名簿に名前と退出時刻を書く。
ある朝、私が七時過ぎに着くと、名簿の一番上に茜の名前があった。
入室、六時。
私は数字を二度見た。
第三練習室から、同じ短い旋律が聞こえる。
失敗して、止まる。
最初へ戻るのかと思ったら、失敗した二つの音だけをゆっくり繰り返していた。
私は扉を軽く叩いた。
茜が顔を上げる。
机の上には、半分食べたパンと水筒、学校の教科書があった。
「早いね」
「先輩も」
「私は一時間遅い」
茜は時計を見た。
もうそんな時間なのか、という顔だった。
「毎日、六時?」
「できる日は」
「家、遠くない?」
「母に駅まで送ってもらってます」
私はパンを見た。
茜は私の視線に気づき、慌てて袋を閉じかけた。
「食べてる途中」
「食べて。私、待ってるから」
「待たなくていいです」
「今のところ、聴きたい」
茜が袋を開き直してくれたので、空いている椅子に座って窓の外へ目をやる。食べるところを見張るのも悪い。まだ誰もいない校庭の上には、昼の暑さがもう想像できる青空が広がっている。
口を拭いた茜が構えるのを待って、譜面へ目を戻す。昨日まで引っかかっていた箇所を音が通り抜け、思わず顔を上げると、吹いている本人も目を開いていた。
最後の音まで行ったあと、どちらからともなく顔を見合わせる。
「今の」
「うん。できた」
茜は一度頷いた。
それから、もう一度だけ、小さく頷いた。
「……できました」
自分へ確かめるような声に、よかったね、と返す。ちょうど鳴り始めた予鈴に重なって、廊下から陽菜が顔を出し、置きっぱなしの私の鞄を指す。
「先輩、それ、教室に持っていくんですよね」
「うん。ありがとう」
立ち上がって茜に譜面を返し、陽菜が伸ばした手へ鞄を渡しかける。そのとき茜の顔から笑みが消え、私は持ち手を離さず振り返った。
「どうしたの?」
「何でもないです」
茜はもう揃っている楽譜の角を、机へ二度、軽く打ちつける。陽菜も何か言いかけたものの、私たちを見比べて黙ってしまった。
私は鞄を自分で持ち直す。
「今のところ、明日も聴かせて」
言ってから、また練習の約束を増やしたことに気づいた。
茜は、はい、と答えた。さっき音がつながったときより、小さな声だった。
陽菜は、茜の練習のことを聞くようになった。
直接尋ねることもあれば、私に尋ねることもあった。
「今日、どうでした?」
「朝?」
「はい」
「昨日つながらなかったところ、できてたよ」
陽菜は、そうですか、と答えた。
嬉しそうになりかけた口元が、途中で戻る。
私はその顔を見てしまった。
「陽菜も、聴いてあげれば」
「今、私が言うと、何でも嫌味みたいになるので」
それは、そうかもしれなかった。
陽菜は自分の楽器を組み立てた。
「でも、無理してたら教えてください」
「本人に言った方が」
「私が言っても、やめません」
私は、二人の長い付き合いを思った。
誰に言われてもやめないことを、陽菜だけが知っているのかもしれない。
それでも、誰かが見ていた方がよかった。
その週末、茜は伴奏者の安田さんと初めて合わせた。
卒業生の紹介で来てくれた若いピアニストは、今日は迷子になる場所を見つけましょう、と笑った。
ピアノが加わると、茜の知っている曲が急に広くなる。自分の音を確かめるうちに入りを見失い、茜は楽器を下ろした。
「もう一度、お願いします」
「いいよ。その前に、私のどこを聴いてた?」
香帆と並んで聴いていた私は、身を乗り出しかけて待った。茜は二人の譜面を見比べ、一か所を指す。
「ここで、もう、自分の方へ戻ってました」
「じゃあ、この音まで一緒に聴いてみよう」
次の入りは合った。安田さんが弾きながら笑うと、茜の目元も緩む。
地区大会まで、もう三週間を切っている。その短さを思うと私まで落ち着かないのに、茜は鉛筆を取り、次に確かめたいところを探していた。
茜は夜も音楽棟に残った。
利用の最終時刻は九時。先生や当番の職員がいる時間に限られていて、授業も食事もあるから、十五時間ずっと吹いているわけではない。
それでも、私が帰るときにまだ譜面を開いている姿は、少しずつ気になるようになった。
ある夕方、出口まで来ても、茜の練習室の明かりが気にかかる。戻って窓から覗くと、いつもより肩が上がっている。今度の一回が終わるまで、とは待てずに扉を開ける。
「今日は、もう一回だけにしない?」
茜が顔を上げる。
「まだ時間、あります」
「口、疲れてると思う」
茜はリードを見た。
唇を軽く動かす。赤くなったところを指で押さえてから、またリードへ戻した。
「先輩、私、遅れてるので」
「何に?」
茜は答えなかった。
中学からファゴットを吹いている子たちに。
もう東海大会を経験している奏者たちに。
たぶん、それだけではないのだろうと思った。
机の譜面には、音の名前を消した跡がいくつもある。遅れていると言うばかりで、本人には増えた白い場所が見えていないのだろうか。
「読めるようになったところ、増えたね」
茜がそちらを見る。
「……はい」
「今日、全部追いつかなくても、明日もあるよ」
茜は私を見た。
少し困ったような、腹を立てたいような顔だった。
「先輩は、待ってくれるんですか」
私は意味を考えた。
何を、と尋ねようとしたとき、茜が目を逸らした。
「曲が、できるまで」
「待つよ」
私は答えた。
「できたところも、聴かせてほしいけど」
しばらく返事はない。それでも、リードから唇が離れ、茜の肩がようやく下がる。
「じゃあ、今日はここまでにします」
片づける茜の隣で椅子を戻しながら、まだ何か話せることを探してしまう。練習は終わりにしようと言ったのに、浮かぶのは楽器のことばかりだ。
音楽棟を出ると、風は涼しいのに、舗道にはまだ昼の熱が残っていた。茜は大きなケースを持って、私が鞄を肩へ掛けるのを待っている。
「藤沢先輩」
「うん?」
茜は駅の方を見たまま、ケースの持ち手を握り直した。
「私も、ひかり先輩って呼んでいいですか」
「もちろん」
返事をすると、茜はこちらを見た。何かを確かめるように、少しだけ。
「……ひかり先輩」
「はい」
私までかしこまった返事になって、二人で小さく笑った。
「明日の朝も、お願いします」
「うん。また明日」
まだ別れるところでもないのに、先に約束をした。
二人きりで帰るのは、初めてだった。




