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第二十章 出番

 九月の終わりの日曜日、私は駅前の時計を三度見上げた。

 まだ約束の時間まで七分ある。遅れている人は誰もいない。そもそも、私たちは演奏しない。

 そう言い聞かせても、時計の下でじっと立っていると、右足だけが勝手に動いた。

 「ひかり先輩、おはようございます」

 陽菜の声がして、私はほっと息を吐いた。

 白いブラウスに紺色のスカート。いつもより少し大人っぽい服なのに、駆け寄ってきた勢いで肩の鞄が腕の途中まで落ちた。慌てて掛け直す仕草を見たら、やっぱり陽菜だった。

 「おはよう。切符、買ってあるよ」

 「私のもですか」

 「うん。迷うといけないと思って」

 「先輩が?」

 「私も」

 陽菜は笑いかけて、すぐ真顔になった。

 「茜は、お母さんの車です。さっき連絡が来ました。会場にはもう着いてます」

 私が聞くより先に教えてくれる。

 鞄から切符を出しながら、ありがとう、と伝えると、陽菜は軽く頷いて手の中の携帯電話へ目を落とした。その画面はもう消えている。

 今日は、青葉管楽器ソロコンクールの地区大会だった。

 茜が、ファゴットで初めて一人きりの審査を受ける。

 ピアノを弾いてくれる安田さんはいる。それでも、合奏で隣から聞こえる同じ旋律も、何十人分もの息の気配も、今日はない。

 夏の大会のステージとは違う広さを、私は頭の中で何度も想像してしまっていた。

 「利香先輩は?」

 「午前中、模試。結果が出たら教えてって」

 「そうですか」

 陽菜はその返事のあと、切符を受け取った指で、私の指先にも触れた。

 「行きは私と二人ですね」

 その声だけ少し柔らかかった。

 香帆とは会場で待ち合わせている。昨夜、茜へ忘れ物の確認を送ったあと、私にも到着する時刻を知らせてくれた。

 「うん」

 「茜の大会ですけど」

 「うん」

 「先輩、すぐそっちの顔になりますね」

 「そっち?」

 「先生の話を聞くときみたいな顔」

 改札へ向かう途中、窓に映った自分を見た。思ったよりも眉間に力が入っていて、恥ずかしくなる。

 陽菜は私の手首を軽く引いた。

 「大丈夫です。いまさら私たちが緊張しても、代わって吹けませんから」

 確かにそうだ、と頷きかけて、私は陽菜のもう片方の手を見た。

 携帯電話の画面が、また光っていた。


 会場は、市の文化会館の小ホールだった。

 ロビーには楽器のケースがいくつも並び、学校名も学年も違う人たちが、少しずつ場所を譲り合って立っていた。金属の留め具を閉める音、受付で名前を確かめる声、遠くの扉の向こうから漏れるピアノ。大会の日にはいつも聞く音なのに、今日はその一つ一つが茜のところへ続いているように思えた。

 窓際の椅子で茜が見つめているのは、膝の楽譜ではなく右手の指。その手を膝の下へ隠すのが早すぎて、声を掛ける前から、見てはいけないところを見た気になる。

 「来るの早くないですか」

 「そっちが早いんでしょ」

 陽菜が隣の空いた椅子に鞄を置く。

 「先輩まで急がせないでよ」

 「私、急がせてない」

 「顔が急がせてる」

 「どんな顔」

 陽菜への言い返し方はいつもどおりなのに、私と目が合うと茜はすぐ逸らす。陽菜に返した声のまま挨拶してくれればいいのに、と思いながら近づく。

 「おはよう、茜」

 「……おはようございます」

 膝の下から出てきた手の指先が、少し白くなっていた。

 私は、空いた椅子を指した。

 「ここ、座ってもいい?」

 「はい」

 座ってから、今日の順番のことも、練習のことも、すぐには聞かなかった。茜の持っているプログラムの端が折れていたので、その隣に自分の鞄を置いた。

 窓の外では、噴水が決まった間隔で高くなっていた。

 「これ、何分おきなんだろうね」

 私が言うと、茜が顔を上げた。

 「噴水ですか」

 「うん。今、真ん中だけ高くなった」

 「さっきは全部でした」

 「見てたんだ」

 「……ちょっと」

 茜の肩がほんの少し下がる。

 陽菜は立ったまま噴水を見て、腕時計を確かめた。

 「測ります?」

 「いいよ。大会の前に何を競うの」

 「あっちが勝手に始めてるんです」

 「あっちって、噴水?」

 小さく吹き出した茜が、自分でも驚いたように口元を押さえる。その手には、ようやく色が戻っている。

 「何分だった?」

 聞き覚えのある声に振り向くと、香帆がプログラムを持って立っていた。挨拶をしながら茜の隣へ腰を下ろし、噴水を見る。

 「まだ測ってません」

 陽菜が答えると、じゃあ帰る前までに、と真面目な顔で返すので、茜まで笑った。

 香帆は、その笑いが収まってから、楽器の具合を尋ねた。

 「学校で決めた方のリード?」

 「はい。さっき確かめました」

 「なら、そのままいこう。今からあちこち触らなくていいよ」

 茜が頷き、ケースの留め具に掛けていた指を離す。もう一度開けるつもりだったらしい。

 ほどなく現れた安田さんは、学校で会うときとは違う、落ち着いた灰色の服姿だ。大きく手を振らず、茜と目を合わせて少し頷く。その挨拶の小ささも、今はありがたい。

 「おはようございます。よく眠れた?」

 茜は一瞬だけ迷い、頷いた。

 「途中で一回、目が覚めました」

 「一回なら、私と同じね」

 安田さんはそう言って、譜面の入った手提げを椅子に置いた。

 「最後の合わせから、変えたいところはある?」

 「ありません」

 「分かった。途中で少し違うことをしたくなったら、顔を上げて。見えるから」

 茜は今度は、はっきり頷いた。

 その返事を聞いてから、安田さんが私たちにも挨拶してくれた。

 挨拶を交わす隣で、茜の息がさっきより深くなる。私には何を聞けばいいか迷うことも、安田さんには分かるのだろう。


 出番の一つ前の組が始まるころ、茜は準備のために呼ばれた。

 組み上げられたファゴットを持つ姿は、四月よりもずっと自然だった。

 初めは、どこに手を置けば安定するのかも分からなくて、楽器を守ろうとするほど自分の腕が邪魔になっていた。今は、立ち上がる前に鞄の持ち手を避け、椅子の脚から十分に距離を取り、何もぶつけずに向きを変えられる。

 そんなことを褒めるのは、今では失礼かもしれない。

 でも私は、その変化だけで少し泣きそうだった。

 「じゃあ、行ってきます」

 茜が言った。

 「うん。聴いてるね」

 「全部、聴かなくていいですよ」

 「どういうこと?」

 「変なところとか」

 「変なところがあっても、その先を聴きたいから」

 そう答えると、茜は視線を下げた。

 何か言いかけて、やめる。

 代わりに陽菜の方を見た。

 「笑わないでよ」

 「笑うかどうかは、吹いてみないと分からない」

 「性格悪い」

 「知ってるでしょ」

 茜は、ほんの少し笑った。

 その笑顔を持って、舞台へ続く廊下に入っていった。

 客席に戻る途中、陽菜が突然、歩く速度を落とした。

 「先輩」

 「うん?」

 「いまの、きつかったですかね」

 私はさっきの茜の顔を思い出した。

 「いつもの陽菜で、安心したと思う」

 「いつもきついってことですか」

 「そこまでは言ってないよ」

 私たちは小声で笑ってから、扉を開けた。

 客席は半分ほど埋まっていた。審査員席の少し後ろで手を上げる香帆のところへ行き、隣に並んで座る。

 プログラムの茜の名前を指でたどる。その隣に印刷されたモーツァルトのファゴット協奏曲は、こんなに短い一行なのに、九月に入ってから練習室で聴いた時間が詰まっている。音符の下の文字を、少しずつ消していった茜の譜面が浮かぶ。

 前の演奏者が下がり、譜面台の高さが直される。客席で誰かが咳払いをしたあと、舞台袖から茜が現れた。

 陽菜の膝の上で、プログラムがくしゃりと鳴る。

 茜が、少し急いだようにお辞儀をした。

 顔を上げたとき、客席を探すかと思ったけれど、私たちの方は見なかった。安田さんの方を向き、静かに息を吐く。

 ピアノの最初の和音がホールを満たし、私まで背筋が伸びる。

 練習室ならすぐ壁にぶつかる音が、ここでは遠くまで進んで、少し遅れて戻ってきた。茜はその響きを聴きながら、自分の入りを待つ。

 一音目。

 低いところから、よく伸びる音が出た。

 息を押し込みすぎて輪郭が潰れることも、慎重になるあまり音の真ん中が抜けることもなかった。

 よかった、と膝の手を開くころには、旋律はもう次の場所へ向かっている。一音ずつ安心していては追いつけない。茜はもう、曲を吹いているのだ。

 明るい旋律の先で、指の動きが細かくなる。

 このひと月、茜が何度も止まったところだった。ゆっくりならできるのに、前から続けると一つの音に指が引っかかる。引っかかるのを怖がると、それより前の音まで短くなる。

 今日は、その手前で息が途切れなかった。

 少し硬い音や、もう少し伸ばして聴きたい音も混じる。けれど茜はそこへ戻ろうとせず、安田さんの左手が支える響きに、次の音を渡していく。

 陽菜が隣で、とても小さく息を吐く。

 練習を始めたころには、二人とも、茜が譜面の最後まで進めるかどうかを心配していた。

 今は、どこへ向かっているのかを聴いていた。

 茜の身体が、旋律と一緒にほんの少し揺れる。

 大きな動きではなかった。リズムを数えるための動きとも違っていた。

 伸ばした音を、次の音へ手渡す。そのたびに、肩の力が少し抜ける。

 終わりに近づいたところで、ひとつ、短い音が揃わなかった。

 思わず息を止めた私とは違い、茜は眉を寄せても安田さんから目を離さない。いつもと同じ場所へ置かれたピアノの音を頼りに、旋律の中へ戻ってくる。

 最後の音が終わる。

 茜が楽器を少し下げるまで、私は自分が笑っていることに気づかなかった。

 拍手をすると、手のひらが熱かった。

 隣で陽菜も拍手していた。

 口を結んだまま、誰よりも真剣な顔で。


 舞台から戻った茜は、最初に「やっちゃった」と言った。

 私は、お疲れさま、と言う準備をしていたので、そのまま口を開けた姿勢で止まった。

 「最後の方。指、引っかかりました」

 「でも戻れたよ」

 「聞こえましたよね」

 「うん」

 嘘をついたら、その先の言葉まで信じてもらえなくなる気がした。

 茜の視線が落ちる。

 私は慌てずに、その続きを言った。

 「聞こえたけど、そのあと、安田さんを見たでしょう。そこから最後まで、すごくよかった。間違えたところより、そのあとの方を覚えてる」

 茜は顔を上げた。

 「あそこから?」

 「うん。それから最初。前よりずっと、遠くまで音が届いてた」

 「……そうですか」

 茜の返事は短かった。

 でも、楽器を持っていない方の手が、制服の裾から離れた。

 陽菜は横から、茜の譜面を覗き込んだ。

 「ここ、前より遅くした?」

 指したのは、ゆっくり歌う旋律の最後だった。

 「した。安田さんと決めた」

 「そっちの方がいい」

 茜が陽菜を見た。

 陽菜は楽譜から目を上げない。

 「前は、次に間に合うかばっかり考えてる感じだったから」

 「……分かってる」

 「ならいいけど」

 会話はそこで終わった。

 横で聴いていた香帆が、茜の指したところより少し前へ目を落とす。

 「私、ここの低い音が好きだった。前は次の指を気にして、短くなってたところ」

 茜が譜面を持ち上げた。

 「あそこ、先生にも言われて」

 「知ってる。一緒に言われたから」

 香帆が笑うと、茜の口元も緩む。

 「今日は最後まで聞こえたよ。次の音も、ちゃんと間に合ってた」

 茜は、ありがとうございます、と言ってから、もう一度その音符を見た。失敗したところを探すときとは違う速さで、指が譜面をたどっていく。

 安田さんが向こうから戻ってきて、茜のお母さんが飲み物を渡してくれた。母親に見られていると、茜の返事がいつもより少しだけそっけなくなる。そのことが、私は何だか嬉しかった。

 音楽室にいる茜だけを知っていた。

 今、その外の茜が、少しずつ増えている。

 結果が出るまで、まだ時間があった。

 茜は、ほかの人の演奏を聴きたいと言った。

 「休まなくていいの?」

 陽菜が聞く。

 「座って聴くだけ」

 「落ち込んだりしない?」

 「誰のせいで落ち込む予定なの」

 「別に」

 二人に挟まれて客席へ戻りながら、私は少しだけ肩の力を抜いた。

 茜はもう、自分の出番が終わったあとの音楽も聴こうとしていた。


 発表はロビーの掲示とホールでの読み上げ。出場者が集まると、茜との距離が、一席分以上に遠く感じられた。

 私は少し離れた席で両手を膝へ置く。陽菜もプログラムを開いているけれど、見ているのは曲目ではない。香帆は反対側の隣で、茜の座る列を見つめていた。

 金賞。

 その言葉が、いくつかの名前とともに読み上げられた。

 茜の名前が呼ばれたとき、私は思わず腰を浮かせた。

 陽菜の手が、私の袖をつかむ。

 「先輩」

 「あ、ごめん」

 前の列の茜は、聞き逃したのかと思うほど背中をまっすぐにしている。隣の子に何か言われ、小さく会釈してから、ようやく肩が一度上がる。今、金賞が届いたのかもしれない。

 けれど発表は終わっていない。

 県大会へ推薦される人の名前は、そのあとで別に読まれた。

 私はさっきよりも強く、膝の上の手を握った。

 金賞をもらえてよかった。

 それでも、次で聴きたい。

 私がそう思っていることが、こんなにもはっきり分かったのは初めてだった。

 茜の名前が、もう一度呼ばれた。

 今度は陽菜が先に椅子の背から離れる。開いた口から声は出ないまま、前の列で茜が振り向く。目が合い、私は何度も頷く。

 香帆も前へ身を乗り出し、茜へ笑いかけている。膝の上で強く握られていた手が、ようやくほどけた。

 ちゃんと聞こえたよ。

 二回とも、あなたの名前だったよ。

 言葉を使わなくても、そう伝わるように。


 ロビーへ出てきた茜は、賞状を筒に入れずに持っていた。

 渡されたばかりの紙が、手の中で緩く曲がっている。

 「おめでとう」

 私が言うと、茜は賞状を見た。

 「……金でした」

 「うん」

 「県、行けます」

 「うん。聞いてたよ」

 茜は、それ以上、何を言えばいいか分からない顔をした。

 こんな顔もするんだ、と私は思った。

 練習でできなかったところを説明するときは、いつも言葉が足りないくらいだった。悔しい気持ちはすぐ口にできるのに、嬉しい気持ちの方は、うまく扱えないらしい。

 私は、賞状の端を指先で軽く支えた。

 「次も聴きに行っていい?」

 「……来るんですか」

 「行きたい」

 茜の頬に、少しずつ赤みが差した。

 そこへ陽菜が、口を挟んだ。

 「まだ県があるからね」

 言った瞬間、陽菜自身の顔が変わった。

 私も、茜も、陽菜を見た。

 「分かってる」

 茜が答えた。

 いつもより、ほんの少し早かった。

 「今日は、地区だから」

 陽菜は口を開きかけ、閉じた。

 私は、おめでとう、ともう一度言おうとしてやめた。それでは陽菜の言葉を打ち消すみたいになる。

 茜は賞状を自分で持ち直し、安田さんに見せてきます、と向こうへ歩いた。香帆は茜のお母さんの隣にいて、こちらへ近づく賞状を見つけると、自分がもらったように顔を明るくした。

 陽菜が、私の隣でうつむいた。

 「……違うんです」

 「うん」

 「本当に、すごいと思ったんです」

 「そう言えば、伝わると思う」

 「今さら言ったら、取ってつけたみたいじゃないですか」

 私は少し考えた。

 「言わないと、最初に言ったことだけになるよ」

 陽菜は私を見て、それから、茜の背中を見た。

 唇を軽く噛んだ。

 「先輩、こういうときだけ、ちゃんと先輩ですよね」

 「こういうときだけ?」

 「褒めてます」

 あまり褒められた気はしなかった。

 けれど陽菜が一歩踏み出したので、私は追わずに、鞄から携帯電話を出した。

 利香先輩に結果を送る。

 『茜、金賞で、県大会に進めます』

 すぐに既読がついた。

 『よかった。ひかりも、お疲れさま』

 『私は何もしてません』

 『聴いてたでしょう』

 その返事を見て、私はしばらく画面から顔を上げられなかった。


 「茜」

 飲み物の自動販売機の前で、私が呼び止めた。

 茜は小銭を持ったまま振り向く。

 「何」

 「さっきの、別に、喜ぶなって意味じゃないから」

 「分かってる」

 「分かってない顔だった」

 「顔まで責任持てない」

 私は一度、鼻から息を吐いた。

 茜の隣に並び、同じ自動販売機の列を見た。

 「音、よかった」

 茜の指から落ちた硬貨を先に拾う。同時に屈みかけたせいで肩がぶつかりそうになるし、こんなところでも意地を張っているみたいで、ますます素直に言いにくい。

 「何やってるの」

 「そっちが、急に変なこと言うから」

 「変じゃないでしょ。よかったから、よかったって言っただけ」

 硬貨を差し出す。

 茜は受け取り、掌の中で一度握った。

 「……ありがと」

 その返事に、私は自動販売機へ視線を戻す。

 中学のころも、賞状をもらった茜はすぐにはしまわなかった。私が先にコンクールのメンバーに選ばれた日には、帰り道でたいしたことのない話を次々見つけ、私よりよく喋ってくれた。

 当時の私はその優しさにも気づかず、自分の嬉しい話ばかりしていた。

 今日は茜の番で、あの名前を聞いたら私まで嬉しくなった。それだけ伝えればいいのに、次の大会だの約束だのを、自分から持ち出してしまう。

 「県の前、また聴かせて」

 私が言う。

 「何で」

 「敵情視察」

 「先輩と同じこと言えないわけ」

 「言ったら、あんた、絶対からかうじゃん」

 茜は少し考えて、否定しなかった。

 飲み物のボタンを押す。

 落ちてきたペットボトルを取り、私の手に押しつけた。

 「お礼」

 「何の」

 「拾ってくれた分」

 硬貨一枚にしては高すぎる。

 私はそのことを指摘しないで、ボトルを受け取った。


 その夜、机に置いた賞状の写真が茜から届いた。

 『おめでとう』と打ちかけて、昼間も何度となく伝えたことを思い出す。代わりに『今日の最初の音、まだ覚えてる』と送ると、少し間を置いて返事が来た。

 『次は、最後までちゃんと吹きます』

 ちゃんと吹けていたよ、と打ちかけて、指が止まる。

 茜の悔しさまで、私がなくしてしまうことはできない。

 『楽しみにしてる。今日はゆっくり休んでね』

 そう送ると、今度はすぐに、小さな動物がお辞儀をするスタンプが返ってきた。

 私は安心して携帯電話を伏せた。

 写真の端に、鉛筆と消しゴムが写っていたことを、あとになって思い出す。

 賞状の下から、少しだけ楽譜が覗いていたことも。


 机に置いた賞状を、ひかり先輩へ送るために三回も撮り直す。講評を外し、楽譜も片づけ、最後に賞状だけ残したつもりで、鉛筆をどかし忘れている。送ってから気づくと、もっと練習しなきゃ、と思うところまで写ったようで恥ずかしい。

 今日の最初の音を覚えているという先輩の返事に、画面へ親指を置く。

 陽菜も、よかったと言ってくれた。私が勝てば自分の恋人との関係を変えられるかもしれないのに、聞こえなかったふりなんかしない。ペットボトルを渡したときの、少し困ったような笑顔が浮かんだ。

 陽菜だけと付き合ってください。

 そのお願いをしたあとにも、先輩が会いに来てくれるところを想像する。楽器の相談をして、駅まで一緒に歩いて、改札で先輩を陽菜へ返す。

 私には、できそうにない。

 二人を別れさせたところで、自分の番が来るわけではないのだ。それを承知で、二股はいけないという話ばかりしていた。

 今日はゆっくり休んでね、と先輩から届く。私は返事の欄へ、『今度、二人で』と打った。

 何をするのかが、そのあとに続かない。

 練習なら、いつも聴いてもらっている。そうではない日に会いたいと、今言ってもいいのだろうか。

 消して、スタンプを送った。

 県大会で選ばれれば、そのときは、言う。

 期限を作ると、今日言わずに済む。机の上の賞状が、その言い訳まで認めてくれたように見えた。

 講評を開くと、最初の一音を褒めた短い言葉が目に入る。指で押さえているあいだだけは、先輩に送れなかった誘いのことを忘れられる。

 今日、舞台の上では、客席のどこに先輩がいるか、途中から考えなくなっていた。安田さんの音が返ってきて、次を吹くのが楽しかった。

 あの続きを吹きたい。

 先輩にも、もう一度、よかったと言ってほしい。

 二つを分けることはできないまま、私は鉛筆を持った。

 譜面の端へ、明日の練習を書き足す。一行では足りず、二行になった。

 『今日はゆっくり休んでね』

 伏せる直前の画面で、その言葉だけが、少し見えにくくなっていた。


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