第二十一章 願いはまだ言わない
十月に入ると、茜と話していて、まだ返事の先があるような気がすることが増えた。挨拶は返ってくるし、聞けば楽譜も見せてくれる。ただ、できたところを褒めたときの笑顔さえ長く続かず、もう次の小節を気にしている。集中しているだけだと、初めは思っていた。
「ここ、昨日はできたんです」
そう言って、すぐに次の小節を指す。
昨日できたことが今日できないと、昨日より悪くなったように思う。その気持ちは、私にも分かった。
けれど、できたところまで一緒になくなってしまうわけではない。
「今の、最初から全部やり直さなくてもいいよ」
私はある朝、そう言った。
「つながるところだけ、二つ前の音からやってみたら?」
茜は頷いて、短い部分を吹いた。
二回目には、綺麗につながった。
「うん。今の感じ」
「もう一回やります」
「じゃあ、もう一回」
三回目もできた。
茜は譜面から顔を上げず、また息を吸おうとした。
「あ、今は一回休んで」
私の声に、口元が止まる。
「……今の感じ、忘れそうで」
「忘れたら、また探せばいいと思う」
「先輩は、すぐ見つけられるから」
言ってから、茜はリードを口から離した。
私を見た目が、何かをしまい損ねたみたいに揺れる。
「すみません」
「謝ることじゃないよ」
「そういう意味じゃなくて」
私は茜の隣の椅子を引いた。
その日、自分の練習に使おうと思っていた十五分を、どう使うか、少し迷った。
「私も、見つからない日、あるよ」
そう言うと、茜は黙って楽器を膝から下ろした。
私は、それ以上、経験を並べなかった。
自分の失敗談をたくさん話せば、今の茜が安心するとは限らない。私が昔からできなかったことと、茜が今日できなくて困っていることは、似ていても、同じではなかった。
「だから、見つけたところ、書いておかない?」
私は譜面を指した。
「どの指が遅れたかだけじゃなくて、どうしたらできたかも」
茜の鉛筆は、紙に触れる前に少し迷う。いつもより小さな字で書き始めるのを見守りながら、今はこれでいい、と自分に言い聞かせる。
学校の昼休みが、茜に会いに行ける時間になったのは、たぶん、そのころからだった。
毎日ではない。
私は二年生で、茜は一年生だ。委員会もあれば、小テストの直しをする日もある。陽菜と中庭で食べる約束をした日も、利香先輩に進路の資料を運ぶのを手伝ってほしいと頼まれる日もあった。
どこにいても、時計を見る回数が増えた。
「ひかり」
ある日、利香先輩に名前を呼ばれて、私は慌てて腕を下ろした。
先輩は、資料室の机に積んであった紙を数えていた。
「次、何時?」
「え?」
「用事、あるんでしょう」
「いえ。決まった用事じゃ」
先輩が紙を揃える。机の天板に端を当てる音が、二回した。
「茜ちゃん?」
どうして分かるのだろう、と顔に出たらしかった。
先輩は笑った。
「音楽室の方、見てたから」
窓から見えるのは、中庭と、その向こうの校舎だった。
私は何も言えずに、資料の束を抱え直した。
「大会が近いので。最近、ちょっと、無理してる気がして」
「心配なのは分かるけど」
先輩は私の持っている束の上から、半分を取った。
「ひかりまで、全部を見なくていいと思うよ」
言い方が優しかったので、私はすぐに頷けなかった。
利香先輩には、まだ、陽菜と茜の約束の細かい話をしていない。
話したら、二人と付き合うことになった経緯まで、もう一度ひっくり返る気がしていた。
誰にも言わずに済ませようとしたことが、結局、私の中だけで大きくなっている。
先輩は、黙っている私をしばらく見た。
「今日は、一緒にお昼食べたかった」
その一言に、私は顔を上げた。
「……すみません」
「謝ってほしいんじゃないの」
先輩の声が、少しだけ困ったものになる。
「時間がないなら、ないって言って。あるなら、その間は私のことも見て」
紙の端が、指に食い込んだ。
私は持ち方を直して、頷いた。
「あります。あと、二十分」
「じゃあ、二十分」
先輩が残りの資料を棚へ置いてくれると、机には二人のお弁当を広げる場所ができる。拭いたばかりの天板に並べてみて、先輩の卵焼きが少し焦げているのに気づく。
「作ったんですか」
「今日はね」
「おいしそうです」
「ひかりに一個あげるつもりで、張り切ったらこうなった」
思わず笑うと、先輩の顔までほっと緩む。この二十分を楽しみにしてくれていた人を、私は茜のことばかり考えながら待たせていた。
もらう卵焼きを選ぶ。焦げたところも、そのままでいい。
卵焼きは、見た目よりずっと甘かった。
「おいしいです」
今度は、時計を見ずに言った。
県大会の三日前、朝の空気が急に冷たくなった。
昇降口で上履きに履き替えると、足首のあたりに風が入ってきた。
音楽室の前にはもう茜の靴があるのに、大きく開いた扉から聞こえるのは紙をめくる音だけ。楽器の音を待ってから入る必要もなく、そっと中を覗く。
「おはよう」
茜がびくりと肩を動かした。
「おはようございます」
譜面を持ち上げた拍子に、机の端にあった小さなパンの袋が床へ落ちた。
私が拾う。
袋は開いていなかった。
「朝ごはん?」
「あとで食べます」
「始まるまで、あと少しだよ」
「はい」
返事だけが戻ってきて、パンはまた机の上だ。その横に鞄を置き、水筒の蓋を開ける。もう一度食べてと言うより、一緒に口を動かした方がいいかもしれない。
「私も、お茶飲もうかな」
茜が私を見た。
「見張ってます?」
「少し」
正直に答えると、茜は弱く笑った。
パンの袋を開けたので、私はようやく椅子に座った。
一口が、小さかった。
食べている間も、目は譜面に向いている。
「今日は、放課後に安田さんと合わせる日?」
「明日です。今日は、自分で直しておくところを」
「そっか」
「先輩は、三重奏ですか」
「うん。利香先輩と陽菜と」
茜の手が、一瞬だけ止まった。
すぐに口元へ運ばれたので、私は見間違いかと思った。
「聴きたいです」
「三重奏?」
「はい」
「いつでも来ていいよ」
そう言うと、茜は笑った。
笑ったのに、私には、それが嬉しい顔に見えなかった。
「県が終わったら」
袋の中には、まだ半分以上残っていた。
予鈴が鳴ってしまい、私たちは鞄を持って立ち上がった。
階段へ向かう別れ際、私は言った。
「無理しないでね」
茜が頷く。何度も伝え、そのたび同じように返ってきた返事だった。
そのたびに、伝えたことだけで安心しようとしていたのかもしれない。
放課後の三重奏は、珍しく、喧嘩から始まらなかった。
陽菜が譜面台のねじを締め、利香先輩が録音の準備をした。
二人とも私を見てから、互いに目を合わせた。
「何かあった?」
私が聞くと、陽菜は楽器を持ち直した。
「先輩こそ、眠いんですか」
「眠くはないけど」
「ずっと、変な顔してます」
変な顔。
噴水の前でも、陽菜は茜にそんなことを言っていた。
私は自分の頬に触れ、すぐに手を下ろした。
「ごめん。吹こう」
吹き始めると、自分の音が、思っていたより浅かった。
イングリッシュホルンの響きが、二人の間へ入っていかない。
私は息を入れ直し、次のところで合わせようとした。
陽菜の入りが、その少し先へ行く。
追いかけてから、違う、と分かった。
私が先に道を作るところなのに、相手が来てから動いている。
三枝先生は、すぐには止めなかった。
最後まで聴いて、鉛筆を譜面の上に置いた。
「ひかり。今、何を聴いていた?」
答えられない。陽菜でも利香先輩でもなく、壁の向こうの、聞こえない音を聴こうとしていた。
先生は私の視線を追い、少し間を置いた。
「今日は、ここまでにしましょう。次の時間は、最初の一音から三人で始めて」
怒鳴られるよりも、ずっと恥ずかしかった。
二人に謝ると、陽菜はむっとした顔のまま、リードの水気を拭いた。
「謝るより、何か言ってください」
「何かって」
「困ってるとか、気になるとか。何にも言わないで上の空だと、こっちも何をしたらいいか分からないです」
利香先輩が、録音を止めた携帯電話を伏せた。
二人とも、待っていた。
私は楽器をスタンドに置いた。
「茜が、朝、あまり食べてなくて」
陽菜の目つきが変わった。
「今日もですか」
その、今日も、で、胸の奥が冷えた。
「陽菜も知ってた?」
「昨日、昼も。本人は、おなか空いてないって」
利香先輩が立ち上がった。
「様子、見てきたら。先生にも話して」
頷いて出口へ向かうと、陽菜も腰を上げかける。ただ、その手にはまだ楽器がある。二人に何も言わずに抜け出すときとは違って、今は先に行くことを伝えられる。
「先に行くね」
私はそう言って、廊下へ出た。
茜が使っていたのは、音楽室から二つ離れた小さな練習室だった。
扉の窓から見える茜は、楽器をスタンドへ預け、膝に両手を置いている。居眠りなら起こさない方がいい。そう思って近づくと、開いた目がどこにも向いていない。
「茜」
呼ぶと、顔が上がった。
唇に、いつもの色がなかった。
「先輩。もう終わったんですか」
「うん。少し、いい?」
「はい。今、休んでたところで」
座っていて、と言い終える前に、立ちかけた茜の手が椅子の背を滑る。楽器の方へ傾く身体を抱き留めても、肩の重さが減らない。足に力を入れてくれない。
「茜?」
小さな「はい」に安心しかけるけれど、この重さを私だけで支えていてはいけない。ゆっくり床へ座らせ、廊下に声が届くよう扉を大きく開く。
こちらへ来かけていた香帆に声を掛ける。手には茜の水筒があった。
「先生、呼んで。保健室に連れていく」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
香帆は一瞬だけ茜を見て、すぐに走った。
茜は、私の袖を弱くつかんだ。
「楽器」
「大丈夫。倒れてないよ」
「譜面も」
「全部、大丈夫」
私はそう言ってから、もう一度、名前を呼んだ。
茜は目を閉じかけ、私の顔を見るように目を開けた。
「歩けます」
「今は、頑張らなくていい」
片方の腕を私の肩に回してもらい、腰を支える。
支えた腰からも、肩に回された腕からも熱が伝わってくる。重さなら抱え直せるのに、この熱さをどうしたらいいのか分からない。
廊下へ出るところで三枝先生が来て、反対側から支えてくれた。
いつもなら何も考えずに歩く保健室までの距離が、今日は遠い。なかなか近づかない角を見つめ、一歩進むたび、茜の名前を呼びたくなる。
何度も呼ばれたら、返事をするのも疲れる。
そう思って、二回に一回は飲み込んだ。
保健室のベッドには、薄い水色のカーテンがついていた。
茜を横にすると、養護の先生が様子を確かめ、三枝先生に保護者への連絡を頼んだ。
私は鞄を持ったまま、足元に立っていた。
茜の靴を脱がせるのを手伝ったことまでは覚えている。
香帆が水筒と上着を届けに来て、養護の先生へ、休憩のあともあまり飲んでいなかったと伝える。その声も、途中で少し詰まった。
「楽器は、私が片づけておくから」
ベッドへ声を掛けると、茜の目がそちらへ動く。
「すみません」
「いい。今日はもう、私に任せて」
香帆はそれ以上言わず、先生に頭を下げて廊下へ出た。
何をすればいいか分からず、あなたも座って、と言われて初めて椅子に気づく。布団から出た手には鉛筆の跡が残り、そこから目を離せないまま、食べ残したパンや早朝から最終下校までの練習を先生に話す。どれも私が見ていたことだ。
知っていた、と一つ伝えるたび、そのとき何も変えられなかった自分まで伝わってしまう気がする。先生は責めずに聞いてくれるのに、その顔をまっすぐ見られない。
廊下から陽菜と利香先輩の声が聞こえた。
先生が、今は静かに休ませるから、と説明している。
陽菜の返事だけ、いつもより高く聞こえた。
茜が目を開けた。
「陽菜?」
「来てるよ」
「……怒ってます?」
私は首を振った。
「心配してる」
茜は、そっか、と言って天井を見た。
少しして、養護の先生がカーテンの外へ出た。
お母さんが迎えに来るまで休むことになり、私は鞄と上着を取りに行こうと立ち上がった。
「ひかり先輩」
茜が呼んだ。
私は椅子へ戻った。
「何?」
「ちょっとだけ、いてください」
私は頷いた。
茜は私の手ではなく、椅子の端に掛かったカーディガンを見ていた。
練習室ではほとんど見なかった、何も持っていない茜の指。
その指が、布団の縫い目をなぞった。
「陽菜には、内緒にしてほしいんですけど」
私は身体を少し近づけた。
「うん」
「二股、やめさせる気、ないです」
廊下で誰かが歩く音がした。
その音が通り過ぎるまで、私は言葉の意味をつかめなかった。
「……大会の、お願い?」
茜は頷いた。
「私、そう言ったら、先輩、嫌な顔すると思ってました」
「二股をやめてって言ったら?」
「はい」
私は膝の上の手を見た。
二人と付き合うことになったとき、私は、困る、とばかり言っていた。
秘密にしたいとも言った。
誰かが終わらせてくれるなら、それで助かるのだと、思っていた日もあったのかもしれない。
でも今、胸の中で最初に動いたのは、安心だった。
自分勝手な安心だった。
「ごめん」
私が言うと、茜は目を細めた。
「何で先輩が謝るんですか」
「私、いま、ほっとしちゃったから」
茜は、少しだけ笑った。
その笑い方が寂しくて、私はすぐに続けた。
「でも、それなら、何をお願いするつもりだったの?」
布団をなぞる指が止まり、茜の目がまっすぐこちらへ向く。開いた唇から出たのは息だけで、待っているうちに、その目まで逸れてしまう。
「どうせ、東海なんて行けませんから」
「まだ、県も終わってないよ」
「こんなんで、行けるわけないです」
「地区で、ちゃんと選ばれたでしょう」
「地区と、県は違うし」
声がかすれた。
私は、それ以上励まそうとするのをやめた。
茜は、楽譜の難しいところが吹けないと言っているのではなかった。
できるかどうかを、私に判定してほしいわけでもない。
布団の上で握られた手を、私はそっと包んだ。
熱かった。
茜の目が、もう一度こちらを向く。
「言いたくなったら、聞くね」
それしか言えなかった。
「東海へ行けても、行けなくても」
茜は口元を歪めた。
泣くのかと思って、私は手に力を入れかけた。
でも茜は、ゆっくり息を吐いただけだった。
「……今は、言わないです」
「うん」
「先輩、変なところで、ずるい」
私はどう返していいか分からず、手を包んだまま黙っていた。
その沈黙を、茜は追い出さなかった。
帰る前、楽器の棚の前で香帆に会った。
茜のケースの留め具を確かめた手が、まだ離れていない。
「休憩しようって言うと、ちゃんと置くんだよね」
香帆は私を見ずに言う。
「それで安心して、自分の練習へ戻ってた」
私も、頷いてもらっただけで何度も扉を閉めた。そう答えると、香帆はようやく手を下ろし、次に同じことがあったら先生にも早く話そう、と言った。
責められなかったことに、ほっとするだけではいけない。私は頷いて、今日見たことをもう一度、二人で確かめた。
翌朝、茜の椅子は空いていた。
教室を覗く必要はなかった。
陽菜が、音楽室へ入ってくるなり教えてくれたからだ。
「熱、出たそうです。今日は休みます」
私は楽器ケースの留め具から手を離した。
「病院は?」
「昨日、帰ってから行ったって。今朝は、まだ熱が下がりきらないから、寝てるって」
陽菜は鞄を置いた。
声は落ち着いていたけれど、いつも朝に結び直している髪が、今日は少し乱れたままだった。
「放課後、行ってきます」
私は、一緒に、と言いかけた。
陽菜はそれを見越したように、首を振った。
「今日は、私だけで。大勢だと休めないし、家、知ってるので」
頷くよりほかにない。陽菜には茜の家までの道が分かり、私が迷わず行けるのは練習室まで。その違いを今、羨ましがっている場合ではないはずだ。
「何か、持っていってほしいものある?」
そう聞くと、陽菜は少し考えた。
「先輩から連絡してあげてください。返事はいらないってつけて」
私は携帯電話を取り出した。
何度も書き直して、短い文を送った。
『今日はゆっくり休んでね。返事はいらないよ。元気になったら、また話そう』
送ったあとで、元気になったら、という言葉が、大会が終わってからでも同じ意味になることに気づいた。
それでいいのだと思った。
そう思っていたかった。
私は、茜の家の門の前で一度立ち止まった。
子どものころから何度も押した呼び鈴なのに、今日は、指がすぐに伸びなかった。
玄関の隣の鉢植えが、一つ増えている。
前に来たのは夏休みの前だった。
茜にファゴットの譜面を見せられて、ヘ音記号くらい早く慣れなよ、と笑った。
あのときの自分の声が、妙にはっきり思い出せた。
手提げの持ち手を直し、呼び鈴を押す。
出てきた茜のお母さんは、いつものように、陽菜ちゃん、と呼んだ。
「悪いわね。わざわざ」
「いえ。近いので」
近いのは事実だった。
でも、近いだけでは、門の前であんなに時間はかからない。
「起きてるけど、長くは話さないでね。まだ、少しだるいみたいだから」
「はい」
階段を上がる。
茜の部屋の扉には、中学生のころに私が貼った小さなシールが、そのまま残っていた。
茜が大事にしているからではない。
剥がそうとすると壁紙まで傷みそうで、二人とも途中で諦めたのだ。
そんなものが、ちゃんと残っている。
私は扉を二度叩いた。
「入るよ」
「うん」
ベッドの上で、茜が枕を背に座っていた。
制服ではない茜は、学校で見るより幼く見えた。額に冷却シートを貼り、膝には閉じた楽譜が乗っている。
閉じてあるから練習ではない、とでも言うつもりだろうか。
「寝てるんじゃなかったの」
「寝てた」
「それ、何」
「楽譜」
「知ってる」
手提げを机へ置き、私は楽譜の端をつまんだ。
茜の手が一瞬だけ追いかけたけれど、すぐに止まった。
私は何も言わず、楽譜を机の、茜がすぐには手を伸ばせないところに置いた。
「練習しすぎ。ばか」
笑って済ませるつもりが、最後の息が引っかかる。茜に顔を見られたくなくて、手提げからゼリーや飲み物を出す方へ忙しくなる。
「同じ味、三つ買いそうになった。あんた、前にあの味ばっかり選んでたから」
「まだ好きだけど」
「飽きるかもしれないじゃん」
「熱出しただけで、好みまで変わらない」
いつもの返事だった。
私は、ようやく少し笑えた。
机の椅子をベッドの横へ引く。
茜の部屋は、勉強机の上だけが散らかっていた。
楽譜、筆箱、学校のプリント、地区大会の講評。時間ごとに色を変えて書かれた練習のメモが、一番手前にあった。
私はそれを裏返した。
「見ないでよ」
「見てない」
「いま見た」
「だから、これ以上見ないようにしたの」
茜が黙る。
窓の外から、自転車のブレーキの音が聞こえた。
私は持ってきたプリントをまとめ、机の端へ置いた。
「明日の小テスト、受けなくていいって。あとで先生と決めて」
「うん」
「委員会の仕事は、代わってもらった」
「誰に?」
「隣の席の子。お礼は自分で言って」
「分かった」
伝言はもうない。鞄の中を確かめるふりもできず、膝の上で手を重ねる。この部屋へ来るまで何度も考えた言葉だけが、まだ出てこない。
「あんな約束」
言いかけると、茜の目が動いた。
私は続きを飲み込みそうになった。
それでも、言った。
「あんな約束したから、無理したの」
茜はすぐには答えなかった。
枕に背中を預けて、天井を見た。
「それだけじゃない」
「それだけじゃないって、少しはそうなんでしょ」
「陽菜」
茜が、私の名前を呼んだ。
「やめとけばよかったって言われるの、嫌だから」
私の喉が詰まった。
「まだ、終わってない」
「分かってるよ」
「だったら、勝手になかったことにしないで」
弱い声でも、茜の言葉ははっきり届く。顔を上げていられない。引けなくなって何でもと言ったとき、東海へ行けるはずはないと決めつけていた。あの頃の茜の音を、ろくに聴きもしないで。
今になって、心配だからという理由だけで、その約束を取り消したら。
それは茜のためだと言いながら、自分が怖くなっただけではないだろうか。
「なかったことには、しない」
私が言う。
「でも、大会に出るかどうかは、お医者さんとお母さんと、ちゃんと決めて」
「……分かってる」
「そっちも約束して」
茜は少し面倒そうにして、それから頷いた。
「約束」
私はそれを聞いて、ようやく椅子の背にもたれた。
ほんの短い会話なのに、学校で一日過ごすより疲れた。
枕元の携帯を取った茜の口元が、少し緩む。その顔なら知っている。私も、あの人から連絡が来ると、隠すより先に嬉しくなってしまう。
「先輩?」
茜が、携帯電話を伏せた。
「うん」
私は何かを聞きかけた。
東海へ行ったら、何を頼むの。
本当に、二股をやめさせたいの。
聞こうと思えば、聞けた。
でも今日は、茜が答えを用意しなければいけないことを、これ以上増やしたくなかった。
私は立ち上がった。
「じゃあ、帰る。寝て」
「もう?」
「長くいるなって、お母さんに言われてる」
「そっか」
その、そっか、が少しだけ寂しそうだったので、私は手提げをたたむ手を止めた。
「ゼリー、どれ食べる」
「今?」
「開けるところまで。どうせ、開かないって後回しにするでしょ」
「そこまで不器用じゃない」
茜は文句を言いながら、一つを指した。
結局、昔から好きな味だった。
私は蓋を少し開けて、枕元の台に置く。
茜がスプーンを受け取った。
「ありがと」
「明日、返事できたらでいいから、具合だけ送って」
「分かった」
扉を開ける直前に、茜が呼んだ。
「陽菜」
振り向くと、茜はスプーンを持ったまま、少し困った顔をしていた。
「……県、来る?」
私は、その顔をしばらく見た。
「行くに決まってるでしょ」
茜は目を伏せた。
ゼリーの容器を、両手で持ち直す。
「じゃあ、私も行かないと」
私は叱ろうとして、やめた。
「ちゃんと寝てからね」
そう言って、部屋を出た。
階段を下りるとき、ようやく息を大きく吐いた。
いつもの家なのに、帰り道だけが少し違って見えた。
その夜、陽菜から連絡があった。
『顔は見てきました。寝るって言ってたので、たぶん寝ます』
たぶん、という言葉が陽菜らしかった。
私は『ありがとう』と送った。
少しして、もう一つ届いた。
『先輩も、今日は早く寝てください』
私は、自分まで心配されていたことに気づいて、携帯電話を握り直した。
机の上には、三重奏の楽譜が開いていた。
今日、ちゃんと聴けなかった二人の音。
茜がいない練習室。
大会の日付。
どれか一つを考えると、ほかのものまで一緒に浮かんでくる。私は楽譜を閉じた。
茜からの返事はまだないけれど、いらないと送ったのは自分だ。
だから、来ないことを、悪いことの印にしてはいけない。
携帯電話の充電を確かめ、画面を下にして机へ置く。
大会まで、あと二日だった。
茜が舞台へ立てるのかどうか、まだ、誰にも分からなかった。




