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第二十二章 舞台袖

 茜から最後に届いた連絡は、前日の夜のものだった。

 『熱は下がりました。明日、行くつもりです』

 行きます、ではなく、行くつもりです。読み直すたびに、その違いへ戻ってしまう。

 返事には、また同じことを言っていると思いながら、無理をしないで、と書いた。来てほしいとも、もう出ない方がいいとも言えず、そのあと茜からの返事も途絶える。

 大会当日の朝は、よく晴れていた。こんな日くらい心配そうな天気でもいいのにと、空へ八つ当たりする自分がおかしい。

 駅のホームでは、陽菜が先に待っていた。

 「おはようございます」

 「おはよう。早いね」

 「先輩も」

 待ち合わせは八時二十分だった。

 時計は、まだ八時になっていない。

 どちらもそのことには触れず、並んで電車を待った。

 二人とも携帯をしまえない。別々の画面を見ているのに、顔を上げるタイミングばかり重なる。

 「茜から?」

 私が聞くと、陽菜は首を振った。

 「昨日のあと、まだです」

 「私も」

 電車を待つ数分は長く、乗り込んで座っても、時間の進み方は変わらない。

 鞄のプログラムを確かめようとして、まだ会場でもらっていないことを思い出した。代わりに出てきたのは、何かの役に立つかもしれないと昨夜入れた小さなタオル。役に立つようなことは起きないでほしいのに。

 それを見た陽菜が鞄の口を開けると、同じようなタオルが入っていた。

 「……かぶりましたね」

 「二枚あっても、困らないよ」

 「タオルが二枚とも必要になるほど、何をするんですか」

 二人で少しだけ笑った。

 笑っていられたのは、電車が次の駅へ着くまでだった。


 県大会の会場は地区のホールよりずっと大きく、広い入口へ入ると、人の声が高い天井に吸い上げられていく。楽器を持つ人も持たない人も、みんな行き先を知っているように見えた。

 受付の近くで足を止めても、茜の姿は見つからない。先に来ていた安田さんが、柱のそばから手を上げてくれた。

 「おはよう。連絡、来た?」

 「昨日の夜までです」

 私が答えると、安田さんは頷いた。

 「お母さんから、今朝も様子を見てから出るって。着いたら知らせてくれるそうです」

 説明を聞いて、ようやく息をつける。連絡がないから何かあったとは限らない。その当たり前のことにも、今日は誰かの言葉が必要だった。

 「受付は?」

 陽菜が聞いた。

 「事情は伝えてあります。出番の準備に間に合うかどうかで、最後に決めましょうって」

 安田さんは私たちの顔を順番に見た。

 「二人とも、朝ごはんは?」

 私は頷いた。

 陽菜は一拍遅れて、はい、と答えた。

 「何食べたの」

 「……パンです」

 「私は、ごはんと、お味噌汁」

 こんなところで朝食の報告をするとは思わなかった。

 でも、食べたものを思い出しているあいだだけは、茜の返事が来ない理由を考えずに済んだ。

 安田さんは、よかった、と笑った。

 自分が伴奏する相手が来るかどうかも分からないのに、どうしてこんなふうに話せるのだろう。

 私は尋ねそうになり、やめた。

 平気だから落ち着いているとは、限らない。


 香帆が来ると、私は立ち上がって手を振った。

 地区大会の日と同じ鞄を持っているのに、今日は肩に掛け直す手つきまで落ち着かない。安田さんの話を伝えると、そう、と一度だけ頷いた。

 「来るなら、私にも知らせてくれるって。返事は、急がなくていいって送ったんだけど」

 携帯をしまう前に、もう一度だけ画面を見る。待てるつもりでそう送ったのは、私も同じだった。

 利香先輩が着いたのは、開場してすぐだった。

 薄い上着を腕に掛け、私たちを見つけると歩みを緩めた。

 「おはよう。茜ちゃんは?」

 「まだです」

 私の返事を聞いて、先輩はそれ以上急いで質問しなかった。

 陽菜が一度、携帯電話を見た。

 先輩もそれを見たけれど、何も言わない。

 四人で、入口のよく見える椅子へ移った。

 ロビーの大きな時計には秒針があった。

 一周するたびに、私の中で、まだ来ない、が一つ増えた。

 膝の上でプログラムを広げた陽菜が、茜の名前に付箋をつけ直している。ほんの少し上へずらしただけなのに、また端を押さえる。その指を見ている私も、携帯を確かめる以外にすることがない。

 「先にほかの人を聴いてくる?」

 利香先輩が聞いた。

 私は、いいんですか、と言いかけた。

 先輩は私の顔を見て、言い方を変えた。

 「ここにいる人と、聴く人を交代してもいいでしょう」

 一度に全員で入口を見つめていても、茜の乗る車が速く走れるわけではない。

 私は頷いた。

 陽菜は少し迷ったあと、首を振った。

 「私は、ここにいます」

 香帆も残ると言って、入口側の椅子へ座り直した。

 「じゃあ、私とひかりが少し聴いてきてもいい?」

 先輩に聞かれ、陽菜は私を見た。

 いつもなら、どうして利香先輩と、と一言くらいあるところだった。

 今日は、その言葉がなかった。

 「連絡が来たら、呼びます」

 携帯は音を切り、振動の分かる場所へしまう。陽菜の肩へ手を置くと、彼女も手を上げて指に触れてくれる。それを合図にするように、ようやく椅子を離れられる。

 「行ってきてください」

 私は頷き、利香先輩と客席へ向かった。


 ホールの中では、クラリネットを持った女の子が、お辞儀をするところだった。

 私たちは係の人に案内された席へ静かに座った。

 澄んだ音が客席の奥まで伸びてきて、入口を気にしていた耳まで引き戻される。上手だ。そのことに戸惑う自分がおかしい。茜を聴きに来たからといって、ここまで練習してきた人が茜だけになるわけではない。

 舞台にいる子にも、何度も止まった小節があって、誰かに褒められた音があって、今朝、眠れたかどうかを心配した人がいる。

 膝の上の手を開き、今吹いている子の演奏へ耳を澄ます。長い旋律の終わりに思いがけない柔らかさがあり、次の入りで少し息が乱れても、音楽は途切れずに進んだ。

 茜が今日、ここへ来たら、この人たちと同じ舞台で吹く。

 地区大会で金賞だったことは、もう何も保証してくれない。

 怖いと思った。

 同時に、聴きたいと思った。

 演奏が終わり、拍手が広がる。

 隣で利香先輩も拍手していた。

 手を下ろしたあと、先輩が小声で言った。

 「少し、顔が戻った」

 「私ですか」

 「うん。ちゃんと聴いてたから」

 私は困ったように笑った。

 「ちゃんと聴こうとすると、余計に緊張します」

 「どうして?」

 「みんな、こんなに上手で」

 先輩は、舞台の方を見た。

 「ひかりも、中学生のとき、そういうところで吹いてたんでしょう」

 「一人では、なかったです」

 それが、今日は大きな違いだった。

 何十人の中でどれだけ目立つ旋律を任されても、曲が始まれば、隣の誰かが息をしている。

 茜の舞台には、ファゴットが一本だけだ。

 「安田さんがいるよ」

 先輩が言った。

 私は顔を上げた。

 「ソロでも、一人きりで全部を抱えるわけじゃないんだね」

 その言葉を聞いて、私は九月の伴奏合わせを思い出した。

 茜が迷っても、安田さんは、戻ってくる場所をなくさなかった。

 今日も、あの人がピアノの前に座る。

 私は、はい、と答えた。

 そのとき、鞄の中で携帯電話が震えた。


 『来ました』

 陽菜からの連絡は、それだけだった。

 ちょうど次の演奏が始まる前で、私たちは係の人に頭を下げて外へ出た。

 ロビーの向こうのお母さんを見つけ、その隣を探す。茜の額に残った白い冷却シートが、服より先に目に入る。

 制服の上に薄いカーディガンを羽織り、楽器のケースはお母さんが持っている。いつもは自分で持つと言い張るのに、今日は、その手を伸ばしていなかった。

 私は思わず、走りそうになった。

 近づくと、茜が顔を上げた。

 「おはようございます」

 第一声は、思っていたよりしっかりしていた。

 でも、顔色はまだよくなかった。

 「茜、具合は」

 「熱は、ないです」

 すぐに答える。

 帰ろう、と言う前に遮られた気がして、私は開きかけた口を閉じた。

 お母さんが私たちに挨拶してから、静かに説明してくれた。

 今朝の体温は確かめ、昨日ももう一度受診したという。会場で様子を見て、無理なら取りやめる。その話にも一つずつ頷く私の隣で、茜は黙って説明が終わるのを待っている。

 「その額の、どうしたの」

 陽菜が聞いた。

 茜は指で端に触れた。

 「朝、貼ったままだった」

 「熱ないんでしょ」

 「車で寝てたから」

 陽菜は呆れたような顔をした。

 でも、それ以上は言わなかった。

 安田さんが茜の前へ来た。

 膝を少し曲げて、同じ高さで目を合わせる。

 「吹けそう?」

 茜は頷いた。

 「吹きたい、じゃなくて、吹けそう?」

 もう一度聞かれて、茜は息を吸った。

 自分の胸のあたりを、一度だけ見た。

 「少し、音を出して、決めてもいいですか」

 安田さんは頷いた。

 「そうしましょう」

 そのやり取りで、私も、ようやく落ち着いて茜を見ることができた。

 出たいと言えば、何でも通るわけではない。

 出られないと決まったわけでもない。

 今の身体でできることを、茜も確かめようとしていた。

 香帆が、茜の鞄から落ちかけた水筒を受け取る。

 「楽器、見ておくことある?」

 「家を出る前に、全部確かめました」

 「そっか。困ったら呼んで。ここにいるから」

 茜は、はい、と答えてから、香帆を見直した。

 「今日も、聴きに来てくださったんですね」

 「行くって言ったでしょ」

 そう返した香帆の口元が、少しだけ緩む。

 係の人が、控室まで案内してくれた。

 集合まで、ほとんど余裕はなかった。


 茜に頼まれ、私は荷物を運ぶ手伝いとして控室へ入った。陽菜と利香先輩、香帆はお母さんと外で待ってくれた。

 茜は椅子で二つの留め具を外すと、楽器を見た途端に目つきが変わる。四月には毎回確かめたジョイントへ迷わず手を伸ばし、金具を引っ掛けないよう腕を傾ける動作も自然だ。

 その姿と、保健室で私の肩に預けられた重さが重なり、胸が痛んだ。

 人は、できることがあると、大丈夫そうに見えてしまう。

 私は、そのことを忘れないように、椅子の背を握った。

 短く息を入れた茜のリードから、音が立ち上がるまで少しかかる。ひどく弱くはないけれど、いつもの朝より遅い。口元を整えた二度目には、部屋の隅まで素直に伸びてきて、握っていた椅子の背から少し力を抜けた。

 安田さんが、短い旋律を一緒に確かめる。

 ピアノはないので、茜は小さく拍を感じながら吹いた。

 最後まで吹いてから、リードを離す。

 肩が大きく上下してはいなかった。

 顔を上げた茜に、安田さんが聞いた。

 「どう?」

 「吹けます」

 今度は、さっきより遅い答えだった。

 自分で確かめたあとの声だった。

 安田さんは頷いた。

 「じゃあ、いつもの最初から。今日は、余計な練習を増やさない」

 茜も頷く。

 私は鞄からタオルを出した。

 「これ、よかったら」

 茜は受け取って、少しだけ笑った。

 「陽菜も、持ってきてました」

 「うん。かぶっちゃった」

 「二枚も、何に使うんですか」

 陽菜と同じことを言うので、つい笑ってしまう。茜もつられて笑い、頬から余計な力が抜ける。音を確かめる以外にも、ここでできることがあってよかった。

 「先輩」

 「うん」

 茜は、楽器を持ったまま、私を見た。

 「今日、聴いてほしいです」

 私はすぐに、もちろん、と言おうとした。

 けれど茜の目が、まだ続きを持っていたので待った。

 「倒れたから、かわいそうとか。こんな具合なのに頑張ってるとか、そういうのじゃなくて」

 言葉を選ぶたびに、目が少しだけ下がる。

 「練習を始めたときより、できるようになったところ、あるので」

 「うん」

 「それを、聴いてほしいです」

 私は頷いた。

 茜が倒れた日のことは、なかったことにはできない。

 まだ白い頬を見れば、心配にもなる。

 それでも、その心配だけで、今日の音楽を聞き終わりたくはなかった。

 「ちゃんと、聴く」

 私は言った。

 「間違えたところがあったら、その先も」

 地区大会の日に言った言葉を、茜は覚えていた。

 少しだけ目を細めた。

 「今日は、その前も」

 「最初から、全部」

 そう答えると、茜は、はい、と笑った。

 係の人が名前を呼んだ。

 茜が立ち上がる。

 一瞬、椅子の背に手を置いたので、私は身体を寄せかけた。

 茜は自分で姿勢を整え、額の冷却シートを剥がした。

 小さく折り、袋へ入れる。

 それを私に渡すときだけ、少し照れた顔になった。

 「すみません。これ」

 「預かる」

 私は袋を受け取った。

 楽器のケースも、上着も、ここにある。

 茜が帰ってくる場所を、私が一つ守れるのなら。

 そう思いながら、舞台へ向かう背中を見送った。


 客席へ戻ると、陽菜が通路側の席を空けてくれていた。

 利香先輩が私の鞄を受け取り、足元へ置いてくれた。先に座っていた香帆もこちらを向き、私の返事を待っている。

 「どうでした」

 陽菜の声が、小さい。

 「音は、出てた。自分で確かめて、吹くって」

 陽菜は頷いた。

 それだけで全部安心できるわけではない。

 でも、今はそれ以上の言葉を足さない方がいい気がした。

 舞台では、前の演奏者がお辞儀をしていた。

 拍手が終わると、客席が静かになった。

 陽菜の手が、肘掛けの上で握られている。

 私はその手に触れようとして、やめた。

 今、つないだら、どちらかの震えがもう片方に移ってしまいそうだった。

 名前が読み上げられる。

 舞台袖から現れた茜が、大きなホールの中央までゆっくり歩く。いつもなら気に留めないほどの遅さも、今日は頼りなく見え、前の席から小さな声が聞こえた。

 「大丈夫かな」

 誰かを責めているのではない。その心配がもっともだから、胸を押さえたくなる。

 譜面台の前でお辞儀をした茜は、地区大会のときより少し遅れて顔を上げた。

 陽菜が息を吸う。

 茜はもう客席を探さず、ピアノの前の安田さんへ目を向ける。目が合うと足元が落ち着き、リードを口へ運ぶ。その呼吸を待って、安田さんの手が上がる。


 ピアノの最初の音を、私は、椅子の上で動かずに聴いた。

 明るい響きだった。

 でも、茜を急がせるような明るさではなかった。

 一つの音から次の音へ、道幅を確かめるように進んでいく。

 茜はまだ吹かず、ピアノの進み方を背中で聞いているように見える。ゆっくり吸う息の長さは、いつもと同じ。その息が、ファゴットの音になってホールへ出る。

 私は、一音目を聴き逃さなかった。

 九月の初め、岸先生が何度も吹き直させた音。

 茜が、こんな一つの音ばかりで、曲まで行けるんですか、と私にこぼした音。

 その音が今日は、先に鳴っていたピアノと、同じ場所に立っていた。

 低く、よく通る。

 太くしようとして膨らませてはいない。

 自分が今持っている息で、音の芯を作っている。

 旋律が動き出すと、私はようやく息を吐いた。

 客席の小さなざわめきは、もう聞こえなかった。

 茜の音には、以前にはなかった余裕があった。

 身体に余裕があるからではない。

 吹くたびに全部を確かめ直さなくても、指が次の場所を知っている。その分だけ、耳が、いま鳴っている音へ向いていた。

 細かな動きに入る。

 九月、茜が繰り返し引っかかったところ。

 私はいつもの癖で、心の中の指を動かしかけた。

 けれど茜の方が先へ進んだ。

 速さに追われて音を並べるのではなく、どこへ着きたいのかを知って進んでいた。

 ピアノから返ってくる音へ、ファゴットが応える。

 その短いやり取りで、茜の口元の力が少し抜ける。

 隣で陽菜がわずかに身を乗り出す。彼女にも初めて聴く茜の音なのかもしれない。

 旋律はゆっくり歌うところへ進む。私が、いちばん心配していた場所だ。

 細かい音は勢いで進めても、長い音は、息の足りなさを隠してくれない。

 まして、少し前まで寝込んでいた身体だ。

 茜は、無理に長く引き延ばさなかった。

 安田さんと決めたところで息を取り、そのあとを丁寧につないだ。

 楽譜にある音が、ただ長さの違う丸ではなくなる。

 少し待ってから言い、最後までは言い切らずに返事を待つ。その旋律に、練習室で何かを言いかけた茜を重ねそうになる。けれど音は、私の思い出よりずっと広いところへ届いていく。

 茜が聴いているのは、今日のホールだ。私のためだけに吹いているのではない。

 高い方へ向かう音の揺れに陽菜の肩が動く。私は続きが聴きたくて、そのままでいた。茜は音を押さえ込まず、ピアノの響きが変わるのを待って先へ息を渡していく。

 練習を始めたころの茜なら、そこで顔をしかめていた。

 今日の茜は、次の音のために顔を上げた。

 身体はつらいかもしれない。

 手は、いつもより冷たいかもしれない。

 それでも、自分が練習した音楽を、途中で手放さなかった。

 私は膝の上のタオルを、強く握った。

 この人が、春にはトランペットを吹いていたこと。

 ファゴットを組み立てる順番を、一つずつ聞いていたこと。

 朝六時の校門と、夜九時の廊下のこと。

 その全部を、音の一つ一つへ貼りつけて聴く必要はなかった。

 知らない人にも、今の演奏だけで届いていた。

 そう分かるほど、客席が静かだった。

 後ろの席で誰かが姿勢を変える音さえ、すぐに止まる。

 茜の旋律が、明るい方へ戻ってきた。

 今度は、最初より少し軽かった。

 同じような形の音でも、一度ここまで来た人の音だった。

 安田さんと茜の目が合い、短い返事を交わすように音の進み方が揃う。伴奏合わせでは安田さんが待ってくれていたけれど、今は茜も、自分から次の場所へ誘っている。

 最後の方の短い音が続く。

 地区大会で指の引っかかった場所を、茜は特別扱いせず、前から続く勢いのまま通り抜ける。

 できた、と心の中で叫びそうになった。

 でも、まだ終わっていない。

 茜自身が、そこで喜ぶために止まっていないのだから、私も先を聴かなければならなかった。

 最後へ向かうファゴットの音が、少しだけ大きくなった。

 無理に息を足した大きさではなかった。

 音楽の行き先が近づいて、そのことを身体が知っている。

 安田さんの和音が重なる。

 茜の音は、重なる和音の上で最後まで形を保っていた。

 終わった。

 それでも響きが残り、すぐには手を叩けない。茜がリードを離して楽器を下げるまで聴いていると、前の席から拍手が広がってきた。

 一人が立ち、その隣も立つ。少しずつ高くなる拍手の位置を見て、ようやく私も膝のタオルを離せる。

 立ち上がると、陽菜も隣に立っている。勝ったとも負けたとも言いそうにない顔で、ただ舞台を見ている。私も泣いているのかは分からないまま、茜から見えるところで手を叩く。先輩の拍手も、すぐそばで続いている。

 こんな拍手の受け取り方は練習していなかったのだろう。驚いた顔の茜は、顔を上げても音が収まらないので、もう一度頭を下げる。深すぎる二度目のお辞儀にひやりとすると、安田さんがそっと近くへ寄ってくれる。

 姿勢を戻した茜が舞台袖へ消えるまで、拍手をやめられない。


 ロビーへ出ると、陽菜が真っ先に言った。

 「すごかった」

 それは、誰に説明するための言葉でもなかった。

 自分が今聴いたものを、自分の口で確かめた声だった。

 「うん」

 「茜、あんな」

 言いかけたあとが、出てこない。

 陽菜は唇を押さえ、それから、顔を背けた。

 利香先輩が、私たちの少し先で立ち止まる。

 「まず、休ませてもらおう。会えたら、短くね」

 私はその言葉で、演奏が終わったあとの茜の身体を思い出した。

 音楽があんなにまっすぐ進んだから、身体のことまで、全部解決したような気持ちになっていた。

 そんなはずはない。

 控室へ続く廊下で、お母さんが茜を待っていた。

 少しして、安田さんに付き添われた茜が出てきた。

 自分の足で歩いている。けれど舞台へ出る前より白い顔を見て、陽菜も近づく足を止める。茜は私たちに笑いかけようとして、口元を緩める代わりに息を吐いた。

 「……終わりました」

 「うん。お疲れさま」

 やっとそれだけを言えた。

 お母さんに用意してもらった椅子へ座り、茜が飲み物を少しずつ口にする。その邪魔にならないよう、私たちは立ったまま脇へ寄る。

 最初の音も、長い旋律での息継ぎも、安田さんと目が合ったところも伝えたい。けれど今すぐ話し始めたら、最後まで自分の音楽を吹いた茜を、聞くことでも疲れさせてしまう。

 言葉の代わりにタオルを差し出すと、茜は頬へ当てたまま私を見る。

 「どう、でした」

 自分から聞いてきた。

 その声に、私は笑った。

 「難しいところを、心配するのも忘れてた」

 茜が不思議そうな顔をする。

 「できるかどうかを心配するより、今の音を聴いてた。最後まで」

 茜は目を伏せた。

 タオルの端を、指で折る。

 「じゃあ、よかったです」

 利香先輩が、静かに言った。

 「すごくよかった。今日、来られてよかった」

 茜は驚いたように先輩を見た。

 「ありがとうございます」

 その返事は、少し硬かった。

 陽菜に向いたときは、もっと硬くなった。

 「……何」

 陽菜は腕を組みかけ、やめた。

 「まだ何も言ってないでしょ」

 「顔が」

 「顔まで文句つけないで」

 茜の口元が少し上がった。

 陽菜はその顔を見て、目を逸らした。

 「今日のは、ちゃんと聴いたから」

 それだけ言った。

 茜は頷いた。

 二人の間では、それで十分に伝わることがある。

 私はそれを、羨ましいと思いながら、嬉しくも思った。

 少し後ろで待っていた香帆が、茜と目を合わせる。

 「最初にこの曲を持ってきたとき、ここまで吹くとは思わなかった」

 茜が顔を上げた。

 「無理だと思ってました?」

 「最初はね。私だって、簡単に吹ける曲じゃないし」

 香帆はそこで少し笑い、茜の手元のタオルへ目を落とす。

 「今日の、途中で音を小さくしてから戻るところ。すごくよかった。あそこ、いつの間にあんなふうにしたの」

 「安田さんと、最後の合わせで」

 説明しかけた茜が息を継ぐと、香帆は、あとで聞かせて、と頷いた。

 「今度、私の五重奏も聴いて。低いところから動くと、上が合わなくなる場所があるんだ」

 「私で、いいんですか」

 「茜ちゃんに聴いてほしい」

 その返事のあと、茜はタオルを膝へ下ろした。疲れの残った顔に、それでもはっきり、笑みが浮かぶ。

 お母さんが、少し休もう、と茜に声を掛けた。

 会場の人に相談して、静かな部屋を使わせてもらえることになっていた。

 茜が立つ。

 私は手を出しかけたけれど、茜はお母さんの腕を借りた。

 「結果まで、待ってます?」

 私たちに聞く声が、少し弱くなる。

 「待ってる」

 私が答えた。

 陽菜と利香先輩も頷いた。

 「じゃあ、またあとで」

 茜はそう言って、廊下の向こうへ歩いていった。

 舞台へ向かうときより、遅い歩みだった。

 私は、今度こそ、その遅さも含めて見送った。


 結果が出るまで、まだ一時間以上あった。

 香帆は安田さんと、まだ演奏を聴けるかプログラムを確かめている。私たち三人は外のベンチへ向かい、遅い昼食を取った。

 陽菜はサンドイッチの袋を開けるのに失敗し、変な方向へ裂けた透明なフィルムを見つめていた。

 利香先輩が、黙って別の袋を差し出す。

 陽菜は受け取りかけて、少しだけ警戒した。

 「何ですか」

 「パン。半分にできるから」

 「そうじゃなくて」

 「今日は貸しにしないよ」

 先輩が笑うと、陽菜は渋々、ありがとうございます、と言った。

 私はそのやり取りを見て、やっと、いつもの三人に少し戻れた気がした。

 「拍手、すごかったですね」

 私が言うと、利香先輩は頷いた。

 「うん」

 「……選ばれますかね」

 陽菜が、つい漏らしたように言った。

 私は答えられなかった。

 茜の演奏がよかったことと、次へ進めることは、同じではない。

 今日、私たちが少しだけ聴いた人たちも、とても上手だった。

 利香先輩は、残ったパンを袋へ戻した。

 「結果は、呼ばれるまで分からないと思う」

 陽菜が唇を結ぶ。

 「でも、私は今日の演奏、好きだったよ」

 頷くと、好きだった音が耳に戻る。今は、まずそれを覚えておきたい。

 ベンチの前を風に吹かれた落ち葉が通り、目で追った陽菜がこちらを向く。何か言いたそうなのに、先輩のいる前では口を開けないらしい。その顔で、茜との約束を思い出してしまう。

 東海大会まで進んだら、何でも一つ。

 茜は、二股をやめさせる気はないと言った。

 陽菜は、そのことを知らない。

 今ここで教えたら、少し安心するのかもしれなかった。

 けれど、茜が秘密にしてほしいと言った言葉を、私の都合で渡すことはできなかった。

 私は水筒を閉めた。

 秘密が一つ増えるたびに、誰かの顔を見られなくなる。

 そういう付き合い方を、ずっと続けるわけにはいかない。

 でも、その先を考える前に、結果発表の時間が近づいていた。


 茜は、発表の少し前に戻ってきた。

 休んだことで、頬に少し色が戻っていた。

 楽器は片づけられ、ケースに入っている。

 お母さんがそれを持ち、安田さんが隣にいた。

 「座って待てる?」

 お母さんに聞かれ、茜は頷いた。

 「大丈夫」

 その言葉を、朝よりは信じられる。

 出場者の列へ向かう前に茜がこちらを見たけれど、すぐには何も言わない。私も、頑張って、という言葉を飲み込んだ。もう十分、頑張ってきた人だ。

 「ここにいるね」

 それだけ伝えると、茜は頷いた。

 陽菜は隣で、プログラムを閉じた。戻ってきた香帆も席につき、茜の背中が見える方へ少し身体をずらす。

 ホールの照明が、発表用の明るさになる。

 舞台には演奏者の代わりに、係の人が立っていた。

 演奏中よりも、客席の咳払いが多く聞こえた。

 前から数列目に、茜の背中を見つける。同じようにまっすぐ座っているのに、地区大会の日より小さく見えて、離れた席からでは顔色を確かめられない。

 名前が読み上げられ始めた。

 銀賞。

 金賞。

 いくつもの学校名と、名前。

 私は、自分が息を止めそうになるたびに、ゆっくり吐いた。

 金賞の中で、茜の名前が呼ばれた。

 陽菜の手が、痛いほど強く私をつかむ。同じ強さで握り返し、茜が顔を上げたのを確かめてから、隣の子の拍手に加わる。

 金賞。

 地区大会のときと同じ言葉なのに、その重さは違っていた。

 ここまで来た。

 病気になった日も、できなかった日も、全部を飛び越えたのではない。

 一つずつ通って、ここにいる。

 賞の発表が終わると短い説明が入り、次はいよいよ東海大会への推薦だ。陽菜は私の手を離さず、反対側からは利香先輩が肩へ触れてくれた。

 一人目の名前。

 二人目の名前。

 私は、それぞれの人へ拍手しながら、自分の心の狭さを思い知った。

 選ばれた人の喜びをちゃんと喜びたいのに、空いている場所が減っていくことを考えてしまう。

 次の学校名が読まれた。

 白鷺女子高校。

 私は顔を上げた。

 「小宮茜さん」

 茜の名前が続いた。

 陽菜が、今度は声を出した。

 「……やった」

 ほんの小さな声でも、私にははっきり聞こえた。

 振り向かない茜が両手で顔を覆い、すぐ下ろす。その動きだけで、胸がいっぱいになる。

 東海へ行ける。

 茜が、あの条件を満たした。

 私の手をつかんでいた陽菜の指が、少しずつ緩んだ。

 横を向くと、陽菜は笑っている。その顔に遅れて別の思いが浮かぶのも見えてしまう。嬉しさは消えない。それでも、その向こうには、自分で決めた約束が待っている。

 利香先輩はまだ、何も知らずに拍手していた。少し先の席では、香帆が目元を拭いながら、茜へ何度も頷いている。

 私も、拍手を続けた。

 まだ願いを聞いていない。

 何が起きるのかも、分かっていない。

 それでも今、茜の名前が呼ばれたことだけは、誰にも譲らずに喜びたかった。


 表彰が終わると、ロビーは一気に騒がしくなった。

 賞状を持って写真を撮る人、先生へ電話をする人、何も言わずに楽器のケースを抱えている人。

 私たちは人の流れに押され、茜を見失った。

 安田さんには会えた。

 茜のお母さんと話していて、私たちを見ると笑顔になった。

 「よかったね」

 「はい。ありがとうございました」

 私は深く頭を下げた。

 私がお礼を言うのは、少し違うのかもしれない。

 でも、言わずにはいられなかった。

 安田さんは、こちらこそ、と言った。

 「次まで、少し時間があるから。今度は、元気なときの演奏を楽しみにしています」

 その言葉が、胸に残った。

 今日の演奏は、今日だけのものだった。

 次の茜には、次の音がある。

 私は早く、そのことを本人に言いたくなった。

 香帆は一足先に茜へおめでとうを伝え、三枝先生へ結果を知らせるため、携帯を手にロビーの端へ移っていた。

 「茜ちゃん、外のベンチで待ってるわ」

 お母さんが教えてくれた。

 「少し風に当たりたいって。車を回してくるから、ちょっとお願いしてもいい?」

 私が頷くより先に、陽菜が答えた。

 「はい」

 その声で、私は陽菜を見た。

 顔はもう、さっきのままではなかった。

 何かを決めた人の顔だった。

 「先輩、行きましょう」

 陽菜が私の手を取った。

 そして、もう片方の手で、利香先輩の袖をつかんだ。

 先輩が驚いて足を止める。

 「私も?」

 「利香先輩にも、聞いてもらうことがあります」

 陽菜はそれだけ言って、歩き出した。

 自動扉の向こうに、午後の光が見えた。

 茜は、あの光の中で待っている。

 何を願うのかを、まだ、私たちは知らなかった。


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