第二十三章 ひかり先輩
茜は、建物の脇のベンチに座っていた。
足元にファゴットのケースがあり、膝の上には賞状の入った封筒があった。カーディガンの袖から出た指が、その角を押さえている。
私たちに気づくまでの顔は、ぼんやりしていた。
音楽室で次の練習を考えているときとも、保健室で願いを言うか迷っていたときとも違う。
大きなものを一つ下ろしたあと、空いた手をどこへ置けばいいか分からないような顔だった。
「茜」
呼ばれた茜がこちらを向き、私を見つけて少し笑う。その笑顔が、後ろの利香先輩に気づいたところで止まる。
「何で、三人」
「関係あるから」
陽菜は私の手を離して、自分の鞄を握る。その持ち替え方まで決心したようで、事情の分からない利香先輩が、私たちを見比べている。
「何の話?」
私は口を開きかけた。
けれど、陽菜の方が先だった。
「私と茜、約束したんです」
風が吹いて、ベンチの端に落ちていた葉が転がった。
陽菜の髪も揺れたけれど、本人は動かなかった。
「茜がファゴットの協奏曲でソロコンクールに出て、県大会で選ばれて、東海大会に進んだら。何でも一つ、願いを叶えるって」
利香先輩の眉が、少し上がった。
私の方を見る。
私は小さく頷いた。
「夏の大会が終わったあとに」
陽菜が付け足した。
先輩は、少しだけ間を置いてから聞いた。
「何でも?」
「はい」
「どうして、そんな約束を」
「言い合いになって」
そこで、陽菜の勢いが少し弱くなった。
利香先輩は、茜を見た。
茜は何も言わず、封筒の端をなぞっていた。
陽菜が続ける。
「茜が、二股なんて許さないって言ったんです。だから、私と利香先輩のこと、勝手にやめさせないでって」
「それで、東海へ行けたら、やめさせていいことにしたの?」
先輩の声が、少し低くなった。
陽菜が頷く横で、足元に目が落ちる。このベンチへ来るまで、先輩に話す機会はいくつもあったのに。
見返した利香先輩の顔には、怒りよりも戸惑いがある。私たちの知っている話に、今、一人で追いつこうとしている。
「ひかりも、その話、知ってた?」
「……はい」
「そっか」
短い返事だった。
私はその短さが怖くて、何か言おうとした。
先輩が、軽く手を上げる。
「あとで聞くね」
それから陽菜へ向き直った。
「それで、今日、茜ちゃんが選ばれた」
「はい」
「約束を守るために、ここに来たのね」
陽菜は今度は、はっきり頷いた。
その横顔を見て、私は胸が痛くなった。
勝てるわけがないと思って言った言葉が、本当に、目の前まで来た。
逃げようと思えば、言い方はいくらでもあったと思う。
体調が悪いから、今日は帰ろう。
詳しい話は、また今度にしよう。
それでも陽菜は、自分から私たちをここへ連れてきた。
「だから、聞く」
陽菜が茜を見た。
茜も顔を上げた。
「何をしてほしいの」
茜はすぐには答えなかった。
遠くの駐車場から、車のドアを閉める音が聞こえた。
鞄の紐を持ち直しても手の置き場が決まらない。二人が茜の返事を待つ中、茜の目だけは私に向いている。保健室で包んだ手の熱さが、指に戻ってくる気がする。
今は、言わないです。
あのとき言わなかった言葉を、今、言うのだろうか。
聞き逃したくなくて、息を吸う茜から目を離せない。
「私も、ひかり先輩と付き合うから」
風が止まった気がする。少なくとも私の頭の中には、いま聞いた言葉以外、何も入ってこない。
茜が、私と、付き合う。そこまでは分かる。けれど手前についた「私も」を、どこへ置けばいいのだろう。
隣で利香先輩が、静かに言った。
「……もう一回、聞いてもいい?」
「私も、ひかり先輩と付き合います」
茜は言い直した。
二回聞いても、人数は減らなかった。
陽菜。
利香先輩。
そして、茜。
私は心の中で数えたあと、数え方が間違っていないか確かめた。
間違っていなかった。
「は?」
陽菜の声が、遅れて飛び出した。
「何、それ」
「お願い」
「お願いっていうか、宣言じゃん」
「どっちでも、意味は同じでしょ」
「同じじゃない。全然、同じじゃない!」
茜は封筒を膝に置き直した。
その仕草だけは妙に丁寧だった。
「二股をやめさせるって、言ったじゃん」
陽菜の声が少し高くなる。
「やめさせてもいいか、聞いただけ」
「そういうつもりだったんでしょ」
「最初は、そういうことも考えた」
「最初はって、じゃあ、いつから」
茜は目を逸らした。
その頬が赤くなっていくのが、私には見えた。
「いつからでも、いいでしょ」
よくなかった。
少なくとも、私の頭には、処理を待っていることがたくさんあった。
利香先輩が、私の腕に触れた。
「ひかり、座る?」
六月のことを思い出したらしかった。
私は首を振った。
「今日は、大丈夫です」
今日は、という言い方を、自分でしてしまった。
先輩の口元が少しだけ緩んだ。
その間にも、二人の言い合いは続いていた。
「人に、二股なんて許さないとか言っといて、自分が三人目になるのはいいわけ?」
「よくないのは分かってる」
「分かってる人の言い方じゃない」
「じゃあ、どう言えばいいの」
「少なくとも、私も付き合うから、じゃないでしょ!」
茜が口を閉じると、封筒の上の手の震えが目につく。あんなに言い切ったからといって、平気でここに座っているわけではないのだ。
舞台の上では最後まで音をつないだ人が、今は一つの言葉を置いたあと、次に何を言えばいいか分からなくなっている。
それでも引っ込めなかった。
茜は陽菜を見た。
「約束は、守ってよね」
陽菜の口が開いた。
何か言おうとして、音が出ない。
私の隣で、利香先輩が小さく息を吐いた。
「それは、私もちょっと、言いにくいわね」
陽菜が振り向いた。
「利香先輩は、今、どっちの味方なんですか」
「ひかりの」
先輩はすぐ答えた。
私は顔を上げた。
先輩は私を見て、それから、少し困ったように笑った。
「私も、あの勝負に甘えたから。ひかりの返事を待つ前に」
陽菜の顔が、ますます難しくなった。
三人とも、自分の気持ちと言ったことを抱えて、ここにいる。なのに私は、茜の宣言から一度も返事をしていない。驚いているだけで、また決まるのを待つつもりなのだろうか。
「あの」
私は声を出した。
三人が、同時にこちらを見る。
それだけで、喉が少し狭くなった。
でも、今言わなかったら、また、あとから追いつこうとするだけになる。
「私が、返事をするところは、ありますか」
陽菜は目を閉じ、利香先輩は額に手を当てる。その前で、茜だけが真っ赤になった。
「あります」
茜が言った。
声が、さっきより小さかった。
「あります。すみません」
私は、謝ってほしいわけではない、と言いかけた。
でも、謝ってもらうところは、たぶんあった。
それを全部なかったことにして、また自分だけ困っているふりをするのも違う。
私は深く息を吸った。
「陽菜との約束は、聞いた。陽菜が、それを守ろうとしてるのも、分かった」
陽菜がうつむく。
私は、その顔を責めたくなかった。
けれど、続けた。
「でも、茜が私とどうなりたいかは、私に言ってほしい」
茜の指が、封筒から離れた。
立とうとしたので、私は慌てて止めた。
「座ったままでいい。お願いだから、そこは」
茜が、困ったように笑った。
「はい」
私も、隣に座ろうとした。
ところが、ベンチの上には茜の鞄があった。
私が持ち上げようとすると、陽菜が先に取った。
利香先輩がファゴットのケースを少し寄せる。
三人が同時に動いて、私は一瞬、病院の診察台へ案内されているような気分になった。
「皆さん、落ち着いてください」
皆さん、などという呼び方をした自分がおかしくて、言い終えるなり笑ってしまう。陽菜がむっとする横で利香先輩も肩を揺らしたけれど、茜だけは緊張したままだ。
少し間を空けて茜の隣に座ると、目の前に陽菜と利香先輩が並ぶ。ベンチなのに正式な話し合いの席みたいで、ますます背筋が伸びる。けれど、まず向き合うのは茜だ。
「聞くね」
茜は一度、唇を湿らせた。
譜面台も、楽器もなかった。
何を言うか書かれた紙もない。
それでも茜は、私を見た。
「ひかり先輩が、好きです」
言い終わったあと、茜の目が少しだけ揺れた。
私は、返事を急がなかった。
好き、と言われた場所だけが、身体の中で熱くなっていく。
「いつから、って聞いてもいい?」
「……はっきり、この日からっていうのは、ないです」
茜は膝を見た。
「すごい人だとは、最初から思ってました。新入生の前で吹いてたとき。あと、ファゴットのこと、聞いても、変な顔しなかったから」
「変な顔?」
「おなかに響くから好きって言ったとき。そんな理由で楽器を選ぶのか、みたいに、言われなかった」
私は、その会話を覚えていた。
音が好きな理由を、うまく説明できないことはある。
おなかに響くなら、それは十分に理由だと思った。
「先輩、私がうまく吹けないとき、楽器だけ見ないんです」
茜が続けた。
「何ができてないかを見てるのに、私のことも見てくれるから」
私は、うまく息ができなくなった。
茜は、少しだけ眉を寄せた。
「なのに、陽菜と付き合ってるって聞いて。じゃあ、仕方ないって、思おうとしたのに」
陽菜が、黙ったまま顔を上げた。
「利香先輩も、いいって。二人になったって聞いて」
茜の声が、そこで少しだけ尖った。
「だったら、私が最初から諦める理由、何だったんだろうって」
私は、何も言えなかった。
茜はすぐに首を振った。
「だからって、許さないとか言っていいわけじゃなかったです。陽菜のことが心配なのも、本当だったけど、それだけじゃなかった」
茜の目が、陽菜へ向いた。
陽菜は、逃げずにその目を受けた。
「ずるいって、思った」
茜が言う。
「自分が入りたいところに、もう二人いるのが」
茜は、封筒から手を離した。
「だから、最初から、三人目になろうって決めてたわけじゃないです。二人がおかしいって言えば、自分が諦めたのは正しかったことになると思った」
陽菜の指が、鞄の紐をきつく握った。
「私のためって言ったのは?」
「心配だった。でも、陽菜の名前を使った」
茜は目を逸らさなかった。
「ごめん」
陽菜は、すぐには受け取らなかった。
「私、茜になら、嬉しかったこと全部言っていいと思ってた」
茜の肩が下がった。
「……うん」
私は口を挟めなかった。私に好きと言うために、二人の間にあったものを傷つけている。
茜は膝の上を見たまま続けた。
「練習を聴きに来てもらうたび、もう少し、会っていたくなって。陽菜と別れてほしいって考えても、そのあと先輩に何て話せばいいか、何も浮かばなくなった」
封筒の角が、茜の指に当たった。
「今日選ばれたら、先輩に言うって決めてました。言える理由ができるまで、待ってたんです」
私は、明日の練習を、とばかり約束していた日々を思い出した。
理由がなければ会えない相手に、私もずっと、利香先輩をしていた。
「その理由が、私にも通用するかどうかは、まだ、聞いてないよ」
顔を上げた茜から、今度は目をそらさない。誰も答えないあいだに、遠くの笑い声だけが届く。賞をもらった誰かが友達と写真を撮り、同じ午後を喜んでいる。
茜が改めて私へ向き直る。
「先輩と、付き合いたいです」
最初の宣言とは、違う声だった。
返事が返ってくることを、ちゃんと怖がっている声だった。
「陽菜が認めても、利香先輩が何も言わなくても、先輩が嫌なら、無理なのは分かってます」
その言葉が、胸の中の柔らかいところに触れた。
茜の次の音を聴きたいし、元気になったら練習以外のことも話したい。保健室で手を離したくなかった気持ちが、全部心配だったとも言い切れない。
一つずつに名前をつけるのはまだ難しくても、今、好きだと言われて嬉しい。その嬉しさを知らなかったふりにはできなかった。
「私、すぐには、うまくできないと思う」
私は言った。
自分でも情けなくなるくらい、頼りない始まりだった。
「もう、うまくできてないし。陽菜にも、利香先輩にも、困らせることばっかりしてる」
「知ってます」
茜が答えた。
陽菜が、そこは即答するの、と小さく言った。
私は少し笑って、それから茜を見た。
「でも、茜に好きって言われて、嬉しい」
茜の目が、大きくなった。
「音楽のことで会うだけじゃなくて、茜と一緒に、どこかへ行ってみたいと思った」
「……はい」
「だから、私も、茜と会っていきたい」
言葉が曖昧になったことに、自分で気づいた。
私は言い直した。
「付き合いたい。こんな私でよかったら」
茜が、息を止めた。
私はその返事を待つ間に、自分がとんでもないことを言ったのだと、ようやく理解した。
三人。
今、自分の口で、三人にした。
流れで決まった、だけでは、もう済まなかった。
「よかったらって、よくなかったら、あんなに練習してません」
茜はそう言った。
私は反射的に眉を下げた。
「それは、もう、少し控えて」
「練習しないって意味じゃなくて」
「分かってるけど」
陽菜が、深くため息をついた。
「何で私の前で、もう、そういう会話になるの」
茜が少しだけ顎を上げた。
「恋人だから」
「今なったばっかりでしょ!」
「なったから」
「ああ、もう」
陽菜は顔を両手で覆った。
その手の隙間から、私を見た。
「先輩も、ちゃんと断る選択肢、あったんですよ」
「……うん」
「分かってて、その返事ですか」
頷いたあとも、陽菜はしばらく私を見ている。返事が変わらないと確かめてから、顔を覆っていた手を下ろす。
「じゃあ、もう、何も言えないじゃないですか」
何も言えない、という声に、まだ言いたいことがたくさん残っていた。
私はそのことを、忘れないでいようと思った。
認めるのと、平気になるのは、同じではない。
陽菜は、茜へ向いた。
「約束は守る。でも、さっきのことまで、それで終わりにしないで」
茜は背筋を伸ばした。
「うん」
「あとで、二人で話す。私が何に怒ってるか、勝手に分かったことにしないで」
「……分かった」
陽菜は、私にも向き直った。
「先輩の返事、嫌だなって思ってます。今も」
私は伸ばしかけた手を、膝へ戻した。
陽菜は、私が何か言うより先に続けた。
「でも、先輩と帰りたいのは変わらないです。それは、茜との約束だからじゃないです」
私は喉の奥で止まっていた息を吐いた。
「うん。私も、一緒に帰りたい」
陽菜は茜を見た。
「でも、私が最初だから」
「時期の話なら、そうだね」
「時期の話をしてるの!」
「なら、分かった」
茜の声に、いつもの調子が少し戻る。
利香先輩は、私の隣ではなく、茜の少し前にしゃがんだ。
目の高さを合わせて、笑う。
「茜ちゃん」
「はい」
「さっきの演奏、褒めたのは、取り消さないからね」
茜が瞬いた。
「私とひかりの話は、それとは別」
「……はい」
「ただ、これからは私も、遠慮しないよ」
笑顔のまま言ったので、私は少し怖かった。
茜は、なぜか安心したように笑った。
「私も、しません」
利香先輩の頷きに、茜ももう身を引かない。何が決まったのか私が理解する前に、今度は陽菜の視線が来る。
「先輩」
「はい」
「どうして、また敬語なんですか」
「すみません」
「謝るのも違います」
私は返事に困った。
陽菜は少しだけ口元を曲げた。
それから私の前に手を出した。
「立てます?」
六月の仕返しのようにも聞こえた。
私は、その手を取った。
「立てるよ」
立ち上がると、今度は茜が私の袖をつまんだ。
私は振り向いた。
「何?」
「……何でもないです」
言いながら、離さない。
利香先輩が、あら、と小さく言った。
陽菜が茜の手を見て、目を細めた。
私は二人の顔を見比べ、どうしたらいいか考えた。
考えても、すぐには答えが出ない。
でも、袖をつまむ茜の指が、私の返事を確かめているように見えたので、引き抜くことはしなかった。
茜は、私の袖をつまんだまま、賞状の封筒を見た。
「ちゃんと、選ばれたんですよね」
急に、声が小さくなる。
陽菜の表情が変わった。
「選ばれたでしょ。あんなにはっきり呼ばれてたのに」
「うん」
「私たちも、聞いたから」
私はそう言った。
茜の指が、一度だけ強くなる。
「……よかった」
その声には、さっきまでの強気がなかった。
私と付き合えることになった喜びだけでも、なかった。
東海へ行ける。
今度も、あの舞台の先がある。
頭を撫でかけて、子ども扱いになるかと手を止める。茜はその手と私を見比べ、ほんの少し頭を寄せてくれた。
そっと髪へ触れる。横で陽菜が何か言いかけたけれど、声にはせず、利香先輩もこの短い時間を待ってくれる。
ほんの短い間だけ、私たちは、今日の茜をお祝いする四人だった。
駐車場の方から、お母さんが戻ってきた。
私たちは慌てて、ほどよく普通の距離へ散った。
普通の距離がどのくらいか分からず、私は一歩下がりすぎて、ベンチの脚に靴をぶつけた。
陽菜が小さく息を吐く。
利香先輩が笑いをこらえる。
茜はそれを見て、今日一番、声を出して笑った。
「元気になったみたいね」
お母さんが言うと、茜は急に大人しくなった。
「少し」
「少しで十分。帰って休みましょう」
私はその言葉に、心から賛成した。
ファゴットのケースを持とうとすると、お母さんが受け取ってくれた。
茜は鞄だけを持ち、ゆっくり立つ。
陽菜が上着の裾を直した。
「忘れ物」
ベンチに残っていた封筒を、茜へ渡す。
茜はそれを受け取った。
「ありがと」
陽菜は目を逸らした。
「今日だけだから」
「何が」
「世話、焼くの」
茜は、はいはい、と言いかけて、途中でやめた。
代わりに、もう一度、小さくありがとうと言った。
車へ向かう途中、茜が振り返った。
私を見て、口を開く。
恋人、と呼ばれるのかと思い、私は背筋を伸ばした。
「タオル、洗って返します」
「あ、うん」
陽菜が噴き出した。
利香先輩まで笑ったので、私は耳まで熱くなった。
茜はその反応の意味を分かったらしく、少しだけ悪い顔をした。
「また、連絡します。ひかり先輩」
名前の呼び方が、さっきまでと少し違って聞こえた。
私は手を上げた。
茜も、封筒を持っていない方の手を上げた。
三人で駅へ向かう道は、行きよりも長く感じる。茜が無事に吹き終え、東海大会へ進めたことは嬉しいのに、頭はもう別のことでいっぱいだ。
隣から利香先輩に呼ばれた。
「ひかり」
私は肩を揺らした。
「はい」
「あとで聞くって言った話、今してもいい?」
「……はい」
陽菜が少し離れようとした。
先輩が呼び止める。
「陽菜ちゃんも」
二人とも信号の手前で足を止める。青を待つあいだに言われるかと思った話は、渡り終えるまで始まらなかった。先輩は、途中で途切れないところまで待っていたらしい。
「二人だけで、私が振られるかもしれない話を知ってるの、寂しかった」
怒られるつもりで聞いていた顔を上げる。先輩は怒ってもいるのだろう。それでも私たちに最初に伝えたかったのは、寂しかった、なのだ。
「話したら、先輩を不安にさせると思って」
私は答えた。
先輩は頷いた。
「うん。でも、知らないまま急に終わる方が、不安」
「……すみません」
「次は、聞かせて」
私は頷いた。
陽菜も、隣で頭を下げた。
「私が、勝手に決めました。すみません」
利香先輩は陽菜を見た。
「今、ひかりが三人と付き合ってるの、だいたい陽菜ちゃんの勝負がきっかけね」
陽菜の顔が変わった。
「そういう言い方、やめてもらえます?」
「違った?」
「間違ってないのが、余計に腹立つんです」
私は二人の間で、小さくなった。
先輩が笑う。
陽菜は口を尖らせたあと、私を見た。
「次は増やしませんからね」
「私に言うの?」
「先輩にも言ってます!」
私は、はい、と答えた。
返事をしたあとで、また、自分の言葉を選ぶところを他人に渡している気がして、首を振った。
「違う。私も、ちゃんと考える」
二人が私を見た。
私は足を止めなかった。
「今日、茜に返事したの、私だから」
言ったあと、顔が熱くなった。
堂々と言えるほど、何かを分かっているわけではない。
それでも二人は、しばらく何も言わなかった。
やがて陽菜が手を取り、反対側では利香先輩が鞄の紐を直してくれる。駅までの道で、その二人に同じことを求めずにいられた。
家に帰ると、母に、どうだった、と聞かれた。
私は玄関で靴を脱ぎながら、答えた。
「金賞で、東海に行けるって」
「すごいね。お友達、頑張ったんだ」
私は頷いた。
友達。
後輩。
今日から、恋人。
どれも茜で、最後の一つだけが、まだ自分の中でうまく収まらなかった。
部屋へ戻ると、携帯電話が三回鳴った。
陽菜から。
『今日は帰ったら休んでください。先輩も一日中、緊張してたんだから』
利香先輩から。
『次の練習、ちゃんと私も見てね』
そして、茜から。
『帰りました。今日はありがとうございました』
その少しあとに、もう一つ届いた。
『明日になっても、今日の返事、変わりませんか』
ベッドに座ったまま画面を見つめる。あんなに強い顔で宣言した茜が、まだ明日を確かめている。眠って起きてもなくならない返事だと伝えたくて、文字を打つ。
『変わらないよ。ちゃんと休んでね』
送ってから、少し考えて、もう一つ付け足した。
『元気になったら、二人でどこか行こう』
すぐに既読がついても、返事はなかなか来ない。天井を見ながら待つうちに、昨日まで二股の隠し方で悩んでいたことを思い出す。たった一日で、悩みまで古くなってしまうなんて。
三人。
声に出さずに数え直しても、やっぱり三人いる。
私は両手で顔を覆った。
困った。
本当に、どうしたらいいのか分からない。
それなのに、指の隙間で、少し笑っていた。
そのことが、一番、困った。




