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第二十四章 相談があります

恋人が三人になると、連絡が三倍になる。

 私は、そんな当たり前のことを、月曜日の朝に知った。

 駅に着く時間を陽菜に送り、放課後の譜読みを利香先輩と確かめる。その途中で、母に言われて今日は休む、という茜の連絡が入る。三人に返してから、顔を洗ったかどうか分からなくなった。

 鏡の中の前髪は濡れている。洗っている。よかった、と呟いたけれど、それで安心している朝は、あまりよくない気がする。

 学校へ着くと、陽菜が昇降口で待っていた。

 私の姿を見て、いつものように笑う。

 その笑顔に安心したところで、鞄から出しかけた携帯電話が震えた。

 陽菜の視線が、そちらへ落ちる。

 「茜ですか」

 「利香先輩」

 「……そうですか」

 どちらと答えても、何かが起きそうな間だった。

 私は携帯電話をしまった。

 陽菜がすぐ、首を振る。

 「返事、していいです。私が怒るからって隠される方が嫌なので」

 「怒るんだ」

 「内容によります」

 恐る恐る開いた画面には、

 『先生に教室変更を確認したら、連絡するね』

 練習の話だ。覗き込んだ陽菜も何も言わずに顔を戻す。返事を送ってから、今、目の前にいるこの子にまだ言っていないことを思い出す。

 「おはよう」

 さっき、ちゃんと言っていなかった。

 陽菜が目を瞬かせる。

 「……おはようございます」

 それだけで、少し空気が変わった。

 私はその変化を覚えておこうと思った。

 同時に、毎回こんなふうに一つずつ確かめないと会話が始まらないのでは、私の一日は三十時間あっても足りないとも思った。

 「茜とは、話せた?」

 私が聞くと、陽菜は、昨日、電話で少しだけ、と答えた。

 「全部ここで言わなきゃ駄目ですか」

 「ううん」

 私は首を振った。

 陽菜は携帯電話を鞄へしまった。

 「私が先輩と付き合い始めたとき、おめでとうって言ったのも、本当だったって。あいつ、何回も言うんです」

 声が少し小さくなる。

 「それで、全部許したわけじゃないです。まだ、腹は立ってるので」

 私は、よかったねと言いかけた口を閉じた。

 陽菜が先に歩き出す。私は並んで、階段まで行った。


 水曜日、いつもの登校時間に茜を見つける。顔色は戻っていて、朝練を休むことと放課後の練習を短くすることには、少し不満そうだ。それでも三枝先生の話を覆そうとはせず、今日は教室へ向かっている。

 「おかえり」

 私が言うと、茜は鞄を持ったまま止まった。

 「学校、私の家じゃないです」

 「そうだね」

 「……ただいま、って言えばいいんですか」

 「どっちでも」

 茜は視線を泳がせ、それから小さく言った。

 「ただいま」

 それだけの会話で、私は朝から嬉しくなった。

 すぐ後ろにいた陽菜が、わざとらしく咳をした。

 「廊下、通る人いるから」

 私は慌てて壁へ寄った。

 陽菜が言いたかったのは、たぶん、そのことだけではなかった。

 茜は私の横へ来ると、小さな袋を差し出した。

 「タオル、ありがとうございました」

 「ありがとう。わざわざ袋に」

 「家にあったので」

 薄い紙の袋に、小さなシールで口が留めてあった。

 きちんと畳まれたタオルの横に、飴が二つ入っている。

 私がそれを見つけると、茜は急に早口になった。

 「それも、家にあったので。特に、意味とかないです」

 「うん。嬉しい」

 言った途端、茜の口が閉じた。

 陽菜が横から言う。

 「私のタオルは?」

 「使ってないから、そのまま返したでしょ」

 「飴の話」

 「タオルって言ったじゃん」

 袋を抱えたまま、飴をめぐる言い合いを眺める。前なら、仲がいいんだな、で済んだ二人が、今はどちらも私の恋人なのだ。

 その実感より、飴をもらった嬉しさの方が先にある。どういう顔で止めたらいいかも分からず、袋の口をそっと閉じる。


 相談する相手として浮かんだのは、利香先輩に振られたことを知っている海香先輩だった。それに、部長でもある。何十人もの意見をまとめられる人なら、四人のことも分かってくれるのではないか。

 今から思えば雑な頼り方だけれど、そのときの私には十分な理由に思えた。

 その日は部の連絡事項が終わったあと、部長と副部長が残って、冬の練習室の割り当てを作っていた。

 扉の外で深呼吸する。楽譜も係の用事も持っていない自分が、人の時間をもらっていいのだろうか。そんなところから迷っていては、一人では何も話せない。

 「失礼します」

 顔を出すと、海香先輩がすぐ笑った。

 「ひかり。どうしたの」

 隣の聡美先輩は、表に引いていた線を最後まで引いてから顔を上げた。

 私は鞄の紐を握った。

 「部長、相談があります」

 海香先輩の目が大きくなり、私の後ろに誰もいないことを確かめてから、手元の紙が伏せられる。仕事の話ではないと、それだけで伝わったらしい。

 「座って」

 いつもより優しい声に促され、椅子を引いて座る。席を外そうか、と聡美先輩に聞かれ、私は慌てて首を振った。

 「先輩にも、いてほしいです」

 言ってから、人を一人増やすのがこんなに簡単でいいのかと思った。

 けれど、今度は相談する相手の話だった。

 聡美先輩は頷き、定規を筆箱へしまった。

 海香先輩が、机の上に両手を置く。

 「利香のこと?」

 私は頷いた。

 「それも、あるんですけど」

 「まだ、つらい?」

 海香先輩の中では、私はまだ去年の冬にいる。音楽準備室の前で泣いているところを見つかり、誰にも言わないと約束してもらった、あの日のまま。

 約束を守ってくれていた人に、続きを何も話さずにいたことが申し訳なくなる。

 「いえ。その話から、少し、進んでいて」

 「うん」

 「いま、付き合ってる人がいるんです」

 海香先輩の表情が、ふわっと明るくなった。

 「そうなの。よかったね」

 あまりにもまっすぐ言われて、私はうつむきそうになった。

 「誰?」

 「陽菜です」

 海香先輩は頷いた。

 「オーボエの、一年生の」

 「はい」

 「そうか。だから、よく一緒にいたのね」

 聡美先輩は、私の顔を見たままだった。

 海香先輩が、その先を促す。

 「それで、利香にまだ、言えてない?」

 「言いました」

 「気まずくなった?」

 「えっと」

 私は、ここからが本題だと思って、背筋を伸ばした。

 「利香先輩とも、付き合うことになりました」

 机の上で海香先輩の手が止まり、聡美先輩はゆっくり瞬きをする。窓の外から運動部の掛け声が聞こえるほどの間を置いて、部長が慎重に尋ねた。

 「陽菜ちゃんとは、お別れしたの?」

 私は首を振った。

 「してないです」

 「じゃあ、これから?」

 「その予定も、ないです」

 先輩がもう一度考える間に、スカートの皺を三本も伸ばしてしまう。やっと上がった顔を、膝から目を戻して迎える。

 「二人とも、知ってる?」

 「はい」

 「二人とも、ひかりと付き合ってると分かってるのね」

 「はい」

 「ひかりも」

 迷ってから頷いた私を、聡美先輩が見ている。

 海香先輩は机の紙をもう一枚裏返したけれど、そうしても状況は変わらない。

 「なるほど」

 先輩が言った。

 その声は、まだ、なるほど、までたどり着いていなかった。

 私は勇気を出して、その先を告げた。

 「それで、この前の大会のあと、茜とも付き合うことになって」

 海香先輩の肘が、机から滑った。

 聡美先輩が、倒れそうになったペン立てを押さえた。

 私は慌てて立ち上がりかけた。

 「すみません」

 「座って」

 二人に同時に言われた。

 私は座った。


 「茜ちゃんって、ファゴットの」

 海香先輩が確かめる。

 「はい」

 「この前、ソロで東海に選ばれた」

 「はい」

 「それをきっかけに?」

 私が頷くと、先輩は何かを計算するように天井を見た。やがて視線が戻り、じっと私へ注がれる。

 「ひかり」

 「はい」

 「あなた、私に話してくれたところから、何章くらい進んでるの」

 私は答えに困った。

 小説ではないので、章はない。

 あったら便利なのかもしれないけれど、自分でも、どこで何が変わったのか、すぐには説明できない。

 「春から、いろいろあって」

 「いろいろの中に、三人入ってるのね」

 「……はい」

 聡美先輩が、海香先輩の方を見た。

 「海香。一回、順番に聞こう」

 四月の陽菜の告白から話し始めると、利香先輩の話に入る前に、一度息を継ぐことになった。オーディションでの勝負、五重奏から三重奏への変更、二人とも選ばれた日のこと。順番に話しているはずなのに、自分でも途中で止めたくなる。

 説明する間に何度も動く海香先輩の口元を、聡美先輩が袖を引いて止めている。

 キスのくだりは短く済ませたつもりでも、気づいたら横になっていたと伝えると、二人ともそこだけ聞き直した。

 「倒れたの?」

 「ちょっと、びっくりして」

 「頭、打たなかった?」

 聡美先輩が聞く。

 私は首を振った。

 「二人が支えてくれて、そのあと先生にも見てもらいました」

 聡美先輩が息を吐く横で、海香先輩の顔には、いま何か言いたい、と書いてある。私は気づかないふりで、茜の話へ進んだ。

 二股を責められ、陽菜がまた勝負を持ちかけたところで、聡美先輩を見るのが少し怖くなる。茜の練習から地区大会、倒れた日、県大会へと話をつなげれば、数か月の出来事には順番がある。説明に詰まるのは、そのとき私がどう思っていたかという部分だけだ。

 それでも、茜に付き合いたいと言ったことは省かなかった。

 それを省いたら、相談する意味がなくなると思ったから。

 話し終えた私に、聡美先輩が水筒を示してくれる。一口飲んで、こんなに喉が乾いていたのかと気づく。その向こうで海香先輩は、祈るように両手を組んでいる。

 「聞いていい?」

 先輩が言う。

 私は身構えた。

 「はい」

 「利香、あの利香が、そんなことを」

 「……はい」

 「普段、あんなに落ち着いてるのに」

 「はい」

 「陽菜ちゃんは、正面から挑んで、茜ちゃんは、舞台を越えてきた」

 まとめ方が、少し違う気がした。

 私は返事を迷った。

 海香先輩は、ひときわ真剣な顔で言った。

 「三人の関係を、尊いと思います」

 隣で聡美先輩が、すぐに答えた。

 「四人」

 海香先輩が、あ、と言った。

 私は、水筒を持ったまま固まった。


 「相談なんですけど」

 自分でも情けない声が出た。

 海香先輩は、分かってる、と頷いた。

 「分かってるの。もちろん、ひかりが困ってるのは、分かってる」

 「本当ですか」

 「本当。ただ、予想していた話と違いすぎて、心の準備が」

 「私も、できてないです」

 そう言うと、海香先輩は口元を押さえた。

 聡美先輩がじっと見る。

 海香先輩は手を下ろした。

 「ごめん」

 今度は、ちゃんと謝ってくれた。

 水筒の蓋を閉めるだけで手が疲れる。机の端へ置く私を見て海香先輩が口を開きかけると、聡美先輩がその先を遮る。

 「消えてしまいそうな儚さ、とか言わない」

 私は顔を上げた。

 「何ですか、それ」

 海香先輩の肩が跳ねた。

 「聡美」

 「前に言ってたでしょう。ひかりを見るたびに」

 「たびに、ではない」

 「かなりの回数」

 私は自分の手を見た。

 消えそうだったのだろうか。

 茜を保健室へ運んだときは、途中から腕が震えたけれど、消えそうではなかったと思う。

 それとも、そういう話ではないのだろうか。

 海香先輩は、咳払いをした。

 「ひかりはね、ちゃんとここにいるのに、目を離したら、どこかへ行ってしまいそうなところがあるの」

 「教室には、戻りますけど」

 聡美先輩が笑った。

 海香先輩は、違うの、と手を振った。

 「そういう意味じゃなくて。放っておけなくなる、というか」

 私は首を傾げた。

 「だから、三人の気持ちが分かるって話?」

 聡美先輩が聞く。

 海香先輩は少し考え、頷いた。

 「うん。それもある」

 「それは感想。相談は、ひかりがどうしたいか」

 その言葉で、私は背筋を伸ばした。

 海香先輩も、頷いた。

 さっきまでの笑いが、少し静かになった。


 聡美先輩が割り当て表を手元へ寄せる。私の前に空いた場所には、これから話すことを置いていいらしい。そう思うだけで、水筒を握っていた手を膝に戻せる。

 「何が一番、困ってる?」

 私は、用意してきた答えを口にした。

 「世間体が、よくないと思うんです」

 言ってから、ひどく大人びた言葉を選んだ気がした。

 自分の中にある不安より、言葉の方が立派だった。

 聡美先輩は、すぐには頷かなかった。

 「誰かに、何か言われた?」

 「まだ、茜以外には」

 「その茜は、今、恋人なんだよね」

 私は頷いた。

 口にされると、また頭が追いつかなくなりそうだった。

 聡美先輩は続けた。

 「知られたら、困る?」

 「はい」

 「何が起きるのが、怖い?」

 私は考えた。

 部内で噂になること。

 三人が、変な目で見られること。

 自分が、誰のことも大事にしていない人だと思われること。

 それを一つずつ言うと、最後のところだけ、声が小さくなった。

 聡美先輩は、うん、と聞いた。

 「ひかり自身は、どう思ってるの」

 私は答えられなかった。

 三人とも大事です、と言うのは簡単だった。

 でも、朝の返事一つで慌てている私が、そんなことを言っていいのだろうか。

 「二人のときも、ちゃんとできなかったんです」

 私は言った。

 「利香先輩といるのに茜のことを考えたり、陽菜に心配かけたり。誰かと会ってる間、別の人に悪いことしてる気がして」

 海香先輩が、静かに頷いた。

 今度は何も挟まなかった。

 「三人になったら、もっと、誰かを困らせると思います」

 「困らせたくないから、別れたい?」

 考える前に首が横へ動く。別れたいかと聞かれれば迷うはずだと思っていたのは、私だけらしい。自分でも驚くその返事を、聡美先輩も見逃してはくれない。

 「誰となら、離れたいって思う?」

 私は三人の顔を思い浮かべた。

 陽菜。

 改札の向こうから私を見つけると、必ず歩くのが速くなる。

 利香先輩。

 私の返事を待つときだけ、いつもの笑顔が少し不安そうになる。

 茜。

 明日になっても返事は変わらないかと、何度も画面の向こうで考えたのだろう。

 私はうつむいた。

 「……いません」

 口にすると、胸の奥が熱くなった。

 こんな答えしか出せない自分が、ずるいのかもしれなかった。

 「みんな、傷つけたくないだけかもしれません」

 「それも、あると思う」

 聡美先輩は否定しなかった。

 私は顔を上げた。

 「でも、それだけかどうかは、私には決められない」

 先輩の声は、いつも練習時間を確かめるときと同じくらい落ち着いていた。

 「ひかりは、三人といるとき、嬉しい?」

 私は、今度はゆっくり頷いた。

 「嬉しいです」

 「その気持ちも、ちゃんとあるんでしょう」

 私はもう一度頷いた。

 失敗しそうなことなら、いくつも数えられる。嬉しいことを数えるのは悪い気がして、小さくしてきたのに、茜の飴も、陽菜の言い直した挨拶も、焦げた卵焼きの甘さもなくならない。

 三人のことを考えて笑ってしまう自分も、確かにここにいる。


 聡美先輩には、一年生のころから何かと面倒を見てもらっている。

 入部したばかりの私は、中学で全国へ行ったからには何でも分かると思われている気がして、知らないことを尋ねるのが苦手だった。楽器の話なら聞けるのに、備品の鍵の場所となると聞けない。

 一度、鍵を探しているうちに準備が遅れ、廊下を走りかけたことがある。

 あのとき、私を止めた聡美先輩は、鍵のある場所まで一緒に行ってくれた。次から分からなければ聞いて、と言っただけで、できるはずなのに、とも、しっかりして、とも責めなかった。

 今、私へ向けられているのも、そのときと同じ目だ。

 「ひかりが選んだことなら、私は、すぐにやめなさいとは言わない」

 先輩が言う。

 「ただ、ひかりが傷ついてしまうことがないようにしなさい」

 私は少し戸惑った。

 自分が三人を傷つける話ばかりしていたので、自分が傷つく方を考えていなかった。

 聡美先輩は、その戸惑いも見ていた。

 「誰かに合わせるために、嫌なことまで、いいって言わなくていい。困ってるなら、困ってるって言っていい」

 「でも、私が言うと、喧嘩になりそうで」

 「言わなくても、困ってることはなくならないよ」

 陽菜にも、似たことを言われた。

 上の空で謝るより、何か言ってほしい、と。

 私は膝の上で手を組んだ。

 「言ったあと、嫌われたら」

 声にしてから、自分の一番怖いことが分かった。

 三人とも好きだと言ってくれる。

 その好きな私と、本当の私が違ったら。

 困る、嫌だ、今日は一人でいたい。

 そんなことを言う私を見て、思っていた人ではなかったと言われたら。

 聡美先輩は、少しだけ表情を緩めた。

 「それを言えるくらい、相手のことも知っていくんじゃないかな」

 海香先輩が、そこで口を開いた。

 「ひかり」

 私は顔を向けた。

 先輩は、さっきとは違う真剣な顔をしていた。

 「私も、応援する。困ったときは、また来て」

 海香先輩はそこで一度、言葉を切った。

 「でも、私がいいと思うから、ほかの人も同じように思うとは、言えないね」

 机の上の割り当て表を見た。

 そこには、今日ここにいない人の名前も並んでいた。

 「誰かに聞かれたら、何て言えばいいんでしょう」

 聡美先輩は首を傾けた。

 「誰に、どこまで話すかは、四人で決めておいた方がいいと思う。ひかりが困って、一人の名前だけ出したりしないように」

 私は、茜に問い詰められた日の返事を思い出した。

 二人で決めて、その。

 またあんな言い方をしたら、今度は三人が、私を困らせた人になってしまう。

 「私、ここで話せたら、もう大丈夫な気がしてました」

 「今は、ここで息をついていけばいいよ」

 聡美先輩は机の端から、私の鞄を渡してくれた。

 「その先は、ここを出てからだから」

 「……相談に、なりますか」

 つい聞いてしまった。

 海香先輩は胸を押さえた。

 聡美先輩が、今度は声を出して笑った。

 「なるように、頑張る」

 海香先輩が答えた。

 私は、ようやく肩の力を抜いて笑えた。


 部屋を出る前に、私は二人へ頭を下げた。

 「この話、まだ、ほかの人には」

 「言わない」

 聡美先輩が答えた。

 海香先輩も、大きく頷いた。

 「去年のことも、誰にも言ってないでしょう」

 「はい」

 「今回も、そうする」

 私はほっとした。

 扉のところまで来ると、海香先輩が呼び止めた。

 「ひかり、最後に一つだけ」

 私は振り返った。

 「茜ちゃんの大会の話をしてるとき、すごく嬉しそうだったよ」

 私は、どう返していいか分からなかった。

 海香先輩は、陽菜ちゃんの話も、利香の話も、と付け足した。

 「困ってるだけの顔じゃなかった」

 小さく頭を下げて廊下へ出ると、熱くなった顔に空気が触れる。大丈夫だという保証をもらえたわけではないのに、来たときほど足が重くない。まだ答えのないことより、次にしてみたいことへ気持ちが向いている。

 私は携帯電話を取り出した。

 茜とのやり取りを開く。

 大会の日に、二人でどこかへ行こうと送ったまま、具体的な日を決めていなかった。

 体調が戻ったら。

 練習が落ち着いたら。

 そうやって、いつでも先へ延ばせた。

 私は画面を見つめ、文字を打った。

 『次の日曜日、体調がよかったら、午後、会える?』

 送る前に、一度読み直した。

 会えるかを聞いている。

 誰かに決めてもらうためではなく、私が会いたいから。

 それを足した。

 『茜と、ゆっくり話したい』

 送信の印がつくころ、音楽室から陽菜の音が聞こえ、あとを利香先輩が追いかける。二人でさらいながら待ってくれているらしい。返事はしまっていても届くのだから、と携帯を鞄へ入れ、音の方へ歩き出す。

 今日は、ちゃんと二人の音を聴こう。

 それから、茜と会う日が決まったら、二人にも話そう。

 一度に全部は、きっとできない。

 でも、今日することなら、一つずつ選べるかもしれなかった。

 音楽室の扉を開けると、陽菜が先に顔を上げた。

 「遅かったですね」

 「ごめん。ちょっと、相談してた」

 利香先輩が、椅子を一つ引いてくれた。

 「困ってた?」

 私は頷いた。

 二人の顔が、少し真剣になる。

 私はその顔を見て、慌てて誤魔化しそうになった。

 でも、やめた。

 「うん。困ってた。でも、二人と吹きたいのは、ちゃんと本当だから」

 陽菜が、少し困ったように笑った。

 利香先輩も笑った。

 「それなら、座って」

 私は、二人の間の椅子に座った。

 長いケースを開ける。

 今日は、自分が鳴らす最初の音も、ちゃんと聴ける気がした。


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