第二十五章 願い事のない日
白いブラウスを脱いで、水色のニットを胸に当てる。茜と会うだけなのに、きちんとしすぎても、普段に近くても落ち着かない。
そもそも普段は制服なのだから、比べる相手から間違っている。
鏡の前で二枚を比べていると、携帯電話が鳴った。
陽菜からだった。
『今日、茜と会うんですよね』
画面を前に、少し緊張する。日曜の午後に会うことは、練習のあとで二人にも話してある。そうですか、という陽菜も、楽しんでおいで、という先輩も、言葉どおりに受け取っていいのか、まだよく分からない。
『うん。午後から』
返事をすると、すぐに次が来た。
『茜、緊張すると飲み物を後回しにするので、適当に飲ませてください』
私は笑ってしまった。
『分かった。ありがとう』
『あと、私との約束も忘れないでください』
その一文で、口元がもっと緩んだ。
来月、陽菜とも休日に出かける約束をしていた。
放課後の寄り道より、ずっと長い時間のデート。
私は『忘れてないよ』と返した。
しばらくして、茜からも連絡が来た。
『今日はよろしくお願いします』
まるで伴奏合わせの連絡みたいだった。
私は、こちらこそ、と返してから、服を水色の方に決めた。
茜が緊張しているなら、私まで背伸びをしすぎない方がいい。
そう考えたのに、家を出る直前、鏡で前髪だけはもう一度確かめた。
改札横の壁に背をつけず、茜が立っている。いつもより小さく見えるのは、あの大きなケースがないせいだろう。私を待つ手には、鞄の持ち手しかない。
濃い色のスカートに、柔らかそうな白い上着。髪の片側を、小さなピンで留めていた。
茜が私に気づいて、背筋を伸ばした。
「こんにちは」
「こんにちは。待った?」
「今、来たところです」
改札の上の時計を見ると、約束の八分前だった。
私はそれ以上、確かめなかった。
茜も、私がどのくらい早く家を出たかは聞かなかった。
「その服、似合ってる」
言うと、茜は自分の袖を見た。
「変じゃないですか」
「変じゃない。かわいい」
茜の指が持ち手の上で止まる。急に言いすぎたかもしれないけれど、取り消す気はない。
彼女は視線を上げたり下げたりした末に、小さく言った。
「先輩も」
「ありがとう」
「……ちゃんと言おうと思ってたのに、先に言うから」
最後は、少し文句のようになった。
「ごめん」
つい笑いながら謝ると、茜の口元も少し緩む。
「謝らなくていいです」
その声を聞いて、ようやく会えたのだと落ち着く。
学校では何度も会っている。
けれど今日は、楽器のためでも、練習のためでもなかった。
お互いに会うためだけに、駅まで来た。
そのことを意識すると、急に、次の一歩が恥ずかしくなった。
「どこか、行きたいところある?」
私が聞くと、茜は少し考えた。
「先輩は?」
「私は、茜と話せるところなら」
言い終える前に、また茜の顔が赤くなった。
私は、自分が何か、とても困ることを言っているらしいと気づいた。
「えっと、変な意味じゃなくて」
「どんな意味なら変なんですか」
その質問には答えられなかった。
茜は口元を隠すように、鞄の持ち手を少し持ち上げた。
「図書館、でもいいですか」
「うん。本、借りたいの?」
「それも、あるんですけど」
茜が駅の外を指した。
「今、昔の町の地図が、展示してあって」
指の向こうの図書館には何度か行っている。けれど本棚ばかり見ていて、地図の展示があるとは知らなかった。
「面白そう」
私が言うと、茜は疑うような顔をした。
「本当に?」
「うん」
「地図ですよ」
「地図、嫌いじゃないよ。読むのは、あまり得意じゃないけど」
茜の口元が、やっと自然な形に戻った。
「じゃあ、案内します」
私は頷いた。
今日は私が先輩で、茜が後輩なのは変わらない。
でも、道を知っているのは、茜だった。
「今朝も、吹いてきたの?」
信号を待つ茜の指が、鞄の持ち手の上で動いている。さっきから同じところで止まるので、譜面を思い出しているのだとわかった。
「少しだけです。できないところが、一か所あって」
「少しって、どのくらい?」
聞き返すと、茜は携帯で時刻を確かめるような顔をした。朝の時間まで、今から確かめることはできない。
「……予定よりは、長くなりました」
私は、陽菜から来た飲み物の話を思い出す。よくなったところより、あと一回でできそうなところを見つける方が、茜はずっと早い。
「今日は、先にお茶も飲もうね」
「はい。じゃあ、そこまでは、手を貸してください」
差し出された手に応えると、譜面をさらっていた指が、私の指をほどけないように挟んだ。練習を忘れた顔で笑われ、心配していたこちらの方が、先に困ってしまう。
図書館の展示は、一階の奥の小さな場所にあった。
大きなパネルに昔の市街図が貼られ、その横に、今の同じ場所の写真が並んでいる。
私たちは声を落として、最初の一枚を見た。
「ここ、今の駅です」
茜が指す。
「駅、ないね」
「まだ、できる前の地図だから」
「あ、そっか」
笑いをこらえる茜の顔に、私まで口元が緩む。学校なら譜面の場所を教える方なのに、今日は尋ねるばかりだ。知らないことを、そのまま知らないと言えるのが楽しい。
「この曲がってる道、今もある?」
「あります。駅の裏の、細いところ」
「パン屋さんの横?」
「そうです。その先が、昔の川沿いだったらしくて」
茜は説明の書かれた札を指した。
地図と説明を見比べる。歩いているときは気にも留めなかった曲がり方が、昔の川に沿っている。いつもの町なのに、茜の指す場所から少しずつ見え方が変わる。
「よく見るの?」
私が聞くと、茜は頷いた。
「地図は、割と。行ったことないところでも、見てると面白いので」
「旅行、好き?」
「好きですけど、そんなに行けないから。地図だけ見て、ここ曲がったら何があるんだろうって考えたり」
そう言ってから、茜は少し照れた顔になった。
「地味ですよね」
私は首を振った。
「聞いてて、行きたくなる」
茜が私を見る。
「今の、パン屋さんの横の道とか」
「近いですよ」
「あとで、歩いてみたい」
私が言うと、茜は、いいですけど、と答えた。
その、けど、のあとに嫌な理由は続かなかった。
むしろ、次の地図を指す動きが、さっきより少し速くなった。
小さな橋や、なくなった建物、別の道につながる曲がり角。ときどき見当違いの場所を指してしまう私に、茜は、ここを先に見れば分かります、と一つずつ目印を教えてくれる。訂正されても急かされる感じはなく、次の質問が自然に浮かぶ。
説明する横顔は、大会で吹いていたときのようには張り詰めていない。好きなものを眺め、話し終えても出来を確かめようとはしない茜と、ここへ来られてよかった。
展示の最後には持ち帰れる案内があり、彼女が一枚を丁寧に折るのを見て、私も次の一枚を取った。
茜が私を見る。
「持って帰るんですか」
「うん。今日、見たところ、忘れないように」
茜は手元の紙をしばらく眺めてから、私の分も折りましょうか、と顔を上げる。お願いします、と渡すと、驚くほどまっすぐな折り目がついた。
図書館を出ると、風が少し冷たくなっていた。
私は上着の前を合わせた。
茜はすぐに気づき、寒いですか、と聞いた。
「少し。でも、歩けば平気だと思う」
「じゃあ、あまり遠回りしないで行きます」
頼もしい返事だった。
駅へ向かう大きな道を一本外れると、見覚えのあるパン屋さんがあった。
その横へ、細い道が続いている。
茜が歩幅を緩めてくれたので、隣へ並ぶ。地図を見なければ通り過ぎていた道に、二人分の足音が入っていく。
普通の住宅が並び、植木鉢があり、自転車が一台、門の中へ立てかけられている。
珍しいものがあるわけではない。
それなのに、曲がり角の先を見たくなった。
「茜、道に迷わなさそうだね」
私が言うと、茜は少し考えた。
「迷います」
「そうなの?」
「地図に載ってる道と、実際に通りたい道って、違うので」
「どういうこと?」
「こっちに面白そうなものがあると、そっちへ行くから」
私は笑った。
「それ、迷ったんじゃなくて、自分で行ってるんじゃない?」
「帰りに、ちょっと分からなくなるときが」
「迷ってるね」
「はい」
茜も笑った。
その声が、図書館よりずっと近くで聞こえた。
歩道が少し狭くなる。
向こうから自転車が来たので、私たちは端へ寄った。
すれ違ったあと、茜の手が私の手の近くにあった。
触れそうなまま、茜は前を向いている。道を確かめる必要もない直線なのに、こちらを見ない。その横顔を見上げると、私から動いてもいいのかもしれないと思う。
小指にそっと触れたところで、茜の足が止まる。私も隣で止まり、二人して、まだつながっていない手を見下ろす。
「つないでもいい?」
私が聞いた。
茜は頷いた。
とても小さく、でも、何度も。
取った指先は思ったより温かい。保健室で怖かった熱さとは違う、外を歩いてきた普通の手。その手が少し握り返してくれて、私ももう顔を上げられなくなる。
「先輩」
「うん」
「地図、見なくても、帰れますから」
何の話だろうと思ってから、茜のもう片方の手が空いていることに気づいた。
手をつないでいるから、案内の紙を出さなくてもいい。
そう言いたかったらしい。
私は笑いをこらえた。
「お願いします」
茜は真面目な顔で頷いた。
その耳だけが、赤かった。
少し歩いた先に、小さな喫茶店があった。
茜が、ここは入ったことがないです、と言った。
私は看板を見た。
食事もできるらしい。
「入ってみる?」
「外れだったら、すみません」
「茜のお店じゃないよ」
茜が少し笑う。手をつないだままだったことには、店員さんが二人分の椅子を引いてくれるまで気づかなかった。
離した指に温かさを残したまま、私は向かいへ座る。茜はもうメニューを開いていた。
とても真剣に見ている。
私は向かい側から、その顔を眺めた。
「迷ってる?」
「どれも、おいしそうで」
「お昼、食べたんだよね」
「少し」
少し、という答えが気になって、私は顔を上げた。
茜がすぐに付け足した。
「緊張してたからです。今日は、体調悪いとかじゃないので」
私はほっとした。
同時に、会うために緊張してくれたことが、くすぐったく嬉しかった。
「じゃあ、食べよう。私も、何か頼む」
結局、茜はオムライスを選んだ。
私はプリンとお茶にした。
注文を終えたあと、茜がメニューの写真をもう一度見た。
「おいしそうだった?」
「はい」
「私のも、一口どうぞ」
言ってから、陽菜との最初の寄り道を思い出した。
タルトを分けた日。
あのときのことを、茜との今の時間へ、どのくらい持ち込んでいいのだろう。
私は少し黙ってしまった。
茜が、それに気づいた。
「先輩、どうしました」
「ううん」
いつもの返事が出かけて、止めた。
「少し、考えてた」
「何を?」
「誰かと楽しくしてるときに、別の誰かのことを思い出すの、いいのかなって」
言ってから、デートの途中にする話ではなかったかもしれないと思った。
でも茜は、怒らなかった。
水の入ったコップを、両手で持った。
「陽菜ですか」
私は正直に頷いた。
茜は、少しだけ口を尖らせた。
平気ではないらしかった。
「楽しかったんですか」
「うん」
「じゃあ、私は、それより楽しくしたいです」
その返事に、私は困った。
「競争しなくていいんだよ」
「したいんです」
茜は言い切ってから、少し考えた。
「でも、ずっと比べられるのは、嫌です」
「比べようとは、してなかった」
「なら、いいです」
茜は水を飲んだ。
陽菜の言った通り、注文するまで手をつけていなかった。
私はそれを見て、また笑いそうになった。
茜が、眉を寄せる。
「今度は何ですか」
「茜が、水飲んでるから」
「飲みますよ」
「うん。よかった」
茜は怪しむように私を見たけれど、それ以上は聞かなかった。
料理が来ると、茜は話の続きを忘れたように目を輝かせる。今、私が知りたいのはこの顔だ。どんな食べ物に迷い、どんな道を歩きたくなるのか、隣で一つずつ見つけたい。
思ったよりしっかりしたプリンの感触に驚いていると、茜の目もこちらへ来る。皿を寄せれば、小さなお礼と一緒にスプーンが伸び、口へ運んだあとで同じ顔になる。
「好きです、これ」
「おいしいね」
「先輩が選ぶもの、いつも、大人っぽいと思ってたので」
「プリンは、大人っぽくない?」
「そういう意味じゃなくて」
茜は慌てて説明しようとした。
私は笑った。
「私、茶碗蒸しも好きだよ」
茜はスプーンを止めた。
「急に、渋いですね」
そう言われたことが、なぜか嬉しかった。
帰るころの淡い空の下で、さっきまで座っていた喫茶店の窓を振り返る。図書館から曲がった道を歩いて来ただけなのに、今日の茜を思い出す場所がもういくつもある。
茜は、持ち帰った地図の紙を鞄へしまうとき、レシートも同じところへ入れた。
「取っておくの?」
私が聞くと、茜は頷いた。
「今日のだから」
短い返事に、それ以上は尋ねず、私も鞄の紙を折れない場所へ入れ直す。
駅へ向かう道で、茜が口を開いた。
「先輩と会うのに、何も用意してなくて、大丈夫かと思ってました」
「用意?」
「いい演奏とか。話せることとか」
私は茜の方を見た。
茜は少し気まずそうに笑った。
「ずっと、練習してるところしか、見せてなかったから」
「今日は、地図、教えてくれた」
「そういうことじゃ」
「うん。分かってる」
私は歩く速度を落とした。
茜も合わせてくれた。
「何かできたから会いたいんじゃなくて、会いたいから、誘ったんだよ」
茜が私を見た。
その目を見て、私も少し恥ずかしくなった。
でも、言い直さなかった。
「今日、楽しかった」
私は続けた。
「茜が好きなもの、少し分かったから」
茜はうつむいた。
口元が、ゆっくり緩んでいく。
「私も」
小さな声だった。
「私も、楽しかったです」
改札の前に着いた。
別々のホームへ向かう前に、私は次も会いたいと言おうとした。
茜も、何か言いたそうだった。
二人で同時に口を開き、同時に止まる。
「茜から、どうぞ」
私が言うと、茜は迷ったあと、言った。
「来月の四日、誕生日なんです」
私は日付を頭の中で確かめた。
もう、すぐだった。
「十一月四日?」
「はい」
「教えてくれて、ありがとう」
そう答えると、茜は少し驚いた顔をした。
「何か、欲しいものある?」
私が聞くと、茜はしばらく黙った。
それから、首を振った。
「今は、ないです」
残った温かさを確かめるように、茜が一度指を握る。
その仕草を見ると、大会の願いを持ち出して何か頼ませるのは違う気がして、うん、とだけ返した。
「じゃあ、私が考えてもいい?」
茜は頷いた。
その頷きが、今日、手をつなぐ前と同じくらい慎重だった。
十一月四日の放課後、音楽室の隅で、陽菜が茜に小さな包みを押しつけた。
「はい」
「何」
「何って、誕生日でしょ」
茜は包みを見た。
私が近づく前に、口元が少し緩んだ。
「覚えてたんだ」
「忘れた年、あった?」
「小学生のとき、一回」
「それは、前の日に渡したからでしょ」
「前の日、自分で食べたじゃん」
陽菜が、私に気づいた。
すぐに茜を睨む。
「先輩の前で、昔の話しないで」
「覚えてるかって聞いたの、そっち」
私は二人を見て笑った。
その長い付き合いが、羨ましくなくなったわけではなかった。
でも今日は、そこに私の知らない茜の誕生日が何回もあることを、少し安心して眺められた。
私と付き合うためだけに、茜が急に生まれたわけではない。
その前から、好きな味も、怒り方も、覚えていてくれた人がいる。
陽菜は私を見ると、茜を軽く肘でつついた。
「帰り、先輩と約束してるんでしょ。今日、延長しないでよ」
練習のことだった。
茜は頷いた。
「分かってる」
陽菜は、それならいい、と言って、自分の楽器のところへ戻った。
途中で一度だけ振り返り、私を見た。
私は小さく頷いた。
何を頼まれたわけでもない。
でも、返事をしたくなった。
誕生日の寄り道には、図書館の日に入った喫茶店を選んだ。今日は二人とも制服姿で、あの日の席は空いていない。入口から少し離れた二人席へ座るなり、茜がメニューも開かずプリンと言うので、私は笑ってしまった。
「もう決まってるんだ」
「前、おいしかったから」
私もプリンを頼み、飲み物を待つあいだに鞄から包みを出す。差し出した途端、茜が両手を揃えてくれるので、渡す方まで丁寧になる。
「開けていいですか」
「うん」
テープを剥がすのに、ずいぶん時間をかけた。
紙を破らないようにしているらしかった。
私は、そんなに綺麗にしなくても、と言いかけて、やめた。
自分がもらったら、私も同じことをするかもしれない。
包みの中には、深い緑色のマフラーを入れてあった。
大きすぎず、制服でも私服でも使えそうなものを選んだ。
茜は広げ、指で布の端に触れた。
「……これ」
「この前、帰り、少し寒かったでしょう」
私は言った。
「これから、もっと寒くなるから。もし、よかったら」
首元に当てた茜は、鏡の代わりに私の顔をうかがう。緑色が頬のそばに来ると、店で想像していたよりずっと似合う。
「どうですか」
「似合ってる」
私は、今度は迷わず答えられた。
茜は布を握った。
「ありがとうございます」
その声が少し震えたので、私は焦った。
「色、好みじゃなかった?」
「好きです」
すぐに返ってきた。
「色も。これも」
茜は言葉を止め、私を見た。
「先輩も」
私が言葉に詰まると、茜が一瞬だけ勝ち誇る。その顔もすぐ照れに変わり、プリンが来るまで、二人でメニューの裏を眺めることになった。
帰り道、茜はさっそくマフラーを巻いた。
制服の襟の上で、緑が柔らかく見えた。
私が巻き方を直そうと手を伸ばすと、茜はじっと動かなくなった。
近づきすぎたことに、あとから気づく。
布の端を整え、私は半歩下がった。
「これで、大丈夫」
「はい」
茜は、自分ではもう触らなかった。
駅まで歩く間、何度も首元を見たそうにしていた。
「気になる?」
私が聞くと、首を振った。
「ほどけてないか、ちょっと」
「ほどけたら、また結べるよ」
「先輩が、やってくれたので」
そう言われると、私はもう、簡単に直せばいいとは言えなかった。
「あと、もう一つ、直してほしいところがあります」
茜が立ち止まり、マフラーの上から頬を指す。
何もついていない。そう答えかけたところで、待っている目と合った。
「ここに、お誕生日の分を」
「それ、直すのとは、違うよね」
「はい。してほしいだけです」
小さな声なのに、最後まで逃げない。私は周りを確かめ、道の端で、頬に短く口づけた。
離れても、茜は手を取ったままだ。
「次は、こっちでもいいですか」
今度は唇を見るので、私は返事を一つも用意できなくなる。茜の方が先に、次のときでいいです、と笑った。頼むところまで頼んでから待たれると、こちらだけが、その先を考えてしまう。
信号待ちで、今日は茜から手を取ってくれる。前に一度つないだくらいでは慣れなくて、二人とも前を向く。指先だけが、相手の返事を確かめている。
「十六歳、おめでとう」
私はもう一度言った。
「ありがとうございます」
「今日、一緒にいられて、よかった」
茜の指に、少し力が入った。
「次は」
言いかけて、茜が止まった。
私は続きを待った。
「次、会うの、いつなら大丈夫ですか」
その誘いが、胸へゆっくり届く。大会も誕生日も、次に会うための条件ではなくなったのだ。
私は、鞄の予定を思い浮かべた。
三重奏の練習。
陽菜との休日。
利香先輩と会う日。
試験の前には、自分の勉強もしなければならない。
どれも、ないことにはできない。
その間に、茜と過ごしたい時間を、自分で作る。
「来週の水曜日、放課後なら」
私は言った。
「今度は、駅の反対側、歩いてみたい」
茜が私を見た。
「何もないですよ。たぶん」
「何があるか、教えて」
茜は少し笑った。
「じゃあ、地図、見ておきます」
信号が青になり、つないだ手をそのままに歩き出す。
次に会う日は、大会でも誕生日でもない。それがどんなお祝いの言葉より嬉しいのだと、握り返してくる手から伝わった。




