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第二十六章 最初の恋人との特別な休日

 陽菜から届いた予定には、集合時刻のほかに、乗る電車と、乗り換えの場所と、改札を出たあとの出口まで書いてあった。

 下へ送ってもまだ続く。歩きやすい靴、羽織るもの、折り畳み傘。持ち物まで読み終えた最後に、一行だけ私へ向けた言葉がある。

 『楽しみにしていてください』

 ベッドの上で膝を抱えて読み返す。楽しみなはずなのに、これだけの予定を一つも間違えずに過ごせるか、当日の私が早くも心配になる。

 翌日、音楽室で陽菜にそう言うと、本人は少し驚いた顔をした。

 「先輩が覚えなくても、大丈夫ですよ。私がいるので」

 「でも、すごく細かく考えてくれたから」

 「細かく考えたのは私です。先輩の宿題じゃないです」

 その言い方がおかしくて、私は笑った。

 陽菜は、笑わせるつもりではなかったらしい。

 少し口を尖らせたあと、私の楽譜を覗き込んだ。

 「それより、ここ。次の入り、もう一回だけ合わせてもらっていいですか」

 頷いて楽器を持ち直せば、さっきまで乗り換えを教えてくれていた陽菜が、オーボエを構えて私の息を待つ。

 どちらが先輩か分からなくなることは、最近、ずいぶん増えた。

 けれど、それが嫌ではなくなってきていた。


 日曜日の待ち合わせ場所で、陽菜が大きく手を振っている。やっぱり先に来ていた、と思うより、その手で揺れる紙袋が気になる。何をあんなに用意してくれたのだろう。

 「おはようございます」

 「おはよう。何、その袋」

 「朝ごはんです。電車で食べる時間がなかったら、着いてからと思って」

 「朝ごはんは、食べてきたよ」

 「私もです」

 二人で袋を見下ろす。予定には食事の時間まであったのに、このパンは何人分なのだろう。

 「……じゃあ、おやつにしましょう」

 何事もなかったような陽菜に、私は笑って頷く。

 柔らかな色の上着と赤い線の入ったチェックのスカートに、髪のリボンまで学校とは違う。見ていることに気づかれ、少し顎を上げられた。

 「何ですか」

 「似合ってるなと思って」

 「どれが」

 「服も、リボンも」

 陽菜は口元を押さえそうになり、途中で手を下ろした。

 「ありがとうございます。先輩も、かわいいです」

 今度は私が、手をどこに置けばいいか分からなくなった。

 陽菜は満足そうに笑って、改札を指した。

 「行きましょう」

 私は頷いた。

 今日の行き先は、星見丘公園の遊園地だった。

 大きな遊園地ではない。

 観覧車と、小さな乗り物と、ゲームの建物がいくつかある、街の人が休日に行くような場所だ。

 子どものころ、一度だけ家族と来た記憶があった。

 何に乗ったかは覚えていない。

 入口の横で、父が買ったソフトクリームを、私が持った途端に傾けたことだけ覚えている。

 その話を電車ですると、陽菜はとても楽しそうに笑った。

 「先輩、昔からですか」

 「昔からって、何が?」

 「かわいいところ」

 私は窓の外を見た。

 反射した自分の顔が赤かったので、余計に困った。


 遊園地の入口では、家族連れが何組も並んでいた。

 遠くで、小さな汽車のベルが鳴っている。

 陽菜は切符を買い、案内図を受け取り、ほとんど迷わず左へ進んだ。

 私はついていきながら、案内図の端を覗いた。

 「どこから?」

 「こっちです。混む前に」

 最初は、二人で乗れる回転する乗り物だった。

 自分で回す部分がついている。

 座るなり陽菜がそこへ手を置いたので、私は念のために聞いた。

 「たくさん回す?」

 「先輩は?」

 「少しでいいかも」

 陽菜は頷いた。

 始まると、風が頬に当たった。

 周りの景色がゆっくり回り、陽菜の髪の先が揺れる。

 陽菜は約束どおり、強く回さなかった。

 それでも乗り物そのものが曲がるたびに、私の身体は少し横へ寄った。

 曲がる勢いで肩がぶつかり、慌てて身を戻そうとすると、陽菜は笑って動かずにいる。

 「そのままでいいですよ」

 「でも、重いでしょう」

 「全然」

 そう言う陽菜も少し寄り、肩同士が触れる。回る景色よりそこばかり気になり、最後まで前を見られないままだった。

 降りると、陽菜が顔を覗き込む。

 「酔いました?」

 「違うと思う」

 「違うと思うって、何ですか」

 私は答えられなかった。

 陽菜はしばらく私を見て、それから急に笑顔になった。

 「じゃあ、次は、もっとくっついても大丈夫ですね」

 私は、そういう話では、と言いかけた。

 でも、そういう話だった気もして、黙った。


 午前中の陽菜は、私の反応を確かめるのに忙しい。

 列の長さを見て行き先を変え、私が看板を見れば立ち止まる。飲み物を買うときも、冷たいのと温かいのと、どちらがいいか先に聞いてくれた。

 それは嬉しいけれど、三つ目の場所へ向かう途中、彼女自身はほとんど飲んでいないことに気づく。

 「陽菜も、飲んだら?」

 「はい。歩きながら」

 「座ろう」

 近くのベンチを指すと、陽菜が腕時計へ目をやる。その仕草に、茜の練習時間を気にしていた自分が重なり、私は言い直した。

 「少し、座りたい」

 自分の希望として言うと、陽菜はすぐ頷いてくれた。

 日向のベンチに腰を下ろし、背中に温かさを感じていると、隣で紙袋が開く。朝から持ってきたパンが中に並んでいた。

 小さなものが二つずつ、何種類かある。

 「どれが好きですか」

 陽菜が聞く。

 私は袋を見てから、陽菜を見た。

 「陽菜は?」

 「先輩が先に選んでください」

 「一緒に選ぼう」

 そう言うと、陽菜は少し困った顔をした。

 二人で袋の中を覗き込む。

 私はチーズの乗ったものを指し、陽菜は甘そうな丸いものを取った。

 その選び方が、あまりにも私たちらしかったので、目が合った瞬間、二人で笑った。

 一緒にパンをかじっている今、陽菜は次の予定を言わない。午前中ずっと何かに間に合わせようとしていた人が、ようやく甘いものを食べている。

 頬についた砂糖を見つけ、紙ナプキンを差し出す。

 「ここ」

 自分の頬を指す。

 陽菜は慌てて拭いた。

 「取れました?」

 「もう少し」

 「先輩、取ってください」

 言われたので、私は指先でナプキンを持ち、そっと頬に当てた。

 陽菜が動かなくなった。

 さっきまでの勢いが、急に消えた。

 「……取れたよ」

 私が言うと、陽菜は一拍遅れて頷いた。

 「はい」

 その頬は、砂糖がついていたところより広く赤くなっていた。

 いつも私ばかり慌てていると思っていたのに、陽菜も頬を拭かれるだけでこんな顔になる。それが私のせいだと思うと、ナプキンを畳む指にまで嬉しさが残る。


 昼前に出てきた雲は薄く、空も明るいままだったので、陽菜もすぐ流れると思うと言っていた。

 けれど次に外へ出ると、木の枝はさっきより大きく揺れている。

 遠くに見える観覧車が止まっている。

 陽菜の足が、ぴたりと止まった。

 「……え」

 入口まで行くと、係の人が、風のため一時的に運転を止めていると説明してくれた。

 再開の時刻は、まだ分からないらしい。

 陽菜は、そうですか、と答えた。

 声だけは落ち着いていた。

 案内板から離れると、すぐに携帯電話を出した。

 画面を上へ下へ送る。

 私は隣で待った。

 「先に、ほかへ行きましょう。あとで戻れば」

 頷いて、別の屋外の乗り物へ向かおうとしたものの、そちらにも案内待ちの列ができている。

 そのうち、手の甲へ小さな雨粒が一つ落ちた。

 陽菜が空を見上げる。

 二つ目が落ちた。

 「屋根のあるところへ行こう」

 私が言うと、陽菜はすぐに近くの建物を指した。

 走るほどの雨ではなかった。

 それでも、屋根の下へ入った途端、陽菜の肩が落ちた。

 「昨日まで、晴れって」

 「うん」

 「午前中も、晴れてたのに」

 空のせいだから仕方ないと言いかけ、案内図を濡れないよう屋根の下へ引く。何度も開いた跡のある紙に載る道を、今日は思いどおりに進めない。

 私は陽菜の袖へ触れた。

 「ここの中、見てみよう」

 入った建物は、昔ながらのゲームが並ぶ場所だった。

 ボールを投げるものや、小さな輪を入れるもの。

 景品のぬいぐるみが、壁際に並んでいる。

 陽菜はその一つを見て、少しだけ顔を上げた。

 白いあひるだった。

 目が半分閉じていて、何を考えているのか分からない顔をしている。

 私はその顔を見て笑った。

 「眠そう」

 「先輩みたい」

 「私、そんな顔してる?」

 「朝、たまに」

 陽菜はそう言ってから、少し元気を取り戻したように台の前へ進んだ。

 「取ります」

 私は、急な宣言についていけなかった。

 「自分の分?」

 「先輩にあげる分です」

 係の人から小さな輪を受け取り、陽菜が構えた。

 私は少し後ろで見守った。

 手前で跳ねた一投目を見て、陽菜は少し強く投げる。今度は越えてしまい、三投目が惜しいところで止まった。

 台を見つめる背中に何と声を掛けようか迷っていると、本人が先に振り向く。

 「もう一回」

 「うん。一回なら」

 私の返事を聞いて、陽菜は少し目を細めた。

 「止める気でした?」

 「ずっとやったら、あひるが何羽も買えそうだから」

 聞こえないふりをする係の人から、陽菜がもう一度輪を受け取る。結んだ唇には気合いが入っているのに、一つも入らず、最後の輪まで台に当たる。

 陽菜は目を閉じてしまった。あひるの方は相変わらず、何も気にしていない顔でこちらを見ている。

 「私も、一回やってみていい?」

 そう聞くと、陽菜は少し驚いた。

 「いいですけど」

 受け取った輪を投げてみても、一つ目、二つ目とあっさり外れる。最後の一つを構えたところで、陽菜が横から声を掛けてきた。

 「手、最後まで前に出した方がいいです」

 最後まで手を出すつもりで投げる。台の上で揺れた輪が棒に収まり、陽菜の声に振り向くと、私と同じくらい驚いている。その顔を見てから、入ったのだと実感する。

 係の人が、ぬいぐるみを取ってくれる。

 私が受け取ると、陽菜が複雑そうな顔をした。

 「……私が、取るつもりだったのに」

 私はあひるを見た。

 それから、陽菜へ渡した。

 「じゃあ、私から」

 陽菜の両手に、白いあひるが収まった。

 陽菜はそれを見下ろしたまま、しばらく動かなかった。

 「いいんですか」

 「うん。陽菜が教えてくれたから、入ったんだと思う」

 「たまたまかもしれません」

 「たまたまでも、陽菜にあげたい」

 顔を上げた陽菜に照れても、差し出した手は戻さずにおく。

 腕の中のあひるは眠そうなままなのに、持ち主の表情だけが忙しく変わっていく。


 雨は、しばらくして弱くなった。

 でも、観覧車はまだ止まっていた。

 陽菜は案内板の方を見てから、携帯電話をしまった。

 「すみません」

 私は首を傾げた。

 「何が?」

 「ちゃんと考えたのに、全然、予定どおりにならなくて」

 私は、楽しいよ、とすぐ言おうとした。

 けれど陽菜の顔を見たら、その一言だけでは届かない気がした。

 少し離れた、雨の当たらないベンチへ移る。

 陽菜があひるを膝に乗せた。

 あひるの白い頭より少し低くなった陽菜の顔を、隣から覗く。

 「楽しみにしてた?」

 私が聞くと、陽菜はむっとした顔をした。

 「してましたよ。当たり前じゃないですか」

 「私も」

 「先輩は、いつも、そう言ってくれるけど」

 小さくなる声の続きを、屋根から同じ場所へ落ちる雨粒と一緒に待つ。

 陽菜が、あひるの頭を一度押した。

 すぐに元に戻る。

 「最初の恋人なんです」

 私は陽菜を見た。

 「うん」

 「私が、最初なんです。今も、それは変わってないのに」

 陽菜は、自分でも何を言いたいのか探すように、言葉を止めた。

 「なのに、何をするにも、先を越された気がして」

 六月の音楽準備室が、頭に浮かんだ。

 利香先輩のキス。

 私が何も言う前に決まった、二人の関係。

 陽菜はそのあとも、最初だから、と何度も言った。

 あれは、単に順番を主張しているだけではなかったのかもしれない。

 「今日くらい、先輩に、私といるのが一番楽しいって、思ってもらいたかった」

 陽菜の声は、怒っていなかった。

 それが、いつもよりずっと胸に響いた。

 私は膝の上の手を見た。

 誰が一番かと聞かれたら、きっと答えられない。

 それを誤魔化すために、みんな同じだと言うのも違う。

 陽菜といるときの嬉しさは、陽菜といるときにしかない。

 私は、そのことを言いたかった。

 「私、今日、陽菜が笑うの見たくて来た」

 陽菜が顔を上げた。

 「案内を間違えない陽菜に、連れてきてもらうためじゃなくて」

 私は続けた。

 「パンを選んだり、輪が入らなくて悔しがったり、私のことからかったり。そういうの、見たかった」

 「悔しがってるのもですか」

 「うん。ごめん」

 陽菜が、少し笑った。

 私はその笑顔を見て、やっと息を吐いた。

 「今日、楽しいよ。予定が変わる前も、変わったあとも」

 陽菜は黙って、あひるを抱え直した。

 しばらくして、小さく言った。

 「先輩、そういうこと、急に言いますよね」

 「言った方がいいと思って」

 「言ってください。これからも」

 私は頷いた。

 陽菜は私の肩へ、そっと自分の肩を寄せた。

 今度は、乗り物が回っているせいではなかった。

 「陽菜。二人のときは、ひかりって呼んでみない?」

 肩にあった重みが離れる。私が急に頼んだせいで、陽菜はあひると私を交互に見た。

 「呼び捨てで、ですか」

 「うん。敬語も、なくていい。陽菜がどうしたいか、私に遠慮しないで話してほしいから」

 「そんなに遠慮して見えます?」

 「見えないことも、多いけど」

 すぐに言い返されて、私も笑う。陽菜は口を開き、一度、何も言わずに閉じた。

 「……ひかり」

 呼ばれた私より、呼んだ陽菜の方が赤くなった。

 「うん」

 「だめ。落ち着かない」

 陽菜はあひるの頭へ顎を載せ、しばらく考えてから、私を見上げる。

 「ひかりさん、なら」

 「さん、はつくんだね」

 「そこまで、いっぺんには無理。でも、敬語はやめる。二人のときだけ」

 言い終えたあとで、どう、と目で尋ねてくる。私は頷き、近すぎた肩を、今度は自分からそっと戻した。

 「嬉しい」

 「……そういうこと言うから、呼び捨てにできないんだけど」

 照れたままの文句を、私も笑って聞ける。先輩だから落ち着いていなければと考えずに、もう一度、名前を呼んでほしくなった。


 公園の奥に、小さな温室があった。

 案内図を見て私が行ってみたいと言うと、陽菜は目を丸くした。

 「植物、好きなの?」

 「詳しくないけど。暖かそうだし」

 「理由が現実的」

 「雨で冷えちゃった」

 陽菜は笑って、行こう、と立ち上がった。

 入口で傘を畳み、二人で中へ入る。

 ガラスの向こうの空は曇っていたけれど、中は明るかった。

 大きな葉の下に、見たことのない小さな花があった。

 陽菜が読む札と小さな花を交互に見ても、名前が頭に残らない。色を確かめているあいだに、最初の音から分からなくなる。

 「今、読んだばかりだよ」

 陽菜に言われ、私は笑った。

 「陽菜は、覚えた?」

 陽菜も答えられず、二人で同じ札へ戻る。さっき読んだ字のはずなのに、もう初めて見る名前のようだ。

 楽器の名前や曲名なら、長くても覚えられるのに、知らないものは、目の前にあっても、うまく頭へ入らない。

 でも、花の色は覚えられた。

 陽菜がその前で笑った顔も。

 通路の広いところで、陽菜が携帯電話を出した。

 「写真、いい?」

 私は頷いた。

 陽菜が私だけを撮ろうとしたので、私は腕を伸ばした。

 「一緒がいい」

 陽菜の動きが止まった。

 「……はい」

 並んで画面を見る。

 肩が触れる。

 さっきまでは平気だったのに、写真に残ると思うと、急にどういう顔をすればいいか分からなくなった。

 陽菜が笑った。

 「ひかりさん、証明写真じゃない」

 「分かってる」

 「全然、分かってる顔じゃない」

 私まで笑った瞬間に撮影の音がして、二人とも少し変な笑い方のまま画面に残る。撮り直さない、と言う陽菜に頷く。綺麗に笑い直すより、この顔を持って帰りたい。


 温室を出るころには、雨がやんでいた。

 葉の先に残った水が、風で時々落ちる。

 午前中より人通りの減った公園を、遠回りしてゆっくり歩く。陽菜はもう時計に目をやらず、その代わり、何度も私の顔を見るようになった。

 初めは気づかないふりをしていたけれど、あまりに繰り返すので足を止める。

 「何か、ついてる?」

 陽菜が目を逸らした。

 「ついてない」

 「じゃあ、どうしたの」

 あひるの袋が右へ、また元の手へ移る。いつもの陽菜ならもう二つは言い返している時間を、今日は何も言わずに待ってみる。

 少し離れたところに、屋根のついた休憩場所があった。

 陽菜がそちらを見たので、私は一緒に歩いた。

 誰も座っていなかった。

 濡れていない端のところへ腰を下ろす。

 陽菜は袋を膝に置き、しばらく、その持ち手を見つめた。

 「ひかりさん」

 「うん」

 「私、まだ、一回もしてないんだけど」

 何を、と聞きそうになった。

 陽菜の視線が、私の口元で止まった。

 私は息を吸いかけ、そのまま止めた。

 「あ」

 私の口から出たのは、それだけだった。

 陽菜が、少しだけ怒ったような目をした。

 「忘れてた?」

 「忘れたというか」

 「利香先輩には、あんなに急にされたのに」

 膝の上の手は何度もつないでもらったし、寄り道も、好きだという言葉も重ねてきた。なのに陽菜とのキスだけは、まだなのだ。

 陽菜は、私を待っていたのだろうか。

 それとも、自分からできる日を探していたのだろうか。

 私はそっと聞いた。

 「今日、考えてくれてた?」

 陽菜は、遠くの観覧車を見た。

 まだ、動いていなかった。

 私は、その視線で分かってしまった。

 陽菜が慌てて言う。

 「別に、どこでもいいわけじゃないんだけど、そこじゃなきゃ駄目ってわけでも」

 言葉が、いつもよりうまく並んでいなかった。

 私は、かわいい、と思った。

 今、口にしたら怒られるかもしれない。

 でも、どうしようもなく、そう思った。

 陽菜が私を見る。

 「笑わないで」

 「笑ってないよ」

 「少し、笑ってる」

 たぶん、笑っていた。

 嬉しくて。

 私は身体を少し陽菜の方へ向けた。

 陽菜の背中が伸びる。

 「私から、してもいい?」

 聞くと、陽菜の顔から、文句を言うための表情が消えた。

 小さく頷いた。

 小さな頷きを見届けて近づく。どこで息を吸えばいいかさえ分からなくて、本番前に覚えたどんな落ち着き方も役に立たない。

 そっと唇に触れる間、陽菜も黙っていた。

 離れても目を閉じたままなので、ちゃんとできたのかと不安になる。名前を呼びかける前に、彼女が目を開けた。

 何か言おうとして、口を閉じる。

 もう一度、開く。

 「……ひかりさん」

 「うん」

 「今、すごく、恥ずかしい」

 私は笑いそうになって、こらえた。

 「私も」

 袖をつかむ力は弱いのに、身を戻しかけるとついてくる。まだ離れないでほしいのだと、言われるより先に伝わる。

 「もう少し、ここにいて」

 私は頷いた。

 観覧車は動かなかった。

 それでも、その日のことを思い出すとき、私は、止まった観覧車も一緒に好きになるのだろうと思った。


 帰りの電車で、陽菜は白いあひるを鞄の上に乗せていた。

 私は隣に座り、ときどき、その半分閉じた目を見た。

 「名前、つける?」

 聞くと、陽菜は少し考えた。

 「ひかりさん」

 「それは、困る」

 「じゃあ、あひるの方は保留。呼ぶと二人で振り向きそうだから」

 陽菜はあひるの頭を軽く撫でた。

 私は窓の外を見た。

 雲の切れ間から、夕方の光が差していた。

 今日の予定は、半分くらい、変わったのかもしれない。

 でも、その変わった方を一つも消したくなかった。

 陽菜が私の手を取った。

 膝の上で、静かにつなぐ。

 私は握り返した。

 「次は」

 私が言うと、陽菜が顔を上げた。

 「次は、私も、行きたいところ考えてくるね」

 陽菜は少し驚いたあと、笑った。

 「うん。楽しみにしてる」

 朝のメッセージより、少しだけ近い話し方だった。

 今度は、私が受け取る番だった。

 電車が駅へ近づく。

 陽菜は、降りる準備をする前に、私の方へ少しだけ寄った。

 「ひかりさん」

 「うん?」

 「私との、初めてのキスの日、ちゃんと覚えててね」

 私は頷いた。

 忘れないと思った。

 頬の砂糖も、入らなかった輪も、覚えられなかった花の名前も、きっと一緒に思い出す。止まった観覧車を背に、強気な陽菜が私の返事を待っていた顔まで、同じ休日の中にある。

 私はつないだ手を、少しだけ強く握った。

 「覚えてる。これからも」

 陽菜は、満足そうに笑った。

 最初の恋人だった。

 その事実は、今も変わっていない。

 でも、今日、私が大事にしたいと思った陽菜は、その順番だけでは、とても言い表せない人だった。


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