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第二十七章 先輩が先輩でなくなる午後

 映画館の入口で先輩を見つけたのは私の方が先で、向こうは携帯から顔を上げない。声を掛けるとようやく、よく知っている笑顔が戻ってくる。

 「おはよう、ひかり」

 「おはようございます」

 先輩は落ち着いた色のコートを着ていた。

 制服ではない先輩を見るのは初めてではない。

 それでも休日に、私に会うためにその服を選んでくれたのだと思うと、駅から歩いてきたときより緊張した。

 今日は、十一月の真ん中の日曜日だった。

 陽菜と出かけた次の週。

 日付を決めるとき、先輩は自分の模試や学校の予定を確かめてから、空いている日を教えてくれた。

 三年生の秋に、私と出かける時間を作ってもらっていいのだろうか。

 そう聞くと、先輩は、私が会いたいから空けるの、と答えた。

 その言葉を、私は今朝も思い出していた。

 「寒くなかった?」

 先輩が聞く。

 「大丈夫です。先輩は、待ちました?」

 「少しだけ。券を出そうと思ったら、うまく見つからなくて」

 私は画面を覗き込んだ。

 メールの一覧だった。

 「予約の?」

 「うん。さっきまでは、あったのに」

 先輩は眉を寄せ、もう一度画面を送った。

 私は、探しましょうか、と言いかけてやめた。

 私の知らない先輩の連絡も、そこにはある。

 勝手に覗いていいものではなかった。

 先輩が検索欄に映画館の名前を入れると、探していたメールはすぐに出てくる。そのあっけなさに、二人で画面を見つめてしまう。

 「……最初から、こうすればよかった」

 ぽつりと言った声が、いつもより幼かった。

 私は笑いそうになった。

 先輩が私を見る。

 「今、ちょっと笑ったでしょう」

 「少し」

 正直に答えると、先輩は困ったように笑った。

 「今日、格好よく始めるつもりだったのに」

 私は、もう十分格好いいです、と言いそうになった。

 でも、そう言ったら、今の先輩の顔が隠れてしまう気がした。

 「ちゃんと、間に合いました」

 そう答えると、先輩は少し驚き、それから頷いた。

 「そうね。行こう」


 映画は、先輩が選んだものだった。

 小さな町で暮らしていた二人の友達が、大人になってから、昔出せなかった手紙を届けにいく話。

 派手な場面はなく、駅のホームや、台所や、古い庭が、ゆっくり映った。

 初めは隣のことばかり気にしていた。肘掛けの手、膝に畳まれたコート、小さく息を吐く音。画面の隅よりそちらの方がよく見える。けれど手紙を書き直す主人公を追ううちに、先輩の手を確かめるのを忘れていた。

 主人公は、昔の友達に会うために、何度も手紙を書き直した。

 書き直すたびに、きれいな言葉になっていく。

 けれど、本当に言いたいことだけが、少しずつ後ろへ押しやられていた。

 私はその場面で、去年の冬を思い出しかけた。

 すぐに、画面の中の人へ戻った。

 今日は私の失恋を見に来たわけではない。

 でも、見ている人の記憶に、勝手に触れてくる話だった。

 終わり近く、隣で鞄を探る音がする。そっとハンカチを差し出すと、こちらを見た先輩の目が、暗くても濡れていると分かる。少し迷ってから受け取る指には、いつもの迷いのなさがない。

 映画が終わり、明かりがついても、先輩はすぐには立たなかった。

 私は隣で待った。

 先輩が、ハンカチを丁寧に畳む。

 「ごめん。また借りちゃった」

 「大丈夫です」

 「洗って返すね」

 私は頷いた。

 先輩は少し困った顔をした。

 「泣くと思ってなかった」

 映画の最後にあったのは、派手な別れではない。同じ台所に立つ二人が、昔好きだったお茶の味を、それぞれ少し違って覚えている。それだけの場面だから、かえって胸に残った。

 「よかったですね」

 私が言うと、先輩は頷いた。

 「うん」

 その返事には、いつものように、私を安心させるための余裕がなかった。

 ただ、自分がよかったと思ったものを、よかったと言う声だった。

 私はその声を、もっと聞きたいと思った。


 昼の光に目を細めて映画館を出ると、お腹が空いていたことを思い出す。近くの店で食べたあとも、まだ帰るには早い。少し歩いてもいい、と聞いてくれた先輩と、葉の減った川沿いの並木へ向かう。

 歩道の端では、小さな子が落ち葉を集めている。

 私たちは、その邪魔にならないように、少し川の方へ寄って歩いた。

 先輩の話には、私が見逃した仕草がいくつも出てくる。代わりに私が台所の場面を話せば、何度も頷いてくれる。同じ映画を隣で見ても、覚えているところまで同じにはならない。

 主人公が手紙を出せなかった場面を、私はもどかしいと思った。

 先輩は、分かる気がしたと言った。

 言ってから、少しだけ黙った。

 沈黙に去年の冬が重なる。今日こそ聞こうと朝から決めていたのに、楽しい時間をもらうほど、その中へあの日の話を持ち込むのが怖くなる。

 利香先輩と付き合っている。

 ずっと欲しかったことが、今は本当になっている。

 それなのに、なぜ欲しかったときにはもらえなかったのかを聞くのは、欲張りなのだろうか。

 私は、川の流れを見た。

 先輩が歩みを緩めた。

 「ひかり」

 私は顔を上げた。

 「言いたいこと、ある?」

 気づかれていた。

 私は、一度だけ頷いた。

 先輩は辺りを見回し、少し先のベンチを指した。

 「座ろうか」

 私は頷いた。

 日の当たるベンチで、先輩は鞄を足元へ置き、身体ごとこちらを向く。膝の手を握り直しても急かされない。用意した問いを、顔を上げて渡す。

 「去年の、ことなんですけど」

 口にすると、喉が狭くなった。

 先輩は頷いた。

 「うん」

 「どうして、付き合えなかったんですか」

 川を渡る風が先輩の髪を頬へ運ぶ。耳へかけ直す手を見つめ、すぐには来ない返事を待つ。去年は一度答えをもらうと、それ以上嫌いだと言われるのが怖くて、何も聞けなくなった。今日はその先を知りたいから、急がせずに待てる。


 先輩は、両手を膝の上に置いた。

 指先を組みかけ、やめた。

 「ひかりは、私が、どういう人だと思ってた?」

 私は少し戸惑った。

 質問の答えを質問で返されたことより、その内容に迷った。

 思い浮かぶものは、たくさんあった。

 優しくて落ち着いていて、何を聞いてもすぐには困らない。吹きすぎた私のそばに水筒を置いてくれるし、練習がうまくいかなかった翌朝も同じ声で挨拶してくれる。

 一つ話すと次が浮かぶ私を見て、先輩は小さく笑う。

 「ずいぶん、いい人だね」

 「いい人だと思ってます」

 「うん」

 先輩は川の方を見た。

 「ひかりが入ってきたとき、嬉しかったの」

 私は黙って聞いた。

 「中学でずっと全国へ行ってた子が、同じ楽器で入ってくるって聞いて。どんな子なんだろうって、少し怖くもあった」

 先輩は、当時を思い出すように目を細めた。

 「もっと、何でもはっきり言う子かと思ってた。私はこう吹きます、ここの指はこうです、って。実際は、備品の場所を聞くのにも遠慮してるし」

 私は、少し恥ずかしくなった。

 聡美先輩にも、同じころのことを覚えられていた。

 「頼ってくれるの、嬉しかった」

 先輩は言った。

 「でも、楽器を持つと、全然違った」

 私は、自分の手を見た。

 オーボエを持っていない、休日の手だった。

 「私が何日もかかったところを、ひかりは、少し見ただけで吹ける。先生が私に言ったことを、ひかりに聞けば、どうすればいいか、すぐ分かる」

 先輩は笑わなかった。

 「最初は、助かった。上手な後輩で、よかったって、本当に思った」

 風が吹いた。

 私はコートの前を押さえた。

 先輩は、私が押さえ終わるのを待ってから続けた。

 「そのうち、ひかりが私を見る顔が、少し変わったでしょう」

 私は息を止めかけた。

 先輩を好きになったことは、隠せていなかった。

 同じパートで、毎日隣に座っていた。

 隠せると思っていたのは、私だけだったのかもしれない。

 「嬉しかった」

 先輩は、もう一度言った。

 「でも、何を好きでいてくれるんだろうって、分からなくなった」

 私は顔を上げた。

 「さっき、言いました」

 「うん。今は、聞けた」

 先輩は私を見た。

 「そのときは、勝手に考えてた。ひかりは、私が先輩だから、ちゃんとして見えるだけなんじゃないかって。本当は、吹けないところも、分からないことも、ひかりよりずっと多いのに」

 私は、胸の中で何かがつかえるのを感じた。

 先輩がそんなことを考えているとは、知らなかった。

 私が、先輩の音を受け取るのをどれほど楽しみにしていたかも、きっと伝わっていなかった。

 「付き合ったら、ずっと、格好いい先輩ではいられないと思った」

 先輩が言う。

 「ひかりに、思っていた人と違うって顔をされるのが、怖かった」

 返事をしようとして、うまく言葉にならない。ついこの前、嫌だと言ったら嫌われるかもしれないと聡美先輩に話した私には、その怖さが分かる。

 分かっても、あの冬の私が楽になるわけではない。

 「だから、付き合えないって」

 私が確かめると、先輩は頷いた。

 「うん」

 「私のことが、嫌いだったわけでは」

 「なかった」

 すぐに返ってきた。

 私は、唇を噛みそうになって、やめた。

 「それ、あのとき、聞きたかったです」

 声が、少し震えた。

 先輩の目が揺れた。

 「ごめん」

 短い謝罪だった。

 私は、その一言を、すぐに大丈夫で包むことができなかった。


 冬の廊下は、夕方になると窓の近くだけ冷えた。

 私はあの日、利香先輩を呼び止めるために、何度も荷物を出したりしまったりしていた。

 最後に先輩と二人きりになれたとき、言うことを忘れそうなくらい緊張した。

 好きです。

 付き合ってください。

 何度も頭の中で言った言葉は、口から出ると驚くほど短かった。

 驚いた先輩の顔が、悲しそうな笑みに変わったとき、まだ返事を都合よく待っていた。

 付き合えない。

 聞き間違いにするには、あまりにはっきりした声だった。

 理由を聞けば、答えてくれたのかもしれない。

 でも私は、先輩が言いにくいことを言わせない方がいいと思った。

 嫌いだから。

 女の子だから。

 後輩としてしか見られないから。

 どれを言われても、次の日に隣で吹けなくなると思った。だから、大丈夫です、と先に口にした。

 大丈夫ではなかった。

 そのあとは自分から部活の話を持ち出したことしか覚えていない。集合時間だったか、譜面を戻す場所だったか。内容よりも、泣かずに話せたことを、その日の唯一の成功にしていた。

 初めて打ち明けるその話を、先輩は口を挟まずに聞いてくれる。

 「次の日、同じところで吹くの、つらかったです」

 私は言った。

 「先輩の音、好きだったから。聞きたくないのに、聞こえると、やっぱり好きだと思うから」

 先輩が目を伏せた。

 「私、しばらく、音楽のことで悩んでることにしてました。音程が悪いとか、息が足りないとか。そう思ってたら、泣きそうなのも、説明できたから」

 言葉にしたら、去年の自分が少し遠くに見えた。

 ずっと、先輩に嫌われないことばかり考えていた。

 振られたあとまで。

 「ひかり」

 先輩が呼んだ。

 私は顔を上げた。

 「傷つけたのは、私だね」

 その言葉で、涙が少し出た。

 私は慌てて拭こうとして、自分のハンカチを貸していたことを思い出した。

 先輩も気づいて鞄へ手を入れる。今度は探す間もなく出てきて、泣いているのに、そこだけ少しおかしい。

 「これ、使って」

 差し出されたのは、白いハンカチだった。

 私は受け取り、目元へ当てた。

 お互いに相手のハンカチを持っていることがおかしくて、少しだけ笑いそうになった。

 泣いている途中なのに。

 自分の気持ちの動きが、少し不思議に感じられる。

 先輩が落ち着くまで待ってくれる間にも、川沿いには人が通り過ぎる。誰もこの話を知らないまま、私たちの前を歩いていった。


 「もう一つ、聞いてもいいですか」

 私は言った。

 先輩は頷いた。

 「どうして、今になって、戻ってきたんですか」

 今度の沈黙は、さっきより長い。綺麗に整えたものではなく、本当の答えを聞きたくて、私は待った。

 先輩が、自分の手へ視線を落とす。

 「陽菜ちゃんといるひかりが、楽しそうだったから」

 私は、ゆっくり瞬きをした。

 先輩は続けた。

 「私を見なくなったから」

 その言葉には、言い訳がついていなかった。

 「振ったくせに、どこかで、まだ好きでいてくれると思ってた。ひかりは、優しいから。急に、私を置いていったりしないって」

 私は、ハンカチを握った。

 先輩がそれを見て、目を伏せた。

 「ずるかった」

 そう言った。

 「付き合うのは怖い。でも、好きでいてほしい。自分から何も渡さないで、そう思ってた」

 嫌われたのではなかった、と胸の一部は楽になる。その隣で、どうして私がずっと待っていると思えたのか、怒りが言葉を探し始める。聞けば全部ほどける、という期待まで都合がよかった。

 「今さらです」

 私は言った。

 先輩は頷いた。

 「うん」

 「私、やっと、少し平気になったところだったんです」

 「うん」

 「陽菜といて、楽しかった。先輩から連絡が来なくても、一日が終わるようになったのに」

 声が少し強くなる。

 先輩は目を逸らさなかった。

 私は、その目に向かって言った。

 「好きじゃないとは言ってないって、あんな言い方、ずるいです」

 先輩の唇が動きかける。その言葉を飲み込んでからの頷きを、私は目を逸らさずに受け取る。

 「そうだった」

 ずっと聞きたかった返事をやっと聞けて、息が漏れる。

 言葉の意味を変えて、傷つかなかったことにはしてほしくない。好きだったのならそれでいいと、自分にも言い聞かせたくなかった。

 「私、先輩のこと、嫌いになれないから」

 言いながら、また涙が出そうになった。

 「そこを、当たり前にしないでください」

 先輩が、私の名前を呼んだ。

 私はハンカチを下ろした。

 先輩の目も、少し赤くなっていた。

 「分かった」

 その声は、いつもより弱かった。

 でも私は、弱いから信じられないとは思わなかった。

 「もう、待っててくれることを、勝手に決めない」

 先輩は言った。

 「ひかりが何を好きで、何が嫌なのかも、私が決めない」

 私は小さく頷いた。

 その言葉が守られるかどうかは、これからの時間で分かる。

 今、このベンチで、全部の保証をもらうことはできない。

 それでも、私は、今日ここへ来てよかったと思った。


 先輩は、しばらくして、静かに聞いた。

 「今、私といて、嫌じゃない?」

 その聞き方が、少し寂しかった。

 私は首を振った。

 「嫌なら、今日、来てないです」

 「優しいから、来てくれたのかもしれない」

 顔を見合わせる。相手が優しいから、断れなかっただけだから――私が何度も使って、本当の気持ちを聞かずに済ませてきた言葉だ。今、先輩までその言葉の後ろに隠れようとしている。

 「会いたくて、来ました」

 私ははっきり言った。

 先輩の目が、少し大きくなった。

 「今日、先輩が映画で泣いてるところ、見られてよかったです」

 「それは、ちょっと、恥ずかしい」

 「予約のメール、見つからなくて困ってたのも」

 「そこは、忘れて」

 私は笑った。

 先輩も笑った。

 泣いたあとなので、二人とも、あまり綺麗な笑い方ではなかったと思う。

 「私、先輩が何でもできるから、好きになったわけじゃないです」

 私は言った。

 「音も、先輩と私で違うでしょう。私より上手じゃなきゃ、先輩の音には意味がないなんて、思ったことないです」

 先輩が、息を止めたように見えた。

 私は続けた。

 「私の音を褒めるために、先輩の音を悪く言わないでほしい」

 それは、去年の私が、うまく言えなかったことだった。

 先輩と同じ楽器を吹くのは、比べるためだけではなかった。

 先輩の音があるから、次の私の音を置きたくなる。

 その嬉しさを、私はもっと早く話せばよかった。

 でも、話せなかった私だけが悪いわけでもない。

 そこまで、今日は、自分の気持ちの中で分けることができた。

 先輩はゆっくり息を吐いた。

 「ひかりは、変わったね」

 私は少し緊張した。

 先輩はすぐに笑った。

 「前より、言ってくれる」

 「練習中です」

 私が答えると、先輩は、うん、と頷いた。

 「私も、練習しないと」

 私たちはしばらく、並んで川を見た。

 言わなければいけないことを、一度に全部言い終えたわけではない。

 それでも沈黙が、さっきより寒くなかった。

 風で冷えた指を、先輩が自分の両手で包んでくれる。温かさが戻っても、私は手を引けなかった。

 「もう少し、近くてもいいですか」

 言い終える前に、先輩が膝の上の鞄を反対側へ移す。空いたところへ寄ると、肩に腕が回った。

 「このくらい?」

 私は首を振り、コートの袖をつかんだまま、先輩の肩へ額を預ける。

 「……もう少し」

 自分の声がこんなに頼りなくなることに驚く。先輩は笑わず、髪を撫でる手だけを返してくれた。

 誰かにちゃんと返事をしようとしなくていい。楽しい顔を見せようとしなくてもいい。先輩の袖に頬を寄せると、胸の中でずっと立っていたものまで、ゆっくり座れた。

 「今日は、ひかりの好きなだけ」

 その声をもう一度聞きたくて、私は動かずにいた。


 ベンチから立つころには、日差しが少し傾いていた。

 先輩が鞄を持ち、私へ手を差し出しかけて、止めた。

 私はその手を見た。

 「つないで、いいですか」

 私から尋ねると、先輩が頷く。取った手にはまだ指が絡まず、こちらが握るまで待ってくれた。少し力を込めて初めて、同じ強さが返ってくる。

 川沿いを戻る途中、小さな階段の前で足を止めた。

 人が通り過ぎるのを待つ。

 先輩が私を見た。

 その顔が近くにあることに、改めて気づいた。

 六月のキスは、返事をする前に来た。

 嬉しくなかったわけではない。

 でも、私が何かを選ぶ時間は、ほとんどなかった。

 今日は、少し違うことをしたかった。

 私は先輩の手を引いた。

 先輩が立ち止まる。

 「ひかり?」

 私は一度、深呼吸した。

 さっきまで、あんなにたくさん話したのに、これだけの言葉が出てこなかった。

 先輩は待った。

 「……私から、してもいいですか」

 言ったあと、何を、まで足すべきか迷った。

 でも先輩には伝わった。

 驚いたあと、少しだけ目を細めた。

 「うん」

 返事を聞き、コートの袖に手を置いて近づく。自分から触れた唇の柔らかさを、六月よりはっきり覚えていられる。

 短く離れたあとも先輩が黙っているので、待ってほしいと頼んだくせに、その沈黙が急に不安になる。

 「……変でした?」

 先輩が首を振る。

 少し笑った。

 「嬉しくて、返事が遅れた」

 顔を伏せる前に、先輩の指が頬の横へ添えられる。

 「もう一回、私からしてもいい?」

 頷くと、今度は待っているだけで唇が触れた。先輩のコートをつかんでしまい、離れたあとも、ほどけない。

 「ひかり?」

 「……まだ、手、離さないでください」

 自分からそんなお願いが出るとは思わなかった。先輩の笑った息が額に触れ、手は、さっきより深く握り直された。

 私は顔を伏せた。

 先輩の手が、私の手をもう一度取った。

 「ひかりが、好き」

 今度は、付き合えないとは言ったけど、という前置きがなかった。

 私は、その言葉を、まっすぐ受け取れた。

 「私も、先輩が好きです」

 言ってから、続けた。

 「今の、先輩が」

 先輩の目が、また少し濡れた。

 私は慌てて、自分が持っている白いハンカチを見た。

 先輩もそれを見て、笑った。

 「今日は、交換したまま帰ろうか」

 私は頷いた。

 二人とも、少しだけ、相手のものを持って帰る。

 それくらいの約束が、今は嬉しかった。


 駅へ向かう道で、先輩が言った。

 「ひかり」

 「はい」

 「私、今でも、誰よりも好きになってほしい気持ちはあるよ」

 私は横を見た。

 先輩は、穏やかな顔で続けた。

 「陽菜ちゃんと茜ちゃんに、全部譲れるわけじゃない」

 私は頷いた。

 今日話したからといって、先輩が急に物分かりのいい人になるわけではなかった。

 私も、その方が少し安心した。

 「でも、ひかりが今、二人も大事にしてるのは、知ってる」

 先輩の手が、私の手を軽く引く。

 「だから、私のことも、ちゃんと見て」

 はい、と答え、隣を歩く先輩の顔を見る。前ならどこかで誰かへの罪悪感を探したけれど、今日はまず、ここにいる人を見ていたい。

 改札で別れるとき、先輩の「今日はありがとう」に、私もお礼を返した。

 先輩が少し笑う。

 「デートのお礼、部活の挨拶みたい」

 私は慌てて言い直した。

 「楽しかったです」

 「私も」

 「また、会いたいです」

 先輩の笑顔が、少し変わった。

 安心した人の顔だった。

 「うん。また、会おう」

 改札を通って振り返ると、先輩はまだこちらを見ている。振った手に手が返り、今朝とは違う顔を一つ、帰りの記憶に足せる。

 私を振った先輩だった。

 今さら戻ってきて、私を困らせた先輩だった。

 それだけではないことを、今日はたくさん知った。

 好きな人の前で、うまく振る舞えなくなる。

 言いたいことを、間違えた順番で言ってしまう。

 傷つけたあとで、ようやく自分の弱さを見る。

 私より一つ年上の、その人を。

 私はもう一度、好きになっているのだと思った。


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