第二十八章 いちばん最初でいたい
陽菜が音楽室のカレンダーを眺める時間で、誕生日が近いと分かる。十一月二十三日のところだけ言葉が途切れ、帰り際には、来週、と何度も繰り返す。
ある日、ほかの部員が先に出ていったあとで、私は、誕生日はどうしたい、と聞いてみた。
「別に、大げさなことはしなくていいよ」
そう答えるわりに、陽菜はまだ扉へ向かわない。
私はその言葉を、そのまま予定を空けなくていいという意味には取らなかった。
「部活のあと、会おう」
陽菜の顔がぱっと明るくなる。すぐ平静を装っても、こちらはもう見てしまっている。予定を空けておいてよかった。
「うち、来る?」
陽菜が聞く。
私は楽器の掃除をしていた手を止めた。
「家に?」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
「じゃあ、来て。お母さんには、ひかりさんが来るって言っておくから」
空けてあると知っている予定表を、わざわざ鞄から出す。確認している間に、家へ行くのだという緊張まで整えようとしている。
陽菜が笑う。
「ひかりさん、ちゃんと緊張してくれるんだね」
私は何も言えず、掃除用の布を畳み直した。
プレゼントは、なかなか決まらなかった。
苺や甘いもの、かわいい小物。陽菜の好きなものは少しずつ知っているし、私の返事を待っていないふりをする顔も、前より分かる。
だから、物を買うだけでは何か足りないような気がする。
文房具の店へ行っても、雑貨の棚を見ても、これで本当に嬉しいのだろうかと思った。
茜のマフラーを選んだときは、首元に巻いた姿が浮かんだ。
利香先輩の鉛筆のキャップは、二人で店にいて決まった。
陽菜にあげたいものだけ、候補が多すぎて、どれも薄くなってしまう。
結局、片づけを終えた茜を呼び止めてしまう。話し始めたところで、その目が少し細くなり、誰に何を聞こうとしているのか、ようやく自覚する。
「陽菜のプレゼントですか」
「うん。前から、どんなものが好きだった?」
茜は、何か言いたそうに私を見た。
それから鞄を持ち直した。
「知ってますけど」
私は、聞き方がよくなかったと気づいた。
茜は私の恋人でもある。
ほかの恋人へのプレゼントの相談をされて、何とも思わないわけではない。
「ごめん。嫌だったら、言わなくていい」
茜は少し考えた。
「嫌というか、悔しいです」
正直な返事だった。
私は頷いた。
茜は、そのまま続けた。
「でも、陽菜が喜ぶのは、嫌じゃないので」
私は顔を上げた。
茜は、私の視線から逃げるように、廊下の窓を見た。
「かわいいものは、普通に好きです。でも、自分で買うときは、長く使える方を選びます。壊れそうなやつは、触るだけ触って、戻す」
私は想像した。
売り場で小物を見て、かわいいと言ってから、実用的なものを選ぶ陽菜。
分かる気がした。
「手紙とか、もらったカードは、取ってあります」
茜が続けた。
「小学生のときの、変なやつも」
「変なやつ?」
「私が書いた、すごく短い誕生日のカード。去年、まだ持ってました」
恥ずかしそうに話す茜の向こうに、私の知らない陽菜がいる。ずっと前の誕生日にこの子が渡した言葉を、今も取ってある陽菜。
これからどれだけ急いで知っても、そのカードをもらった日には間に合わない。そう思った途端、胸がちくりとする。
茜が、私の顔を見た。
「先輩?」
「ううん。ありがとう」
私は笑おうとした。
茜は少し考えてから言った。
「羨ましいですか」
私は驚いた。
すぐには否定できなかった。
「……少し」
そう答えると、茜は口元を緩めた。
嬉しそうにされたので、私は困った。
「何で、笑うの」
「先輩も、そういう顔するんだと思って」
私は頬に手を当てそうになった。
茜は、からかうのをそこでやめた。
「でも、私が知らない陽菜も、あると思いますよ」
「例えば?」
「それは、知らないので分かりません」
当然の答えだった。
私は思わず笑った。
茜も笑った。
「先輩にだけ見せてる顔、あるでしょう」
そう言われて、私は、止まった観覧車の前で私を待っていた陽菜を思い出した。
唇に触れたあと、言葉を失った顔。
今、すごく恥ずかしいです、と言った声。
私の頬が熱くなった。
茜はそれを見て、深くため息をついた。
「教えたの、ちょっと後悔しました」
「ごめん」
「そこ、謝られると余計に悔しいです」
困って触れた手を、茜は一度こちらを見てから握り返してくれる。ほんの短い間だけ。自分から離すところまで、任せてもらったように感じる。
「ちゃんと、喜ばせてあげてください」
そう言った声は、さっきより柔らかかった。
私は頷いた。
十一月二十三日の音楽室は、授業のある日より静かだった。
午前の練習だけ参加する人、昼から来る人、それぞれの予定が黒板に書かれている。
陽菜は自分の楽器を置くと、まず茜に小さな箱を渡された。
「おめでとう」
「ありがとう。食べ物?」
「開けたら分かる」
「また変な味のお菓子じゃないよね」
「それは去年」
笑い合う二人の会話を、少し離れて楽器を組み立てながら聞く。前なら知らない話に入りたかったけれど、今日はあとで陽菜に尋ねればいいと思えた。
去年、どんな味をもらったのか。
その話をするとき、どんな顔で笑うのか。
知らないことがあるのは、全部、寂しいことではないのかもしれない。
利香先輩も、小さな菓子の箱を持ってきていた。
「お誕生日、おめでとう」
陽菜が少し驚いた。
「ありがとうございます」
「今日、十六歳だよね」
「はい」
先輩は、若いなあ、と言った。
陽菜がすぐに返す。
「二つしか変わらないじゃないですか」
「もうすぐ二つね」
利香先輩はまだ十七歳だった。
十二月になれば、十八歳になる。
私は、その数字を頭の中で並べた。
同じ音楽室にいても、それぞれの誕生日が来るたびに、少しずつ時間の進み方が違って見える。
陽菜は箱を鞄へしまい、私を見た。
何か言うのかと思ったら、目だけで笑った。
私は鞄の中の包みを思い出し、少し緊張した。
午前の三重奏では、間違えた陽菜がすぐ吹き直し、その先で利香先輩が待ってくれる。二人の間をつなぐあいだは、午後のことを考えなくても済む。
けれど練習が終われば、陽菜の掃除は誰より早い。利香先輩の笑いをこらえた視線を避けた私も、いつもより手が速くなってしまう。
陽菜の家は、駅から少し歩いた住宅街にあった。
門のところで、私は鞄を持ち直した。
陽菜が鍵を出しながら、私を見る。
「そんなに固くならなくても」
「なってる?」
「すごく」
玄関へ入ると、奥からお母さんが出てきた。
挨拶をすると、お母さんから、いつも陽菜がお世話になっています、と返ってくる。こちらこそ、と答えた先で何がお世話に当たるか迷いかけ、横から入った、部活でいっぱい教えてもらってる、という陽菜の説明に助けられる。
お母さんは、お茶を置いてあるから、と教えてくれた。
午後に用事があり、夕方には戻るらしい。
「ゆっくりしていってね」
そう言われ、私は頷いた。
階段を上がる途中で、陽菜が小声で聞いた。
「大丈夫?」
「うん。たぶん」
「たぶんなんだ」
陽菜は楽しそうだった。
部屋の扉を開ける前に、一度だけ、私を待たせた。
自分が先に入り、机の上の何かを引き出しへ入れる。
それから、どうぞ、と扉を開けた。
私は、何を片づけたのか聞かなかった。
部屋には、小さなテーブルが出してあった。
窓際に机があり、棚には本と楽譜が並んでいる。
枕のそばには、白いあひるもいる。相変わらず眠そうで、つい笑うと、視線を追った陽菜が少し赤くなった。
「何?」
「そこに、いてくれるんだね」
「もらったんだから、いるよ」
言い方は強かったけれど、あひるを隠そうとはしなかった。
私は、そのことが嬉しかった。
陽菜はお茶を用意し、小さなケーキを二つ、テーブルに置いた。
どちらも、上に苺が乗っていた。
「同じのでよかった?」
「うん。おいしそう」
「ひかりさんは、甘くない方がいいかなと思ったんだけど」
「今日は、陽菜の好きなものがいい」
そう言うと、陽菜はフォークを並べる手を止めた。
私を見て、それから、少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、これで正解」
鞄に入れた包みがずっと気になっている。このままではケーキの味も分からなくなりそうで、先に取り出してしまう。
「お誕生日、おめでとう」
陽菜の前へ置く。
陽菜は、すぐには触らなかった。
包みと私を交互に見た。
「開けていい?」
「うん」
包みの中には、小さな木の写真立てを入れてあった。
枠の端に、葉の模様が彫られている。
写真は、温室で一緒に撮ったものだった。
二人とも、少し笑いすぎている。
私の顔も、普段なら撮り直したくなるくらい崩れていた。
でも陽菜が撮り直さないと言ったので、そのままの写真を選んだ。
両手で写真立てを持つ陽菜の指が、木の枠をたどる。写真から目を上げてくれない。喜んでいるのか、言いにくいことがあるのか、こちらから説明を足したくなる。
「ほかの写真でも、入れられるから」
ようやく言うと、陽菜はすぐに首を振った。
「これがいい」
私はほっとした。
陽菜は写真立てをテーブルへ置いた。
自分の方を向けたまま、角度を少し変えた。
光が反射しない場所を探しているらしい。
その隣に、私は小さな封筒を置いた。
「あと、これ」
陽菜が私を見る。
「手紙?」
私は頷いた。
急に恥ずかしくなった。
「あとで、読んでもいいよ」
「今、読む」
はっきり言われた。
私は、止めることもできず、膝の上で手を組んだ。
陽菜が封筒を開ける。
便箋は一枚だった。
長く書こうとすると、何が言いたいのか分からなくなった。
だから、覚えていることを少しだけ書いた。
新入生の前で吹いたあと、六小節目のことを聞いてくれたこと。
私が言葉に詰まっても、分かりたいと言ってくれたこと。
初めて寄り道した日、苺のタルトを嬉しそうに食べていたこと。
そして、最後に。
陽菜が、私のことを好きになってくれてよかった。
私も、陽菜が好きです。
最後の一行だけは、書く前に何度も手が止まった。本当の気持ちだからこそ、文字にしてしまえば、自分でも見なかったことにはできない。
そこを読んだ陽菜の目が動かなくなる。自分の息まで大きく聞こえ、静かに吸い直すことさえ難しい。
「ひかりさん」
陽菜が呼ぶ。
「うん」
「これ、今、言ってもらってもいい?」
顔を上げると、陽菜が便箋を持ったままこちらを見ていた。からかうつもりではなく、確かめたいのだと分かる。
私は目を逸らさずに答えた。
「陽菜が、好き」
陽菜の笑った口元が少し歪み、目の端から涙が落ちる。慌てて近づきかける私を、待って、と止めたのは、手紙を濡らしたくないかららしい。
丁寧に封筒へ戻し、ケーキから離れた場所へ置いてから、ようやく私の方を向く。
「もう一回」
私は少し笑った。
「何回、言うの?」
「誕生日だから」
理由になるのだろうか。
でも、私は言った。
「好きだよ、陽菜」
陽菜が、やっと笑った。
ケーキを食べるまでに、少し時間がかかった。
陽菜は写真立ての位置を変え、便箋の封筒を見て、それからフォークを持った。
食べる前に、私の皿と自分の皿を比べた。
「そっちの苺、大きいね」
「交換する?」
「しない」
即答だった。
「ひかりさんにあげた方だから」
笑いながら、苺を先に食べるか残すかという話になる。今日は先にするという陽菜に、理由を尋ねてみた。
「好きなものから、食べたいから」
その言葉を聞いて、私は、陽菜らしいと思った。
いつも強いから、何でも迷わないわけではない。
迷っていても、好きなものへ手を伸ばす人なのだ。
その手が最初に私へ伸びたことを、今は、ちゃんと嬉しいと思えた。
食べ終えた陽菜が、写真立てを持って机の横へ行く。置き場所を探しているのだと思って背中を眺めていると、そのまま持って振り返る。
「ひかりさん」
「うん?」
「私、最初って、何回も言ってたよね」
私は頷いた。
陽菜は、窓際の椅子に腰を下ろした。
写真立てを膝に置く。
「分かってるんだ。最初だから、ずっと一番いいってわけじゃないの」
私は黙って聞いた。
陽菜は写真の中の自分を、指で隠しかけてやめた。
「でも、最初だったねって、昔の話にされるの、嫌なんだ」
胸の中に、その言葉が静かに落ちた。
最初。
過去の順番としてなら、誰にも変えられない。
でも、過去だから変わらないものを持っていても、今、好きでいてもらえるかどうかは別だった。
陽菜は、そこを怖がっていたのかもしれなかった。
「利香先輩のこと、ずっと好きだったでしょ」
私は、嘘をつかなかった。
「うん」
「茜のことも、今は、ちゃんと見てる」
私は頷いた。
陽菜は少しだけ唇を噛んだ。
「私、二人に譲ったつもり、ないんだ。約束したから認めたけど、ひかりさんのこと、半分とか、三分の一でいいって思ったわけじゃない」
私は、陽菜の前へ椅子を寄せた。
同じ高さで、向かい合った。
「分かってる、って言ったら、嘘になるかもしれない」
私は言った。
陽菜が顔を上げる。
「私、自分がどうしたらいいかばっかり考えて、陽菜が何を怖がってるのか、ちゃんと聞いてなかった」
陽菜は、すぐには頷かなかった。
そのまま待っていた。
私は続けた。
「でも、陽菜のこと、昔の話にはしてないよ」
自分の声が、思っていたより落ち着いていた。
「今日も、会いたかった。誕生日、一緒にいたかった。次に会う日も、楽しみにしてる」
陽菜は私を見た。
目元がまた少し濡れたけれど、今度は泣かなかった。
「ずっと、最初の恋人だった人、じゃなくて」
私は言葉を探した。
「今、付き合ってる、大好きな陽菜だから」
「それに、陽菜には、格好悪いことも言っちゃうと思う。嫌な顔をされるかもしれなくても、あとで、ちゃんと話せる気がするから」
陽菜は目元を拭き、私を見た。
「嫌な顔は、するかもしれないよ」
「うん」
「でも、言って。私も言うから」
何も言わなくてもわかる、という約束より、その返事の方がずっと陽菜らしい。私は頷いて便箋の封を押さえたところで、さっき自分が「大好き」と言ったことに気づく。
陽菜も気づいたらしい。二人で黙り込み、先に顔を覆ったのは彼女の方だった。
「……今日、ひかりさん、ずるい」
私は、その言葉が最近いろいろな人から返ってくることを思い出した。
でも、今日は、謝らなかった。
顔を隠す手へ触れると、指が少しずつ下りてくる。その手を取る私を、陽菜はひかりさん、と呼ぶ。二人のときの呼び方が、今日は泣きそうな声になって、小さなお願いへ続く。
「抱きしめてもらっても、いい?」
私は頷いた。
椅子から立って腕を伸ばすと、陽菜も少し迷ってから近づいてくる。抱きしめた身体は思ったより素直に重なり、背中に手が回る。
服の上からゆっくり撫でる。この近さでは、いつもの強気な顔も見えない。
何か言わなければと思いかけたけれど、今は黙っていても、隠したことにはならない気がする。
窓の外を車が一台通り過ぎると、部屋はまた静かになった。陽菜が、ほんの少し顔を離す。
「まだ、離れなくていい」
私は、うん、と答えた。
誕生日のお願いは、三人の関係を変えるような大きなものではなかった。
今、もう少しだけ。
私は、その小さな願いを、自分の手で叶えられた。
お母さんが帰ってくる少し前に帰り支度を始めると、陽菜は写真立てを机の右側へ置いていた。勉強中にも顔を上げれば見える場所だ。
その横に白いあひるまで置こうとして、狭くて戻している姿に、私は笑ってしまう。
「机、狭くなっちゃうね」
「考える」
陽菜は真剣だった。
玄関へ向かう前に、私を呼び止めた。
「ひかりさんの誕生日、もう一回、教えて」
「一月二十四日」
陽菜は携帯電話を出した。
その場で予定へ入れる。
私は、その指の動きを見て、少し緊張した。
「大げさじゃなくて、いいからね」
言うと、陽菜が顔を上げた。
「自分で言ってわかった? その言葉、あんまり信用できないんだよ」
何も言い返せない。大げさでなくていいと言いつつ、時間を空け、贈り物を選んで手紙まで書いたのは、今日の私だ。
陽菜が満足そうに笑う。
「楽しみにしてて」
私は、その言葉を何度も聞いている。
そのたび、本当に楽しみが増えていく。門まで送ってもらうころには外も冷えていて、コートの襟を整えていると、陽菜が少し背伸びをしてくる。
頬に、短く唇が触れる。
私は驚いて陽菜を見る。
陽菜は、今度は逃げなかった。
「お礼」
笑って言った。
私は頬に手を当てそうになり、やめた。
手を振る方へ使った。
「また、明日」
「うん。また明日」
門から離れて、振り返る。
陽菜はまだ、そこにいた。
手を振り返してくれる。
最初の恋人。
その言葉を、私はもう、単なる順番としては聞けなかった。
春から今日まで、何度も私へ手を伸ばしてくれた人がいる。
その人の手を、今度は私からも取りたいと思った。
帰りの電車に乗る前、陽菜から写真が届いた。
机の上の写真立てと、その前に置かれた白いあひる。
結局、置く場所を作ったらしい。
メッセージは短かった。
『十六歳、すごくいい始まりになった』
私は画面を見ながら、笑った。
『私も、一緒にいられて嬉しかった』
そう返した。
送る前に言葉を削ったり、ほかの二人と同じくらいか確かめたりはしなかった。
今、陽菜に伝えたいことを、そのまま送った。




