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第二十九章 十八歳の先輩へ

 十一月の終わり、音楽室の前で聞いた「合格したの」の一言に、ケースを持つ手まで止まってしまった。

 「本当ですか」

 「うん。推薦の結果、出たの」

 少し照れたように笑う先輩へ、おめでとうございます、と伝える。一度目が驚きに紛れてしまったので、もう一度。先輩は二度とも、ちゃんとありがとうを返してくれる。

 県内の私立大学の、文学を学べる学科だった。

 家から通うつもりだと、先輩は言った。

 遠くへ引っ越さない。電車で会いに行ける。安心してから、先輩の進路なのに自分が会えるかどうかを真っ先に考えたことが、少し恥ずかしくなる。

 「何の勉強をするんですか」

 改めて尋ねると、先輩は鞄から薄い案内の冊子を出した。

 「まだ、全部は決めてない。文章を読んだり、書いたりすることを、もう少し、ちゃんとやってみたくて」

 私は頷く。最近の先輩は、練習の合間によく文庫本を読んでいる。角の丸くなった薄い短編集を、休憩が終わるたび名残惜しげに閉じる姿に、もっと長く読めればいいのにと思っていた。

 先輩が、この学校にいなくなれば、その時間ができる。

 その考えは、嬉しいはずなのに、少し寂しかった。

 「ひかり?」

 呼ばれて、私は顔を上げた。

 「すみません。嬉しくて、びっくりして」

 それは嘘ではなかった。

 全部でもなかった。

 先輩は私の顔を見て、少しだけ笑った。

 「冬の三重奏も、ちゃんと続けるよ」

 私は頷いた。

 知りたいことを、先に言われてしまった。


 三年生が冬まで部に残ることは、白鷺女子高校では、珍しくはなかった。

 夏の大会で区切りをつける人もいれば、進路の準備と相談しながら冬の演奏へ参加する人もいる。

 部長と副部長の引き継ぎも、冬の活動をまとめる時期に合わせて、少しずつ進んでいた。

 次の部長は香帆、副部長はトランペットの三浦さんに決まっている。二年生で候補を出し合ったとき、香帆はすぐには頷かず、今の役員の仕事を一度見せてほしいと言った。

 その話し合いのあとで、海香先輩が香帆を呼び止めたのを覚えている。

 「五重奏のとき、自分の出番がなくなりそうになっても、ほかの子と吹く方法を考えたでしょう。ああいうの、助かるんだよ」

 「私は、自分も出たかっただけです」

 「うん。でも、みんなにも聞いてくれた」

 香帆は困ったように目を伏せ、先輩から預かった仕事の一覧をもう一度眺める。やがて、三浦さんと分担を相談してから引き受けると答えた声は、五重奏の席を決めていたときと同じくらい落ち着いていた。

 私は隣でほっとして、香帆なら安心だね、と言ってしまう。

 「ひかりも手伝うんだよ。私一人で全部できると思わないで」

 「うん。もちろん」

 「じゃあ私は、ひかりちゃんの頑張ってる写真を」

 海香先輩が携帯へ手を伸ばすと、聡美先輩が仕事の一覧をその前へ差し出した。

 「引き継ぐ方も、まだ終わってないからね」

 先輩たちの卒業までは一緒に仕事を覚え、卒業の日に正式に交代する。その日付を予定表へ書く香帆の横で、私は三月の欄を長く見られなかった。

 利香先輩も、三重奏の組が決まったころから、担任の先生や家の人と話していたらしい。

 練習を続けるかわりに、学校の勉強や進路の準備を後回しにしない。

 その約束を、先輩は誰にも大きく言わずに守っていた。

 三枝先生へ結果を報告した日、先生はおめでとうと言ったあと、机の上の予定表を見た。

 「では、冬の活動も、その予定で。ただし、入学の準備はあるでしょう」

 「はい。課題が出るので、そちらも進めます」

 「練習のために、黙って困らないこと」

 先輩は頷いた。

 隣で聞くまでは、先輩が残ってくれることを当然に思っていた。そのために調整する時間も、家で開く本も、書き直す書類もあるのに。私と吹く先輩しか見ていないあいだに、先輩は来年の準備を進めていたのだ。

 音楽室へ戻ると、陽菜がさっそく言った。

 「じゃあ、受験が終わったからって、私に負けた言い訳、できませんね」

 先輩は笑った。

 「もともと、言い訳したことないでしょう」

 「そうでしたっけ」

 「陽菜ちゃんこそ、試験前だからって、指が回らない言い訳にしないでね」

 「しません!」

 いつもの調子だった。

 私はほっとした。

 でも、そのあと、陽菜は先輩の持っていた冊子を見て、小さく言った。

 「おめでとうございます」

 先輩は、その声に、ちゃんと向き直った。

 「ありがとう」

 少し離れたところにいた茜も、頭を下げた。

 「おめでとうございます」

 「ありがとう、茜ちゃん」

 茜は一度頷き、それから尋ねた。

 「大学でも、吹くんですか」

 先輩は少し考えた。

 「吹きたいと思ってる。どういうところで続けるかは、まだ決めてないけど」

 その、まだ決めていない、が、私には眩しかった。

 先輩の来年には、私の知らない選択肢がある。

 いま三人で吹いている音楽室の外にも、先輩の音は続いていく。

 当たり前のことなのに、私は初めて、その広さを考えた。


 十二月六日に会える時間は、夕方の一時間ほどだった。

 昼は進学の準備で用事があり、夜は家族と食事をする。

 先輩は申し訳なさそうに、その予定を教えてくれた。

 私は首を振った。

 「誕生日ですから、家でもお祝いしたいですよね」

 「でも、ひかりが会おうって言ってくれたのに」

 「一時間、会えます」

 そう言うと、先輩は笑った。

 「うん。一時間、会える」

 私も笑う。以前は迷惑ではないかと気にするばかりだったけれど、今日は会える一時間を、そのまま喜びたい。

 短い時間にも見せたいものはある。駅前の小さな広場では、十二月になると夕方の木々に灯りがともるのだ。

 十一月の帰り道、飾り付けが始まったばかりの、まだ暗い木を見て、先輩が話してくれた。

 「点く瞬間、見たことないの」

 先輩はそう言った。

 いつも部活の帰りには、もう灯っている。

 用事のない日には、わざわざその時刻を待たずに帰ってしまう。

 それだけの、小さな話だった。

 でも私は覚えていた。

 広場に貼られた案内で、灯りのつく時刻を確かめた。

 十七時。

 先輩の空けてくれた一時間の、真ん中くらいだった。

 私は、そのことをまだ先輩に伝えなかった。

 大きな驚きを用意するわけではない。

 ただ、先輩が見たかったものを、一緒に見たかった。


 誕生日前の練習でも、二人は私を見る回数について言い争っていた。陽菜の入りを確かめようと顔を上げたことが、どうも原因らしい。

 そのあと自分へ向けた合図の方が長かったと先輩が言い、陽菜は長さではなく回数だと譲らない。私はイングリッシュホルンを膝へ置いた。

 「演奏の話をしても、いいですか」

 二人が同時にこちらを向く。

 二人一緒に振り向くのがおかしくて笑うと、先輩も笑い、陽菜だけが悔しそうにする。

 練習の終わりには茜が譜面を届けに来た。三重奏の譜面に、先生からの連絡用紙が一枚挟まっている。

 地区大会の提出物と、今後の予定が書かれている。

 十二月の地区から、一月の県、二月の東海へと日付を追う。三月には全国大会と印刷されていて、まだ決まっていない三人の予定まで、そこにあるように見えてしまう。

 利香先輩が、私の横から同じ紙を見た。

 「もう、そんな時期なのね」

 陽菜が言った。

 「先輩の誕生日が終わったら、すぐ地区ですね」

 「うん」

 茜が、少しだけ眉を寄せた。

 「次の誕生日のとき、利香先輩、学校にいないんですね」

 部屋が一瞬静かになった。

 茜は慌てた。

 「すみません。変な意味じゃなくて」

 先輩は笑った。

 「十九歳で、まだ同じ制服着てたら困るでしょう」

 陽菜が、確かに、と笑った。

 私も笑った。

 その笑いの中で、紙の上の三月という文字だけが、なかなか離れなかった。

 全国へ行ければ、卒業式のあとにも、一緒に練習する日がある。

 私は、そのことを考えた。

 すぐに、そんな理由で大会を見てはいけない気がして、紙を閉じた。

 でも、一度浮かんだ考えは、消えなかった。


 十二月六日の夕方、薄い包みを鞄に入れ、駅前で先輩を待った。

 贈り物に選んだのは、文庫本用の青灰色のブックカバーだ。

 手触りが柔らかく、内側に短い栞の紐がついている。

 店で贈り物かと尋ねられたときはすぐ頷けたのに、どんな相手かと聞かれると迷ってしまい、大事な先輩です、と答えた。それだけでは足りなくても、嘘ではない。

 約束より少し早く、先輩が現れる。

 私を見つけると、歩みが速くなる。

 私は手を上げた。

 「お誕生日、おめでとうございます」

 先輩は目を細めた。

 「ありがとう。十八歳になりました」

 「なりましたね」

 「何か、変わった?」

 昨日と同じ顔なのに、少し整えた髪と、こちらを見る目に違いを探してしまう。年齢よりも、会えたことの方が表情に出ている。

 「少し、嬉しそうです」

 私が言うと、先輩は笑った。

 「それは、ひかりに会えたから」

 私は、返事の代わりに鞄を持ち直した。

 何度言われても、慣れない言葉がある。

 先輩はそれを見て、少しだけ楽しそうにした。

 「今日は、どこへ連れていってくれるの?」

 「近くです。寒いので、先に飲み物を買ってもいいですか」

 先輩は頷いた。

 温かい飲み物を持って向かった広場では、まだ飾りだけの木が夕方の空に立っている。何も始まっていない場所で足を止めた私を、先輩は木と見比べる。

 「もしかして」

 私は頷いた。

 「十七時に、点くそうです」

 先輩は腕時計を見た。

 あと十分ほどだった。

 「覚えてたの」

 声が、少し小さくなる。

 私は頷いた。

 「見たことないって、言ってたので」

 先輩は、紙のカップを両手で持った。

 しばらく何も言わなかった。

 その沈黙が不安になりかけたけれど、先輩の顔を見て、私は待つことにした。

 嬉しいときにも、返事が遅れることがある。

 この前、先輩が教えてくれた。

 「ありがとう」

 やがて言われたお礼に、はい、と返してから、その返事も変だと気づく。私が笑うと、先輩も笑ってくれた。


 広場の端のベンチで包みを渡すと、先輩は、開けていい、と尋ねてきた。私は頷き、置き場を探している紙のカップを預かる。

 膝の上に二つ並べながら、少し冷えた指が包装を外していくのを見守った。

 先輩が笑う。

 「落とさない?」

 「大丈夫です。たぶん」

 「たぶん」

 先輩は私の返事を繰り返してから、包みへ戻った。

 中身を見た瞬間、指の動きが止まった。

 「本の、カバー?」

 「はい。最近、持ってきてる本に、使えそうだと思って」

 栞の紐を確かめた先輩が、鞄から文庫本を出す。今日も持っている。選ぶときに思い浮かべた本が目の前でカバーに収まり、見慣れた角を隠していく。もう私の贈り物ではなく、先輩の本なのだ。

 「似合ってる」

 私はつい言った。

 先輩が笑った。

 「本に?」

 「持ってる、先輩に」

 言い直すと、先輩の笑い方が柔らかくなった。

 私はカップを一つ返した。

 先輩は本を膝に置いたまま、温かいものを一口飲んだ。

 「大学へ行っても、使うね」

 その言葉に、私は頷いた。

 知らない教室で、先輩がこの本を開くところを想像する。私は隣にいないけれど、選んだカバーはその手にある。

 それなら、今の贈り物は来年にも連れていってもらえる。寂しさの中に、少し楽しみが混じる。

 先輩が、私を見た。

 「ひかりは、来年、三年生だね」

 「はい」

 「後輩も、また入ってくる」

 「そうですね」

 「忙しくなりそう」

 先輩の笑顔に、私と同じ寂しさが少し見えた。

 カップを持つ手に力が入る。先輩も、自分だけの来年を見ているわけではない。自分のいない私の来年を、考えてくれている。


 「学校へ来ても、私はいないんだなって、時々思うの」

 先輩が言った。

 私は、ちゃんと顔を向けた。

 「陽菜ちゃんと茜ちゃんは、いるでしょう。ひかりが困ったら、同じ廊下を歩いて会いに行ける」

 先輩は、自分で言って少し笑った。

 「何を羨ましがってるんだろうって思うけど」

 私は、すぐに大丈夫ですと言えなかった。

 同じ学校にいることは、今、とても大きかった。

 約束しなくても会える。

 練習が終われば、一緒に帰れるか聞ける。

 相手の顔を見て、今日は元気がないと分かる。

 その全部が、来年は少し変わる。

 「会う約束、します」

 私は言った。

 先輩がこちらを見た。

 「廊下にいないなら、約束して会いに行きます」

 先輩の目が、少しだけ揺れた。

 「毎日は、難しいかもしれないですけど」

 自分で付け足した。

 できないことまで、今、できると言いたくなかった。

 先輩は頷いた。

 「うん。私も、毎日は難しいと思う」

 「でも、会いたいって言います」

 その言葉は、約束できる気がした。

 先輩は、ありがとう、と答えた。

 風が本の端を持ち上げる。押さえる先輩の手に自分の手を重ねると、驚いた顔でこちらを見てから、指を包んでくれる。紙のカップとは違う温かさが、冷えた先へゆっくり戻ってくる。

 「十八歳になったら、もっと、大人みたいになると思ってた」

 先輩がぽつりと言った。

 私は首を傾げた。

 「先輩は、十分、大人っぽいです」

 「っぽい、だけかもしれない」

 先輩は笑った。

 「恋人が同じ学校の後輩と仲よくしてるのを想像して、寂しくなる十八歳だよ」

 私は少し考えた。

 「私も、先輩が大学で楽しそうにしてるの、嬉しいけど、少し羨ましいと思います」

 先輩が私を見る。

 「私の知らない先輩を、同じ教室の人たちは、毎日見るので」

 言葉にしてから、恥ずかしくなった。

 でも先輩は、からかわなかった。

 「じゃあ、あとで教えるね」

 そう言った。

 「今日は、こういうことがあったって。ひかりも、教えて」

 私は頷いた。

 知らないことが増えても、聞くことはできる。

 その考えに、少し息がしやすくなった。

 手を包まれたまま、私は先輩の肩へ寄った。

 「今日は、先輩のお誕生日なのに」

 「うん?」

 「私ばっかり、こうしてもらってます」

 先輩は私の指を一本ずつ握り直し、こっちを向いて、と小さく言った。顔を上げると、冷えていた額に唇が触れる。

 「ひかりが甘えてくれるの、私にはお祝いなんだけど」

 それなら、と言っていいのかわからず、私は肩へ戻った。髪を撫でる手を止めないでほしいと、袖の端をつかんで伝える。

 先輩は、わかった、と笑ってくれた。


 十七時を知らせる音はなく、話しかけようとした途中で、枝に小さな光が現れる。一度に広がった灯りが暗い木の形を浮かび上がらせ、周りからも小さな声が上がった。

 先輩が顔を上げる。その瞬間を、私は灯りより先に見ている。

 「……ついた」

 子どもみたいな言い方に、頬が緩む。こちらを向かない先輩の目の中にも、小さな灯りが映っている。

 あのときの、見てみたい、を覚えていてよかった。

 今日、短い時間でも会いたいと、言ってよかった。

 先輩がこちらを向いた。

 「ひかりも、見て」

 慌てて見上げると、白に近い光と温かな色の光が、枝先まで広がっている。風が吹けば、その形も少し揺れる。どこかで毎年繰り返される夕方の数秒に、今年は先輩と二人で立ち会えた。

 つないだ手をもう一度握られ、私からも握り返す。

 「来年も、見に来たいね」

 「はい」

 先輩は続けた。

 「同じ学校じゃなくても」

 私は、もう一度頷いた。

 光を見ながら、卒業のことを考えた。

 終わるものと、続けたいものは、同じ日に並んでいる。

 そのことを、まだ上手には受け止められなかった。

 でも、来年の話を、先輩とすることができた。

 それだけで、今日の私には十分大きかった。


 帰る時刻が迫り、空のカップを捨ててベンチへ戻ると、先輩は本をしまっている。

 青灰色のカバーの端が、鞄に収まる最後まで見えた。

 「音楽、続けたいって、言ってましたよね」

 私が聞くと、先輩は頷いた。

 「うん」

 「大学でも、同じくらい、吹くんですか」

 「どうだろう。授業もあるし、今みたいに毎日とは、いかないかもしれない」

 先輩は、少し考えた。

 「でも、やめたくはない。うまく吹けない日も多いけど、好きだから」

 以前の先輩は、私よりできないことを気にして、自分の音まで小さくしていた。

 今日の「好きだから」には、その遠慮がない。嬉しくて、私は頷いた。

 先輩が私を見る。

 「今、ひかりと吹けてるのも、すごく嬉しいよ」

 胸の中で、何かが強く動いた。

 「陽菜ちゃんとも。二人がいなかったら、こんなにもう一回って思ってなかったかもしれない」

 先輩は笑った。

 「冬まで残って、よかった」

 大切に受け取ったはずの言葉が、頭の中では地区大会の予定表につながってしまう。十二月の次に一月、その次に二月、三月。先輩が喜んでくれた今を、その先まで延ばしたくなる。

 せっかく一緒に吹けるのなら、できるだけ先まで行きたい。

 先輩が残ってよかったと思ってくれているなら、その気持ちに、結果でも返したい。

 「全国、行きたいです」

 私は言った。

 先輩が頷いた。

 「うん。行きたいね」

 「先輩と、全国で吹きたい」

 言葉にしたら、さっきより強い願いになった。

 先輩は私を見て、嬉しそうに笑った。

 「一緒に、頑張ろう」

 頷く私に、先輩は今、一緒に吹けていることを話してくれた。私は、その時間をもっと先まで延ばしたい。

 似ている願いだと思っていて、同じではないことには、まだ気づかなかった。


 駅へ戻る途中で、先輩の携帯電話が震えた。

 家からの連絡だった。

 先輩は返事をして、鞄へしまう。

 「そろそろ、行くね」

 「はい」

 私は、名残惜しさを隠さずに頷いた。

 先輩が、その顔を見て笑った。

 「一時間、短かった?」

 「短かったです」

 言ってから、付け足した。

 「でも、会えて、嬉しかったです」

 先輩の笑顔が、少し柔らかくなった。

 「私も」

 改札の前で、つないでいた手を離した。

 先輩は、一度だけ、私の指先へ触れ直した。

 「十八歳の最初に、ひかりに会えてよかった」

 十八歳の最初に、を胸の中で繰り返しながら、改札の向こうへ手を振る。姿が見えなくなるまで待って、鞄の予定表を開く。今日を終えたばかりなのに、もう次の日付を探している。

 地区大会の日に、小さな丸がついていた。

 その先の大会の日付は、まだ、自分たちの予定ではない。

 選ばれなければ、そこには行けない。

 私は、三月のところに指を置いた。

 ここまで、三人で。

 携帯が鳴り、明日の録音を確認したかと陽菜から尋ねられる。少しして茜からも、お祝いは渡せたかと届き、私は二人へ返事を送った。

 『渡せたよ。喜んでくれた』

 茜から、よかったです、と返ってきた。

 陽菜からは、明日も私のこと見てね、と来た。

 私は笑った。

 『ちゃんと見るよ』

 送ってから、予定表を閉じた。

 大事な人たちが、今、同じ季節の中にいる。

 その時間を、一日でも長く続けたい。

 まだ、それを願うことの重さを、私は知らなかった。


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