第三十章 目があった回数
「今のは、私への合図ですよね」
最後の音が終わるより早く、陽菜が言った。
利香先輩はオーボエを下ろし、涼しい顔で首を傾げた。
「次の入りは、私だったでしょう」
「でも、先輩が見たのは私です」
「ひかりは全体を見てるの。陽菜ちゃんだけを見てるわけじゃない」
「利香先輩だって、自分に向けた合図だと思ってるじゃないですか」
イングリッシュホルンを抱えたまま、二人の顔を交互に見る。何のためにどちらを向いたのか、途中までは覚えていたのに、二人の解釈が加わるほど、私の記憶の方が怪しくなる。
少し離れた机で、先生の鉛筆が止まる。怒られる、と身構えた私たちへ向けられたのは、短い問いだった。
「その合図のあと、誰と音が合っていた?」
二人が黙り、私にも答えが見つからない。三人分の沈黙を受けて、先生の指が録音機へ伸びる。
「聴きましょう」
十二月の音楽室は、暖房をつけても窓際だけ冷える。ケースから出したばかりのイングリッシュホルンも手に冷たく、吹く前の準備には春より時間を掛けていた。
キーの配置や息の感覚は、初めに思ったほどオーボエと遠くなく、持ち替えそのものには早く慣れた。
けれど、慣れたことと、好きな音をいつでも出せることは違う。
オーボエなら、考えるより先に調整していた小さなことが、こちらでは、もう一度耳へ返ってくるのを待たなければならない。
その待つ時間が、私は嫌いではなかった。
二人のオーボエが上で動くとき、自分の音をどこへ置くか。
下から支えるだけでは、音楽が進まないところがある。
前へ出すと、二人が息をつなぎやすくなるところもある。
六月に最初の音を出してから、譜面の見え方が何度も変わった。
目立つ旋律を吹いていない時間にも、三人の歩く速さや、次に向かう場所を変えられる。
だからこそ、今日の録音を聴くのが、少し怖かった。
流れ始めた音に、思わず眉が寄る。吹いていたときの手応えと違う。よく伸びる利香先輩の旋律も、夏より自由になった陽菜の音も聞こえるし、私も音を落としてはいないのに、短いやり取りに差しかかると、三人の足元が別々になる。
先輩が歌い終わるより先に、陽菜が次へ行きたがる。
陽菜の勢いを受け取る前に、私は音を丸く収める。
先輩は私の音の終わりを待ち、少しだけ後ろへ残る。
大きく崩れているわけではない。
だから、吹いている間は、何となく通り過ぎられてしまう。
先生が録音を止めた。
「ひかり。二人をどうしようとしていた?」
私は楽譜を見た。
「揃えようと、していました」
「何を?」
私は、その質問に詰まった。
音の入り。
終わり。
息。
全部、と答えそうになった。
けれど、全部を一つにしてしまったら、三つの声部がある意味が薄くなる。
先生は私たちを順番に見た。
「利香と陽菜は、ひかりをよく聴いている。それは分かる。でも、この受け渡しは、二人の間でしょう」
楽譜の短い場所を指す。
利香先輩が頷いた。
陽菜は、鉛筆を持った。
「ひかりも、二人を揃えることに気を取られて、自分の音の抑揚をなくしている」
先生の指が、私の声部へ移った。
「ここは、もっと動いていい。安全に置いただけの音だと、二人が帰ってくる場所も、ぼんやりする」
譜面に残したのは、揃える、聴く、急がない、という注意ばかり。どんな音を出したかったのか、自分の字をたどっても、なかなか見つからない。
「一度、ひかりなしで、その二小節」
先生が言った。
私は楽器を膝へ置いた。
陽菜と利香先輩が、互いを見る。
いつもなら、私を間に挟んで何か言う二人が、直接、息の場所を確かめた。
「ここ、私が終わるの待ってる?」
先輩が聞く。
「待ってるつもりでした。でも、遅れると先輩に合わなくなるから」
陽菜が私を見かけた。
先生が、今は利香、と言う。
陽菜が視線を戻した。
二人だけの演奏は、最初こそ少し離れたものの、吹き直すと自然につながっていく。自分の出番を待ちながら聴いているうちに、胸の中も静かになる。
私が間に入らなくても、二人は互いの音を聴ける。何とかしなくてはと焦るほど、忘れかけてしまうことだった。
練習のあと、三枝先生がいなくなると、陽菜が録音機を覗き込んだ。
「目が合った回数って、録音じゃ分からないですね」
私は思わず顔を上げた。
まだ数えていたのだろうか。
利香先輩が、落ち着いた声で言う。
「動画なら分かるね」
「撮らなくていいです」
私はすぐに止めた。
二人が私を見る。
私は楽器をケースへ戻しながら、少し強く言った。
「目が合った数を、数えないでください」
陽菜が唇を尖らせた。
先輩は笑った。
「じゃあ、演奏の外では?」
「それも、できれば」
「できれば、なんですね」
陽菜が、そこだけ聞きつけた。
私は返事を間違えた気がして、ケースの留め具を閉めた。
二つ目の留め具を閉めるとき、先輩がそっと言った。
「ひかりがこっちを見てくれると、嬉しいのは、本当なんだけどね」
その声に、私は手を止めた。
陽菜も、小さく頷いた。
私は二人を見た。
音楽の合図として受け取ってほしい。
でも、見られて嬉しいと言われて、嬉しくないわけではなかった。
「……見るのは、やめません」
二人に笑われ、ますます難しい立場になった気がする。
それでも最後に合わせたところは、前よりよくなっていた。私の顔から視線を戻したあとも、ちゃんと互いの音を聴けている。
地区大会の朝、陽菜は集合場所で手袋を外したりはめたりし、先輩は提出用の紙を鞄の中に確かめている。
足元へケースを置いて見上げた空は、よく晴れていた。会場へ向かう流れに、同じ学校のほかの組も混じっていく。
大きな楽器を運ぶ人、小さなケースを胸に抱えている人。
香帆は五人分の時刻を確かめながら、海香先輩の鞄へ目を向けた。
「ピッコロ、ありますよね」
「ある。お菓子もある」
「そっちは今、聞いてません」
聡美先輩が答え、部長の差し出した小袋を押し戻す。笑った香帆が、自分のケースももう一度確かめている。
夏の大会と違い、一つの学校でも、行き先や時間が少しずつ違った。
三枝先生が人数を確かめ、私たちへ声を掛けた。
「提出物は利香。時刻は全員で確認すること。誰か一人に任せないで」
頷いて会場へ入ると、廊下の向こうから金管が響き、別の部屋では木管の細かな音が重なっている。その中を歩くうちに、自分たちの人数が気になった。
三人。
合奏の中で同じ旋律を誰かが重ねてくれるわけではない。
私が息を吸うとき、二人が何をしているかが、全部聞こえる。
それが怖くもあり、楽しみでもあった。
陽菜が私の顔を覗き込む。
「先輩、緊張してます?」
「うん」
「してるように見えません」
冷えた指先を見せると、陽菜が手を伸ばし、利香先輩も横から覗き込んだ。
「冷たいね」
「朝だからだと思います」
「じゃあ、少し動かそう」
先輩にならって手を開いたり閉じたりすると、陽菜が負けじと大きく指を広げる。こんなときまで張り合わなくてもいいのに。おかしくなった私につられて二人も笑い、さっきより動かしやすい手を、もう一度握る。
音出しの終わるころに来た茜は、深い緑色のマフラーを巻いている。それを見つけて嬉しくなる私たちへ、順に顔を向け、頑張ってくださいと伝えてくれた。
陽菜が首を傾げる。
「普通だね」
「何が」
「もっと、何か言うかと思った」
「本番前に、何を言えばいいの」
茜は少し考えてから、私を見た。
「ひかり先輩、ちゃんと聴いてます」
県大会前に自分から伝えた言葉が、今度はこちらへ届く。
失敗を見張られるのでなく、演奏の行き先を一緒に見てもらえる気がして、重さは感じなかった。私は頷く。
「ありがとう」
茜は少し照れ、先輩にも陽菜にも頷いてから客席へ向かう。その背中を見送り、楽器を持ち直した。
次は私たちが舞台へ出る番だ。
客席より暗い舞台袖で、譜面台を運ぶ係の人が、声を落として位置を確かめている。
私たちも並び方を確認した。学校では馴染んだ距離が、舞台の上だと少し広く見える。
利香先輩、続いて陽菜と目が合い、私は二人へ頷く。
回数は、誰も数えなかった。
まだ、少なくとも、そのときは。
呼ばれて出た舞台では、足元の明るさに比べ、客席がずいぶん遠い。茜を探しかけた目を、両隣へ戻す。今、確かめたい二人はここにいる。
楽器を構え、息を合わせる。最初の音は学校の部屋より遠くまで伸びていく。その戻りを待ちすぎず、次へ。
利香先輩の音が、私の上へ重なる。
陽菜が、明るくその間へ入る。
三つの音が、別々の場所から来て、同じ速さで進み始めた。
私は、よし、と思った。
思ったあとで、もう次の場所にいた。
三人だと、自分の息の乱れが、そのまま次の人へ届く。
それは、隠せないということでもあり、受け取ってもらえるということでもあった。
少し長くなった先輩の音を待ち、陽菜が入る場所を残す。練習で何度もずれた受け渡しが、今日はうまくつながる。
けれど、次を慎重に吹こうと音を抑えると、前へ進む力まで弱くなる。先輩がほんの少し身体を動かす。一緒に行こう、と促されたようで、その動きに息の流れを戻す。
陽菜の音が、少し軽くなる。
その変化を聴けたことが、嬉しかった。
舞台の上では、全部を言葉にできない。
だから、普段どんなふうに吹きたいかを話しておいた時間が、こうして戻ってくる。
終わりへ近づくと、私は、まだ終わらせたくないと思った。
同時に、最後まできちんと終えたいとも思った。
矛盾した二つの願いを、息の中へ入れる。
二人がつくる最後の形へ、私も音を置く。残響が遠ざかり、楽器を下ろしたところへ拍手が届いた。
陽菜が少し笑い、利香先輩もこちらへ笑いかける。この顔を、あとでも思い出せるようにしたい。
舞台を下りると、陽菜が最初に言った。
「できました」
「うん」
「先生に言われたところ、ちゃんと」
「つながったね」
陽菜の笑顔が、大きくなった。
利香先輩は楽器を抱え直して、ゆっくり息を吐いた。
「最初、少し怖かった」
「私もです」
私が言うと、先輩は驚いた顔をした。
「ひかりも?」
「音が返ってくるまで、少し違ったので」
先輩は頷いた。
三枝先生は、通路の少し先で待っていた。
私たちの顔を見て、短く言った。
「お疲れさま。まず、楽器を片づけましょう」
反省点は、すぐには言わなかった。
それが少し気になったけれど、私は言われたとおりにした。
楽器の掃除をするあいだも、頭の中では演奏が続いている。うまくつながったところを通り過ぎると、慎重になりすぎたところで止まり、吹き直すこともできないまま、何度も戻ってしまう。
三枝先生は、それを見越したように言った。
「今日の演奏は、今日の演奏です。直す場所はあとで確かめる。今は、三人で出せたものも忘れないように」
私は、はい、と答えた。
忘れるつもりはなかった。
でも、覚えているだけで、ちゃんと喜べていたかどうかは、分からなかった。
香帆たちの出番は私たちより遅く、片づけを終えてから客席で聴くことができた。高い二本が軽やかに重なり、その下からファゴットが進むと、クラリネットとホルンが同じところで向きを変える。
隣で聴いていた茜の指が、膝の上で少し動いた。香帆がいつも吹いている音を、自分の楽器を持たずに追いかけているのだろう。
結果発表のとき、私たちは並んで座った。
私の右に陽菜、左に利香先輩。
茜は一つ後ろの列にいた。
名前が呼ばれるまで、膝の上のプログラムを何度も見た。
書いてある演奏順は、もう変わらない。
それでも、手を動かすものが欲しかった。
白鷺女子高校、木管三重奏。
金賞。
言葉が届いた瞬間に陽菜の肩が跳ね、先輩の顔もこちらへ向く。頷くと、嬉しさが少し遅れて胸に広がる。
県大会への推薦でも名前を呼ばれたときには、陽菜が腕をつかみ、反対側から先輩の手が伸びてくる。二人に触れられたまま、もう一度舞台を見る。
進める。
次がある。
その安心が、胸いっぱいに広がった。
でも、広がったすぐあとに、別の考えが入ってきた。
県大会までに、今日、弱くなったところを直さないと。
あの受け渡しも、まだ、いつでも同じようにできるわけではない。
全国へ行くなら、このままでは足りない。
私はプログラムを開いた。
練習の日程を思い出した。
隣で、陽菜の手が少し緩んだことには、そのとき気づかなかった。
香帆たちの管楽五重奏も金賞を取り、県大会への推薦を受けた。
ロビーで賞状を受け取ると、海香先輩が二組一緒の写真を撮ろうと言い、聡美先輩が近くにいた先生へ携帯を頼む。香帆の隣へ並んでおめでとうを伝えたら、ひかりも、と笑い返してくれた。
そのあと、茜が私たちだけの写真も撮ってくれた。
三人で並ぶ。
利香先輩が真ん中に賞状を持ち、陽菜がその端へ少し指を添えた。
私は二人の隣へ立った。
「先輩、もう少し、近く」
茜に言われ、私は半歩寄った。
「ひかり先輩、顔」
「何?」
「難しい譜面、見てるみたいです」
慌てて笑う私を、陽菜がいつもとは少し違う目つきで見ている。
写真を撮り終えると、茜は家の用事があるから先に帰ると言った。お礼を伝える私へ頷き、それから三人へ向き直る。
「おめでとうございます。最初より、途中からの方が、三人が近く聞こえました」
その感想に、私は顔を上げた。
「どのあたり?」
茜は、私たちの楽譜を持っていなかった。
少し考えて、旋律を小さく口で示した。
私が慎重になりすぎて、先輩の音に背中を押された、その先だった。
「あそこ、好きでした」
茜の言葉に、ありがとう、と返す。
直さなければとばかり考えていた演奏に、誰かが好きだと言ってくれる場所もある。私は、それを見落としかけていた。
茜が帰っても陽菜はしばらく黙り、いつもなら何か言う利香先輩も口を開かない。そこでやっと、二人の沈黙が気になった。
帰りの電車は、座れるくらい空いていた。
私たちは三人で並んだ。
楽器のケースを足元へ置く。
陽菜が、窓の方を見たまま言った。
「先輩、今日、駄目でしたか」
私は驚いて顔を向けた。
「何が?」
「演奏」
「駄目じゃないよ。金賞で、県にも」
「結果の話じゃなくて」
陽菜の声が、少し硬かった。
私は口を閉じた。
利香先輩が、静かに付け足した。
「ひかり、ずっと、何か直すところを探してる顔だったから」
私は自分の手を見た。
プログラムの端を、まだ持っていた。
「……探してました」
正直に答えた。
陽菜が、唇を結んだ。
私は慌てて続けた。
「でも、嬉しくないわけじゃない」
「そこ、分からなかったです」
陽菜は、私の方を見た。
目が少しだけ、寂しそうだった。
「次へ行けたって呼ばれたとき、私、先輩と喜びたかった」
その言葉に、胸が痛んだ。
二人と先へ行きたくて、今日の演奏に足りないものを探していた。そのあいだ、隣で喜んでいる二人に、私はどんな顔を向けていただろう。
「ごめん」
謝っても、陽菜はすぐに返さない。先輩も代わりに許すことはせず、二人の顔を見る私の言葉を待っている。
「今日の、受け渡し、嬉しかった。練習で止まったところが、舞台でつながって」
陽菜の目が動いた。
「それから、私が少し遅くなったとき、利香先輩が前へ行ってくれたでしょう。あそこで、戻れた」
先輩が、小さく頷いた。
「二人と吹けて、嬉しかったです。本当に」
言ってから、私はプログラムを閉じた。
「なのに、次のことを、先に考えてた」
陽菜は、しばらく私を見た。
それから、少しだけ肩を下げた。
「直すところがあるなら、聞きたいです」
陽菜が言う。
「ちゃんと、教えてほしい。でも、それだけだと、私が嬉しかったの、変だったのかなって思うので」
私は首を振った。
「変じゃない」
すぐに言えた。
自分にも、そう言いたかった。
利香先輩が、静かに笑った。
「奏者としては、次へ行くための話をしたい。恋人としては、今日も好きだったって顔をしてほしい。欲張りだけどね」
陽菜が先輩を見る。
「演奏も、好きだったって言ってほしいです」
「そうね」
先輩は頷いた。
私は二人を見て、少し笑った。
「好きでした。二人の音」
陽菜の頬に赤みが差し、先輩の目が嬉しそうに細くなる。今日の金賞を受け取ったのは、私も同じだったのだと、やっと実感できる。
駅に着く前に、三人で次の練習の話をした。
今日は、細かい直し方までは決めなかった。
録音を聴き直す日を決め、二人だけで合わせる短い時間も作ることにした。
私も、自分の声部だけをもっと自由に吹く時間を取る。
全部を一度に直そうとしなければ、少しずつできそうだ。
電車を降りると朝より冷えた空気に包まれ、陽菜は手袋をはめ、先輩はマフラーを直す。私もケースを握り直し、別れる前にもう一度伝えた。
「県大会、行けて、嬉しい」
陽菜が笑った。
「遅いです」
「うん。遅かった」
利香先輩が、私の袖へ軽く触れた。
「でも、聞けてよかった」
二人とも、ちゃんとこちらを見ている。何度目が合ったのかは分からないし、今日はもう数えなくていい。
家へ帰ると、茜から写真が届いた。
賞状を持つ三人。
陽菜の笑顔と、利香先輩の少し安心した顔。
そして、笑うのが一拍遅れた私。
私はその写真を保存した。
足りないところの証拠としてではなく、今日、一緒に舞台へ立った記録として。
そのあと、三人のやり取りへ短く送った。
『今日はありがとう。次も、一緒に吹こうね』
陽菜から、もちろんです、と返ってきた。
利香先輩からも、楽しみにしてる、と届いた。
私は携帯電話を置いた。
全国までには、まだ遠い。
その遠さを忘れたわけではなかった。
でも、今日越えた一つを、今日のうちに喜ぶことはできた。




