第三十七章 譜面を閉じる時間
東海大会の前日、朝のうちに十六時で練習を終えようと二人に提案する。確かめたいところはそれまでに済ませ、時刻が来たら片づける。自分から言った約束を、夕方の自分も守ってくれるだろうか。
音楽室では、先に来た利香先輩がリードのケースと布を机に並べている。戸を開けた私へ、いつもどおりの笑顔が向く。
「おはよう」
「おはようございます」
その挨拶が、いつもと同じだったことに安心した。
私はケースを置く前に、先輩の袖へそっと触れた。
「陽菜が来るまで、少しだけ」
何を、と聞かれなかった。先輩が一歩寄り、私の頭を肩へ迎えてくれる。
「おはよう、ひかり。よく眠れた?」
私は頷いてから、少しだけ、と答え直す。背中を撫でてもらうと、今日することを順番に並べていた頭が、ようやく静かになった。
足音が廊下から聞こえ、名残惜しいまま身体を離す。私の前髪を直した先輩が、もう楽器へ手を戻している。その余裕まで好きで、また帰りに頼みたくなった。
大会の前日だからといって、朝から特別な顔をしなくてもいい。
机へ置く長いケースの重さは、もう手が覚えている。初めて学校のイングリッシュホルンを開けた日の遠い感じは消えても、留め具を外すときには、少し丁寧になった。
明日、この楽器を持って舞台へ立つ。
その先にどんな結果があるかは、ケースの中には入っていない。
あるのは、手入れされた管体と、ボーカルと、自分たちが練習してきた時間だけだった。
私は楽器を取り出した。
利香先輩の音が、隣で静かに鳴った。
陽菜は、鞄から譜面を出すなり、机の上を見回した。
「予備、あります?」
私と先輩を順番に見る。
あるよ、と先輩が答え、私も頷く。
陽菜はいつもより真剣な顔でケースを開け、一つずつ確かめ始めた。
本番用、予備、手入れの道具。昨日も確認した順番で指を動かし、陽菜につられるようにケースを点検する。
先輩が私を見て言った。
「ひかり、楽譜の方は?」
頷いて鞄から出したファイルは、表紙の名前こそ同じでも、六月の頃とはずいぶん中身が違う。書き足した注意と消した跡が何層にも重なり、白かった余白がほとんど見えない頁もある。
その全部を綺麗に清書してしまったら、何か大事なものまで薄くなる気がした。
私は角だけを整え、譜面台へ置いた。
陽菜が、隣から覗き込んだ。
「先輩、ここ、まだ残ってます」
指したのは、少し前に消そうとした注意書きだった。
私は頷いた。
「薄くしたけど、完全には消してない」
「気になるんですか」
「もう、前ほどは」
そう答えると、陽菜は少し笑った。
利香先輩が、私たちの間へ顔を向けた。
「じゃあ、最初から、一回」
陽菜と私の頷きを確かめた先輩が構える。三人分の息で、最初の通しが始まる。
前日の音は、思ったほど特別なものではない。昨日よりよくなったところも、まだ気になるところもある。
陽菜が入りで少し考えすぎ、先輩が音の終わりを短くする。その二つを聴きながら息を進めると、全部を止めて直さなくても、次の音で分かることがあった。
最後まで吹いても、完璧、という感想は出ない。最初のところをもう一回、と陽菜が頼み、先輩は終わりだけ、と続ける。私も気になる場所を一つ挙げ、順番に確かめてから休憩に入る。
休憩の時間に、利香先輩が、部屋の中をゆっくり見回した。
私はその視線に気づいた。
「どうしました?」
聞くと、先輩は笑った。
「ここで、ずいぶん吹いたなと思って」
窓際の椅子や傷のある譜面台を、先輩の視線に沿って眺める。スタンドも何度この部屋で置き直しただろう。六月には、付き合う人の数まで変わったのだ。思い出がそこへ行き着いた途端、静かに懐かしむどころではなくなる。
陽菜が私の顔を見た。
「変なこと、思い出してません?」
「何も」
私の返事は早すぎた。
先輩が笑った。
陽菜も、何を思い出したか分かったらしく、少しむっとした。
「あのときの順番、今でも納得してませんからね」
私は水筒を持ち、飲むふりをした。
利香先輩が、今日はその話をすると練習が終わらなくなるね、と言う。
陽菜は、そのとおりです、と答えた。
私は二人の声を聞きながら、胸の中が少し温かくなった。
明日のことを考えると怖い。
でも、今日までのことを思い出すと、笑えるものもたくさんあった。
その両方を持って、舞台へ行けたらいいと思った。
昼のあと、自分の練習を終えた茜が、ファゴットのケースを提げて扉の前へ来る。
「入っていいですか」
頷くと、茜が少しだけ中へ入ってくる。今日は手伝いや看病のための荷物はなく、自分の楽器と鞄だけ。その身軽な姿が、私は好きだった。
茜は明日の移動時刻を確かめる。私たちとは別に会場へ来て、客席で聴く予定だ。
「着いたら、一回、連絡します」
私は頷いた。
「ありがとう」
陽菜が、いい席取って、と言った。
茜は首を傾げた。
「先輩が見えるところにします」
「私たちも、いるからね」
「見えるでしょ。三人しかいないんだから」
いつものやり取りだった。
利香先輩が、ちゃんと聴いてね、と笑う。
茜は、はい、と真面目に答えた。
そのあと、私を見た。
「先輩、少しだけ、廊下、いいですか」
陽菜が顔を上げた。
先輩も見た。
私は頷いた。
「すぐ、戻るね」
廊下の窓際で茜の隣に並ぶ。何か心配なのだろうかと顔を覗くと、かえってこちらを確かめるように見られ、少し笑われる。
「明日、終わったら、私のところにも来てください」
私は瞬きをした。
「もちろん、会うよ」
「三人で、ずっと、音の話をしてるかもしれないから」
言い方は軽かった。
でも、クリスマスに話したことが、その奥にあった。
私は頷いた。
「会いに行く。帰りも、話そう」
茜は、少し安心したように目を細めた。
それから、私の袖に触れた。
「あと、今日、少しだけ」
袖に触れた指を取り、誰もいない廊下でしばらく手をつなぐ。楽器を持ち続けて硬くなった指に、茜の温かさが移る。軽く握り返してくれる力へ、私も少し力を返す。
「明日、楽しみです」
楽しみだけれど、怖くもある。すぐに言葉を返せずにいる私を、茜は手を離さず待ってくれた。
どちらかに決めなくてもいいのだと思えて、やっと小さく頷く。
「聴いててね」
茜は、はい、と答えた。
その声で、私は部屋へ戻れた。
午後の最後は、三枝先生の前で本番のつもりで一度だけ通す。途中で止められることなく、最後の響きまで聴いてもらえた。静かになった部屋で指された一か所にも、大きな変更はない。何度も話してきた注意を三人でもう一度確かめ、頷く。
先生が立ち上がる。
「明日は、今日までやってきたことを、三人で使ってください」
私は、はい、と答えた。
先生が出ていくと、時計の針が十六時の少し前を指していた。
陽菜が楽器を持ち直した。
「さっきのところ、もう一回だけ」
私も最後に確かめておきたい。時計を見た先輩が短くならと頷いてくれたので、その前後だけを吹いてみる。
うまくつながり、よかった、と息を吐く。陽菜の頷きと先輩の笑顔を確かめて時計を見ると、十六時。楽器を膝へ置いてみても、指はまだ次を吹く形を覚えている。
もう一回、という言葉が、喉まで来た。
今の感覚を、もう一度確かめたい。
その一度がよくなければ、もう一度。
そうやって、いくらでも続けられることを、私は知っていた。
茜が、できた感じを忘れそうだと言っていた朝を思い出した。
私は、明日も探せばいいと、あのとき言った。
自分にも、それを言えるだろうか。
譜面の端へ片手を置く。この手で閉じれば、今日は終われる。
「終わろう」
自分の声で言った。
陽菜が私を見る。
先輩も、見た。
私は少し笑った。
「続きは、明日、吹きたい」
二人が頷いた。
私は、譜面を閉じた。
片づけは、いつもより静かだった。
誰も急がなかった。
水気を取り、ケースへ戻し、忘れ物がないか確かめる。
陽菜が、先輩の布が机の端へ残っているのを見つけた。
「利香先輩、これ」
先輩が受け取る。
「ありがとう。陽菜ちゃんは、譜面」
陽菜が振り返った。
ファイルを、椅子へ置いたままだった。
私は笑った。
陽菜が私を見る。
「先輩も、笑ってないで確認してください」
笑うのをやめて鞄を確かめると、こちらには全部入っている。報告すれば、二人からよかった、と返ってくる。自分の支度だけでも落ち着かない日に、相手の忘れ物まで気にする余裕がある。
楽器を持って廊下へ出ると、聡美先輩が鍵を受け取りに来た。
「今日は、もう終わり?」
私は頷いた。
「はい。終わりにします」
先輩は時計を見て、少し笑った。
「ちょうどいいね。気をつけて帰って」
海香先輩も、その少し後ろにいた。
私たちを見ると、両手を小さく振った。
「明日、聴きに行くから」
陽菜が礼を言い、利香先輩も頷く。私が、お願いします、と続けると、海香先輩はいつものように何かを言いかけた。
今日はそれを飲み込み、まっすぐに言ってくれる。
「三人の音、楽しみにしてる」
私は、その言葉を嬉しく受け取った。
帰り道、三人で、明日の集合時刻をもう一度確かめた。
持ち物も、移動も、必要なことは全部聞いた。
話すことがなくなると、少しだけ静かになった。
先輩が、私と陽菜を見る。
「今日は、早く寝ようね」
陽菜が、はい、と答えた。
私も頷いた。
先輩は、私の顔を見て少し目を細めた。
「録音、ずっと聴かないでね」
私は、思っていたことを当てられて、返事が遅れた。
陽菜がすぐにこちらを見た。
「聴くつもりだったんですか」
「一回くらい」
「一回で終わらない顔です」
また、顔だった。
私は笑い、分かった、と答えた。
駅へ着くと、陽菜が私の手に短く触れた。
「明日も、よろしくお願いします」
部活の挨拶みたいな言い方だった。
でも、その目は、私を好きだと言うときと同じだった。
私は頷いた。
「こちらこそ」
利香先輩も、私の反対の手に触れた。
「おやすみは、あとで送るね」
まだ夕方だったのに、私は、その予告が嬉しくなった。
三人で別れた。
明日、同じ場所へ集まる。
それだけの約束を、何度も心の中で確かめながら帰った。
家では制服と靴を確かめ、楽器の道具が入る鞄へ青い花のハンカチを加える。散歩のノートは机に、紺色の肩掛け鞄は椅子の背に残しておく。大会から帰ったら、またこの鞄で出かけたい。
夕食で明日の出発時刻を伝えると、母はいつもの声で、分かったと頷いた。
その普通の返事に安心する。
部屋へ戻り、楽譜を机へ置く。
開きかけて、手を止めた。
今日、学校で閉じた。
明日、舞台の前で、また開く。
今、もう一度すべてを考え直さなくても、今日までの時間はなくならない。
私は、楽譜の上へ鉛筆を置いた。
携帯電話が光った。
陽菜からだった。
『明日、寝坊したら起こすね。私の方が先に起きるから』
私は笑った。
『ありがとう。でも、ちゃんと起きるよ。陽菜も早く寝てね』
送ると、すぐに返事が来た。
『うん。おやすみ、ひかりさん』
少しして、利香先輩から届いた。
『今日はありがとう。明日の最初の息、ちゃんと一緒に吸おうね』
私はその文を、ゆっくり読んだ。
『はい。先輩と吹けるの、楽しみにしています。おやすみなさい』
最後に、茜から来た。
『明日、客席から聴いてます。終わったら、会いましょう』
私は、廊下でつないだ手を思い出した。
『会おう。今日、話してくれてありがとう。おやすみ』
三人への返事を終え、携帯を伏せる。緊張したまま眠れるかは分からないけれど、今日の作業はもう増やさなくていい。
明かりを消しても、机の譜面の形だけがしばらく目に残る。閉じた頁の中で、三人で選んだ音が明日を待っている。




