第三十六章 合わせるだけでは、届かない
陽菜が吹き終わるたび、一度目は早すぎると伝え、二度目には待ちすぎると直し、三度目には、タイミングは合っていても先へ進めない、と付け加える。
そのたび頷いて構え直してくれた陽菜が、三度目だけは譜面から顔を上げる。
「先輩、どっちですか」
私は、言いたいことをもう一度考えた。
「待ってほしいけど、止まってほしいわけじゃなくて」
「止めてないです」
「今のは、止まって聞こえた」
唇を結んだ陽菜から、先輩の見ている譜面へ目を逃がす。私の譜面にも書き込みが増え、県大会前に消した場所へ、別の注意が入り込んでいる。
二月に入ってから、家でも録音を繰り返し聴くようになった。翌日には直したいことを持っていき、その日の録音をまた家で聴く。全国へ行くために必要なのだと、書き込みが増えることに安心さえしていた。
県大会の演奏は好きだった。
でも、好きだっただけで次へ進めるなら、あんなにたくさんの組が、同じ舞台へ来ることはない。
私は、もう一度、楽譜の同じところを指した。
「ここから、やってみよう」
陽菜は、楽器を上げなかった。
「先輩の言ったとおりに、今、変えたんですけど」
その声に、私は顔を上げた。
練習室の時計が、いつもより大きな音を立てているように感じた。
利香先輩が、静かに楽器を下ろした。
陽菜は譜面台を見たまま、続けた。
「早いって言うから待って、待ちすぎって言うから戻して。戻したら、前へ進まないって」
違う、と言いかけて口を閉じる。同じことを言い換えていた私と、違う指示を受け取っていた陽菜では、さっきから同じ話をしていなかった。
「今の場所だけ、合わせても、その前が変わるから」
私は説明した。
「だから、前から、同じように持ってきてほしくて」
陽菜が、こちらを見た。
「同じように、って、先輩が考えたとおりにですか」
返事が止まる。私の考えたとおりにつながれば全国に近づけると、信じていなかったとは言えない。
「よくなると思うから、言ってる」
私は答えた。
陽菜は頷いた。
「分かってます」
分かっている、という声が、少し硬かった。
「でも、私だって、考えて吹いてます」
私は陽菜を見た。
「先輩の指示を、間違えずに再現するためだけに、ここにいるんじゃないです」
その言葉は、思っていたより深く刺さった。
私は、そんなつもりはない、と言いたかった。
でも、自分のつもりだけを説明しても、今、陽菜が困っていることはなくならない。
利香先輩が、私の方へ顔を向けた。
「ひかりの聞こえているものを、教えてほしい」
私は頷きかけた。
先輩は続けた。
「ただ、今は、どんな音にしたいかより、ここはこうしてっていう話が多くなってる」
短く、待つ、前へ、合わせる。音符の周りに並ぶ言葉は、書いたときにはどれも必要だった。けれど全部を守った先で、何を吹きたかったのだろう。二人に話そうとしても、細かな指示ばかり先に浮かぶ。
「全国へ、行きたいんです」
口から出たのは、音の説明ではなかった。
利香先輩が頷いた。
「うん」
「ここで、少しずつずれていたら、届かないと思うから」
私は譜面の端を押さえた。
「誰にも、文句を言われない演奏にしたいんです」
陽菜が眉を寄せた。
「誰にですか」
審査員、と答えようとした。
でも、その前に香帆の顔が浮かんだ。
ちゃんと三人でできていると見せられれば、心配しなくていいと、もっと強く言える。そんなことまで、全国大会へ持っていこうとしていた。
「……部の人にも」
利香先輩が、私を見た。
「全国へ行けたら、香帆ちゃんが喜んでくれるかどうかは、分からないよ」
私は黙った。
「私、賞を取ったから、ひかりと付き合ってていいって言われたいわけじゃない」
先輩はそう言って、もう一度楽譜へ目を落とした。
陽菜も、全国へ行きたいです、と言った。
私は顔を向けた。
「私もです。先輩だけが、行きたいわけじゃない」
陽菜の口から同じ願いを聞いて、少し息ができる。二人を連れていくのだと思い詰め、私が先に直せば、間違えさせなければ、と考えてばかりいた。
そうして手を上げるたび、自分で考えて吹く陽菜を止めていたのだ。
利香先輩が、少しだけ声を低くした。
「私も、東海で終わりたくないよ」
私は先輩を見た。
「でも、そのために、私の音を、ひかりが全部決めるのは違うと思う」
先輩にそんなことを言わせたのがつらく、目を伏せる。
去年は私よりできないことを気にして、気持ちまで隠していた人だ。その音が好きだと、私は伝えたはずなのに。
今、その好きな音の形を、自分の都合で小さくしようとしていたのかもしれない。
「ごめんなさい」
謝ってやめるのも違います、と陽菜がすぐ返す。顔を上げると、真剣な目がこちらを見ていた。
「先輩が気になるなら、気になるって言ってください。聞かなかったことにして進めたら、今度は先輩が、ずっと我慢するでしょう」
黙れば済むと思いかけたことまで、陽菜には伝わってしまう。二人が聞きたいのは、私が何を考えて吹いているかだ。それを伝える前から、謝って引っ込めようとしていた。
利香先輩が時計を見た。
「少し、休もう。そのあと、この短いところだけ、三人の考えを試してみない?」
陽菜と私がそれぞれ頷く。次に試すことを決めてから休憩へ移れるだけで、見放されたのではないと分かる。
廊下で飲む水の冷たさに、身体がずいぶん熱くなっていると気づく。
窓の外では運動部が走っていた。ガラスを挟むと、声まではよく聞こえない。
少し離れた部屋からは、茜のファゴットが聞こえる。モーツァルトではない短い旋律を、強さを変えて試しているらしい。何かの権利を勝ち取る必要はもうなくても、止まっては吹き直す時間が続いている。廊下の端で、その違いを少し聴かせてもらう。
私にも、そういう時間があった。
イングリッシュホルンを初めて持って、どんな音が好きか探した日。
二人を待たせて何度も同じ旋律を吹いたのは、誰かを失わないためではない。ただ、もう一度鳴らしたかったのだ。
水筒の蓋を閉めても、全国へ行きたい気持ちは残っている。
利香先輩の最後の冬を、長くしたい気持ちも。
それを全部捨てれば楽になるとは思えなかった。
でも、今の練習で、二人がどんな音を出したいかを聞くことはできる。
その一つまで、結果への怖さで見えなくしたくなかった。
部屋へ戻ると、陽菜は座ったままゆっくり指を動かし、先輩は録音の準備をしている。空いた自分の椅子に腰を下ろす。次は、私も吹いて伝えたい。
「私の考えも、一回、吹いて聴いてもらっていいですか」
二人が顔を上げた。
利香先輩が頷いた。
「うん。聴きたい」
陽菜も、お願いします、と言った。
その返事を聞いて、私はやっと、さっきまで自分が一人で話しすぎていたことを、身体で理解した。
私が気になっていたのは、二本のオーボエが短く受け渡すところから、その先の三人の動きへ入る部分だった。
入りの時刻だけなら、何度か揃っていた。
でも、一人がきれいに終えたあと、次の人がそこへ置くようになる。
少しずつ勢いを失う音楽に、私は自分の声部を重ねてみた。途中、歌がどこへ向かうと思うかも言葉にする。
二人は口を挟まずに聴いてくれ、吹き終えたところで利香先輩が尋ねる。
「ひかりは、ここまで、一つで考えてる?」
私は頷いた。
「はい。ここで、いったん落ち着く感じにしたくて」
陽菜が楽譜を見る。
「私、そこより、少し前で、一度気持ちが切り替わると思ってました」
私は顔を上げた。
そうだったのか。
何度も一緒に吹いていたのに、私たちは、同じ長さの音楽を見ているつもりで、少し違うところに区切りを置いていた。
利香先輩は、二人の言葉を聞いてから、自分の考えを話した。
「私は、その間。ここで少し色が変わるけど、終わるわけではないと思ってた」
三人で見る同じ譜面に、それぞれ違う区切りがある。その話をしないまま、入りが早いか遅いかだけで直そうとしていたのか。書き込みを増やす前に、鉛筆を置いて耳を傾ける。
「じゃあ、一回、私が言った方で、短く合わせてもらえますか」
二人の頷きを待って録音を始めると、入りはよく揃い、私が考えたところまで一本の流れで進める。けれど伸ばすものが増えた分、陽菜の音は重くなり、次へ動く明るさが弱い。吹き終わって、誰かに言われる前に口を開く。
「少し、押さえすぎたかも」
陽菜が、ほっとしたように息を吐いた。
「私も、そう感じました」
同じことを感じていたと分かるだけで、話し方が変わった。
さっきのように、どちらの言い分を通すかではなく、今、何が起きたかを話せた。
次に、陽菜の考えで吹いた。
短い受け渡しのところから、少し先へ手を伸ばすように動く。
利香先輩の音も、いつもより早く色が変わる。
私は、その下を支えながら、自分の音が少し遅く感じられた。
楽譜の上では、間違っていない。
でも、二人の気持ちはもう先へ行っているのに、私だけ同じ場所を見ていた。
途中で止めず、短い区切りまで吹いた。
陽菜が私を見る。
私は答えた。
「軽さは、こっちの方が好き」
陽菜の顔が少し明るくなる。
「でも、私のところで、一度、引っかかった。そこを越える前に二人が行くと、下だけ重くなる気がする」
陽菜は楽譜へ視線を落とした。
すぐに言い返さなかった。
「じゃあ、そこまで、待った方がいいですか」
私は、さっきなら、うん、と答えただろうと思った。
でも、今は少し考えた。
「入りを遅らせるだけじゃなくて、音の出し方で、先へ行く感じを残せるかも」
利香先輩が、自分の声部を指した。
「私の終わりも、少し変えてみたい」
先輩は長さをほとんど変えず、音の終わりを軽くする。そこへ入る陽菜が、今度は待ちすぎずに進んでいく。私も音を重ねたくなるけれど、もう一度二人だけで吹いてもらう。このつながりを、外からも覚えておきたい。
先輩が、どう、と顔を上げた。
私は頷いた。
「今の終わり、好きです」
先輩の目が、少し柔らかくなった。
陽菜が、私も入りやすかったです、と言った。
先輩は嬉しそうだった。
私が好きだと言ったことだけではなく、自分で変えた音が、二人へ届いたことが。
その顔を見て、私は、最初からこういう話がしたかったのだと気づいた。
録音を聴いた。
三つのやり方は、吹いているときより、はっきり違っていた。
私の案は、形がよく揃っている。
でも、少し慎重すぎる。
陽菜の案は、前へ向かう力がある。
そのかわり、三人が同じところへ着くまでの間に、少し距離ができる。
利香先輩が変えた終わり方は、その距離を短くした。
でも、自分の音まで軽くしすぎると、今度は全体の足元が弱くなる。
私は、録音の中の自分を聴いた。
二人の正しさを確かめるためではなく、三人の中で自分が何をしているかを聞いた。
その違いは、大きかった。
「私、ここ、もう少し、はっきり行きます」
私は言った。
「二人が軽く動くなら、その下まで丸くしない方がよさそう」
陽菜が頷いた。
利香先輩も頷いた。
「じゃあ、私は、終わりの色を変えるところを残す」
先輩が言う。
陽菜は少し考えた。
「私は、テンポを速くするんじゃなくて、次へ進みたくなるように吹いてみます」
その言い方が、少しおかしくて、私は笑いそうになった。
「やってみよう」
私が言うと、陽菜は頷いた。
三人で試した一回目は、考えすぎた陽菜の出だしが硬くなる。二回目には私が音を強くしすぎ、先輩から、さっきよりちょっと怖い、と言われて、思わず笑ってしまう。
「怖いですか」
「うん。行き先を示すというより、こっちに来てって引っ張られる感じ」
陽菜も分かると言うので、次は息を足したくなるところで少し待つ。強さを戻して進む向きだけを残すと、三回目で自然につながり、終わる直前の陽菜の目が笑う。先輩も音を下ろしてから笑ったので、今度は感想を聞いてみる。
「今の、どうでした」
陽菜の「よかったです」と先輩の頷きを受け、私も同じ気持ちを伝える。
誰か一人の案が勝ったのではない。三人で鳴らし、聴きながら少しずつ変えてきた音だった。
そこだけができても、曲の途中へ戻すと違うことがある。
少し前から始めてみると、その場所が近づくにつれて気持ちが急ぐ。よくなったところを、上手に吹こうとしすぎてしまうのだ。
特別な場所にしすぎないで、と先輩に言われ、私は頷いた。
短い部分を大切にしたあと、その部分だけを大切にしすぎないように戻す。
難しさは残るけれど、お互いの行きたい場所を少しは知っている。ずれても、相手の注意が足りなかったせいにしなくて済むのが、さっきまでとは違った。
吹き直すと、前の旋律からつながった流れのまま、止めていた場所を越えていく。次に何が返ってくるのか、二人の音を待つのが楽しい。気づけば、注意するために耳を澄ますのをやめている。
少し長く吹いてから、止めた。
誰もすぐには喋らなかった。
私たちは三人とも、今の音の残りを、もう一度聞こうとしていたのかもしれない。
やがて陽菜が言った。
「もう一回、最初から、やりたいです」
私は頷いた。
先輩も頷いた。
同じ気持ちだった。
通しを聴いてもらうころ、三枝先生が戻ってきた。
別の組を見ていたので、さっきの言い合いは知らない。
長く説明する代わりに吹いてみると、先生は最後まで止めずに聴いてくれた。
譜面へ何か書き込む鉛筆の先が、気になる。
全国へ届く音だっただろうか。
そう聞きたい気持ちは、まだあった。
でも、今日は、その質問だけに全部を預けたくなかった。
先生が顔を上げた。
「ずいぶん、話した?」
私も陽菜も驚いている横で、先輩が笑って、はいと答える。その返事に、先生が頷いた。
「お互いの次の音を、待てるようになっていました。止まるためじゃなくて、一緒に動くために」
ほっとしたところで、先生はまだ気になる場所を二つだけ挙げる。
書き込む前に、どうしたいかを三人で確かめていると、その様子を見た先生が少し笑った。
「今日は、そこまででいいでしょう。続きは、明日の耳で」
まだ時間があると言いかけても、陽菜が楽器を下ろし、先輩が録音を止めるのを見れば、自分も息を吐けた。
今日変わったものを持ち帰る時間も要るのだと、はい、と答える。
片づけの途中で、陽菜が小さく言った。
「さっき、強く言って、すみません」
私は手を止めた。
首を振る。
「言ってくれて、よかった」
陽菜は、少し困った顔になった。
「でも、先輩、顔、傷ついてたから」
私は、その正直さに少し笑った。
「傷ついた、というか。びっくりしたし、恥ずかしかった」
陽菜は私を見た。
「自分が、二人のことをちゃんと聴いてるつもりだったから」
私は続けた。
「でも、聴いてるつもりで、直すところだけ探してた」
利香先輩が、掃除の布を畳んだ。
「私も、ひかりが言うなら、そうした方がいいんだろうって、考えずに変えてたところがあった」
私は顔を向けた。
先輩は、少しだけ肩をすくめた。
「それで、自分が思ってることを言わないまま、難しい顔してた。そこは、私もよくなかった」
陽菜が、私は黙れませんでした、と言った。
私たちは笑った。
その笑いで、全部の問題がなくなったわけではなかった。
明日、同じ場所を吹いて、また違うふうに聞こえるかもしれない。
大会の舞台で、今日のようにできる保証もない。
それでも、違ったときに話す相手が二人いる。
そのことを、今日は、ちゃんと知ることができた。
帰り道、私は、利香先輩へ言った。
「先輩の最後の大会だから、って、私、一人で考えすぎてました」
先輩が私を見る。
陽菜も、少し歩みを緩めた。
私は、二人に聞こえる声で続けた。
「何とかしなきゃって、思ってました」
先輩は、すぐには答えなかった。
歩道の端を、自転車が通った。
私たちは少し寄り、それからまた並んだ。
「何とかしたい気持ちは、私にもあるよ」
先輩が言った。
「最後だから、いい加減にはしたくない。悔いのないように、なんて、簡単にできるとも思ってない」
私は頷いた。
先輩は、私の顔を見た。
「だから、私にも、考えさせて」
先輩に何かを贈ろうとしていた私へ、一緒に作りたいのだと返してくれる。その違いを教えられて、胸の奥が熱くなった。
「はい」
私は答えた。
「一緒に、考えたいです」
陽菜が、横から言った。
「私もいますからね」
私はすぐに頷いた。
「もちろん」
陽菜は、少しだけ満足そうにした。
それから、私を見て、にやりと笑った。
「今日、最後の通しで、先輩、私を見ました」
利香先輩が、すぐに言う。
「私も見てもらったけど」
私は、空を見上げた。
冬の夕方は、もう暗くなりかけていた。
でも、ため息と一緒に笑いが出た。
「数えないでって、言ったでしょう」
二人が笑った。
その声が、今日の帰り道にあった。
家で録音を聴き直すと、最後の音のあとに、三人の笑い声が入っていた。
録音を止めるまでの、短い時間だった。
陽菜の、よかったですね、という声。
利香先輩の、もう一回吹きたくなるね、という返事。
そして、自分の笑う声。
演奏のあとまで少し戻し、もう一度聴く。確認のためなら不要な笑い声を、今夜は消したくない。録音の名前に日付と、今日の通し、と入れる。完成とは呼べなくても、三人でここまで来たことは残せる。
全国へ行きたい気持ちは、まだ胸の中にあった。
その願いを、なくしたわけではない。
でも、今夜は、二人の音の形を決め直すための書き込みを増やさなかった。
録音の最後まで聴き、三人の笑い声が終わってから、再生を止めた。




