↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
35/38

第三十五章 隠したいのは、好きじゃないからじゃない

 誕生日の翌日、新しい鞄で改札を出ると、陽菜の目は私の顔より先に肩へ向かう。見せようと思って来たのに、そこまで早いとおかしくなってしまう。

 「使ってきたよ」

 見ればわかるよ、と陽菜の声が少し弾む。

 遠出はせず、駅の周りの店を見て歩き、温かい飲み物を買った。前日の疲れが少し残ることは、最初に伝えてある。

 じゃあ今日はゆっくりにしよう、という返事だけで済んだのが嬉しくて、何度か自分の肩の軽さを確かめた。

 学校の鞄ではない。

 大きな楽器のケースも持っていない。

 陽菜が横へ来て、手を差し出した。

 「予定どおり、空いてるね」

 私はその手を見て、笑った。

 「そのためだったんだ」

 「何度も言ってる」

 差し出された手を取り、人の流れに交じる。すれ違う人も、同じ方向に歩く人も、私たちへ特別な視線を向けてはいない。陽菜の手だけが温かく、意識しすぎているのは自分だと分かる。

 隠したいと思う気持ちは、なくなったわけではない。

 でも、こうして一緒に歩くことまで、いつも怖がりたくはなかった。

 帰り際、陽菜は、今日は短くても会えてよかった、と言った。

 私は頷いた。

 「私も」

 その返事は、相手に合わせるためだけのものではなかった。

 昨日たくさん会ったから、今日はもう十分だとは思わなかった。

 私は空になったカップを持ち、陽菜の話の続きを聞いた。


 月曜日の昼休み、音楽室へ連絡の紙を届けに行く途中で、一年生の子たちに呼び止められた。

 誕生日にカードをくれた子もいた。

 もう一度お礼を言うと、その子は嬉しそうに友達と目を合わせる。まだ話があるらしく、私も廊下の端へ寄って、続きを待つ。

 「どうしたの?」

 最初に口を開いたのは、フルートの子だった。

 「あの、変なこと聞いても、いいですか」

 私は少し身構えた。

 楽器のことなら、変なことだと思う必要はない。

 そう言おうとして、相手の顔を見た。

 楽器の話ではなさそうだった。

 「答えられることなら」

 私が言うと、その子は一度、友達を見た。

 友達が、本人に聞いた方がいいって言ったでしょう、と小声で言う。

 私はますます、何の話だろうと思った。

 「あの、ひかり先輩って、付き合ってる人、いるんですか」

 手の中で連絡の紙が曲がる。よくある質問なのかもしれないけれど、その小さな折れ目へ目を落とすだけの時間を、返事の前に使ってしまう。

 「えっと」

 口を開く。

 いつもの返事が、すぐそこまで来た。

 違うの。

 そういうのじゃないの。

 あの子たちが、よく話しかけてくれるだけで。

 私は、その言葉を出す前に、廊下の向こうを見た。

 廊下を空の手で歩いてきた陽菜が、こちらに気づいて足を止める。質問がどこまで聞こえたかは分からない。けれど、これから答える私の声は、あそこまで届く。

 昨日はあの手をつないでいた。一昨日もらった鞄も、陽菜の十六歳の誕生日に私が渡した手紙も、頭に浮かぶ。勝手に近づいてくる後輩のように話してしまえば、好きだと書いた私まで嘘になる。

 私は、質問をした子へ向き直った。

 「いるよ」

 自分の声が、思っていたよりはっきりした。

 三人の顔が浮かんだ。

 誰か一人だけを隠すために、残りの人をなかったことにするつもりもなかった。

 「付き合ってる人は、いる」

 その子たちの目が、大きくなった。

 一人が、小さく、やっぱり、と言った。

 私は少し驚いた。

 「やっぱり?」

 「最近、先輩、楽しそうだから」

 その返事には、からかう感じがなかった。

 私は、何と言えばいいか分からなくなった。

 楽器がうまく吹けるようになったからではなく、楽しそうだから。

 そんなところを見られているとは、思わなかった。

 「誰ですか」

 別の子が聞いた。

 私は、そこでは首を振った。

 「相手のことは、今は、内緒にさせてほしい」

 言うと、その子はすぐに、すみません、と答えた。

 謝らせたかったわけではなかったので、私は首を振った。

 「聞かれるのが嫌だったわけじゃないよ。ただ、相手のことを、私だけで勝手に広めるのは、したくないから」

 その子たちは、分かりました、と頷いた。

 「お幸せに、って言うの、変ですか」

 カードをくれた子が聞いた。

 私は、少し笑った。

 「ありがとう。嬉しい」

 予鈴が近づいていた。

 一年生たちは、また演奏、楽しみにしてます、と言って、教室の方へ戻った。

 連絡の紙を指で伸ばしても、端の小さな皺だけは消えない。


 少し離れて待つ陽菜へ近づくと、顔だけが上がり、言葉はすぐには出てこない。どこまで聞いたの、と尋ねかけてやめる。もう、聞かれて困る返事をしたわけではないのだから。

 「びっくりした」

 私が言うと、陽菜は頷いた。

 「私も」

 「陽菜も?」

 「ひかりさん、また、違うって言うかと思った」

 私は目を伏せた。

 一瞬、そう言おうとした。

 そのことを、陽菜に嘘で隠したくなかった。

 「言いそうになった」

 私が答えると、陽菜は少しだけ唇を結んだ。

 私は続けた。

 「でも、言いたくなかった」

 陽菜がこちらを見る。

 「陽菜と付き合ってるの、私も、自分で選んでるから」

 昨日の手の温かさを思い出しながら、陽菜の返事を待つ。黙ってこちらを見つめていた目が、やがて小さく笑う。

 「言ってくれて、嬉しかった。でも、怖かったなら、それも私には言って」

 私は頷いた。

 六月から何度も、なぜこうなったのだろうと思った。

 二人が勝負したから。

 先生が曲を変えたから。

 陽菜が、何でも一つと約束したから。

 始まり方は変えられなくても、そのあと会いたいと言い、手を取り、好きだと伝えたのは私だ。その分まで人のせいにはできない。

 陽菜の指がこちらへ伸びかけ、廊下に人が来ると少し引っ込む。その仕草を見て、陽菜にも人前で迷うことがあるのかと気づく。私も声を落とす。

 「あとで、四人でも話したい」

 陽菜は頷いた。

 「はい。私も、聞きたいです」

 その返事に、少し安心した。


 放課後、ファゴットの棚の前で、香帆に呼び止められた。

 楽器のケースはまだ閉じたままだった。

 「ひかり、今日、恋人いるって言ったんだって?」

 昼休みに答えただけの言葉が、もう、私より先に音楽室へ来ていた。

 「うん」

 「利香先輩?」

 私は留め金に掛けた指を外した。

 香帆は、私の顔を見て続けた。

 「十二月、駅の広場で見かけた。声を掛けようとして、やめたんだけど」

 先輩の誕生日だった。

 灯りを見ながら、手をつないだ。私には、あの夕方の二人のほかに、誰も見えていなかった。

 「でも、陽菜ちゃんとも、そうなのかと思ってたから」

 香帆は声を落とした。

 「どっちかが、知らないんじゃないの」

 私は首を振った。

 「知らないまま、付き合ってる人はいないよ」

 言い終えてから、ケースを持つ手に力が入った。

 誰のことも話していないつもりで、二人とも恋人だというところは、否定しなかった。

 香帆の目が動いた。

 「じゃあ、茜ちゃんは」

 私は答えられなかった。

 香帆は、その沈黙から目を逸らさなかった。

 「最近、帰りにひかりを待つこと、増えたでしょ。あの子、先輩から返事が来ると、練習の途中でも顔が変わるから」

 隣室で椅子を引く音に、私は扉の小窓を見る。やめようか、と香帆が尋ねてくれたけれど、首を振った。続きを聞くのは、まだ怖い。

 「みんなで決めてるならいい、って、私はすぐには思えない」

 その声は、怒鳴るよりずっと小さかった。

 「茜ちゃん、できないって言うの、すごく嫌がるんだよ。指が回らなくても、次はできますって言う。ひかりには、もっと、大丈夫って言うんじゃないの」

 「無理をさせたいわけじゃない」

 「それは、そうだと思う」

 香帆はすぐに答えた。

 「私も、休ませたつもりでいたから」

 あの日、二人で茜のケースを見ていた時間が戻ってくる。香帆も忘れていないのだと分かるだけに、そのあとの言葉が苦しかった。

 「でも、無理をさせたい人しか無理させないなら、あの子、倒れなかったと思う」

 私はケースを床へ置いた。

 保健室のカーテンの色まで、戻ってきてしまった。

 「……あのときのことは、今も、考えてる」

 「だったら、どうして」

 香帆はそこで口を閉じた。

 私が傷ついた顔をしたからだとしたら、ずるかった。茜のときと同じように、相手が先に言葉を引っ込めるのを待ってしまう。

 「隠してだますつもりはない。でも、私から全部を話す前に、三人に聞きたい」

 三人、と言ってしまった。

 香帆は目を伏せた。

 「分かった。今は、聞かない」

 それは、納得したという返事ではなかった。

 私は、ありがとう、と言えなかった。

 香帆は自分のケースを持って、隣の練習室へ向かった。

 いつもなら、岸先生の次の来校日や、リードの注文の話を、歩きながらする。

 今日は、何も聞かれなかった。


 練習のあと、三人に残ってもらい、空いた練習室の扉を閉める。昼に恋人がいると答えたこと、相手は内緒にしたいと伝えたことから話し始め、香帆とのやり取りも、順を追って聞いてもらう。

 「最後に、三人って、私から言っちゃった」

 私は膝の上で手を握った。

 「先に、相談すればよかった。ごめん」

 陽菜の背中が、椅子から離れた。

 利香先輩は口元へ手を当て、茜は、私の話が終わるまで動かなかった。

 話し終えると、茜が最初に聞いた。

 「私のことで、何て言われたんですか」

 私は、香帆の言葉を、できるだけそのまま伝えた。

 私が傷ついたところだけを選んで話さないよう、ゆっくり。

 陽菜は腕を組み、そんなの、と言いかけた。

 「香帆先輩に、私たちのこと、全部分かるわけじゃないでしょう」

 「分からないから、聞いてくれたんだと思う」

 私が答えると、陽菜は黙った。

 利香先輩が、私の方へ身体を向けた。

 「広場で会った日だね。気づかなかった」

 私は頷いた。

 先輩は、つないだ手をほどく仕草のように、自分の指をそっと離した。

 「あの日、私も、手を離したくなかった。私もいたのに、聞かれたのはひかりだけだったんだね」

 「それは、先輩のせいじゃないです」

 でも、聞かれたところから先を私だけで決めていいわけでもなかった。

 茜が、鞄を膝へ引き寄せた。

 「明日、香帆先輩に、私から話します」

 私は顔を上げた。

 「ただ、ひかり先輩の代わりに、何も困ってませんって言うためなら、行きたくないです」

 胸の奥がひりついた。

 香帆の前で何も言えなかった分を、茜に取り戻してもらいそうになっていた。

 「うん。それは、頼めない」

 陽菜が、組んでいた腕をほどいた。

 茜は、二人にも目を向けた。

 「二人の名前、出してもいいですか。私だけが先輩と付き合っていることにしたら、また、違う話になるから」

 利香先輩は少し考え、それから頷いた。

 「香帆ちゃんには、いいよ。私が好きだと言ったことも」

 陽菜は、すぐには答えなかった。

 「私も、自分で言いたい」

 「四人で行ったら、香帆先輩、何も言えなくなると思う」

 茜の返事に、陽菜は口を閉じた。

 椅子の下で、爪先が動いた。

 「……じゃあ、最初は茜から。私と話したいって言われたら、教えて」

 「うん」

 茜は私を見た。

 「明日は、一人で行きます」

 私は、その返事を変えてもらおうとはしなかった。

 利香先輩が、私を見た。

 「ひかりは、どうしたい?」

 その質問は、前なら、答えを探すだけで疲れた。

 今日は、少しだけ、自分の言葉があった。

 「まだ、部の人たちに、全部話したいとは思ってないです」

 私は言った。

 「でも、三人のことを、迷惑だとか、勝手に付きまとわれてるとか、そういうふうには言いたくない」

 陽菜が目を伏せ、先輩は静かに頷く。茜はずっとこちらを見ていて、私は続きを口にした。

 「隠したいのは、好きじゃないからじゃない」

 言ってから、少し息を吸った。

 「知らない人に、三人の気持ちを、勝手な話にされたくない。それに、私も、まだ、どう説明したらいいか分からない」

 立派な答えではなかった。

 香帆に声を掛けられるまで、私が怖がっていたのは、顔のない誰かだった。

 明日も同じ音楽室へ来る人に、今までと違う目で見られる。その怖さを、もう知っていた。

 「香帆に、前みたいに話してほしいとも思ってる。今日の私、三人のことより、それが先だったかもしれない」

 床へ逃げずに伝えると、三人は怒ることも励ますこともせず、まず聞いてくれた。

 やがて、利香先輩がゆっくり口を開く。

 「私は、今のままでいいと思ってる」

 私は顔を上げた。

 「ひかりと会うたびに、誰かへ説明しなきゃいけなくなるのは、ちょっと嫌だし。卒業したあとも、学校の噂の続きとして見られたいわけじゃない」

 先輩は少し笑った。

 「ただ、ひかりに、なかったことにされるのは嫌」

 私は頷いた。

 それは、できるだけ守りたいと思った。

 陽菜は、少し考えてから言った。

 「私は、言いたい日もあります」

 正直な答えだった。

 「先輩、人気あるから。私の恋人ですって、言いたくなる」

 私は顔が熱くなった。

 陽菜は続けた。

 「でも、何も知らない人に、利香先輩や茜のことまで、好き勝手言われるのは嫌です」

 利香先輩が陽菜を見る。

 茜も、少し驚いた顔をした。

 陽菜は、二人から目を逸らした。

 「私が文句言うのと、知らない人が言うのは、違うので」

 その言い方に、私は少し笑った。

 陽菜が、笑うところじゃないです、と言う。

 でも、自分の口元も少し緩んでいた。

 茜は、膝の上で指を動かした。

 「私は、勝負のこと、広めたくないです」

 私は頷いた。

 「私が勝ったから先輩と付き合えた、だけの話にされると、今のことまで、変になる気がするので」

 その、今、を聞いて、私は茜を見た。

 茜は視線を返した。

 「先輩が、私と会いたいって言ってくれたこと、私は、ちゃんと覚えてるから」

 胸が温かくなり、うん、と頷く。

 音楽室の向こうで椅子を動かす音がすると、私たちは声を落とした。扉が開くのではと四人で一度振り向く。その向こうが、さっきより近い。


 「じゃあ、しばらくは、詳しいことは広げないで」

 私は確かめた。

 「誰かに聞かれたら、困ったことも、そのあと話す。自分だけで、三人のことを決めない」

 先輩が頷き、陽菜もはいと答える。茜からは、先輩も一人で抱えないでください、と返ってきた。

 秋には私から何度も伝えた言葉だと思うと、少し笑ってしまう。

 「うん」

 私は頷いた。

 話が終わると、陽菜が急に、私を見た。

 「それで、先輩」

 「何?」

 「付き合ってる人がいるって言ったとき、誰の顔、浮かべました?」

 固まる私の横で先輩が、あら、と声を上げ、茜まで興味を示している。

 三人の顔を順に見る。

 こういうところは、簡単には変わらない。

 でも、今日の私は、少しだけ答えられた。

 「三人とも」

 陽菜が、逃げましたね、と言いかけた。

 私は首を振った。

 「逃げてない。本当に」

 三人が静かになったので、最後まで言ってしまう。

 「誰か一人のことだけ考えて、ほかの二人を隠したんじゃないから」

 言い終えると、今度は私の顔が熱い。今日はよく言うね、と笑う先輩の横で、陽菜は質問したことを悔やむような顔になり、茜まで目を伏せてしまう。

 もう帰ろう、と鞄を持つ。今のだけは、確かに逃げた。


 火曜日の昼、茜から、話してきました、と連絡があった。

 部活で会ったとき、私は詳しく聞きかけた。

 茜が先に言った。

 「無理して大丈夫って言うこと、あると思うって、答えました」

 私は、鞄の紐を肩から下ろした。

 「先輩には、言ってないことも?」

 「あります。言う前に、私が、今はいいやって思っちゃうことも」

 茜は楽器の棚へ目をやった。

 香帆はまだ来ていなかった。

 「だから、そこは香帆先輩の言うとおりです。でも、やめたいから困ってるわけじゃないって、話しました」

 私は、その返事を、安心するためだけには聞けなかった。

 茜が鞄を持ち直す。

 「先輩に、会いたいって言ってもらえて嬉しかったことも、話しました。それは、ちゃんと私の話なので」

 「……ありがとう」

 茜は小さく首を振った。

 「お礼、まだ、いいです。香帆先輩、分かったとは言ってません」


 火曜日の放課後、利香先輩とは、約束どおり駅前の店へ行った。

 先輩が考えていたお祝いを、誕生日当日から移したものだった。

 小さなテーブルに向かい合い、温かい飲み物を頼む。

 先輩は、遅くなったけど、と言って、もう一度おめでとうと言ってくれた。

 私は、ありがとうと答えた。

 「当日じゃなくても、嬉しいです」

 そう言うと、先輩はほっとしたように笑った。

 「二人で言いたかったの」

 私は頷く。四人で祝ってもらえてよかったことと、二人の時間が嬉しいことは、どちらも本当だ。

 先輩が新しいブックカバーを掛けた本を取り出した。

 読み終わったらしい。

 「これ、ひかりにも、読んでみてほしい」

 受け取ったカバーは、選んだときと同じ手触りなのに、先輩が読み終えた本だと思うと開くのをためらう。知らない頁の間に、先輩が考えたことまで挟まっていそうだ。

 「難しいですか」

 「少し。でも、ひかりが何を思うか、聞いてみたい」

 頷くと、しばらく学校や恋人の数の話を離れ、先輩が本の中の話を少し教えてくれる。

 帰り際に借り受け、新しい鞄へ入れた。

 陽菜からもらった鞄に、利香先輩から借りた本が入る。

 その隣には茜のノートもあって、嬉しいような、少し困るような気分になる。

 何を考えているのかと尋ねた先輩へ正直に話すと、鞄を覗いて笑ってくれた。

 「賑やかだね」

 「はい」

 先輩は何かを取り出せとは言わず、代わりに、帰る前に手をつないでと頼む。

 私から手を出し、店を離れて人が減ると、その腕へ頬を寄せた。

 「先輩。今日、少し、疲れました」

 返事をする代わりに、先輩が歩く速さを落とす。学校で誰に何を言ったか、全部説明しなくても、手を引いて急がせることはない。

 「うん。ここまで来たから、もう頑張らなくていいよ」

 その一言で、くっついていたい気持ちまで強くなる。

 「もうちょっと、ゆっくりがいいです」

 「私も、そのつもり」

 先輩の指が頬に触れ、額へ短いキスが落ちる。もっと、と言いかけた私の顔を、先輩はちゃんと見つけた。

 「帰る前に、もう一回ね」

 先に約束されてしまい、私は袖を握ったまま、何度も頷くほかなかった。


 水曜日、備品庫の前ですれ違った聡美先輩は、香帆と三浦さんへ渡す引き継ぎの資料を抱えていた。手伝いを申し出て一束預かり、準備室へ運びながら香帆の話をすると、棚の前で先輩の手が止まる。

 「私から、話しておく?」

 言われた瞬間、楽になれる気がした。

 聡美先輩が落ち着いて説明してくれれば、私よりうまく伝わる。香帆も、先輩の言うことなら、最後まで聞くだろう。

 私は、お願いします、と言いかけた。

 「……それだと、香帆は、私に話しにくくなるかもしれません」

 先輩は、資料を棚へ収めた。

 「そうかもしれないね」

 私の返事を褒めるでもなく、次の束を受け取った。

 「ここで相談したときは、話せたら、もう少し楽になると思ったんです」

 「私たちには、話せたね」

 「はい。でも、香帆には」

 そこで声が切れた。

 先輩は机に手をつき、私の方へ向き直った。

 「香帆と、どうなりたい?」

 私は、譜面を覗き合っていたときのことを考えた。

 オーボエのリードとファゴットのリードを並べて、同じ葦なのに形が全然違うねと笑った。

 あの時間まで、嘘になってしまった気がしていた。

 「前みたいに、話したいです」

 「うん」

 先輩は待っていた。

 私は机の縁を一度撫で、手を離した。

 「でも、今すぐ、そうしてって頼むのは、違う気がする」

 聡美先輩は、私の鞄を取ってくれた。

 「話すなら、二人で話せる場所がいいと思う。練習の途中で、みんなの返事を待たせるところじゃなくて」

 私は、はい、と受け取った。

 誰が正しいかを決めてもらう言葉は、最後までなかった。


 木曜日、昼休みの終わりに、香帆を廊下で待った。

 顔を合わせると、香帆の歩みが少し遅くなった。

 「茜ちゃんから、聞いたよ」

 「うん」

 「誰にも話さないでって言われた。それは、話さない」

 私は、ありがとう、と答えた。

 「でも、私、よかったねとは、まだ言えない」

 昼休みが終わりかけているのに、廊下には、誰もいなかった。

 教室へ戻ろうと思えば、戻れた。

 私は、そこに立っていた。

 「分かった。今日、それを言ってもらうために呼んだんじゃない」

 香帆が、私を見た。

 「三人が決めたから、仕方なく付き合ってるんじゃないって、私からも言いたかった」

 「じゃあ、ひかりが決めたの」

 「うん。私も」

 香帆は視線を落とした。

 その返事で安心してもらえるとは、もう思えなかった。

 「茜ちゃん、私の後輩でもあるからね」

 「うん」

 「困ってたら、私は、また言うと思う」

 私は息を吸った。

 「私に言って。茜に、先輩を選んだ自分が悪かったって思わせたくない」

 香帆は眉を寄せた。

 「そこまで、あの子が思うこと、先に決めなくていいんじゃない」

 頬が熱くなった。

 香帆はため息をつき、それから、少し肩を下げた。

 「私も、月曜日、きつい言い方した。倒れたのを、全部ひかりのせいみたいに言ったのは、違ったと思う」

 すぐにいいよとは言えず、少し置いて、ありがとうと返した。

 予鈴に促されて歩き始めても、以前より二人の間が広い。教室へ分かれる角で、香帆が口を開く。

 「前に貸すって言ってた、息の練習の譜面。放課後、持っていくね」

 部活の連絡だった。

 私は、その連絡にだけ、うん、助かる、と返した。


 金曜日、茜と駅の反対側へ歩き、ノートに描いてもらった道の先まで足を延ばした。

 今まで曲がらなかった角の向こうに、小さな公園がある。少ない遊具の影を伸ばす夕方の光を眺めながら、端の道を一周する。

 地図で見たより広いという茜に、ここもノートに書くのかと尋ねると、頷きが返ってきた。

 「先輩も、書いてください」

 「絵、あまり上手じゃないよ」

 「地図になってれば、分かります」

 私は少し考えた。

 「木を描いたつもりが、別のものになっても?」

 茜は笑った。

 「そのときの説明も、書いておきます」

 ますます恥ずかしい記録になりそうだけれど、嫌ではない。

 風に枯れ葉が道の端へ集まり、茜がマフラーを押さえる。私たちは人の少ないベンチの近くで、少し立ち止まった。

 陽菜と利香先輩に、今どこにいるかを逐一知らせる必要はない。

 でも、茜と会うことを、隠して来たわけでもない。

 その違いを、私は最近、ようやく身体で分かるようになってきた。

 茜が私を見た。

 「先輩」

 「うん?」

 「この前、付き合ってる人がいるって、言ってくれて」

 私は頷いた。

 茜は、少し照れた顔になった。

 「嬉しかったです」

 「うん」

 「私のことも、入ってるって、分かったから」

 触れた茜の手がすぐに握り返してくれるので、目をそらさずに返事ができる。

 「入ってるよ」

 私は言った。

 「今日も、茜と会いたくて来た」

 茜が目を伏せ、動きかけた唇を閉じる。私は、頭上の木を鳴らす風を聞きながら待った。

 「聞いても、いいですか」

 茜が言った。

 「うん」

 茜は、私を見た。

 顔が、少し赤かった。

 「キス、してもいいですか」

 息が止まる。返事を考えるより先に、その言葉を言った茜の唇へ目が行ってしまい、つないだ手まで急に近く感じる。

 大会後のベンチで付き合うと言い切ったときとは違い、茜は私の返事がなければ動かない。

 待ってくれるその手を、少し強く握った。

 「私も、したい」

 言うと、茜の目が大きくなった。

 少しだけ近づき、短く唇を重ねる。離れた茜が顔を伏せると、私もどこを見ればいいのか分からなくなる。手をつないだままでよかった。目を合わせられなくても、まだ隣にいてほしいことは伝わる。

 しばらくして、茜が小さく言った。

 「……言うまでの方が、長かった」

 私は笑ってしまった。

 茜が、笑わないでください、と言う。

 その声も、少し笑っていた。

 「ずっと、言おうと思ってたの?」

 私が聞くと、茜は頷いた。

 「初めて出かけた日も。誕生日も」

 私は、あの日々を思い出した。

 茜が言いかけてやめた言葉の中に、こんなお願いもあったのだ。

 「言ってくれて、嬉しい」

 返事に顔を上げた茜は、すぐ視線を逸らす。その仕草にまた笑いそうになる代わりに手を握ると、ちゃんと同じ力が返ってきた。


 帰りの茜は口数が少なくても、今日は不安にならない。歩く速さも手の強さも、さっきと変わらず隣にある。

 駅の近くで、ノートを貸してください、と頼まれた。

 鞄から渡すと、茜はベンチの端を借り、今日歩いた道を描き足す。公園を示す小さな四角の横に、何と書くのだろう。覗いた途端、慌てた手で隠されてしまう。

 「まだ、見ないでください」

 「私のノートだよ」

 「知ってます。だから、あとで」

 私は笑って、顔を上げた。

 待たせた分だけ丁寧に閉じたノートを、茜が返してくれる。

 「帰ってから」

 頷いた約束を守って、改札で別れたあとも開かず、家の机でそっと頁をめくる。公園の横には今日の日付、その下には、先輩が待ってくれた、という小さな字がある。何をしたかは書かれていないのに、あの冷たい風まで戻ってくる。

 私も嬉しかった、と下へ書き足す。次に会ったら見せたい。広く誰かに知らせるのではなく、二人で覚えておく言葉を、同じ頁に残しておく。


 その週の終わり、三人から届く連絡へ返事をしながら、私は初めて、今の自分の関係を、心の中で言い直した。

 三股に、なってしまった。

 そう思うことは、まだある。

 始まり方を思い出せば、いまでも頭が追いつかない。

 でも、それだけでは、今日の私を説明できなかった。

 私は、三人と付き合っている。

 陽菜に会いたい。

 利香先輩に会いたい。

 茜に会いたい。

 それぞれの名前のあとに、自分の気持ちがある。

 その返事を、香帆は喜ばなかった。

 それでも、三人に会いたいと書いた文章を、書かなかったことにはできない。

 香帆から借りた譜面は、折れないよう、別のファイルへ入れてあった。

 私は、明日の練習の連絡を開いた。

 三重奏の通しをして、録音を聴く。

 東海大会まで、残りの練習日は、少しずつ減っていた。

 楽譜の右上には、三人で、と書いてある。

 私はその字を見た。

 大事にしたいものが、前よりはっきりしている。

 だからこそ、失いたくない気持ちも、前より強くなっていた。

 机の上で、鉛筆を持ち直した。

 明日、二人へ伝えたい直し方を、余白へ細かく書き始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。