第三十五章 隠したいのは、好きじゃないからじゃない
誕生日の翌日、新しい鞄で改札を出ると、陽菜の目は私の顔より先に肩へ向かう。見せようと思って来たのに、そこまで早いとおかしくなってしまう。
「使ってきたよ」
見ればわかるよ、と陽菜の声が少し弾む。
遠出はせず、駅の周りの店を見て歩き、温かい飲み物を買った。前日の疲れが少し残ることは、最初に伝えてある。
じゃあ今日はゆっくりにしよう、という返事だけで済んだのが嬉しくて、何度か自分の肩の軽さを確かめた。
学校の鞄ではない。
大きな楽器のケースも持っていない。
陽菜が横へ来て、手を差し出した。
「予定どおり、空いてるね」
私はその手を見て、笑った。
「そのためだったんだ」
「何度も言ってる」
差し出された手を取り、人の流れに交じる。すれ違う人も、同じ方向に歩く人も、私たちへ特別な視線を向けてはいない。陽菜の手だけが温かく、意識しすぎているのは自分だと分かる。
隠したいと思う気持ちは、なくなったわけではない。
でも、こうして一緒に歩くことまで、いつも怖がりたくはなかった。
帰り際、陽菜は、今日は短くても会えてよかった、と言った。
私は頷いた。
「私も」
その返事は、相手に合わせるためだけのものではなかった。
昨日たくさん会ったから、今日はもう十分だとは思わなかった。
私は空になったカップを持ち、陽菜の話の続きを聞いた。
月曜日の昼休み、音楽室へ連絡の紙を届けに行く途中で、一年生の子たちに呼び止められた。
誕生日にカードをくれた子もいた。
もう一度お礼を言うと、その子は嬉しそうに友達と目を合わせる。まだ話があるらしく、私も廊下の端へ寄って、続きを待つ。
「どうしたの?」
最初に口を開いたのは、フルートの子だった。
「あの、変なこと聞いても、いいですか」
私は少し身構えた。
楽器のことなら、変なことだと思う必要はない。
そう言おうとして、相手の顔を見た。
楽器の話ではなさそうだった。
「答えられることなら」
私が言うと、その子は一度、友達を見た。
友達が、本人に聞いた方がいいって言ったでしょう、と小声で言う。
私はますます、何の話だろうと思った。
「あの、ひかり先輩って、付き合ってる人、いるんですか」
手の中で連絡の紙が曲がる。よくある質問なのかもしれないけれど、その小さな折れ目へ目を落とすだけの時間を、返事の前に使ってしまう。
「えっと」
口を開く。
いつもの返事が、すぐそこまで来た。
違うの。
そういうのじゃないの。
あの子たちが、よく話しかけてくれるだけで。
私は、その言葉を出す前に、廊下の向こうを見た。
廊下を空の手で歩いてきた陽菜が、こちらに気づいて足を止める。質問がどこまで聞こえたかは分からない。けれど、これから答える私の声は、あそこまで届く。
昨日はあの手をつないでいた。一昨日もらった鞄も、陽菜の十六歳の誕生日に私が渡した手紙も、頭に浮かぶ。勝手に近づいてくる後輩のように話してしまえば、好きだと書いた私まで嘘になる。
私は、質問をした子へ向き直った。
「いるよ」
自分の声が、思っていたよりはっきりした。
三人の顔が浮かんだ。
誰か一人だけを隠すために、残りの人をなかったことにするつもりもなかった。
「付き合ってる人は、いる」
その子たちの目が、大きくなった。
一人が、小さく、やっぱり、と言った。
私は少し驚いた。
「やっぱり?」
「最近、先輩、楽しそうだから」
その返事には、からかう感じがなかった。
私は、何と言えばいいか分からなくなった。
楽器がうまく吹けるようになったからではなく、楽しそうだから。
そんなところを見られているとは、思わなかった。
「誰ですか」
別の子が聞いた。
私は、そこでは首を振った。
「相手のことは、今は、内緒にさせてほしい」
言うと、その子はすぐに、すみません、と答えた。
謝らせたかったわけではなかったので、私は首を振った。
「聞かれるのが嫌だったわけじゃないよ。ただ、相手のことを、私だけで勝手に広めるのは、したくないから」
その子たちは、分かりました、と頷いた。
「お幸せに、って言うの、変ですか」
カードをくれた子が聞いた。
私は、少し笑った。
「ありがとう。嬉しい」
予鈴が近づいていた。
一年生たちは、また演奏、楽しみにしてます、と言って、教室の方へ戻った。
連絡の紙を指で伸ばしても、端の小さな皺だけは消えない。
少し離れて待つ陽菜へ近づくと、顔だけが上がり、言葉はすぐには出てこない。どこまで聞いたの、と尋ねかけてやめる。もう、聞かれて困る返事をしたわけではないのだから。
「びっくりした」
私が言うと、陽菜は頷いた。
「私も」
「陽菜も?」
「ひかりさん、また、違うって言うかと思った」
私は目を伏せた。
一瞬、そう言おうとした。
そのことを、陽菜に嘘で隠したくなかった。
「言いそうになった」
私が答えると、陽菜は少しだけ唇を結んだ。
私は続けた。
「でも、言いたくなかった」
陽菜がこちらを見る。
「陽菜と付き合ってるの、私も、自分で選んでるから」
昨日の手の温かさを思い出しながら、陽菜の返事を待つ。黙ってこちらを見つめていた目が、やがて小さく笑う。
「言ってくれて、嬉しかった。でも、怖かったなら、それも私には言って」
私は頷いた。
六月から何度も、なぜこうなったのだろうと思った。
二人が勝負したから。
先生が曲を変えたから。
陽菜が、何でも一つと約束したから。
始まり方は変えられなくても、そのあと会いたいと言い、手を取り、好きだと伝えたのは私だ。その分まで人のせいにはできない。
陽菜の指がこちらへ伸びかけ、廊下に人が来ると少し引っ込む。その仕草を見て、陽菜にも人前で迷うことがあるのかと気づく。私も声を落とす。
「あとで、四人でも話したい」
陽菜は頷いた。
「はい。私も、聞きたいです」
その返事に、少し安心した。
放課後、ファゴットの棚の前で、香帆に呼び止められた。
楽器のケースはまだ閉じたままだった。
「ひかり、今日、恋人いるって言ったんだって?」
昼休みに答えただけの言葉が、もう、私より先に音楽室へ来ていた。
「うん」
「利香先輩?」
私は留め金に掛けた指を外した。
香帆は、私の顔を見て続けた。
「十二月、駅の広場で見かけた。声を掛けようとして、やめたんだけど」
先輩の誕生日だった。
灯りを見ながら、手をつないだ。私には、あの夕方の二人のほかに、誰も見えていなかった。
「でも、陽菜ちゃんとも、そうなのかと思ってたから」
香帆は声を落とした。
「どっちかが、知らないんじゃないの」
私は首を振った。
「知らないまま、付き合ってる人はいないよ」
言い終えてから、ケースを持つ手に力が入った。
誰のことも話していないつもりで、二人とも恋人だというところは、否定しなかった。
香帆の目が動いた。
「じゃあ、茜ちゃんは」
私は答えられなかった。
香帆は、その沈黙から目を逸らさなかった。
「最近、帰りにひかりを待つこと、増えたでしょ。あの子、先輩から返事が来ると、練習の途中でも顔が変わるから」
隣室で椅子を引く音に、私は扉の小窓を見る。やめようか、と香帆が尋ねてくれたけれど、首を振った。続きを聞くのは、まだ怖い。
「みんなで決めてるならいい、って、私はすぐには思えない」
その声は、怒鳴るよりずっと小さかった。
「茜ちゃん、できないって言うの、すごく嫌がるんだよ。指が回らなくても、次はできますって言う。ひかりには、もっと、大丈夫って言うんじゃないの」
「無理をさせたいわけじゃない」
「それは、そうだと思う」
香帆はすぐに答えた。
「私も、休ませたつもりでいたから」
あの日、二人で茜のケースを見ていた時間が戻ってくる。香帆も忘れていないのだと分かるだけに、そのあとの言葉が苦しかった。
「でも、無理をさせたい人しか無理させないなら、あの子、倒れなかったと思う」
私はケースを床へ置いた。
保健室のカーテンの色まで、戻ってきてしまった。
「……あのときのことは、今も、考えてる」
「だったら、どうして」
香帆はそこで口を閉じた。
私が傷ついた顔をしたからだとしたら、ずるかった。茜のときと同じように、相手が先に言葉を引っ込めるのを待ってしまう。
「隠してだますつもりはない。でも、私から全部を話す前に、三人に聞きたい」
三人、と言ってしまった。
香帆は目を伏せた。
「分かった。今は、聞かない」
それは、納得したという返事ではなかった。
私は、ありがとう、と言えなかった。
香帆は自分のケースを持って、隣の練習室へ向かった。
いつもなら、岸先生の次の来校日や、リードの注文の話を、歩きながらする。
今日は、何も聞かれなかった。
練習のあと、三人に残ってもらい、空いた練習室の扉を閉める。昼に恋人がいると答えたこと、相手は内緒にしたいと伝えたことから話し始め、香帆とのやり取りも、順を追って聞いてもらう。
「最後に、三人って、私から言っちゃった」
私は膝の上で手を握った。
「先に、相談すればよかった。ごめん」
陽菜の背中が、椅子から離れた。
利香先輩は口元へ手を当て、茜は、私の話が終わるまで動かなかった。
話し終えると、茜が最初に聞いた。
「私のことで、何て言われたんですか」
私は、香帆の言葉を、できるだけそのまま伝えた。
私が傷ついたところだけを選んで話さないよう、ゆっくり。
陽菜は腕を組み、そんなの、と言いかけた。
「香帆先輩に、私たちのこと、全部分かるわけじゃないでしょう」
「分からないから、聞いてくれたんだと思う」
私が答えると、陽菜は黙った。
利香先輩が、私の方へ身体を向けた。
「広場で会った日だね。気づかなかった」
私は頷いた。
先輩は、つないだ手をほどく仕草のように、自分の指をそっと離した。
「あの日、私も、手を離したくなかった。私もいたのに、聞かれたのはひかりだけだったんだね」
「それは、先輩のせいじゃないです」
でも、聞かれたところから先を私だけで決めていいわけでもなかった。
茜が、鞄を膝へ引き寄せた。
「明日、香帆先輩に、私から話します」
私は顔を上げた。
「ただ、ひかり先輩の代わりに、何も困ってませんって言うためなら、行きたくないです」
胸の奥がひりついた。
香帆の前で何も言えなかった分を、茜に取り戻してもらいそうになっていた。
「うん。それは、頼めない」
陽菜が、組んでいた腕をほどいた。
茜は、二人にも目を向けた。
「二人の名前、出してもいいですか。私だけが先輩と付き合っていることにしたら、また、違う話になるから」
利香先輩は少し考え、それから頷いた。
「香帆ちゃんには、いいよ。私が好きだと言ったことも」
陽菜は、すぐには答えなかった。
「私も、自分で言いたい」
「四人で行ったら、香帆先輩、何も言えなくなると思う」
茜の返事に、陽菜は口を閉じた。
椅子の下で、爪先が動いた。
「……じゃあ、最初は茜から。私と話したいって言われたら、教えて」
「うん」
茜は私を見た。
「明日は、一人で行きます」
私は、その返事を変えてもらおうとはしなかった。
利香先輩が、私を見た。
「ひかりは、どうしたい?」
その質問は、前なら、答えを探すだけで疲れた。
今日は、少しだけ、自分の言葉があった。
「まだ、部の人たちに、全部話したいとは思ってないです」
私は言った。
「でも、三人のことを、迷惑だとか、勝手に付きまとわれてるとか、そういうふうには言いたくない」
陽菜が目を伏せ、先輩は静かに頷く。茜はずっとこちらを見ていて、私は続きを口にした。
「隠したいのは、好きじゃないからじゃない」
言ってから、少し息を吸った。
「知らない人に、三人の気持ちを、勝手な話にされたくない。それに、私も、まだ、どう説明したらいいか分からない」
立派な答えではなかった。
香帆に声を掛けられるまで、私が怖がっていたのは、顔のない誰かだった。
明日も同じ音楽室へ来る人に、今までと違う目で見られる。その怖さを、もう知っていた。
「香帆に、前みたいに話してほしいとも思ってる。今日の私、三人のことより、それが先だったかもしれない」
床へ逃げずに伝えると、三人は怒ることも励ますこともせず、まず聞いてくれた。
やがて、利香先輩がゆっくり口を開く。
「私は、今のままでいいと思ってる」
私は顔を上げた。
「ひかりと会うたびに、誰かへ説明しなきゃいけなくなるのは、ちょっと嫌だし。卒業したあとも、学校の噂の続きとして見られたいわけじゃない」
先輩は少し笑った。
「ただ、ひかりに、なかったことにされるのは嫌」
私は頷いた。
それは、できるだけ守りたいと思った。
陽菜は、少し考えてから言った。
「私は、言いたい日もあります」
正直な答えだった。
「先輩、人気あるから。私の恋人ですって、言いたくなる」
私は顔が熱くなった。
陽菜は続けた。
「でも、何も知らない人に、利香先輩や茜のことまで、好き勝手言われるのは嫌です」
利香先輩が陽菜を見る。
茜も、少し驚いた顔をした。
陽菜は、二人から目を逸らした。
「私が文句言うのと、知らない人が言うのは、違うので」
その言い方に、私は少し笑った。
陽菜が、笑うところじゃないです、と言う。
でも、自分の口元も少し緩んでいた。
茜は、膝の上で指を動かした。
「私は、勝負のこと、広めたくないです」
私は頷いた。
「私が勝ったから先輩と付き合えた、だけの話にされると、今のことまで、変になる気がするので」
その、今、を聞いて、私は茜を見た。
茜は視線を返した。
「先輩が、私と会いたいって言ってくれたこと、私は、ちゃんと覚えてるから」
胸が温かくなり、うん、と頷く。
音楽室の向こうで椅子を動かす音がすると、私たちは声を落とした。扉が開くのではと四人で一度振り向く。その向こうが、さっきより近い。
「じゃあ、しばらくは、詳しいことは広げないで」
私は確かめた。
「誰かに聞かれたら、困ったことも、そのあと話す。自分だけで、三人のことを決めない」
先輩が頷き、陽菜もはいと答える。茜からは、先輩も一人で抱えないでください、と返ってきた。
秋には私から何度も伝えた言葉だと思うと、少し笑ってしまう。
「うん」
私は頷いた。
話が終わると、陽菜が急に、私を見た。
「それで、先輩」
「何?」
「付き合ってる人がいるって言ったとき、誰の顔、浮かべました?」
固まる私の横で先輩が、あら、と声を上げ、茜まで興味を示している。
三人の顔を順に見る。
こういうところは、簡単には変わらない。
でも、今日の私は、少しだけ答えられた。
「三人とも」
陽菜が、逃げましたね、と言いかけた。
私は首を振った。
「逃げてない。本当に」
三人が静かになったので、最後まで言ってしまう。
「誰か一人のことだけ考えて、ほかの二人を隠したんじゃないから」
言い終えると、今度は私の顔が熱い。今日はよく言うね、と笑う先輩の横で、陽菜は質問したことを悔やむような顔になり、茜まで目を伏せてしまう。
もう帰ろう、と鞄を持つ。今のだけは、確かに逃げた。
火曜日の昼、茜から、話してきました、と連絡があった。
部活で会ったとき、私は詳しく聞きかけた。
茜が先に言った。
「無理して大丈夫って言うこと、あると思うって、答えました」
私は、鞄の紐を肩から下ろした。
「先輩には、言ってないことも?」
「あります。言う前に、私が、今はいいやって思っちゃうことも」
茜は楽器の棚へ目をやった。
香帆はまだ来ていなかった。
「だから、そこは香帆先輩の言うとおりです。でも、やめたいから困ってるわけじゃないって、話しました」
私は、その返事を、安心するためだけには聞けなかった。
茜が鞄を持ち直す。
「先輩に、会いたいって言ってもらえて嬉しかったことも、話しました。それは、ちゃんと私の話なので」
「……ありがとう」
茜は小さく首を振った。
「お礼、まだ、いいです。香帆先輩、分かったとは言ってません」
火曜日の放課後、利香先輩とは、約束どおり駅前の店へ行った。
先輩が考えていたお祝いを、誕生日当日から移したものだった。
小さなテーブルに向かい合い、温かい飲み物を頼む。
先輩は、遅くなったけど、と言って、もう一度おめでとうと言ってくれた。
私は、ありがとうと答えた。
「当日じゃなくても、嬉しいです」
そう言うと、先輩はほっとしたように笑った。
「二人で言いたかったの」
私は頷く。四人で祝ってもらえてよかったことと、二人の時間が嬉しいことは、どちらも本当だ。
先輩が新しいブックカバーを掛けた本を取り出した。
読み終わったらしい。
「これ、ひかりにも、読んでみてほしい」
受け取ったカバーは、選んだときと同じ手触りなのに、先輩が読み終えた本だと思うと開くのをためらう。知らない頁の間に、先輩が考えたことまで挟まっていそうだ。
「難しいですか」
「少し。でも、ひかりが何を思うか、聞いてみたい」
頷くと、しばらく学校や恋人の数の話を離れ、先輩が本の中の話を少し教えてくれる。
帰り際に借り受け、新しい鞄へ入れた。
陽菜からもらった鞄に、利香先輩から借りた本が入る。
その隣には茜のノートもあって、嬉しいような、少し困るような気分になる。
何を考えているのかと尋ねた先輩へ正直に話すと、鞄を覗いて笑ってくれた。
「賑やかだね」
「はい」
先輩は何かを取り出せとは言わず、代わりに、帰る前に手をつないでと頼む。
私から手を出し、店を離れて人が減ると、その腕へ頬を寄せた。
「先輩。今日、少し、疲れました」
返事をする代わりに、先輩が歩く速さを落とす。学校で誰に何を言ったか、全部説明しなくても、手を引いて急がせることはない。
「うん。ここまで来たから、もう頑張らなくていいよ」
その一言で、くっついていたい気持ちまで強くなる。
「もうちょっと、ゆっくりがいいです」
「私も、そのつもり」
先輩の指が頬に触れ、額へ短いキスが落ちる。もっと、と言いかけた私の顔を、先輩はちゃんと見つけた。
「帰る前に、もう一回ね」
先に約束されてしまい、私は袖を握ったまま、何度も頷くほかなかった。
水曜日、備品庫の前ですれ違った聡美先輩は、香帆と三浦さんへ渡す引き継ぎの資料を抱えていた。手伝いを申し出て一束預かり、準備室へ運びながら香帆の話をすると、棚の前で先輩の手が止まる。
「私から、話しておく?」
言われた瞬間、楽になれる気がした。
聡美先輩が落ち着いて説明してくれれば、私よりうまく伝わる。香帆も、先輩の言うことなら、最後まで聞くだろう。
私は、お願いします、と言いかけた。
「……それだと、香帆は、私に話しにくくなるかもしれません」
先輩は、資料を棚へ収めた。
「そうかもしれないね」
私の返事を褒めるでもなく、次の束を受け取った。
「ここで相談したときは、話せたら、もう少し楽になると思ったんです」
「私たちには、話せたね」
「はい。でも、香帆には」
そこで声が切れた。
先輩は机に手をつき、私の方へ向き直った。
「香帆と、どうなりたい?」
私は、譜面を覗き合っていたときのことを考えた。
オーボエのリードとファゴットのリードを並べて、同じ葦なのに形が全然違うねと笑った。
あの時間まで、嘘になってしまった気がしていた。
「前みたいに、話したいです」
「うん」
先輩は待っていた。
私は机の縁を一度撫で、手を離した。
「でも、今すぐ、そうしてって頼むのは、違う気がする」
聡美先輩は、私の鞄を取ってくれた。
「話すなら、二人で話せる場所がいいと思う。練習の途中で、みんなの返事を待たせるところじゃなくて」
私は、はい、と受け取った。
誰が正しいかを決めてもらう言葉は、最後までなかった。
木曜日、昼休みの終わりに、香帆を廊下で待った。
顔を合わせると、香帆の歩みが少し遅くなった。
「茜ちゃんから、聞いたよ」
「うん」
「誰にも話さないでって言われた。それは、話さない」
私は、ありがとう、と答えた。
「でも、私、よかったねとは、まだ言えない」
昼休みが終わりかけているのに、廊下には、誰もいなかった。
教室へ戻ろうと思えば、戻れた。
私は、そこに立っていた。
「分かった。今日、それを言ってもらうために呼んだんじゃない」
香帆が、私を見た。
「三人が決めたから、仕方なく付き合ってるんじゃないって、私からも言いたかった」
「じゃあ、ひかりが決めたの」
「うん。私も」
香帆は視線を落とした。
その返事で安心してもらえるとは、もう思えなかった。
「茜ちゃん、私の後輩でもあるからね」
「うん」
「困ってたら、私は、また言うと思う」
私は息を吸った。
「私に言って。茜に、先輩を選んだ自分が悪かったって思わせたくない」
香帆は眉を寄せた。
「そこまで、あの子が思うこと、先に決めなくていいんじゃない」
頬が熱くなった。
香帆はため息をつき、それから、少し肩を下げた。
「私も、月曜日、きつい言い方した。倒れたのを、全部ひかりのせいみたいに言ったのは、違ったと思う」
すぐにいいよとは言えず、少し置いて、ありがとうと返した。
予鈴に促されて歩き始めても、以前より二人の間が広い。教室へ分かれる角で、香帆が口を開く。
「前に貸すって言ってた、息の練習の譜面。放課後、持っていくね」
部活の連絡だった。
私は、その連絡にだけ、うん、助かる、と返した。
金曜日、茜と駅の反対側へ歩き、ノートに描いてもらった道の先まで足を延ばした。
今まで曲がらなかった角の向こうに、小さな公園がある。少ない遊具の影を伸ばす夕方の光を眺めながら、端の道を一周する。
地図で見たより広いという茜に、ここもノートに書くのかと尋ねると、頷きが返ってきた。
「先輩も、書いてください」
「絵、あまり上手じゃないよ」
「地図になってれば、分かります」
私は少し考えた。
「木を描いたつもりが、別のものになっても?」
茜は笑った。
「そのときの説明も、書いておきます」
ますます恥ずかしい記録になりそうだけれど、嫌ではない。
風に枯れ葉が道の端へ集まり、茜がマフラーを押さえる。私たちは人の少ないベンチの近くで、少し立ち止まった。
陽菜と利香先輩に、今どこにいるかを逐一知らせる必要はない。
でも、茜と会うことを、隠して来たわけでもない。
その違いを、私は最近、ようやく身体で分かるようになってきた。
茜が私を見た。
「先輩」
「うん?」
「この前、付き合ってる人がいるって、言ってくれて」
私は頷いた。
茜は、少し照れた顔になった。
「嬉しかったです」
「うん」
「私のことも、入ってるって、分かったから」
触れた茜の手がすぐに握り返してくれるので、目をそらさずに返事ができる。
「入ってるよ」
私は言った。
「今日も、茜と会いたくて来た」
茜が目を伏せ、動きかけた唇を閉じる。私は、頭上の木を鳴らす風を聞きながら待った。
「聞いても、いいですか」
茜が言った。
「うん」
茜は、私を見た。
顔が、少し赤かった。
「キス、してもいいですか」
息が止まる。返事を考えるより先に、その言葉を言った茜の唇へ目が行ってしまい、つないだ手まで急に近く感じる。
大会後のベンチで付き合うと言い切ったときとは違い、茜は私の返事がなければ動かない。
待ってくれるその手を、少し強く握った。
「私も、したい」
言うと、茜の目が大きくなった。
少しだけ近づき、短く唇を重ねる。離れた茜が顔を伏せると、私もどこを見ればいいのか分からなくなる。手をつないだままでよかった。目を合わせられなくても、まだ隣にいてほしいことは伝わる。
しばらくして、茜が小さく言った。
「……言うまでの方が、長かった」
私は笑ってしまった。
茜が、笑わないでください、と言う。
その声も、少し笑っていた。
「ずっと、言おうと思ってたの?」
私が聞くと、茜は頷いた。
「初めて出かけた日も。誕生日も」
私は、あの日々を思い出した。
茜が言いかけてやめた言葉の中に、こんなお願いもあったのだ。
「言ってくれて、嬉しい」
返事に顔を上げた茜は、すぐ視線を逸らす。その仕草にまた笑いそうになる代わりに手を握ると、ちゃんと同じ力が返ってきた。
帰りの茜は口数が少なくても、今日は不安にならない。歩く速さも手の強さも、さっきと変わらず隣にある。
駅の近くで、ノートを貸してください、と頼まれた。
鞄から渡すと、茜はベンチの端を借り、今日歩いた道を描き足す。公園を示す小さな四角の横に、何と書くのだろう。覗いた途端、慌てた手で隠されてしまう。
「まだ、見ないでください」
「私のノートだよ」
「知ってます。だから、あとで」
私は笑って、顔を上げた。
待たせた分だけ丁寧に閉じたノートを、茜が返してくれる。
「帰ってから」
頷いた約束を守って、改札で別れたあとも開かず、家の机でそっと頁をめくる。公園の横には今日の日付、その下には、先輩が待ってくれた、という小さな字がある。何をしたかは書かれていないのに、あの冷たい風まで戻ってくる。
私も嬉しかった、と下へ書き足す。次に会ったら見せたい。広く誰かに知らせるのではなく、二人で覚えておく言葉を、同じ頁に残しておく。
その週の終わり、三人から届く連絡へ返事をしながら、私は初めて、今の自分の関係を、心の中で言い直した。
三股に、なってしまった。
そう思うことは、まだある。
始まり方を思い出せば、いまでも頭が追いつかない。
でも、それだけでは、今日の私を説明できなかった。
私は、三人と付き合っている。
陽菜に会いたい。
利香先輩に会いたい。
茜に会いたい。
それぞれの名前のあとに、自分の気持ちがある。
その返事を、香帆は喜ばなかった。
それでも、三人に会いたいと書いた文章を、書かなかったことにはできない。
香帆から借りた譜面は、折れないよう、別のファイルへ入れてあった。
私は、明日の練習の連絡を開いた。
三重奏の通しをして、録音を聴く。
東海大会まで、残りの練習日は、少しずつ減っていた。
楽譜の右上には、三人で、と書いてある。
私はその字を見た。
大事にしたいものが、前よりはっきりしている。
だからこそ、失いたくない気持ちも、前より強くなっていた。
机の上で、鉛筆を持ち直した。
明日、二人へ伝えたい直し方を、余白へ細かく書き始めた。




