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第三十四章 私の誕生日なんですけど

 最初に届いたのは、陽菜からの集合時刻だった。

 『明日、部活のあと、そのまま一緒に行こう。お昼から、ちゃんと考えてあるよ』

 また考えてくれたのだと、画面を見ながら頬が緩む。そのまま次の通知を開くと、今度は利香先輩の名前がある。

 『明日の午後、前に話したお店、どうかな。二人でゆっくりお祝いしたい』

 私は笑顔のまま止まった。

 さらに、茜から届いた。

 『明日、何時に会えますか。誕生日の約束、ちゃんと決めたいです』

 画面を上へ戻し、下へ送り、もう一度戻す。何度読み返しても、三人の言う明日は同じ日だ。予定を三つ入れた覚えはないのに。

 三人とも誕生日に会いたいと言ってくれたし、私もそう答えた。けれど時間も行き先も決めていないのだから、あとで相談できるものだと思っていた。

 三人は、それぞれ、自分との時間が空いていると思っていたらしい。

 机の予定表を開くと、一月二十四日の土曜日には、午前の部活しか書いていない。白い午後を三人とも空いていると信じているのだ。鉛筆で線を引き、まず時間を分けてみる。

 昼、陽菜。

 午後、利香先輩。

 夕方、茜。

 書いてから、すぐに手が止まった。

 家でも、誕生日の夕食を用意してくれることになっている。

 移動の時間もある。

 ケーキを三回食べるのだろうか。

 何より、この分け方を、私自身が楽しみにしているのか分からなかった。

 三人の名前をいったん消すと、白かった場所に灰色の跡が広がる。誰かを消したいわけではないから、それを見ているだけで落ち着かない。けれど全部入るように詰めていくと、私が何をしたいのか、ますます分からなくなる。

 予定表から携帯へ持ち替え、四人のやり取りを開く。

 『明日のこと、四人で相談してもいい?』

 送ると、すぐに三人とも既読になった。

 少しして、陽菜から返事が来た。

 『四人?』

 私は深呼吸した。

 『私も入れて、四人』

 海香先輩と聡美先輩の顔が、頭の中を通り過ぎた。

 今度は、自分で数え間違えなかった。


 通話が始まった瞬間、陽菜が言った。

 「先輩、明日、私と会うって」

 その声に、利香先輩が重なった。

 「私も、午後は空いてるって聞いてたけど」

 茜が一拍遅れて、まだ時刻を聞いていなかったと言うので、私はまず三人の希望を聞くことにした。

 陽菜は部活のあとから夕方まで、利香先輩は昼過ぎから静かな店でのお茶と散歩を考えている。茜は、ほかの予定の隙間へ二人の約束を入れられたくない。

 手帳を開いて一月二十四日に並べようとした途端、鉛筆が止まった。

 「私、先輩に、誕生日は空けてくださいって、前から言ってました」

 陽菜が言う。

 「ひかりは、陽菜ちゃんだけと過ごすって答えた?」

 利香先輩が聞く。

 陽菜は少し黙った。

 「……そういう言い方は、してませんけど」

 「私も、まだ、お店は予約してない。ちゃんと聞いてからと思ってたから」

 茜が、じゃあ、まだ誰も決まってないんですよね、と言った。

 陽菜の声が強くなる。

 「決まってないけど、考えてたの」

 「私も、考えてた」

 同じくらい大きな二人の声から、携帯を少し離す。順番に話そう、と先輩が止めてくれて、ほっとしかけたところへ、二人だけの時間は欲しいけど、と続いた。

 思わず天井を仰ぐ。

 三人とも、私をお祝いしたいと言ってくれている。

 そのことは、とても嬉しい。

 なのに、私だけが、明日の自分の行き先を知らなかった。

 「あの」

 呼びかけに、三人の声が止まる。次の言葉を誰かが出す前に、今度こそ私から。

 「私の誕生日なんですけど」

 通話の向こうが、静かになった。

 三秒くらいだったかもしれない。

 返事を待つ間が、ずいぶん長い。

 陽菜がはいと答え、先輩が小さく笑う。その横で謝る茜へ、私は続きを伝えた。謝ってもらうためだけに言ったのではない。

 「三人とも会いたい。お祝いしてくれるのも、嬉しい。でも、私がどう過ごしたいかも、聞いてほしい」

 言い終えてから心臓が速くなる。せっかく考えたのに、とがっかりされるだろうか。返事を待つ時間は、陽菜の声がすぐに終わらせてくれる。

 「どうしたいですか」

 声は、さっきより静かだった。

 私は、考えていたことを、一つずつ話した。


 「お昼、四人でごはんを食べたい」

 私が言うと、利香先輩が、うん、と答えた。

 「駅ビルにある、和食のお店。前、メニュー見て、気になってたから」

 陽菜がすぐに聞く。

 「茶碗蒸しですか」

 当てられると恥ずかしくて、黙ってしまう。茜が笑い、先輩も、あのお店ね、と納得している。

 「……そうです」

 私は認めた。

 「ケーキも好きだけど、明日は、ちゃんとごはんも食べたい」

 「いいと思う」

 先輩に賛成され、陽菜も頷く。茜にそのあとはと続きを促されて、私は少し勇気を出した。

 「そのあと、四人でカラオケに行きたい」

 今度は、三人とも驚いたらしかった。

 返事が一度止まった。

 「先輩、歌うんですか」

 陽菜が聞く。

 「少しは」

 「部活で声出すのと、同じじゃないですよ」

 「それは、分かってる」

 私は笑った。上手な歌を聴かせたいのではない。楽器を持たず好きな歌を選ぶ三人を見たいし、自分も何も審査されない場所で少し声を出してみたい。

 「クリスマス、四人でいて、楽しかったから」

 私は言った。

 「明日も、そういう時間が欲しい」

 茜の息を吸う音が、小さく聞こえた。

 利香先輩が、いいね、と言った。

 陽菜は少し考えてから尋ねた。

 「二人でお祝いする時間は?」

 私は、なくしたいわけではない、と首を振った。

 通話なので見えないことに気づき、言葉で伝えた。

 「別の日にも、会いたい。明日、一日で全部終わりにしなくていいなら、その方が嬉しい」

 陽菜はしばらく黙っていた。

 やがて、分かりました、と言った。

 「でも、別の日の約束、曖昧にしないでくださいね」

 私は頷き、うん、と声にした。

 茜も言った。

 「私も、ちゃんと決めたいです」

 「決めよう。今、分かってる予定で、あとで一人ずつ話す」

 利香先輩は、それなら、明日は四人で、と言った。

 私は息を吐いた。

 まだ、言っていないことが一つあった。

 「それから、夕方は、家に帰りたい」

 三人とも、聞いていた。

 「家でもお祝いしてくれるし。もし、途中で疲れたら、少し早く帰りたいって言ってもいい?」

 陽菜が、何を当たり前のことを、という声を出した。

 「言ってください」

 私は、ほっとして笑った。

 利香先輩も、茜も、同じように答えてくれた。

 「じゃあ、明日の予定、そうしてもいい?」

 最後の確認には、三人同時に答えてくれた。今度は聞き取れなくても困らない。全員、同じ返事なのが分かる。


 予定が決まると、陽菜は急に動きが速くなった。

 持ち込みのできる部屋を調べ、空いている時刻を確かめる。

 先輩は移動と終わる時刻を確かめ、茜は用意する物が重ならないよう一覧を作る。全員の向きが揃うと、画面の中で予定がどんどん出来上がる。頼もしいけれど、また追い越されないよう、今度は分からないことも聞いておく。

 カラオケは長すぎない時間で、お昼のあとは少し歩きたい。希望を伝えるたび三人が予定へ入れてくれて、最後に陽菜の声が弾む。

 「先輩、明日は、主役ですからね」

 私は笑った。

 「うん。忘れないでね」

 利香先輩が声を出して笑った。

 茜も、忘れません、と答えた。

 通話の終わった部屋で、灰色の跡に、四人で、と書き込む。その下には、夕方、帰宅。さっきまで同じ紙を見て困っていたのに、自分で決めた文字が並ぶと、早く明日になってほしくなる。


 一月二十四日の朝、携帯電話は、起きる前から何度か光っていたらしい。

 陽菜から、日付が変わってすぐのメッセージが届いていた。

 利香先輩からも、少し遅れて。

 茜の連絡は朝に届き、三人とも、十七歳、おめでとうと書いてくれている。

 誰が早かったかは数えず、布団の中で一人ずつ返事をした。起きて居間へ行くと母にもお祝いされ、ありがとうと応える。

 朝ごはんに向かえば、お味噌汁は昨日と同じように熱い。十七歳になっても、冷ます時間は必要らしい。

 学校へ行くと、音楽室の前で、一年生の子たちに呼び止められた。

 「ひかり先輩、お誕生日ですよね」

 私は驚いた。

 「どうして、知ってるの?」

 「この前、お話しされてたので」

 そうだったかもしれない。

 三人とのやりとりで、何度も誕生日という言葉を使っていたのだ。

 渡された小さなカードを両手で受け取ると、手書きのお祝いと、演奏を楽しみにしています、という文字に胸が温まる。お礼に嬉しそうな笑顔を返したその子たちの向こうで、陽菜が見ていた。

 近づくと、腕を組みかけてやめる。

 「おめでとうございます」

 私は笑った。

 「ありがとう。直接は、今が初めてだね」

 陽菜の顔が少し明るくなる。その変化を、私は見逃さずにいた。

 音楽室では先輩と茜にも祝ってもらい、海香先輩は、十七歳のひかり、と呟いて聡美先輩に呼び戻される。その聡美先輩が、私へ小さく手を振った。

 「いい日にしてね」

 私は頷いた。

 「はい。今日は、ちゃんと自分でも考えました」

 先輩は少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見て、私は、昨日の電話をしてよかったと思った。


 午前の練習を終え、四人で駅へ向かった。

 陽菜と利香先輩は、いつもより大きな手提げを持っていた。

 茜の鞄にも、何か平たい包みが入っている。

 見ないようにすると、かえって包みの角が気になる。視線を戻すたび陽菜と目が合い、とうとう笑われてしまう。

 「あとでです」

 「何も聞いてないよ」

 「聞きたい顔です」

 先輩は顔で全部ばれますね、と茜まで言う。勝手に解釈しているだけではと反論しかけても、聞きたかったのは本当なので黙るしかない。

 和食の店で迷わず茶碗蒸しつきの料理を選ぶと、三人に笑われた。

 利香先輩が、そんなに前から食べたかったの、と聞く。

 私は頷いた。

 「ずっと、看板を見てました」

 「言ってくれれば、いつでも付き合ったのに」

 そう言われて、私は少し考えた。

 いつでも、と思っていたから、言わなかったのかもしれない。

 誕生日だから口にできた小さな希望が、普段にもたくさんあるのだろう。

 運ばれてきた膳には、看板で何度も見た蓋つきの器がある。待ちきれずに開けると、白い湯気が指のそばまで上がる。

 陽菜が熱いと注意すれば、茜は分かっているでしょうと返し、先輩は、ひかりは嬉しいと急ぐから、と笑う。

 私は三人の顔を見た。

 そんなに分かりやすいのだろうか。

 試しにゆっくり食べようとして、三人がまだ見ていることに気づいた。

 「皆さんも、自分のごはん、食べてください」

 慌てて箸を取る三人がおかしくて、私は笑ってしまう。

 茶碗蒸しのおいしさを伝えると、今度はみんな、自分が作ったような顔になった。


 カラオケの部屋で、陽菜はまず終了時刻を確かめ、大きな袋をテーブルへ置く。

 取り出したのは、小さな旗の形に畳まれた紙の飾りだった。

 広げると、誕生日を祝う文字が並んでいる。

 先輩と茜が両端を持って立てようとした途端、真ん中から折れ、陽菜も私も慌てて手を出す。四人がかりなら綺麗な飾りになるけれど、このままでは誰も座れない。

 「これ、どうやって使うの?」

 私が聞くと、陽菜は説明の紙を見た。

 しばらく黙る。

 「……組み方が、逆でした」

 茜が、やっぱり、と言った。

 「分かってたなら、先に言ってよ」

 「何か、変だと思っただけ」

 利香先輩が笑い、私は飾りを持ったまま笑ってしまった。

 手が揺れて、文字まで揺れた。

 悔しそうだった陽菜も途中から一緒に笑い、組み直した飾りは少し傾きながらテーブルに収まる。誰も直そうとはせず、ようやく空いた手で椅子を引く。

 袋からは、まだ物が出てきた。

 小さなケーキの箱。

 個包装の焼き菓子。

 茜が持ってきたクッキー。

 私は、テーブルの上が埋まっていくのを見た。

 「さっき、ごはん、食べたよね」

 三人とも頷いた。

 私はもう一度、テーブルを見た。

 陽菜が、先に予約していたので、と言う。

 利香先輩は、持って帰れるものにしたから、と付け足した。

 茜は、私のも日持ちするやつです、と言った。

 私は笑ってしまった。

 「じゃあ、食べられる分だけ、みんなで食べよう」

 陽菜が、先輩の誕生日なのに、と言った。

 私は頷いた。

 「私の誕生日だから、みんなと食べたい」

 陽菜が少し目を丸くし、先輩が今日は強いねと笑う。私もそう思うけれど、強くなったというより、今日は言ってもいいのだと何度も思い出しているのだ。


 最初の小さな騒ぎは、マイクの順番で起きた。

 主役から、と勧める陽菜に、まず誰かに歌ってほしいと答えると、利香先輩と茜が同時に手を伸ばす。二本あるから足りるはずが、私の隣に座るのはどちらかという話になってしまう。

 私はソファの真ん中へ腰を下ろし、左右を指した。

 「一人ずつ、替わろう」

 陽菜が、先輩が決めるんですね、と言う。

 私は頷いた。

 「今日は、私が聞きたいから」

 その答えで、三人とも大人しくなった。

 最初の陽菜は明るい曲を勢いよく歌い始めたものの、こちらと目が合うと一か所、言葉が遅れる。笑わないでください、とマイクの外で私に言うために、次の歌詞まで危うくなる。最後まで歌ったあとの拍手には、満足そうな顔と照れた顔の両方を見せてくれる。

 先輩の選んだ落ち着いた歌は、楽器の音と同じように言葉の終わりが柔らかい。その声をこんなに長く聴くのは初めてかもしれず、つい見つめ続けてしまう。

 歌い終えて見すぎと言われ、慌てて目を逸らした。

 次の茜は、意外なほど迷わず曲を入れる。

 陽菜が、まだこれ好きなんだ、と言う。

 頷いて歌い出した茜の声は、学校で話すより伸びやかで、ファゴットからは分からない一面をまた知ることができた。

 三人とも、上手なところと少し危なっかしいところがある。それも嬉しい。

 誰かが失敗しても、演奏を止めて直し方を考える必要はない。

 笑って、続けて、最後まで聴けばいい。

 やがてマイクが私へ回ってきた。

 私は、子どものころ、家の車でよく聴いた歌を選んだ。

 最初の言葉を出すときだけ、喉が少し狭くなった。

 三人が見ている。

 画面だけを見ようとしても、途中で陽菜が一緒に口を動かすのが目に入る。先輩もリズムを取り、茜は笑って聴いてくれていた。

 その顔を見ると、声が出しやすくなる。

 歌い終えた私へ三人分の拍手が集まる。こんなに大きく聞こえるものだっただろうか。マイクを膝に置いても、顔の熱さは隠せない。

 「恥ずかしい」

 陽菜が笑う。

 「先輩が歌いたいって言ったんです」

 「行きたいって言ったの」

 茜が、歌うところだから同じです、と言った。

 私は言い返せず、笑った。


 休憩に出したケーキは大きすぎず、上の小さな板に私の名前がある。朝から何度も祝ってもらっているのに、その文字で初めて、自分の誕生日なのだと実感する。

 三人のおめでとうに、ありがとうと返す。まだ足りない気持ちはあるけれど、今は長く言い直さず、名前の入ったケーキを眺めていたい。

 ケーキを切り分ける。

 私が切ろうとすると、陽菜が、今日は座っててください、と言った。

 私は少し考えて、頷いた。

 全部、自分で決めるのと、全部、自分でやるのは違う。

 してもらって嬉しいことは、嬉しいまま受け取ってもいい。

 陽菜が切り、利香先輩が皿を渡し、茜がフォークを並べた。

 私が手を伸ばす前に、皿とフォークが揃った。

 お誕生日席では、ケーキを待っていていいらしい。

 そう思ったら、また少し笑ってしまった。

 「先輩、何笑ってるんですか」

 陽菜に聞かれた。

 私は首を振った。

 「嬉しいだけ」

 三人の動きが、一度止まった。

 私はケーキの皿を受け取った。

 今度は、顔を見られても隠さなかった。


 最初の贈り物は、陽菜から。袋の大きさで布のものかと思っていたら、中には小さな肩掛け鞄が入っていた。

 落ち着いた紺色に、留め具だけが明るい。持ち上げて、表も裏も眺める。

 「かわいい」

 思わず言うと、陽菜の肩が、ほっとしたように下がった。

 「先輩、休みの日も、大きい鞄のことが多いので。もっと、身軽に出かけられたらと思って」

 私は肩へ掛けてみた。

 両手が空く。

 陽菜が、満足そうに頷いた。

 「どう?」

 私が聞くと、三人とも似合っていると言ってくれた。

 陽菜は、少し胸を張った。

 「手も、空きますし」

 「うん」

 「手をつなぎやすいです」

 私は、留め具を触っていた指を止めた。

 利香先輩が笑う。

 使う理由が正直、と呟く茜に、陽菜が何が悪いのと返す。笑いながらお礼を伝え、私は鞄を見る。

 楽器を入れるためのものではない。

 学校の書類を持つためでもない。

 三人と出かける休日に、私が持つものだった。

 それが、嬉しかった。

 先輩の平たい包みからは、柔らかなハンカチが現れる。端の青い刺繍へ顔を近づけると、小さな花びらは一つずつ形が違う。見つめすぎたのか、先輩の声が恥ずかしそうになる。

 「そこ、自分でやってみたの」

 私は顔を上げた。

 「先輩が?」

 「本を見ながら。あまり、上手じゃないけど」

 私は首を振った。

 上手かどうかより、その小さな花に、先輩が使った時間があることが嬉しかった。

 「すごく、好きです」

 私は言った。

 先輩は少し目を伏せた。

 「いつも、借りたり貸したりしてたでしょう。ちゃんと、ひかりのものを、私から渡したくなって」

 映画の日のことを思い出した。

 川沿いのベンチも。

 お互いに相手のハンカチを持って帰った夕方も。

 私は布をそっと畳んだ。

 「大事に使います」

 しまっておくだけでなく、これからの鞄に入れたい。そう思って「使います」と伝えられたことが、自分でも嬉しい。

 続いて茜から受け取ったのは、薄い冊子の包みだ。本人がいちばん緊張して見守る中、私はそれを開いた。

 小さなノートの表紙に、丁寧な字で「散歩の記録」とある。めくった先には、見覚えのある道が描かれていた。

 図書館。

 パン屋さんの横の細い道。

 最初に入った喫茶店。

 駅の反対側で、二人で少し遠回りしたところ。

 地図は、茜が自分で描いたものだった。

 道の横に、小さな説明があった。

 先輩が看板を読み間違えた場所。

 二人で、思ったより坂だねと言ったところ。

 私が、次はこっちも行ってみたいと言った曲がり角。

 私は頁をめくる手を、少し遅くした。

 「こんなことまで、覚えてたの」

 聞くと、茜は頷いた。

 「帰ってから、少しずつ書いてたので」

 後ろの方には、まだ行っていない場所があった。

 道の線だけで、説明は少ない。

 その先は、白い頁だった。

 私は顔を上げた。

 茜は、膝の上で手を握っていた。

 「全部、予定で埋めるのは違うと思って。先輩が、行きたいところもあるだろうし」

 細かく書かれた頁も、白いままの頁も、急に同じくらい大事になる。一緒にいた日の私を覚えてくれて、これからの私には書き込む場所を空けてくれている。ノートを閉じ、胸の近くへ引き寄せる。

 「ありがとう。続きを、一緒に増やしたい」

 茜は、はい、と答えた。

 そのあと、小さく付け足した。

 「迷ったところも、残りますけど」

 私は笑った。

 「それも、いい」

 三人の贈り物はどれも違い、一番を考える余地さえない。それぞれが私との時間を違う形で見てくれているのだと思うと、新しい鞄のそばへ並べるだけで顔が緩んだ。


 写真を撮ろうという話になった。

 今度は、母はいなかった。

 携帯電話を置ける場所を探し、画面に四人が入るか確かめる。

 最初は陽菜が戻り切る前に撮れてしまい、慌てた横顔が半分だけ写る。二枚目は先輩が笑いすぎて下を向き、三枚目では、茜が肩を寄せるのをためらって隙間ができた。

 画面を確かめ、今度は私から茜へ近づく。

 「これで、入る?」

 陽菜が頷いた。

 タイマーを押し、急いで戻ってくる。

 両手を少し広げると、片方には先輩、もう片方には陽菜が触れ、肩には茜の肩が寄り添う。撮影の音がするまでそのままでいて、今度こそ画面の中にも四人が揃う。

 私はその写真を見て、もう一枚、と言った。

 三人が驚く。

 私は、少し照れながら笑った。

 「今日の私も、ちゃんと覚えておきたいから」

 今度は、誰もからかわなかった。

 四人で、もう一度並んだ。


 最後はみんなが知っている歌を選び、二本のマイクを途中で渡し合う。遅れて歌詞に間に合わない人が出ると、陽菜が笑い、茜がやり返す。つなごうとする先輩まで笑い出すので、私も声を立てずにいられなかった。

 こんなに下手な受け渡しは、三重奏では困る。

 でも、今日は構わない。金賞を取りに来たわけでも、私の隣に座る権利を歌で決めるわけでもないのだから。

 同じ部屋で、同じところで笑える。それだけで十分楽しかった。

 終了の時刻が近づき、陽菜があと一曲と言いかける。私は時計を見た。少し疲れている。

 楽しくても、疲れることはある。

 それを言ったら、今日が楽しくなかったと思われるだろうか。

 ほんの一瞬、昔の癖が戻りかけた。

 私は三人を見た。

 「そろそろ、帰りたい」

 言うと、陽菜はすぐに頷いた。

 「分かりました」

 先輩が片づけようと立ち上がり、茜は余ったお菓子を分け始める。

 誰も楽しませられなかったという顔をせず、もう少し我慢してとも頼まない。そのことに、私は少し驚いた。

 自分の希望を言うことを、私は大きな事件にしすぎていたのかもしれない。

 三人にとっては、私が帰りたいと言えば、帰る準備をするだけのことだった。

 ハンカチと小さなノートを新しい鞄へ入れ、肩に掛ける。まだ余裕があるので、今日の贈り物だけでいっぱいにせず、次に出かけるときも使えそうだ。


 駅へ向かう途中、三人と、次に二人で会う予定を確かめた。

 陽菜とは翌日の午後に、短く出かける。

 利香先輩とは火曜日の放課後。

 茜とは金曜日。

 前の晩に、それぞれと相談して決めた日だった。

 一週間の全部を埋めたわけではない。

 練習の日も、自分の用事をする日も残した。

 その中に、会いたい人へ会う時間がある。

 私は、その予定を思い浮かべた。

 今日だけで、全部の気持ちを証明しなくていい。

 次にも、会える。

 そのことが、帰り際の寂しさを少し柔らかくしてくれた。

 「先輩、今日は、楽しかったですか」

 陽菜が聞いた。

 私はすぐに頷いた。

 「楽しかった」

 利香先輩が、よかった、と笑った。

 茜も、少しだけ肩の力を抜いた。

 私は、三人へ言った。

 「三人とも、来てくれてありがとう」

 言ってから、付け足した。

 「私の希望、聞いてくれて、ありがとう」

 陽菜が、少し気まずそうにした。

 「最初から、聞けばよかったです」

 利香先輩も頷いた。

 「会いたい気持ちが、先に出ちゃったね」

 茜は、次は先に聞きます、と言った。

 私は笑った。

 「私も、早く言う」

 その約束なら、四人で持てると思った。

 改札の前で別れるとき、三人がもう一度、おめでとうと言ってくれた。

 私は、朝より上手に、ありがとうと答えられた。


 家へ帰ると、母が、新しい鞄に気づいた。

 「似合うね」

 もらったの、と答えると、母はいい誕生日だったねと言ってくれる。

 頷いて自分の部屋へ戻り、贈り物を机に並べた。

 紺色の鞄。

 小さな青い花のハンカチ。

 一緒に歩いた道のノート。

 携帯の四人の写真を眺めながら、椅子へ座る。

 去年は先輩からおめでとうと届くだけで一日嬉しくて、いつか好きだと伝える日を探していた。

 今、私は三人から好きだと言われている。

 自分からも、少しずつ言えるようになった。

 優柔不断なところは、なくなっていない。

 明日も、返事に困ることはあるだろう。

 三人の顔を見比べて、何を言えばいいか分からなくなるかもしれない。

 それでも今日、私は、自分の誕生日に何がしたいかを言った。

 三人と一緒にいたい。

 そう伝えて、本当に一緒に過ごしてきた。

 私はノートの白い頁を開き、今日のことを書き始める。地図はうまく描けないので、店の名前とカラオケのこと、その下に「四人で」と足した。

 携帯が鳴り、三人から別々に連絡が届く。一つずつ開いても、今日はもう、返事が三つあることを困ったこととして数えなかった。


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