第三十四章 私の誕生日なんですけど
最初に届いたのは、陽菜からの集合時刻だった。
『明日、部活のあと、そのまま一緒に行こう。お昼から、ちゃんと考えてあるよ』
また考えてくれたのだと、画面を見ながら頬が緩む。そのまま次の通知を開くと、今度は利香先輩の名前がある。
『明日の午後、前に話したお店、どうかな。二人でゆっくりお祝いしたい』
私は笑顔のまま止まった。
さらに、茜から届いた。
『明日、何時に会えますか。誕生日の約束、ちゃんと決めたいです』
画面を上へ戻し、下へ送り、もう一度戻す。何度読み返しても、三人の言う明日は同じ日だ。予定を三つ入れた覚えはないのに。
三人とも誕生日に会いたいと言ってくれたし、私もそう答えた。けれど時間も行き先も決めていないのだから、あとで相談できるものだと思っていた。
三人は、それぞれ、自分との時間が空いていると思っていたらしい。
机の予定表を開くと、一月二十四日の土曜日には、午前の部活しか書いていない。白い午後を三人とも空いていると信じているのだ。鉛筆で線を引き、まず時間を分けてみる。
昼、陽菜。
午後、利香先輩。
夕方、茜。
書いてから、すぐに手が止まった。
家でも、誕生日の夕食を用意してくれることになっている。
移動の時間もある。
ケーキを三回食べるのだろうか。
何より、この分け方を、私自身が楽しみにしているのか分からなかった。
三人の名前をいったん消すと、白かった場所に灰色の跡が広がる。誰かを消したいわけではないから、それを見ているだけで落ち着かない。けれど全部入るように詰めていくと、私が何をしたいのか、ますます分からなくなる。
予定表から携帯へ持ち替え、四人のやり取りを開く。
『明日のこと、四人で相談してもいい?』
送ると、すぐに三人とも既読になった。
少しして、陽菜から返事が来た。
『四人?』
私は深呼吸した。
『私も入れて、四人』
海香先輩と聡美先輩の顔が、頭の中を通り過ぎた。
今度は、自分で数え間違えなかった。
通話が始まった瞬間、陽菜が言った。
「先輩、明日、私と会うって」
その声に、利香先輩が重なった。
「私も、午後は空いてるって聞いてたけど」
茜が一拍遅れて、まだ時刻を聞いていなかったと言うので、私はまず三人の希望を聞くことにした。
陽菜は部活のあとから夕方まで、利香先輩は昼過ぎから静かな店でのお茶と散歩を考えている。茜は、ほかの予定の隙間へ二人の約束を入れられたくない。
手帳を開いて一月二十四日に並べようとした途端、鉛筆が止まった。
「私、先輩に、誕生日は空けてくださいって、前から言ってました」
陽菜が言う。
「ひかりは、陽菜ちゃんだけと過ごすって答えた?」
利香先輩が聞く。
陽菜は少し黙った。
「……そういう言い方は、してませんけど」
「私も、まだ、お店は予約してない。ちゃんと聞いてからと思ってたから」
茜が、じゃあ、まだ誰も決まってないんですよね、と言った。
陽菜の声が強くなる。
「決まってないけど、考えてたの」
「私も、考えてた」
同じくらい大きな二人の声から、携帯を少し離す。順番に話そう、と先輩が止めてくれて、ほっとしかけたところへ、二人だけの時間は欲しいけど、と続いた。
思わず天井を仰ぐ。
三人とも、私をお祝いしたいと言ってくれている。
そのことは、とても嬉しい。
なのに、私だけが、明日の自分の行き先を知らなかった。
「あの」
呼びかけに、三人の声が止まる。次の言葉を誰かが出す前に、今度こそ私から。
「私の誕生日なんですけど」
通話の向こうが、静かになった。
三秒くらいだったかもしれない。
返事を待つ間が、ずいぶん長い。
陽菜がはいと答え、先輩が小さく笑う。その横で謝る茜へ、私は続きを伝えた。謝ってもらうためだけに言ったのではない。
「三人とも会いたい。お祝いしてくれるのも、嬉しい。でも、私がどう過ごしたいかも、聞いてほしい」
言い終えてから心臓が速くなる。せっかく考えたのに、とがっかりされるだろうか。返事を待つ時間は、陽菜の声がすぐに終わらせてくれる。
「どうしたいですか」
声は、さっきより静かだった。
私は、考えていたことを、一つずつ話した。
「お昼、四人でごはんを食べたい」
私が言うと、利香先輩が、うん、と答えた。
「駅ビルにある、和食のお店。前、メニュー見て、気になってたから」
陽菜がすぐに聞く。
「茶碗蒸しですか」
当てられると恥ずかしくて、黙ってしまう。茜が笑い、先輩も、あのお店ね、と納得している。
「……そうです」
私は認めた。
「ケーキも好きだけど、明日は、ちゃんとごはんも食べたい」
「いいと思う」
先輩に賛成され、陽菜も頷く。茜にそのあとはと続きを促されて、私は少し勇気を出した。
「そのあと、四人でカラオケに行きたい」
今度は、三人とも驚いたらしかった。
返事が一度止まった。
「先輩、歌うんですか」
陽菜が聞く。
「少しは」
「部活で声出すのと、同じじゃないですよ」
「それは、分かってる」
私は笑った。上手な歌を聴かせたいのではない。楽器を持たず好きな歌を選ぶ三人を見たいし、自分も何も審査されない場所で少し声を出してみたい。
「クリスマス、四人でいて、楽しかったから」
私は言った。
「明日も、そういう時間が欲しい」
茜の息を吸う音が、小さく聞こえた。
利香先輩が、いいね、と言った。
陽菜は少し考えてから尋ねた。
「二人でお祝いする時間は?」
私は、なくしたいわけではない、と首を振った。
通話なので見えないことに気づき、言葉で伝えた。
「別の日にも、会いたい。明日、一日で全部終わりにしなくていいなら、その方が嬉しい」
陽菜はしばらく黙っていた。
やがて、分かりました、と言った。
「でも、別の日の約束、曖昧にしないでくださいね」
私は頷き、うん、と声にした。
茜も言った。
「私も、ちゃんと決めたいです」
「決めよう。今、分かってる予定で、あとで一人ずつ話す」
利香先輩は、それなら、明日は四人で、と言った。
私は息を吐いた。
まだ、言っていないことが一つあった。
「それから、夕方は、家に帰りたい」
三人とも、聞いていた。
「家でもお祝いしてくれるし。もし、途中で疲れたら、少し早く帰りたいって言ってもいい?」
陽菜が、何を当たり前のことを、という声を出した。
「言ってください」
私は、ほっとして笑った。
利香先輩も、茜も、同じように答えてくれた。
「じゃあ、明日の予定、そうしてもいい?」
最後の確認には、三人同時に答えてくれた。今度は聞き取れなくても困らない。全員、同じ返事なのが分かる。
予定が決まると、陽菜は急に動きが速くなった。
持ち込みのできる部屋を調べ、空いている時刻を確かめる。
先輩は移動と終わる時刻を確かめ、茜は用意する物が重ならないよう一覧を作る。全員の向きが揃うと、画面の中で予定がどんどん出来上がる。頼もしいけれど、また追い越されないよう、今度は分からないことも聞いておく。
カラオケは長すぎない時間で、お昼のあとは少し歩きたい。希望を伝えるたび三人が予定へ入れてくれて、最後に陽菜の声が弾む。
「先輩、明日は、主役ですからね」
私は笑った。
「うん。忘れないでね」
利香先輩が声を出して笑った。
茜も、忘れません、と答えた。
通話の終わった部屋で、灰色の跡に、四人で、と書き込む。その下には、夕方、帰宅。さっきまで同じ紙を見て困っていたのに、自分で決めた文字が並ぶと、早く明日になってほしくなる。
一月二十四日の朝、携帯電話は、起きる前から何度か光っていたらしい。
陽菜から、日付が変わってすぐのメッセージが届いていた。
利香先輩からも、少し遅れて。
茜の連絡は朝に届き、三人とも、十七歳、おめでとうと書いてくれている。
誰が早かったかは数えず、布団の中で一人ずつ返事をした。起きて居間へ行くと母にもお祝いされ、ありがとうと応える。
朝ごはんに向かえば、お味噌汁は昨日と同じように熱い。十七歳になっても、冷ます時間は必要らしい。
学校へ行くと、音楽室の前で、一年生の子たちに呼び止められた。
「ひかり先輩、お誕生日ですよね」
私は驚いた。
「どうして、知ってるの?」
「この前、お話しされてたので」
そうだったかもしれない。
三人とのやりとりで、何度も誕生日という言葉を使っていたのだ。
渡された小さなカードを両手で受け取ると、手書きのお祝いと、演奏を楽しみにしています、という文字に胸が温まる。お礼に嬉しそうな笑顔を返したその子たちの向こうで、陽菜が見ていた。
近づくと、腕を組みかけてやめる。
「おめでとうございます」
私は笑った。
「ありがとう。直接は、今が初めてだね」
陽菜の顔が少し明るくなる。その変化を、私は見逃さずにいた。
音楽室では先輩と茜にも祝ってもらい、海香先輩は、十七歳のひかり、と呟いて聡美先輩に呼び戻される。その聡美先輩が、私へ小さく手を振った。
「いい日にしてね」
私は頷いた。
「はい。今日は、ちゃんと自分でも考えました」
先輩は少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、私は、昨日の電話をしてよかったと思った。
午前の練習を終え、四人で駅へ向かった。
陽菜と利香先輩は、いつもより大きな手提げを持っていた。
茜の鞄にも、何か平たい包みが入っている。
見ないようにすると、かえって包みの角が気になる。視線を戻すたび陽菜と目が合い、とうとう笑われてしまう。
「あとでです」
「何も聞いてないよ」
「聞きたい顔です」
先輩は顔で全部ばれますね、と茜まで言う。勝手に解釈しているだけではと反論しかけても、聞きたかったのは本当なので黙るしかない。
和食の店で迷わず茶碗蒸しつきの料理を選ぶと、三人に笑われた。
利香先輩が、そんなに前から食べたかったの、と聞く。
私は頷いた。
「ずっと、看板を見てました」
「言ってくれれば、いつでも付き合ったのに」
そう言われて、私は少し考えた。
いつでも、と思っていたから、言わなかったのかもしれない。
誕生日だから口にできた小さな希望が、普段にもたくさんあるのだろう。
運ばれてきた膳には、看板で何度も見た蓋つきの器がある。待ちきれずに開けると、白い湯気が指のそばまで上がる。
陽菜が熱いと注意すれば、茜は分かっているでしょうと返し、先輩は、ひかりは嬉しいと急ぐから、と笑う。
私は三人の顔を見た。
そんなに分かりやすいのだろうか。
試しにゆっくり食べようとして、三人がまだ見ていることに気づいた。
「皆さんも、自分のごはん、食べてください」
慌てて箸を取る三人がおかしくて、私は笑ってしまう。
茶碗蒸しのおいしさを伝えると、今度はみんな、自分が作ったような顔になった。
カラオケの部屋で、陽菜はまず終了時刻を確かめ、大きな袋をテーブルへ置く。
取り出したのは、小さな旗の形に畳まれた紙の飾りだった。
広げると、誕生日を祝う文字が並んでいる。
先輩と茜が両端を持って立てようとした途端、真ん中から折れ、陽菜も私も慌てて手を出す。四人がかりなら綺麗な飾りになるけれど、このままでは誰も座れない。
「これ、どうやって使うの?」
私が聞くと、陽菜は説明の紙を見た。
しばらく黙る。
「……組み方が、逆でした」
茜が、やっぱり、と言った。
「分かってたなら、先に言ってよ」
「何か、変だと思っただけ」
利香先輩が笑い、私は飾りを持ったまま笑ってしまった。
手が揺れて、文字まで揺れた。
悔しそうだった陽菜も途中から一緒に笑い、組み直した飾りは少し傾きながらテーブルに収まる。誰も直そうとはせず、ようやく空いた手で椅子を引く。
袋からは、まだ物が出てきた。
小さなケーキの箱。
個包装の焼き菓子。
茜が持ってきたクッキー。
私は、テーブルの上が埋まっていくのを見た。
「さっき、ごはん、食べたよね」
三人とも頷いた。
私はもう一度、テーブルを見た。
陽菜が、先に予約していたので、と言う。
利香先輩は、持って帰れるものにしたから、と付け足した。
茜は、私のも日持ちするやつです、と言った。
私は笑ってしまった。
「じゃあ、食べられる分だけ、みんなで食べよう」
陽菜が、先輩の誕生日なのに、と言った。
私は頷いた。
「私の誕生日だから、みんなと食べたい」
陽菜が少し目を丸くし、先輩が今日は強いねと笑う。私もそう思うけれど、強くなったというより、今日は言ってもいいのだと何度も思い出しているのだ。
最初の小さな騒ぎは、マイクの順番で起きた。
主役から、と勧める陽菜に、まず誰かに歌ってほしいと答えると、利香先輩と茜が同時に手を伸ばす。二本あるから足りるはずが、私の隣に座るのはどちらかという話になってしまう。
私はソファの真ん中へ腰を下ろし、左右を指した。
「一人ずつ、替わろう」
陽菜が、先輩が決めるんですね、と言う。
私は頷いた。
「今日は、私が聞きたいから」
その答えで、三人とも大人しくなった。
最初の陽菜は明るい曲を勢いよく歌い始めたものの、こちらと目が合うと一か所、言葉が遅れる。笑わないでください、とマイクの外で私に言うために、次の歌詞まで危うくなる。最後まで歌ったあとの拍手には、満足そうな顔と照れた顔の両方を見せてくれる。
先輩の選んだ落ち着いた歌は、楽器の音と同じように言葉の終わりが柔らかい。その声をこんなに長く聴くのは初めてかもしれず、つい見つめ続けてしまう。
歌い終えて見すぎと言われ、慌てて目を逸らした。
次の茜は、意外なほど迷わず曲を入れる。
陽菜が、まだこれ好きなんだ、と言う。
頷いて歌い出した茜の声は、学校で話すより伸びやかで、ファゴットからは分からない一面をまた知ることができた。
三人とも、上手なところと少し危なっかしいところがある。それも嬉しい。
誰かが失敗しても、演奏を止めて直し方を考える必要はない。
笑って、続けて、最後まで聴けばいい。
やがてマイクが私へ回ってきた。
私は、子どものころ、家の車でよく聴いた歌を選んだ。
最初の言葉を出すときだけ、喉が少し狭くなった。
三人が見ている。
画面だけを見ようとしても、途中で陽菜が一緒に口を動かすのが目に入る。先輩もリズムを取り、茜は笑って聴いてくれていた。
その顔を見ると、声が出しやすくなる。
歌い終えた私へ三人分の拍手が集まる。こんなに大きく聞こえるものだっただろうか。マイクを膝に置いても、顔の熱さは隠せない。
「恥ずかしい」
陽菜が笑う。
「先輩が歌いたいって言ったんです」
「行きたいって言ったの」
茜が、歌うところだから同じです、と言った。
私は言い返せず、笑った。
休憩に出したケーキは大きすぎず、上の小さな板に私の名前がある。朝から何度も祝ってもらっているのに、その文字で初めて、自分の誕生日なのだと実感する。
三人のおめでとうに、ありがとうと返す。まだ足りない気持ちはあるけれど、今は長く言い直さず、名前の入ったケーキを眺めていたい。
ケーキを切り分ける。
私が切ろうとすると、陽菜が、今日は座っててください、と言った。
私は少し考えて、頷いた。
全部、自分で決めるのと、全部、自分でやるのは違う。
してもらって嬉しいことは、嬉しいまま受け取ってもいい。
陽菜が切り、利香先輩が皿を渡し、茜がフォークを並べた。
私が手を伸ばす前に、皿とフォークが揃った。
お誕生日席では、ケーキを待っていていいらしい。
そう思ったら、また少し笑ってしまった。
「先輩、何笑ってるんですか」
陽菜に聞かれた。
私は首を振った。
「嬉しいだけ」
三人の動きが、一度止まった。
私はケーキの皿を受け取った。
今度は、顔を見られても隠さなかった。
最初の贈り物は、陽菜から。袋の大きさで布のものかと思っていたら、中には小さな肩掛け鞄が入っていた。
落ち着いた紺色に、留め具だけが明るい。持ち上げて、表も裏も眺める。
「かわいい」
思わず言うと、陽菜の肩が、ほっとしたように下がった。
「先輩、休みの日も、大きい鞄のことが多いので。もっと、身軽に出かけられたらと思って」
私は肩へ掛けてみた。
両手が空く。
陽菜が、満足そうに頷いた。
「どう?」
私が聞くと、三人とも似合っていると言ってくれた。
陽菜は、少し胸を張った。
「手も、空きますし」
「うん」
「手をつなぎやすいです」
私は、留め具を触っていた指を止めた。
利香先輩が笑う。
使う理由が正直、と呟く茜に、陽菜が何が悪いのと返す。笑いながらお礼を伝え、私は鞄を見る。
楽器を入れるためのものではない。
学校の書類を持つためでもない。
三人と出かける休日に、私が持つものだった。
それが、嬉しかった。
先輩の平たい包みからは、柔らかなハンカチが現れる。端の青い刺繍へ顔を近づけると、小さな花びらは一つずつ形が違う。見つめすぎたのか、先輩の声が恥ずかしそうになる。
「そこ、自分でやってみたの」
私は顔を上げた。
「先輩が?」
「本を見ながら。あまり、上手じゃないけど」
私は首を振った。
上手かどうかより、その小さな花に、先輩が使った時間があることが嬉しかった。
「すごく、好きです」
私は言った。
先輩は少し目を伏せた。
「いつも、借りたり貸したりしてたでしょう。ちゃんと、ひかりのものを、私から渡したくなって」
映画の日のことを思い出した。
川沿いのベンチも。
お互いに相手のハンカチを持って帰った夕方も。
私は布をそっと畳んだ。
「大事に使います」
しまっておくだけでなく、これからの鞄に入れたい。そう思って「使います」と伝えられたことが、自分でも嬉しい。
続いて茜から受け取ったのは、薄い冊子の包みだ。本人がいちばん緊張して見守る中、私はそれを開いた。
小さなノートの表紙に、丁寧な字で「散歩の記録」とある。めくった先には、見覚えのある道が描かれていた。
図書館。
パン屋さんの横の細い道。
最初に入った喫茶店。
駅の反対側で、二人で少し遠回りしたところ。
地図は、茜が自分で描いたものだった。
道の横に、小さな説明があった。
先輩が看板を読み間違えた場所。
二人で、思ったより坂だねと言ったところ。
私が、次はこっちも行ってみたいと言った曲がり角。
私は頁をめくる手を、少し遅くした。
「こんなことまで、覚えてたの」
聞くと、茜は頷いた。
「帰ってから、少しずつ書いてたので」
後ろの方には、まだ行っていない場所があった。
道の線だけで、説明は少ない。
その先は、白い頁だった。
私は顔を上げた。
茜は、膝の上で手を握っていた。
「全部、予定で埋めるのは違うと思って。先輩が、行きたいところもあるだろうし」
細かく書かれた頁も、白いままの頁も、急に同じくらい大事になる。一緒にいた日の私を覚えてくれて、これからの私には書き込む場所を空けてくれている。ノートを閉じ、胸の近くへ引き寄せる。
「ありがとう。続きを、一緒に増やしたい」
茜は、はい、と答えた。
そのあと、小さく付け足した。
「迷ったところも、残りますけど」
私は笑った。
「それも、いい」
三人の贈り物はどれも違い、一番を考える余地さえない。それぞれが私との時間を違う形で見てくれているのだと思うと、新しい鞄のそばへ並べるだけで顔が緩んだ。
写真を撮ろうという話になった。
今度は、母はいなかった。
携帯電話を置ける場所を探し、画面に四人が入るか確かめる。
最初は陽菜が戻り切る前に撮れてしまい、慌てた横顔が半分だけ写る。二枚目は先輩が笑いすぎて下を向き、三枚目では、茜が肩を寄せるのをためらって隙間ができた。
画面を確かめ、今度は私から茜へ近づく。
「これで、入る?」
陽菜が頷いた。
タイマーを押し、急いで戻ってくる。
両手を少し広げると、片方には先輩、もう片方には陽菜が触れ、肩には茜の肩が寄り添う。撮影の音がするまでそのままでいて、今度こそ画面の中にも四人が揃う。
私はその写真を見て、もう一枚、と言った。
三人が驚く。
私は、少し照れながら笑った。
「今日の私も、ちゃんと覚えておきたいから」
今度は、誰もからかわなかった。
四人で、もう一度並んだ。
最後はみんなが知っている歌を選び、二本のマイクを途中で渡し合う。遅れて歌詞に間に合わない人が出ると、陽菜が笑い、茜がやり返す。つなごうとする先輩まで笑い出すので、私も声を立てずにいられなかった。
こんなに下手な受け渡しは、三重奏では困る。
でも、今日は構わない。金賞を取りに来たわけでも、私の隣に座る権利を歌で決めるわけでもないのだから。
同じ部屋で、同じところで笑える。それだけで十分楽しかった。
終了の時刻が近づき、陽菜があと一曲と言いかける。私は時計を見た。少し疲れている。
楽しくても、疲れることはある。
それを言ったら、今日が楽しくなかったと思われるだろうか。
ほんの一瞬、昔の癖が戻りかけた。
私は三人を見た。
「そろそろ、帰りたい」
言うと、陽菜はすぐに頷いた。
「分かりました」
先輩が片づけようと立ち上がり、茜は余ったお菓子を分け始める。
誰も楽しませられなかったという顔をせず、もう少し我慢してとも頼まない。そのことに、私は少し驚いた。
自分の希望を言うことを、私は大きな事件にしすぎていたのかもしれない。
三人にとっては、私が帰りたいと言えば、帰る準備をするだけのことだった。
ハンカチと小さなノートを新しい鞄へ入れ、肩に掛ける。まだ余裕があるので、今日の贈り物だけでいっぱいにせず、次に出かけるときも使えそうだ。
駅へ向かう途中、三人と、次に二人で会う予定を確かめた。
陽菜とは翌日の午後に、短く出かける。
利香先輩とは火曜日の放課後。
茜とは金曜日。
前の晩に、それぞれと相談して決めた日だった。
一週間の全部を埋めたわけではない。
練習の日も、自分の用事をする日も残した。
その中に、会いたい人へ会う時間がある。
私は、その予定を思い浮かべた。
今日だけで、全部の気持ちを証明しなくていい。
次にも、会える。
そのことが、帰り際の寂しさを少し柔らかくしてくれた。
「先輩、今日は、楽しかったですか」
陽菜が聞いた。
私はすぐに頷いた。
「楽しかった」
利香先輩が、よかった、と笑った。
茜も、少しだけ肩の力を抜いた。
私は、三人へ言った。
「三人とも、来てくれてありがとう」
言ってから、付け足した。
「私の希望、聞いてくれて、ありがとう」
陽菜が、少し気まずそうにした。
「最初から、聞けばよかったです」
利香先輩も頷いた。
「会いたい気持ちが、先に出ちゃったね」
茜は、次は先に聞きます、と言った。
私は笑った。
「私も、早く言う」
その約束なら、四人で持てると思った。
改札の前で別れるとき、三人がもう一度、おめでとうと言ってくれた。
私は、朝より上手に、ありがとうと答えられた。
家へ帰ると、母が、新しい鞄に気づいた。
「似合うね」
もらったの、と答えると、母はいい誕生日だったねと言ってくれる。
頷いて自分の部屋へ戻り、贈り物を机に並べた。
紺色の鞄。
小さな青い花のハンカチ。
一緒に歩いた道のノート。
携帯の四人の写真を眺めながら、椅子へ座る。
去年は先輩からおめでとうと届くだけで一日嬉しくて、いつか好きだと伝える日を探していた。
今、私は三人から好きだと言われている。
自分からも、少しずつ言えるようになった。
優柔不断なところは、なくなっていない。
明日も、返事に困ることはあるだろう。
三人の顔を見比べて、何を言えばいいか分からなくなるかもしれない。
それでも今日、私は、自分の誕生日に何がしたいかを言った。
三人と一緒にいたい。
そう伝えて、本当に一緒に過ごしてきた。
私はノートの白い頁を開き、今日のことを書き始める。地図はうまく描けないので、店の名前とカラオケのこと、その下に「四人で」と足した。
携帯が鳴り、三人から別々に連絡が届く。一つずつ開いても、今日はもう、返事が三つあることを困ったこととして数えなかった。




