第三十三章 全国まで、あと一つ
陽菜と利香先輩が二人で合わせる時間を、自分から提案したくせに、私は少し嫉妬している。地区大会のあと、受け渡しを確かめるために必要だと三人で決めた予定だ。そのあいだに私も自分の声部を考えられるし、誰も困るはずはない。
日直の仕事で少し遅れた日、廊下で二本のオーボエが気持ちよくつながっていた。
扉へ伸ばした手を下ろす。私の音がないところで、音楽が進んでいる。
そのための練習でしょう。扉の前で、二度も同じことを自分に言い聞かせる。
中から、陽菜の声がした。
「今の、ちょっと待ちすぎました?」
「待ったところは、よかったと思う。そのあとの息が、少しだけ止まったかな」
利香先輩が答える。
陽菜が、もう一回、と言う。
再び始まった音を、ケースを持ち替えて聴く。そこへ通りかかった聡美先輩の足音が、私の横で止まる。
「入らないの?」
私は肩を揺らした。
「いま、吹いてるので」
扉から私へ戻ってきた先輩の視線に、言い訳を見透かされた気がする。
「終わったら、入ればいいと思うけど」
「はい」
先輩は少し笑って、そのまま歩いていった。
私は扉の窓に映る自分を見た。
本当に、何をしているのだろう。
音が終わったところで、今度こそノックする。顔を上げた二人が同じように笑ってくれると、さっきの心細さがあっけなくほどけてしまう。こんなに簡単でいいのだろうか。
「お待たせしました」
私が言うと、陽菜は首を振った。
「ちょうど、ひと区切りです」
利香先輩が、椅子を少し寄せた。
私の座る場所は、最初から空いていた。
なくなったと思いかけたのは、私だけだった。
その日の最初の通しで、私は、自分がどれほど二人の間へ先回りしていたかを知った。
利香先輩が旋律を渡す。
陽菜が受け取る。
そこへ私が、いつものように形を整えようとして入ると、かえって窮屈になった。
二人がもう、自分たちでつないでいたからだ。
私は楽器を下ろした。
「ごめん。今、私が止めた」
陽菜が、少し驚いた顔をする。
利香先輩は頷いた。
「ひかり、もう少し、そのまま行ってもいいかも」
私は楽譜を見た。
そこは、私の音がずっと同じ場所で支えるだけの部分ではなかった。
本当は、もっと先へ向かえる。
二人が離れないようにと考えているうちに、自分の行き先まで短くしていた。
「もう一回、お願いします」
私は言った。
二人が頷く。
吹き直す。
今度は、二人のつながりを信じて、その下から自分の息を進めた。
陽菜の音が、少し明るくなる。
その先で自然に顔を上げた先輩と、短く目が合う。私は、息の続いていく方へ音を出した。
ここへ来るなら、少し待てる。
言葉にする前に、三人の動きが近づいた。
短い部分を吹き終えると、陽菜が目を輝かせた。
「今の、よくないですか」
私は頷いた。
「よかった」
利香先輩も笑った。
「私も、吹きやすかった」
譜面に何か残そうと鉛筆を構えても、待つ、や、合わせる、では違う気がする。結局、今までの注意を一つ、消しゴムで薄くする。書き足さなかった場所を見て、次は吹きやすくなるかもしれないと思う。
休憩に入ると、陽菜が私をじっと見た。
「先輩、さっき、外にいましたよね」
私は水筒の蓋を閉め損ねた。
利香先輩が、知っていたように笑った。
「窓に映ってたよ」
私は観念した。
「少し、聴いてました」
「どうでした?」
陽菜が聞く。
よかった、と答えてから、その先が喉につかえる。二人とも待っているので、水筒を置いて、手元へ逃げないようにする。
「……少し、寂しかった」
言うと、陽菜の表情が止まった。
利香先輩も、瞬きをした。
私は慌てて続けた。
「二人で練習してって、言ったの、私なのに。ちゃんと合ってたから、嬉しいのに」
「寂しかったんですか」
陽菜が、もう一度聞いた。
私は頷いた。
陽菜の口元がじわじわ緩み、先輩に至っては隠そうともしてくれない。言わなければよかった、と後悔するにはもう遅い。
「先輩が?」
陽菜が言う。
「私たちに?」
「うん。変だと思うけど」
「変じゃないです」
即答だった。
陽菜は、少しだけ得意そうになった。
「私たちだって、いつも、そういう気持ちになりますから」
利香先輩が頷く。
「ひかりが誰かの練習を楽しそうに聴いてるときとかね」
茜のソロの練習へ通った九月を思い出し、胸が痛む。けれど今は責める話ではなく、先輩は私の譜面を指した。
「二人で吹けるようになったけど、ここは、ひかりがいないと始まらないでしょう」
私は、その場所を見た。
自分の音から二人へ続いていくところだった。
「戻ってくる場所、ちゃんとあるよ」
先輩は言った。
私は頷いた。
陽菜が、横から付け足す。
「というか、先輩に追いつきたいから、二人でやってるんです。いなくていいわけ、ないじゃないですか」
その言い方が、陽菜らしかった。
私はやっと笑えた。
三人の中で私だけが、いつも与える人でいる必要はない。
二人から、戻っておいでと言われることもある。
そのことが、音楽の中でも、嬉しかった。
県大会前の聴き合いでは、音楽室の椅子が客席のように並ぶ。ほかの組も一度ずつ吹く中、前の席に茜を見つけ、その先の海香先輩と聡美先輩にも目が行く。相談した日のことを思い出して熱くなりかけた頬を、楽器の重さで落ち着かせる。今日は、演奏を聴いてもらう日だ。
三枝先生が、どうぞ、と言う。
私たちは息を合わせた。
同じ部の人に聴かれるのは、大会とは違う緊張がある。
失敗すれば、明日もその人の隣を歩く。
うまく吹ければ、その人が自分の練習へ何か持ち帰ってくれるかもしれない。
誰が聴いているか分かる客席へ、最後まで音を渡す。
終わると拍手が起こり、茜の顔に笑みが浮かんだ。海香先輩も何か言いたそうにしているけれど、先に口を開いたのは聡美先輩だ。
「前に聴いたときより、三人とも動いてる感じがした」
私は頷いた。
利香先輩も、ありがとうございます、と答えた。
海香先輩は、ようやく言った。
「三人で顔を上げたところ、すごくよかった」
聡美先輩が横を見る。
海香先輩は慌てて付け足した。
「音の話も、してる」
部屋に笑いが起きた。
詳しい事情を知らない人にも、部長が何かを慌てて取り繕ったことは伝わったらしい。
私は目を伏せる。嬉しそうな陽菜、落ち着いて笑う先輩の横で、茜だけが私たちの反応に笑いをこらえていた。
そこへ、三枝先生から具体的な指摘が入る。
曲の速さが少し動く場所。
音の終わりが揃いすぎて、次の音へ息を渡しにくくなった場所。
必要な箇所だけを書き込む。直すところはまだあっても、前より自分たちの音楽だという実感が残った。
次は香帆たちの番になり、私たちは茜の隣へ座る。
先生が用意した小品の最初は、フルートの長い旋律だった。聡美先輩の音を、海香先輩のピッコロが少し上からなぞり、その先で別々の方へ動き始める。二本が離れても曲がばらばらにならないのは、下で香帆とホルンが同じ歩幅を保っているからだ。
六月、急に組むことになった五人のぎこちなさは、もう聞こえない。それでも速いところでは、クラリネットが少し先へ出て、追いかけたフルートの音が硬くなった。
吹き終えた香帆が、まずメンバーへ目を向ける。
「今の、途中から速かったですよね。私も追ってしまいました」
「私が先に行った」
クラリネットの子が答え、聡美先輩は、その前の息からもう一度聴きたい、と録音機を指した。
海香先輩だけは、客席の私へ笑いかけている。
「ひかり、どうだった?」
「今は全員に聞いて」
聡美先輩の注意に、部長はすぐ、皆さんどうでした、と言い直す。茜が笑いをこらえて手を上げた。
「途中、ファゴットからクラリネットへ渡るところが好きでした。低い音が動くと、次にどこを聴けばいいか分かって」
香帆が顔を上げる。県大会の日に聴いてほしいと頼んでいた場所だと、私にも分かった。
「ありがとう。そこ、ずっと合わせてた」
短く答える声は嬉しそうで、ホルンの先輩も隣で頷いていた。
片づけていると、一年生に声を掛けられる。
「ひかり先輩たちなら、全国、行けそうですね」
明るく悪気のない声へお礼を返し、嬉しく受け取る。その一方で、行かなければ、という言葉も胸の中で大きくなった。
県大会の会場は、茜が十月に吹いた文化会館だった。
建物が見えたとき、私は、あの日のベンチを思い出した。
茜も思い出したらしく、入口の横で少し足を止めた。
今日は、楽器を持っていない。
私たちを聴きに来ていた。
陽菜が、その視線を見て言った。
「今日は、あのベンチで何も増やさないからね」
茜が首を傾げる。
「何が?」
「分かってるでしょ」
利香先輩が笑った。
私は、朝から人数の話をしないでほしいと思った。
茜は私を見ると、少しだけ悪い顔をした。
「私は、もう、増える側じゃないですから」
陽菜が言い返す前に先生に呼ばれ、私は二人を促す。
あとで、と手を振る茜に、十月は私が客席から彼女を待っていたのだと思い出した。
同じ会場なのに、立つ場所が変わる。
それぞれの楽器が、別の時間を持っている。
今日は、その時間の一つを、茜に聴いてもらえる。
入口の向こうでは香帆が五重奏の四人と合流し、海香先輩が茜へ手を振っていた。今日の茜には、私たちのほかにも聴きたい組がある。
私はケースの持ち手を、少し握り直した。
準備室で陽菜はリードを確かめ、先輩は一枚ずつ譜面を指で追っている。私も楽器を組み立てて手を温めながら、隅で入りを確認する別の学校の小声を聞いていた。
ここまで来た人たちの練習を、私は知らない。
でも、ケースの扱い方や、隣の人を見る目つきで、今日まで一緒に吹いてきた時間があることは分かった。
私たちにも、それがある。
六月の、最初の音。
夏の短い合わせ。
二人の目が合った回数の喧嘩。
地区大会のあとの電車。
思い出すものが、こんなに増えていた。
首を傾げながら吹く陽菜に、先輩の音が重なる。二人で響きを確かめるあいだを待つと、今度はこちらへ合図が来る。
「先輩、お願いします」
頷いて音を重ね、一つになった響きから短く動かす。最初の部分で止めると、先生の頷きが返ってくる。
「今の耳のまま、舞台でも」
私は、はい、と答えた。
先生は、それ以上、何かを足さなかった。
その少なさが、今日は信頼のように感じられた。
舞台へ出る前、利香先輩が、私たちを見た。
「次、私たちだね」
陽菜の頷きに、私もはいと返す。しばらくの沈黙を、最後に先輩が破った。
「楽しく、吹きたいね」
私は頷いた。
そうしたかった。
けれど、頭の奥では、結果のことも考えていた。
ここで選ばれなければ、二月には行けない。
先輩との冬の音楽が、今日で終わる。
私はその考えを、一度、楽器の重さへ戻した。
手の中にあるものは、今日吹くための楽器だった。
先の大会の日付ではない。
名前を呼ばれて立った舞台からは、一人一人の顔より、客席の暗さが先に見える。茜を聴いた席も、ここからだと広い暗がりの一部だ。
譜面台の前に足を落ち着けて二人を見ると、先輩の目が少し笑う。陽菜の小さな頷きに合わせ、息を吸う。
最初の音は、思っていたより素直に出た。
利香先輩のオーボエが、その上へ伸びる。
陽菜の音が、次の動きを連れてくる。
二人の間を整えるためだけではなく、自分が行きたいところへ音を進める。その下からの動きに二人が乗ると、うまくいったと確かめるより先に、次を吹きたくなる。いつも通りかを振り返らなくても、今の響きが次の音を連れてくる。
利香先輩が、旋律の終わりを少し柔らかくする。
陽菜が、それを受けて、同じ柔らかさのまま始めた。
でも、そのあとでは、自分の明るさを戻した。
二人が同じ音になる必要はなかった。
違う音のまま、相手の言葉を受け取れればいい。
私は、そのやり取りの下で、少しだけ息を広く使った。
自分の音が、学校で吹いたときより遠くまで届く。
イングリッシュホルンの響きは、オーボエの代わりではなかった。
ここで、この音だからできることがある。
そのことが、吹きながら身体で分かる。
陽菜の出だしが少し硬くなり、合わせようとした私より先に、利香先輩が続きの息を渡した。それを受け取ると、陽菜の音が戻ってくる。
私が全部を直さなくても、二人が聴いている。
そう分かると、自分の音に戻るのが早くなった。
私は、次の短い動きを、少しだけ遊ぶように吹いた。
陽菜の目が上がる。
先輩も見た。
二人の音が、同じように軽くなる。
楽しかった。
舞台の上で、その言葉が、はっきり浮かんだ。
怖いことがなくなったわけではない。
次の音を間違えるかもしれないし、思ったほど息が残らないかもしれない。
それでも、一緒に音を出すことそのものが、今、嬉しかった。
最後の方へ向かう。
決めたとおりに収めるのではなく、今日の二人の音に合わせて終わりまでの距離を選ぶ。二人も私を待つだけでなく、自分の息で進んでいく。
三つの音が、同じところへ着いた。
響きが残る。
私は楽器を下ろす前に、ほんの少し、その残りを聴いた。
拍手の中で顔を上げると、陽菜も先輩も笑っている。二人につられるように、私の頬も緩む。地区大会のときのように、帰りの電車まで待たなくてよかった。
舞台袖へ戻ると、陽菜が小さな声で言った。
「楽しかった」
私はすぐに頷いた。
「私も」
先輩は、楽器を下ろして息を吐いた。
その顔が、思っていたより幼かった。
「今の、もう一回吹きたい」
そう言った。
私は笑った。
「同じには、ならないかもしれません」
「うん。でも、もう一回、三人で」
頷きながら、もう一回、という言葉を胸の中で繰り返す。今日の次が欲しい。結果を待つ理由が、先輩の口から聞こえたばかりの言葉になる。
三枝先生は、通路で待っていた。
私たちの顔を見て、少しだけ笑った。
「よく聴いていましたね」
最初に聴くことを褒めてもらえて嬉しい。指や音色だけでなく、三人で練習してきた時間ごと届いたように思える。詳しい話は録音で、と続く先生にも、すぐ反省点を探さず頷くことができる。
片づけのあとに会った茜は、私の顔を見るなり笑う。
「今日は、写真、撮りやすそうです」
頬が、さっきから緩んだまま戻らなかった。
そのあと、四人で香帆たちの演奏を聴いた。聴き合いで先へ出すぎた箇所も、今日は五人の息が一緒に進む。ピッコロの音が高い天井へ抜けると、こちらまで顔を上げたくなる。
最後にファゴットが音を離すまで、茜は動かなかった。拍手が始まると、膝の上の手を誰より早く持ち上げる。
ロビーへ出てきた香帆へ、私たちはお疲れさまと声を掛けた。茜はさっそく、途中の受け渡しが学校で聴いたときより近く聞こえた、と話し始める。その隣で海香先輩は、三重奏も聴けてよかった、と利香先輩の肩へ触れていた。
結果発表までの時間に、私たちは外へ出た。
空気を入れ替えたかった。
十月に茜が座っていたベンチの前を通る。
陽菜はベンチの手前で、わざとらしく空を見上げた。
茜はそれを見て、笑った。
「今日は、座るだけならいいでしょ」
先輩の隣へ腰を下ろすと、反対側にはすぐ陽菜が来る。少し離れた端に座ろうとする茜のために、私も座り直して場所を空ける。四人では肩が触れそうに狭いけれど、誰からも、ほかへ行こう、とは言われない。
「私、ここで、すごいこと言いましたね」
茜がぽつりと言った。
陽菜が即座に答える。
「今さら?」
「今さら、思い出しただけ」
「私は、忘れてない」
利香先輩が笑った。
「私も。急に話が増えて、何を聞けばいいか分からなかった」
私は膝の上の手を見た。
あの日、人数を何度も数え直した。
今日は、その四人でベンチに座っている。
驚きは、日々の中へ少しずつ入っていった。
当たり前になったわけではない。
でも、ここにいる三人を、なくしたくないと思う気持ちは、前よりはっきりしていた。
茜が、私を見た。
「先輩、今なら、何て返事します?」
私は顔を上げた。
陽菜も、利香先輩も、こちらを見た。
私は少し考えた。
「その前に、私の話を聞いてって、言うと思う」
茜が頷いた。
「はい」
「それから、嬉しいって、言う」
言い終えるなり顔が熱くなる。茜が目を伏せ、陽菜は、今ここで言うことですか、と声を落とす。その横で、今日は素直ね、と利香先輩が笑った。
私は三人の顔を順に見る。
素直に言えたのは、今日の音楽が楽しかったからかもしれない。
でも、その気持ちまで、全部音楽のせいにしたくはなかった。
発表の時刻が近づくと、私たちはホールへ戻った。
さっきの楽しさは、椅子へ座った途端、少し遠くなった。
結果は、まだ決まっていない。
今日の演奏を好きだと思うことと、次へ行きたいことは、どちらも本当だった。
私はプログラムを閉じたまま、膝へ置いた。
開いても、答えは書いていない。
陽菜は両手を組み、先輩は正面を見ている。少し離れた茜と目が合って小さく頷き合ううちに、賞の発表が始まった。
いくつもの学校名が読まれる。
私は、そのたびに、三人の間の空気が少しずつ張っていくのを感じた。
金賞。
私たちの名前が呼ばれ、陽菜に袖をつかまれる。こちらを向いた先輩へ、私は笑った。
今度は、二人より先に。
嬉しい。
その気持ちを、隠さないようにした。
でも、東海大会への推薦は、まだだった。
拍手が収まり、説明が入る。
その数十秒が長かった。
私は、自分の呼吸を一度整えた。
名前が読まれ始めた。
別の学校。
別の編成。
選ばれた人たちの喜ぶ気配が、客席のあちこちに生まれた。
私は拍手をした。
次の学校名が読まれた。
白鷺女子高校。
木管三重奏。
一瞬、何も聞こえなくなった。
そのあと、陽菜が私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「ひかり先輩」
顔を向けた先で、二人が笑っている。どちらかが触れてくれるのを待たず、両方の手を自分から取る。
「行ける」
声が少し震えた。
「東海、行ける」
陽菜が何度も頷いた。
先輩の目に、少しだけ涙があった。
私は、それを見て、自分まで泣きそうになった。
まだ、先輩と吹ける。
その喜びが、賞の言葉と一緒に、胸へ入ってきた。
香帆たちの五重奏は銀賞で、東海大会への推薦には届かなかった。
客席を出たところで会った香帆は、私たちへ先に、おめでとう、と言ってくれた。ありがとうと答えたあと、私は続く言葉を探してしまう。
「私たちも、次へ行きたかったな」
香帆の声に、手元の賞状を隠しかけた指が止まる。
「うん」
それ以上は、うまく言えなかった。
海香先輩が近づき、香帆の持つ講評の封筒へ目を落とす。いつもの冗談は出ず、聡美先輩も隣でしばらく黙っていた。
「誘ってくれて、ありがとう」
先に言ったのは、聡美先輩だった。
「この五人で吹けてよかった。悔しいのは、それもあると思う」
香帆は口を結び、ようやく、私もです、と返す。
海香先輩が、学校でもう一度五人で録音を聴こう、と続けた。講評を持つ香帆の手に自分の指を添え、日程はまた相談しよう、と笑う。
「それ、私が決めてもいいですか」
香帆が聞くと、二人とも頷いた。
「もちろん。私たちのまとめ役でしょう」
ホルンとクラリネットの二人も、お願いします、と声を揃える。香帆は照れたように俯いてから、空いている日を送ってください、と携帯を取り出した。
茜は少し離れたところで、その五人を見ている。目が合った香帆へ、あとで感想を送ります、と言う声が、いつもより慎重だった。
ロビーの明るい方へ出ると、茜が私たちの前へ回った。
今度は、三人とも、何も言われなくても笑っていた。
茜は携帯電話を構えた。
「撮りますよ」
賞状を持つ先輩と、少し背伸びするように立つ陽菜の間へ寄る。撮影の音のあとに茜から、いい顔です、と言われると、もう写真に写らないのに、また笑ってしまう。
三枝先生のところへ報告に行くと、先生は頷いた。
「次の会場へ行く準備をしましょう。今日の音は、今日しか出ません。次の三人の音を作って」
私は、はい、と答えた。
その言葉を聞いたとき、胸の中で、今日の次が、二月の日付になった。
東海大会。
全国まで、あと一つ。
私は、利香先輩を見た。
先輩は、賞状の文字を指でなぞらずに眺めていた。
大事な紙へ触れすぎないようにしているみたいだった。
「あと一回、三人で吹けるね」
先輩が言った。
私はすぐに首を振った。
「二回にしましょう」
先輩がこちらを見る。
「東海と、全国で」
私が言うと、陽菜も頷いた。
「行きたいです」
先輩は、少し驚いたあと、笑った。
「うん。行こう」
その返事が、嬉しかった。
私は、きっと行ける、とは言わなかった。
まだ、何が足りないかは分からない。
でも、行かなければと思った。
先輩の最後の冬を、ここまでで終わらせたくなかった。
帰り道、四人で温かい飲み物を買った。
誰の誕生日でもなく、誰かの具合が悪いわけでもない。
ただ、今日をお祝いするための時間だ。
もっと甘いものも欲しがる陽菜へ、さっきも食べたでしょうと茜が返し、先輩が今日はいいんじゃないと笑う。その声を聞きながら、私は紙のカップを持った。
茜が、私へ少し身を寄せる。
「私も、聴ける日が、もう一日増えました」
そう言った。
私は頷いた。
「来てくれる?」
「行きます」
即答が嬉しくて笑うと、茜は寒いと言ってマフラーへ顔を埋める。その耳が赤いのは、たぶん風のせいだけではない。
陽菜が、次の練習の話を始めた。
先輩が日程を確かめる。
私は、すぐに鞄から予定表を出そうとして、やめた。
今日は、まずお祝いをする。
地区大会の帰りに学んだことを、今度は忘れなかった。
「日程、帰ってから送るね」
私が言うと、二人は頷いた。
四人でカップを少しだけ持ち上げた。
おめでとう。
次も、よろしく。
声が重なった。
私は、その中に、自分の声も入れた。
夜、自分の部屋で、三重奏の譜面を開いた。
今日消した書き込みの跡を、指でたどる。ここを変えてから、三人の音が先へ進むようになった。紙の上にまだ薄く残る注意より、そのときの響きを覚えておきたい。
私は鉛筆を持ち、右上に東海大会の日付を書いた。
その下に、全国へ、と書こうとして、一度止まった。
まだ、決まっていない。
決まっていないから、練習する。
小さく「三人で」と書き足すと、鉛筆の芯が強く当たった。消しても跡の残りそうな字をそのままに、手を止める。
机の上の携帯には、県大会で撮った写真が映っている。
利香先輩が笑っている。
陽菜も笑っている。
私も、ちゃんと笑っている。
その顔を、二月にも見たい。
三月にも、見たい。
私は、楽譜の端を丁寧に揃えた。
次の練習で直したい場所が、もう、頭の中にいくつも浮かんでいた。




