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第三十二章 今度は、元気な音で

 新年最初の茜からの写真には、野菜とお餅の入った白いお椀が写っている。横には箸と小さなお皿。楽器も楽譜もない食卓を、まだ布団の中で眺める。

 『あけましておめでとうございます。ちゃんと食べてます』

 笑いながら返事を打ち始めると、今度は陽菜の名前が画面に現れる。

 『茜がお雑煮の写真を送ってきた。私を何だと思ってるんだろ』

 私は、しばらく画面を見て、さらに笑った。

 心配してくれる人だと思っているのだろう。

 そう書こうとして、やめた。

 自分で気づいた方が、陽菜は少しだけ素直に喜べる気がした。

 利香先輩からは、静かな新年の挨拶が届いた。

 今年も一緒に吹こうね。

 その一行に、私は背筋を伸ばした。

 一月になった。

 茜のソロの東海大会と、私たちのアンサンブル県大会がある月だった。

 そして、私の誕生日もある。

 携帯電話の画面を見ながら、去年の今ごろは、一年後の自分が三人へこんな返事を書いているとは思わなかっただろうと考えた。

 私は、一人ずつ、違う言葉で挨拶を返した。

 そのあと布団から出て、朝ごはんを食べた。


 冬休みの練習が始まると、茜は、前より少し遅い時間に来た。

 みんなが来る時間には間に合っている。

 ただ、誰もいないうちから待つことはなくなった。

 鞄には昼食と水筒のほか、小さな袋がある。私の視線に、おやつです、と少し得意そうな説明までつけてくれた。

 「何が入ってるの?」

 「食べやすいもの。今日は、これ」

 小さなおにぎりが入っていた。

 陽菜が横から覗き込み、二つも、と言う。

 茜は袋を閉じた。

 「食べろって言ったり、多いみたいに言ったり、忙しいね」

 「多いとは言ってない」

 「顔が」

 「顔の話、真似しないで」

 椅子に腰を下ろして、二人の言い合いを聞く。秋には食事の話をするたび顔色を確かめていたのに、今日はおにぎりの中身で揉めている。それだけで、ここへ来てよかったと思える。

 茜は一本音を出すと楽器を置き、譜面へ鉛筆を走らせる。何を変えるか決めてから吹き直すようになったのは、前よりよくなったところだ。

 けれど、考えることが決まれば、時間の方が見えなくなる。

 私が自分の練習を終えて戻ってきても、おにぎりの袋は閉じたままだった。同じ四小節を、もう一度。そのあと、速さを落として、もう一度。

 「茜、お昼にしよう」

 声を掛けると、彼女は初めて壁の時計を見る。

 「あと、最後の指だけ」

 「その最後、さっきも言ってたよ」

 私が椅子を寄せると、茜は楽器を下ろした。困ったように笑う口元を見て、できるまで続けたい気持ちが、簡単には薄れないのだとわかる。

 「自分でも、止めようと思ってたんです」

 「うん。だから、今、一緒に食べよう」

 茜は少し迷い、私の袖へ指を掛けた。

 「休憩、隣にいてくれますか」

 頷くと、ようやくケースへ楽器を置く。食事も休憩も、用意するところまでは覚えた。その袋を開けるところで、まだ、ときどき、私の声が必要になる。

 おにぎりを持つ茜の手元を見ながら、今日はどこができたの、と聞いた。答える顔は嬉しそうで、それだからこそ、目を離せなくなる。


 岸先生のレッスンには、香帆も来ていた。

 学年も、経験も違う二人が、同じ楽器の話をする。

 私は廊下で用事を済ませたあと、先生に許可をもらって、少しだけ聴かせてもらった。

 茜は、ゆっくり歌う旋律を吹いていた。

 小さくするところで、音が細くなりすぎた。

 先生が手を上げる。

 「今、誰に聴かせるつもりだった?」

 茜は少し考えた。

 「前の方、です」

 先生は、部屋の奥の私たちを見た。

 「奥にいる人にも、同じ話をしてみて」

 吹き直した音は、大きさこそ変わらないものの、終わりまで輪郭が残る。後ろの席にいる私にも聞き取りやすく、先生が頷く理由を、今度は説明される前に感じ取れる。

 「小さい音で話すのと、途中で話をやめるのは違うから」

 茜の鉛筆は、以前より早く止まる。思いつく反省を全部詰め込んでいた譜面に、今は次に吹く自分へ伝えるための短い言葉が増えている。

 先生が、もう一度、少し前から、と言った。

 茜は楽器を構えた。

 その前に、自分から一つ尋ねた。

 「ここ、前は、すぐ次へ行こうとしてたんですけど。今は、少し待ちたいです」

 楽譜を指す。

 先生は、やってみて、と答えた。

 茜が吹く。

 少し待つだけで、次の音がただの続きではなくなる。

 先生は全部を認めるのでなく、待ちすぎると流れが切れる場所もあると指摘した。それでも茜の考えを聞き、一緒に試してくれる。

 譜面を追うだけで精いっぱいだった子が、今は自分の言葉で吹き方を相談している。そのレッスンが終わると、香帆が声を掛けた。

 「さっきの、小さいところ、よかった」

 茜は、少し驚いた顔でお礼を言った。

 「香帆先輩たちの合奏を聴いたとき、ここも変えられるかもって思ったので」

 香帆が譜面を覗き込む。

 「私の音?」

 「聡美先輩の、長い音です」

 「そっちか」

 つい笑った私へ、香帆が軽く目を細める。けれどすぐに茜へ向き直り、どのあたりだった、と続きを聞いた。

 そのあと私を見た。

 私は頷いた。

 「私も、奥まで聞こえた」

 茜は笑ってもすぐ譜面へ目を戻し、あとでもう一度聴いてほしいと頼んでくる。休憩のあとね、と返せば、頷いて楽器を置いてくれた。

 まだまだ続けたがるところは変わらない。私はその前に、今の音を褒めておく。

 茜が、自分で選んで鳴らした音のことを。


 大会の二日前、三重奏の練習が早く終わった私は、安田さんとの最後の合わせの片づけを手伝いに寄った。

 扉を開ける前にピアノとファゴットが止まり、笑い声が聞こえる。少し安心してノックすると、中の茜が顔を上げてくれた。

 「先輩」

 安田さんも笑った。

 「ちょうど終わったところです」

 私は、早いですね、と言いかけてやめた。

 以前の茜の練習が長すぎたのだ。

 茜は楽器をスタンドへ置いた。

 「最後、ちょっと急ぎました」

 その声は悔しそうだったけれど、追い詰められてはいなかった。

 安田さんが、譜面を閉じながら言った。

 「本番で、どこへ戻ればいいかは分かったでしょう」

 茜は頷いた。

 「はい。左手の動き、ちゃんと聴きます」

 九月の最初の合わせでは、ピアノの音の多さに迷っていた茜が、今は聴きたい場所を知っている。

 今日はこれ以上増やさないで、と安田さんに言われても、素直に頷く。私が驚いてしまったらしく、茜は少し眉を寄せた。

 「そんなに、信用ないですか」

 「前のこと、覚えてるから」

 正直に言うと、茜は反論しなかった。

 代わりに、リードをしまってボーカルを外す。もう一度、と楽器へ戻ることなく、順番にケースへ収めていく手つきを見守る。丁寧に片づけるこの時間も、今日の練習に含まれているように見える。

 安田さんが帰ったあと、私は椅子を並べ直した。

 茜は最後の椅子を一つ運び、私の横へ置いた。

 「先輩」

 「うん?」

 「今回、金賞、取りたいです」

 私は茜を見た。

 「うん」

 「前は、東海へ行くことばかり考えてました。行けたら、何を言うかとか」

 そこで茜の頬が少し赤くなった。

 私も、ベンチの午後を思い出した。

 「今度は、そこでちゃんと吹いて、いい演奏だったって、自分でも思いたい」

 私は頷いた。

 茜は続けた。

 「できれば、金も」

 最後だけ、少し欲張った顔になった。

 私は笑った。

 「応援してる」

 東海なら取れるよ、とは言わなかった。

 知らない演奏者がたくさんいる。

 結果は、私には約束できない。

 でも、応援したい気持ちは、約束できた。

 茜は、はい、と返事をした。

 その声が、今日は少し弾んでいた。


 当日の会場で先に待っていた茜は、自分でケースを持ち、私たちを見つけると少し照れる。頬には血色があり、額にも何も貼っていない。演奏を聴く前から確かめてしまう私に、元気な声で挨拶してくれる。

 「おはようございます」

 私は挨拶を返した。

 陽菜は、まず茜の額を見た。

 茜が眉を寄せる。

 「ないから」

 「何も言ってない」

 「言う顔だった」

 利香先輩が笑った。

 「今日は、元気そうでよかった」

 茜は頷いた。

 「はい。ちゃんと寝ました」

 少し離れたお母さんも笑っている。秋は本人の返事だけでは安心できなかったのに、今日はそのまま受け取れる。それだけで朝の過ごし方がずいぶん違った。

 受付から来た香帆も、茜の手にあるケースを見て、今日は自分で持ってるね、と笑う。

 「先輩、来週は私が聴く番ですから」

 茜に言われて、香帆は少し肩をすくめた。

 「分かってる。まず今日の分、しっかり聴くよ」

 私たちと同じ県大会へ出る五重奏も、最後の練習に入っている。今日はその譜面を学校に置いてきた、と香帆はプログラムだけの鞄を見せてくれた。

 安田さんが来るまで、茜はプログラムへ目を通す。

 同じファゴットの出場者の名前を探している。

 「聴けるかな」

 小さく呟いた。

 私は順番を見た。

 茜より少し前だった。

 「準備の時間と、重なるかも」

 「ですよね」

 残念そうだった。

 自分の演奏だけでいっぱいだった県大会とは、目を向ける先が違っていた。

 私は、その人の演奏を聴けたら、あとで話そうと思った。

 ただ、私が聴いた言葉だけでは、音の代わりにはならない。

 そのことも、もう知っていた。

 安田さんが来た。

 茜と目を合わせ、今日もよろしく、と言う。

 茜も頭を下げ、秋より少し余裕のある挨拶を交わす。

 もう一度何か声を掛けかけて、私はやめた。茜の今を、私の言葉で埋めすぎたくない。

 目が合ったときに笑うと、茜も笑い返してくれた。それで十分だ。


 客席へ静かに入ると、ちょうど別の学校のファゴットが始まるところだ。舞台の女の子は茜より年上に見え、プログラムにも三年生とある。

 最初の音に、思わず背筋が伸びた。低いところから高いところまで、音の色が自然につながっている。

 速いところでも、指の動きだけが前へ出ない。

 長い旋律の途中にも、向かう先がよく分かる。ただ上手だと言うだけでは足りないほど、一つ一つの音に演奏する人の考えが聴こえた。

 陽菜もじっと耳を傾け、利香先輩はプログラムを閉じて膝へ置く。香帆は身を乗り出したまま、舞台の奏者から目を離さない。

 茜は、ここへ来たのだ。

 県大会で選ばれた人たちが、さらに練習して、同じ日に集まっている。

 茜が前よりよくなった分だけ、ほかの人も何かをよくしてきたのかもしれない。

 それは怖いことでもあり、聴く人にとっては嬉しいことでもあった。

 演奏が終わる。

 拍手をしながら、私は、茜にも聴いてほしかったと思った。

 上手だから落ち込ませたいのではない。

 ファゴットでできることが、まだこんなにあると、一緒に知りたかった。


 茜の出番が近づくと緊張はする。それでも今日は、歩いて舞台へ出られるか、倒れずに終えられるかという心配ではなかった。

 どんな音が来るだろう。

 どんなふうに歌うだろう。

 その、当たり前の緊張だった。

 名前を呼ばれて出てきた茜は、学校の廊下と変わらない速さで舞台の中央へ進む。お辞儀のあとに目を向けるのは安田さんで、客席の私たちを探そうとはしない。

 少し寂しい。そう思う自分がおかしくもある。音楽の方を向いてほしくて、ここへ来たはずなのに。

 茜の背中が静かに動き、ピアノが始まる。秋には一音出るたび無事を確かめていた私も、今日は旋律の始まる前から、どこへ入ってくるかを待っていられる。

 よく開いたファゴットの音が、ホールへ広がる。無理に大きくすることなく、最初から届く場所を知っているようだ。隣で陽菜が顔を上げた気配にも目を向けず、続きを聴く。

 細かな動きへ進む。

 以前は、一つでも引っかかれば全部が崩れそうに思えたところだった。

 今日は、音と音の間に、少し余裕があった。

 指が間に合っているだけではない。

 茜自身が、その動きを楽しんでいるように聞こえた。

 ピアノから、短い返事が来る。

 茜の音が、それを受けて少し色を変えた。

 同じ旋律を、同じ強さで繰り返さなかった。

 私は、練習室で茜が言った、少し待ちたい、を思い出した。

 あの場所で、音の行き先がほんのわずかに遠くなる。次の音はその分だけ柔らかく、安田さんのピアノも同じ時間を待っている。間延びはしていない。茜が考え、試していたものが、今ここまで届いているのが嬉しい。

 そのあと、小さく歌うところに入った。

 ファゴットの音量が下がる。

 でも、言葉の最後を飲み込むようにはならなかった。

 遠くにいる私たちまで、ちゃんと聞こえる。

 レッスンのとき、部屋の奥へ話しかけるように吹いた音が、今日は、もっと広い場所へ届いていた。

 県大会の日も、私は茜の演奏が好きだった。

 あの必死さも、最後まで手放さなかった音も、覚えている。

 今日は、違うところが好きになった。

 自分で余白を作り、その中で、次の音を選んでいる。

 それは、病気から戻ったから自然に手に入るものではなかった。

 戻ってからの練習で、茜が少しずつ作ったものだった。

 終わりに近づくにつれ、ほんの少し速くなる。あ、と思ったところで茜が顔を上げ、急がずにいるピアノへ息の流れを戻す。

 本人はあとで悔しがるかもしれない。けれど崩れたままにはせず、最後まで今日の自分の音を吹き切っている。

 最後の和音が鳴った。

 茜が楽器を下ろす。

 今日はすぐに拍手ができた。茜の顔に、最後まで自分で吹き切った手応えが見えたからだ。

 客席から温かい音が続く中、お辞儀をした茜が安田さんにも少し顔を向ける。

 二人で舞台袖へ戻る。

 私はその背中を見て、早く、今日の音の話をしたいと思った。


 楽器を片づけた茜が少し歩きたいと言うので、私たちも廊下を一緒に進む。

 陽菜は伝えたいことを頭の中でまとめているようで、先輩は茜の歩幅に合わせていた。私はまず、お疲れさま、と声を掛ける。

 茜が頷く。

 「最後、急ぎました」

 やっぱり、本人も気づいていた。

 私は頷いた。

 「少し。でも、戻れたね」

 「安田さんが、いてくれたので」

 茜はそう言ってから、少し笑った。

 「今日は、どこでどう吹いたか、覚えてます」

 その一言に、胸が温かくなった。

 私は、うん、と返した。

 陽菜が、とうとう口を開いた。

 「小さい音のところ、前よりよかった」

 茜が陽菜を見る。

 「そこ?」

 「そこ。前は、なくなりそうになってたから」

 茜は少し驚いたあと、頷いた。

 「直した」

 「分かった」

 短い会話だった。

 でも、何を変えたのかが相手に分かることは、長い褒め言葉より嬉しいことがある。

 茜は譜面を開き、陽菜が挙げた場所を爪の先でなぞる。利香先輩が歌の続き方を褒めたあと、私は、安田さんと一緒に待つ時間を持てていたことを話した。

 一つ受け取るたびに緩む茜の頬を見て、結果の出る前に伝えられてよかったと思う。


 銀賞と名前を呼ばれ、茜の背中がわずかに固くなるのを、私は後ろの席から見ていた。

 本人は金賞を望んでいたし、前よりよく吹けたと感じてもいる。

 その二つが、今、同じところへ収まらなかったのだと思う。

 陽菜と私、利香先輩の拍手が重なる。続く金賞の発表には、さっき聴いたファゴットの人の名前もあり、その演奏の響きまで思い出してしまう。

 茜が悪かったから、と簡単に言える結果ではなかった。

 それでも、金賞を取りたかった人に、周りが上手だったから仕方ないとだけ言うのも違った。

 発表が終わっても、茜はしばらく席に残っている。隣の人を先に通してから立ち上がったので、私たちは出口へ回る。こちらに気づいた茜は、目をそらさずに近づいてくる。

 「銀でした」

 「うん」

 「前より、できたと思ったんですけど」

 声が、少し揺れた。

 私は、頑張ったね、と言いかけた。

 でも、茜が聞きたいのは、努力したことだけの評価ではないと思った。

 「前より、よかったよ」

 私は言った。

 「さっき話したところ、全部。自分で、どう吹きたいかが聞こえた」

 茜は私を見た。

 「でも、銀」

 「うん」

 私は、銀だったことを消さなかった。

 茜は目を伏せた。

 少しして、言った。

 「悔しいです」

 「うん」

 茜の唇が結ばれる。涙を待ってしまった私の前で、賞状を握る指だけが強くなる。

 陽菜が、茜の隣へ来た。

 「私、今日の方が好きだった」

 茜が顔を上げた。

 「県より」

 陽菜は付け足した。

 「だから、銀で悔しいのと、今日の音がよかったの、別々に持ってていいんじゃない」

 茜は、しばらく陽菜を見た。

 「何、急に、まともなこと言うの」

 陽菜の眉が上がった。

 「いつも、まともでしょ」

 「半分くらい」

 「今、慰めるのやめようか」

 茜が、少し笑った。

 その笑いと一緒に、目から涙が一つ落ちた。

 タオルを出そうと鞄へ伸ばした手を止める。茜は自分のハンカチを用意していて、私の方へ助けを求めてはいない。涙を拭き終えるまで、隣で待つ。


 戻ってきた安田さんは、まず茜の顔を見て、一緒に演奏できて楽しかった、と伝えた。

 ありがとうございました、と下げる頭に、少し詰まった声がついてくる。それでも最後まで言い切った茜が顔を上げるのを、安田さんは待っていた。

 「最後、戻ってこられたね」

 茜が頷く。

 「はい」

 「次は、あそこへ行く前の余裕も、作れると思う」

 次。

 その言葉で、茜の目つきが少し変わった。

 今日の結果の先に、まだ自分の音がある。

 また一緒に吹ける機会を楽しみにしているという安田さんへ、茜はさっきより大きな声で返す。

 お母さんに帰ったら好きなものを食べようと誘われ、少し迷ってオムライスと答えるのが茜らしくて、私はつい笑ってしまった。

 茜が私を見る。

 私は首を振った。

 「好きなんだね」

 「好きです」

 今日は、照れずに答えた。

 まだ目元の赤い顔で、茜は好きな食べ物を選んでいる。笑わせなくても、急いで励まさなくても、この子は帰って夕飯を食べる。そのことに、今はほっとする。


 香帆が、先に駅へ向かうと言って茜のところへ来た。

 「次のパート練習で、今日の録音、一緒に聴こう」

 「はい」

 「でも、その前に、五重奏の感想も聞かせて。来週」

 茜は目元をもう一度拭き、今度は自分が客席へ行くと答えた。香帆が手を振ると、ハンカチをしまった手で振り返す。

 少し外へ出たいという茜と、迎えの車を入口で待つ。冷たい風に緑のマフラーを巻き直すと、陽菜から、そこ曲がってる、と指摘される。直そうとした茜が私の方を見たので、笑いながら端を整えてあげる。

 私が言ったのに、と陽菜がつぶやき、横で先輩も笑う。いつもの四人の声を聞いてから、茜は閉じたケースへ目を落とす。

 「来年も、出たいです」

 私たちは、茜を見た。

 「この曲、もう一回、ちゃんと吹きたい。まだ、できることがあるので」

 勝負を申し込んだり、誰かに願いを叶えてもらう条件にしたりする声ではない。次の自分へ向けた言葉なのだと分かり、私は頷いた。

 「聴きたい」

 陽菜も、少し遅れて頷いた。

 「じゃあ、また、聴かせて」

 茜が、陽菜を見た。

 「何、お願いしてもいい?」

 陽菜の顔が、途端に警戒したものになる。

 「もう、何でもとは言わないからね」

 茜は笑った。

 「分かってる。普通に、聴いてって言っただけ」

 「その言い方、やめて」

 夏の終わりには似たような会話からとんでもない約束が生まれたけれど、今はその続きの時間を、二人が過ごしている。

 もう、東海へ進んだら何を言うかだけを考えて吹く茜ではない。そのことも嬉しくて、私は二人へ笑いかけた。

 迎えの車へ向かう茜に手を貸そうとすると、今日は持てます、と言われる。持ち上がったケースを確かめて、私も頷く。

 「うん。気をつけて」

 茜は車へ向かいかけて、振り返った。

 「先輩、今度のデート」

 私は顔を上げた。

 「この前言ってた、駅の向こうの道。もう少し先まで、行きたいです」

 大会の結果は、条件につかなかった。

 私は笑った。

 「行こう。案内して」

 茜も笑った。

 「今度は、迷わないようにします」

 「迷っても、帰れればいいよ」

 そう答えると、茜は少し考えてから、はい、と頷いた。

 走り出す車へ、三人並んで手を振る。銀賞を悔しがる茜の声と、今日届いた演奏は、どちらも耳に残っている。もう次の話まで聞かせてもらえたことが、嬉しい。

 自分たちの次の大会でも、そのことを忘れずにいられるだろうか。

 そのときはまだ、いられると思っていた。


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