第三十八章 三人の音が、止まるまで
目覚ましより先に目が覚め、薄暗い天井を見つめる。今日だ。そう思ってからようやく起き上がると、窓の外もまだ朝になりきっていない。
よく眠れたかと聞かれたら、少し迷う。
夜中に一度、目が覚めた気もする。
でも、時計を確かめずにまた眠ったので、夢だったのかもしれない。
机の上の楽譜は、閉じたままだった。
昨日の自分が終えた場所で、待っていた。
制服と髪を整え、鞄の青い花を確かめてから朝ごはんに向かう。今日は寒いね、という母に頷き、お味噌汁をいつもよりゆっくり飲む。口の中の熱さを気にしているあいだは、まだ普通の朝でいられる。
玄関で靴を履く。
母が、頑張ってね、と言った。
私は顔を上げた。
「行ってきます」
そう答えると、母は笑って、行ってらっしゃい、と返した。
開けたドアから、昨日より冷たく感じる空気が頬に触れる。ケースを持ち直し、その冷たさの中へ踏み出す。
陽菜は、集合場所で足先を小さく動かしていた。
寒いからか、落ち着かないからか、どちらか分からなかった。
私を見つけると、すぐに笑った。
「ひかりさん、起きられたね」
「起こしてもらう前に」
「ちゃんと準備してたのに」
その言い方がおかしくて、私は笑った。
少しあとに来た先輩も、集合時刻には十分間に合っている。おはよう、という声は普段どおりなのに、ケースを握る指には力が入りすぎていた。先輩も緊張しているのだ。
当たり前のことだった。
十八歳になっても、落ち着いて見えても、最後の大会の朝に何も感じないわけではない。
私が笑いかけると、先輩も手の力を少し緩めてくれた。
先生と合流して電車へ乗り込み、流れていく朝の街を眺める。
部活へ行く人も、仕事へ行く人も、どこかへ遊びに行く人もいる。
私たちだけが特別な朝を迎えた気がしていたけれど、電車には、それぞれの一日を始める人が乗っている。
膝の上で指を動かす陽菜と、目を閉じる利香先輩。その隣で、私は鞄の楽譜を思い浮かべた。開かなくても最初の音が浮かび、二人の音も続いてくる。
想像の中で、一度だけ間違えた。
本当に吹いたわけでもないのに胸が跳ね、私は窓の外へ目を向ける。
まだ、始まっていない。
始まる前から、終わりを決めない。
小さく吐いた息に気づき、陽菜がこちらを見る。心配させないよう笑うと、陽菜も笑って、二人とも前へ向き直る。何を考えていたかまでは、聞かれなかった。
会場へ近づくほど、違う制服を着た人たちが同じ入口へ集まってくる。台車の大きなケースも、胸に抱かれた小さなケースも、それぞれの歩調で進んでいく。
看板を見上げたとき、中学の大会を思い出す。別の建物でも、入口へ吸い込まれる硬い背中には覚えがある。
中学では、それぞれ違う不安を抱えても、並べば一つの学校の大きな列になり、前に立つ指揮者から最初の拍をもらえた。
今日は、三人だ。
自分たちで目を合わせ、自分たちで息を吸い、自分たちで音を始める。
私はそのことを思い、足元を確かめた。
陽菜が、入口で少し立ち止まった。
「すごいですね」
私が顔を向けると、陽菜は、会場の広さより、人の方を見ていた。
「みんな、上手そう」
声が、少し小さかった。
「うん」
上手そうに見えなくても、ここまで来ている人たちは、何かを積み重ねてきた。
見た目で全部は分からない。
私も、すれ違うケースの傷の少なさまで気にしていた。
利香先輩が、陽菜の肩のあたりへ軽く手を置いた。
「私たちも、そう見えてるかもしれないよ」
陽菜が先輩を見る。
「見えてますかね」
「ケース持って、真剣な顔してるから」
先輩の笑顔に少し無理があるのは分かる。それでも助けられた私と陽菜は、三人で受付へ向かった。
控室へ入ると、私はまず、椅子に座った。
立ったままだと、何かを急いで始めたくなったからだ。
ケースを開け、楽器を取り出す。
昨日、丁寧にしまった順番が、そのまま戻ってきた。
ボーカルを確かめ、リードを用意する。
指先は少し冷えていたけれど、思ったほど動かしにくくはなかった。
いつものリードと予備を吹き比べる陽菜が、首を傾けてこちらを見る。こちらがいい、と決めてあげそうになるのをこらえ、先に尋ねる。
「自分では、どう?」
聞くと、陽菜は少し考えた。
「いつもの方が、入りは安心です。でも、今日は、少し重く感じる」
「少しだけ吹いて、もう一度確かめよう」
私の言葉に陽菜が頷くと、先輩も自分の準備をしながら音を聴いてくれる。
やがて、いつもの方でいきます、と陽菜が決めた。その顔を信じて頷き返し、私も自分の楽器へ息を入れる。
イングリッシュホルンの響きが、部屋の中へ広がる。
いつもの音楽室とは違う。
壁も、天井も、周りにいる人の数も違う。
それでも、自分の出した音が、どこから戻ってくるかを、少しずつ耳がつかんだ。
先輩が音を重ね、陽菜も入る。三人の響きになった途端、胸の奥が少し落ち着く。一人で今日の音を作るのではないと、頭の中で繰り返すより、二人に吹いてもらう方がずっと早い。
様子を見に来た三枝先生の前で短く合わせると、頷きが返ってくる。何かを大きく変える指示はなく、出番までの流れと、呼ばれてからの移動を確かめた。
返事をしたところで、先生が私に尋ねる。
「今、どこを考えてる?」
舞台、全国、先輩の最後。いくつも浮かぶ言葉の中から、今の自分に一番近いものを選ぶ。
「最初の、息です」
先生は頷いた。
「そこからで、いいです」
短い言葉だった。
私は楽器を見た。
そうだ。
全国へ行くためにも、最後の演奏にするためにも、まず、一音目を出さなければならない。
その一音目の前には、三人で吸う息がある。
私は二人を見た。
利香先輩は、静かに頷いた。
陽菜も、同じように頷いた。
廊下へ出たとき、海香先輩と聡美先輩が、少し離れたところにいた。
私たちの準備の邪魔にならないように、そこで待ってくれていたらしい。
海香先輩は手を振った。
いつものように大きな声ではなかった。
「来たよ」
私は笑った。
「ありがとうございます」
聡美先輩は、私たちの顔を一人ずつ見た。
それから、落とし物はない、と、なぜか確かめるように言った。
利香先輩が笑う。
「今のところ」
「じゃあ、よかった。舞台の前で、物を探すのだけは避けたいから」
私は、自分の鞄を思い出し、頷いた。
必要なものは、ちゃんとあった。
海香先輩は、利香先輩へ目を向けた。
「楽しみにしてる」
利香先輩は、少し目を細めた。
「うん」
同じ三年生同士の、短い返事だった。
私には、その短さの中に、入部してからの時間があるように見えた。
私が知らない一年間を、先輩たちは一緒に過ごしている。
そのあとに、私が入ってきた。
今日、その続きの舞台へ、一緒に立つ。
ケースの持ち手に触れ、客席へ向かう二人を見送る。それ以上話を長くしないでくれたことに感謝しながら控室へ戻ると、携帯には茜の連絡が届いている。
『着きました。ちゃんと三人が見えるところに座れました』
画面を見せると、陽菜はよしと呟き、先輩も笑う。私は短い返事を送った。
『ありがとう。あとでね』
送ったあと、携帯電話を鞄へしまった。
あとで、会う。
その約束を、ちゃんと持って舞台へ行きたかった。
出番が近づくと、陽菜の口数が減った。
いつもなら、私の表情について一つは何か言う。
今日は、自分の手を見ていた。
利香先輩も、譜面の同じところを何度も確かめていた。
私は二人の前へ少し寄った。
「緊張してる?」
陽菜が顔を上げた。
ごまかすかと思った。
でも、頷いた。
「すごく」
先輩も、私も、と言った。
私は少し笑った。
「私も」
陽菜が、先輩でも、と言いかけた。
私は頷いた。
「中学のときも、緊張した。毎回」
「慣れないんですか」
「少し慣れるところも、ある。でも、今日の三人でここに立つのは、初めてだから」
陽菜は私を見た。
そのあと、先輩を見た。
「そうですね」
声が、少しだけ落ち着いた。
利香先輩が、私の制服の襟を見た。
手を伸ばしかけ、いい、と聞く。
私は頷いた。
先輩が少し曲がったところを直してくれた。
陽菜が、今、私も気づいたんですけど、と言った。
先輩が笑う。
私は、直してもらいながら、二人の声を聞いた。
緊張していても、私たちらしさが全部なくなるわけではない。
そのことが、少し心強かった。
呼び出しに立ち上がり、楽器と譜面を持つ。一度だけ振り返って忘れ物がないことを確かめると、二人も同じように後ろを見ている。もう大丈夫だと頷き合い、舞台袖へ向かう。
舞台袖では、前の組の音が、壁の向こうから聞こえた。
客席で聴くのとは違う響きだった。
直接届く音と、壁に回ってくる音が重なっている。
上手かどうかを考えようとして、私はやめた。
今、比べても、私たちの準備は変わらない。
それでも耳は、勝手に音を追った。
長い音が、最後まで揃っていた。
短い動きにも、迷いがなかった。
リードへ目を落として息を吐くと、先輩の視線を感じる。目を上げた私へ、声を出さず口元だけで笑ってくれた。その顔から、去年の冬の廊下を思い出す。
好きだと伝えたあの廊下で、先輩から返ってきたのは、付き合えない、という答えだった。それからも隣で同じ楽器を吹き、音だけは嫌いになれずにいた。
今は、隣に立って違う楽器を持っている。思い描いていたのとは違う出来事をいくつも通り、ここへ来た。
陽菜が、私の名前を呼ぶ。
私はそちらを見る。
「最初、お願いします」
いつもの練習で言う声だった。
「うん」
二人が待っている。
私も、二人の音を待っている。
前の組への拍手の中で係の人が動き、舞台に三人分の場所ができていく。学校名に続いて、木管三重奏、と読み上げられる。
今度は私たちだ。明るい舞台へ、足を踏み出す。
足元の明るさに目が慣れるのを待ちながら、譜面の角度を確かめる。顔を上げれば二人が見える。その位置で、譜面台から手を離す。
客席の一人一人は、よく見えなかった。
あの暗がりのどこかに、茜が座っている。
海香先輩も、聡美先輩もいる。
今日、初めて私たちを聴く人もいる。
私は、その人たちの全部を想像しようとして、やめた。
まず、隣にいる二人を見る。
先輩と陽菜の目を確かめ、小さく頷いて息を吸う。三人の身体が同じ方向へ動き、最初の音が鳴る。
硬い。出した瞬間に、届かせたい気持ちが先走ったと分かる。大きくしたつもりはないのに、音の真ん中へ力が集まりすぎている。次で直さなくては、と息を整えかける。
その前に、陽菜の明るいオーボエが入る。急いでいない音に、今の速さを教えられる。頭の中で作ってきた拍よりも、その音に耳を向ける。
利香先輩の音が、その少し先へ広がった。
柔らかい終わりが、次の音の場所を残してくれる。
その場所へ息を渡すと、響きが少し変わる。知っているイングリッシュホルンの音が手の中に戻り、安心しすぎないよう次へ耳を澄ました。
二人の音は、もうそこにある。
短い旋律が、三人の間を動いた。
一人が全部を持ち続ける音楽ではなかった。
前へ出たと思えば、次には誰かの下へ入る。
自分が鳴らしていない時間にも、次に吹くための息がある。
私は、利香先輩の音の終わりを待った。
去年の春、好きだった、という過去形にしようとした音だった。
今日は、その終わりを、今の自分の音で受け取った。
先輩が少し顔を上げる。
私も見た。
そこに、言葉はいらなかった。
陽菜が入る。
明るさが、音楽の向きを少し変えた。
私はその変化を、元へ戻そうとしなかった。
陽菜が行きたいところへ、私も少しだけ身体を向ける。
先輩の音が、後ろからついてくる。
その三つが揃ったとき、私は、楽譜だけでは知らなかった今日の音を聴いた。
ベートーヴェンの作品八十七。
何度も表紙で見た数字の中に、こんなに違う日が入るとは思わなかった。
六月の試奏。
夏の短い練習。
二人が目の合った回数を数えた日。
怒った陽菜と、私の話を待ってくれた先輩。
その全部を思い出す暇は、舞台の上にはなかった。
でも、思い出さなくても、音の中に残っていた。
二月に何度も止めた場所が近づいた。
私は、そこだけを特別にしないようにした。
ここをうまく吹けば、全部が成功するわけではない。
その先にも、音楽は続く。
先輩の音が軽く終わると、陽菜がそれを受け取る。早く入ったわけではないのに、続きへ行きたくなる。
私はその下に、自分の音の芯を残した。
強く引っ張らず、二人が動くための場所を作る。
三つの音が自然につながり、できたと思うより先に続きを吹いている。
一瞬顔を上げた陽菜と、先輩の視線がこちらへ向いた。
三人とも同じことを感じたのかどうかは、あとで話さなければ分からない。
それでも今、私たちは、同じ場所を通った。
旋律が長く伸びる。
遠くへ向かう先輩の音を下から聴きながら、私は息の流れを保つ。その終わりがほんの少し薄くなり、反射的に顔を上げた。
陽菜の音が、次の場所をはっきり示す。先輩が自然に息をつなぎ、私も二人の下を通って、次の音へ進んだ。
誰か一人が全部を助けているわけではない。
少し足りなくなったところへ、別の人が自分の音を置く。
それは、練習で何度もやってきたことだった。
本番だから急にできた奇跡ではなかった。
そのことが、私は嬉しかった。
ホールの響きが、最初よりよく聞こえるようになった。
私たちの音が出ていき、少し遅れて戻る。
戻ってくる音を確かめながらも、それを待ちすぎない。
新しい音を、その先へ渡す。
その繰り返しの中で、私は、客席の奥を思った。
茜がレッスンで、小さい音を奥まで届けようとしていた。
今、私たちの小さな音も、あそこまで行くだろうか。
大きくするためではなく、終わりまで話せるように息を残す。隣の陽菜の音が柔らかくなり、先輩も同じ場所で色を変えた。
二人が好きだと、思う。
演奏の途中で、そんなことを考えるのは、前なら不真面目だと思ったかもしれない。
でも、その好きは、今、音を聴くことから離れていなかった。
陽菜の、ためらわずに前へ行く明るさ。
先輩の、最後の音まで誰かを待てる柔らかさ。
どちらも、私が一人で出す音にはならない。
だから一緒に吹きたくて、ここまで来た。
自分の音を二人へ返す。それが今日の、私からの返事だ。
終わりが近づいても、まだ吹いていたい。けれど引き延ばすために音楽を変えず、三人で運んだものを、最後の場所へきちんと置きたかった。
顔を上げた陽菜と先輩を、私も見る。誰のために何回見たか、そんなことを数える余地はない。終わりまで一緒に吹くために、今、二人の顔が見たい。
最後の動きが始まる。
私は息を流し、指を動かし、耳を二人の方へ開いた。
先輩の音が、陽菜へ渡る。
陽菜が、その先へ進む。
二人と終わりへ向かい、最後の三つの音が、同じ場所で止まる。
楽器はまだ下ろさず、空間に残る響きを聴いていた。誰も終わりを急がない、静かな時間だった。
拍手が届いてから楽器を下ろすと、二人もこちらを見ている。三人で客席へ頭を下げ、上げたあとも続く拍手を聴く。今度は、次に直すところを探さずに受け取れる。
舞台を歩いて戻る。
足元の床が、さっきより確かに感じられた。
袖へ入ったところで、陽菜が、小さく息を吐いた。
それから、私を見て笑った。
「最後、届いた感じがしました」
「うん」
利香先輩も、楽器を下ろして笑った。
「三人で、置けたね」
私は、その言い方が好きだった。
最後の音を、誰か一人が決めたわけではなかった。
三人で、そこへ置いた。
「最初、私、少し硬かったです」
私が言うと、陽菜は頷いた。
「気づきました」
「陽菜の音で、戻れた」
陽菜の目が、少し大きくなった。
私は先輩も見た。
「先輩の終わりも、聴けた。途中から、ちゃんと」
よかった、と答える先輩の声が少し震える。泣きそうなのかもしれない。それでも笑ってくれたので、私も笑い返した。
通路の向こうから三枝先生が来て、私たちの顔を見ると頷く。
「よく吹きました」
私は、その言葉を聞いて、ようやく肩の力を抜いた。
先生は続けた。
「三人の音になっていましたね」
陽菜がはいと答え、先輩も頷く。私もお礼を伝えながら、本当は結果のことを尋ねたくなった。
どこまで届くだろうか。
全国へ行けるだろうか。
でも、先生が約束できることではない。
私はその質問を、口にはしなかった。
いま受け取った言葉を、そのまま持っていたかった。
さっきまで鳴っていた楽器を、もうケースへ戻すのが不思議で、片づけの手がゆっくりになる。管体にはまだ温かさが残り、指で確かめてから、名残を惜しむように布を通す。
陽菜は、一つ片づけるたびに、私たちの顔を見た。
まだ何か話したいらしい。
先輩も同じだった。
私も、話したいことがたくさんあった。
あそこ、どう感じたか。
最後の少し前、顔を上げたとき、何を聴いていたか。
二月に言い合った場所が、今日は自然に通れたこと。
今すぐ全部話すのは惜しい。この先も同じ演奏を何度でも振り返りたかった。
片づけを終えると、待っていた茜がすぐ笑う。少し走ったのか、息が弾んでいる。
「よかったです」
まず、それだけ言った。
私は、ありがとう、と返した。
茜は、言葉を足そうとして、一度止まった。
「三人とも、自分の音を吹いてたのに、ちゃんと、三人の音に聞こえました」
陽菜が、当たり前でしょ、と言いかけた。
でも、その途中で笑った。
「……そう聞こえたなら、嬉しい」
茜も笑う。お疲れさまと言ってもらう側なのに、先輩は聴いてくれてありがとうと繰り返した。
私も同じ気持ちでいると、茜が少しこちらへ寄ってくる。
「先輩、会いに来ました」
私は昨日の約束を思い出した。
終わったら、会おう。
私は頷いた。
「来てくれて、ありがとう。私も、会いたかった」
茜の頬が赤くなり、陽菜にここで始めないでと注意される。先輩の笑い声に、少しだけ普段の四人へ戻れた。
「三人、並んでください」
茜が携帯電話を取り出した。
「今の顔、残しておきたいので」
言われて、私たちはケースの前へ並んだ。
陽菜が私の右側へ寄り、利香先輩が左側で少し屈んだ。
「利香先輩、近くないですか」
「写真だから、入らないと」
「それなら私も」
二人の肩に挟まれて笑う私を、茜が撮ってくれた。画面の中では私だけ口を開けているので撮り直したかったけれど、これがいいと陽菜が言い、先輩も頷く。
結局、そのまま送ってもらった。
結果が出るまで、時間があった。
私たちは交代で荷物を見ながら、ほかの組の演奏を少し聴いた。
木管五重奏の組が、舞台へ出た。
フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット。
最初に考えていた私たちの編成とは違う、本来の五重奏だった。
私はその楽器の並びを見て、六月のオーディションを思い出した。香帆があの日集めた五人は、県大会の舞台まで一緒に吹いた。
あのまま、別の形で進んでいたら。
誰か一人が選ばれて、誰かが選ばれなかったら。
その先の自分を、今は、うまく想像できなかった。
五つの違う色が広がると、もしも、と考えていた六月のことは頭から離れる。今、目の前の五人がどう吹いているのか、聴きたい。
一つの音が前へ出ても、ほかの音は小さくなるだけでなく、違う向きへ広がる。細かい動きにも急ぐ人はなく、長い音の終わりから次の人へ自然につながっていく。
私たちとは違う空間の使い方が綺麗で、同時に怖かった。
今日の自分たちの演奏が好きだという気持ちは、消えていない。
それでも、この人たちと同じ場所で、選ばれるかどうかを待っている。
拍手を終えて手を膝へ戻すと、指先が少し冷えている。
ロビーで待っていた海香先輩と聡美先輩が、まず演奏の感想を聞かせてくれた。
受け渡しのところで、ひかりが一人で急がなくなった、と聡美先輩に見抜かれ、少し照れる。海香先輩も今日は、本当に音の話だけをしてくれる。
最初の響き。
途中で空気が変わったところ。
三人が最後に揃って顔を上げたところ。
話しながら、少し目が赤くなっていた。
利香先輩が、まだ結果出てないよ、と笑った。
海香先輩も笑った。
「分かってる。今のうちに、ちゃんと言っておこうと思って」
その言葉が、私には残った。
結果が出る前に。
どんな結果でも変わらない、いま聴いたこととして。
私は、ありがとうございます、と頭を下げた。
聡美先輩が、私の肩へ軽く触れた。
「少し、座って休んでね」
頷き、四人でロビーの端に座った。陽菜は飲み物を持ち、隣の茜はプログラムを見ている。
利香先輩と目が合って笑い返すと、その笑顔を全国の舞台でも見たいという願いが、はっきり胸に浮かぶ。
ここまで来られたから十分だとは思えない。今日の演奏が好きだからこそ、もっと先が欲しくなった。
発表が近づくと空気が変わり、演奏者は席へ、廊下にいた人もホールへ戻っていく。
並んで歩くうちに、今朝より楽器のケースが重く感じられた。
身体が疲れていたのだと思う。
それだけではなかったかもしれない。
席に着いて膝へ置いたプログラムを、開かずに持つ。何度読んでも名前の位置は変わらない。まだ載っていない結果だけを、これから聞くことになる。
陽菜が両手を組み、先輩も私も正面を向く。
舞台から譜面台は消え、紙を持った人が立っている。少し前まで、自分たちの音で満ちていた場所だ。
そこから、今度は、言葉が来る。
私は息を吸い、ゆっくり吐いた。
読み上げが始まった。
賞ごとに、学校名と編成が呼ばれていく。
拍手が起きる。
私は手を叩いた。
銀賞の発表が終わり、金賞へ進んだ。
胸が少しずつ速く動いた。
白鷺女子高校。
木管三重奏。
金賞。
顔を上げると、二人の目もこちらへ向いている。頷いた途端、嬉しさがこみ上げる。今日の演奏が金賞をもらえたのだ。拍手する手のひらが、少し熱くなる。
陽菜の明るい目と、ほっと笑う先輩を見て胸がいっぱいになる。
それでも、発表はまだ終わっていなかった。
全国へ推薦される学校名が呼ばれるたび、客席のあちこちで小さな声が上がる。拍手をしながらも、その方を見ないようにしていた。失礼なことは考えたくないのに、待っているのは自分たちの名前だけだ。
さっき聴いた木管五重奏の学校も、呼ばれた。
さっきの綺麗な響きが耳に戻る。選ばれる理由は、聴いたばかりの私にも分かる。それでも、私たちも、と祈るのをやめられない。
係の人が、紙へもう一度目を落とした。
私は、息を止めた。
まだ、あるのだろうか。
次に呼ばれるのだろうか。
陽菜の手が、私の袖へ触れた。
先輩の肩が、少しだけ動いた。
最後の説明が、始まった。
推薦された団体への手続き。
今後の連絡。
その言葉が続いているあいだ、私は、さっきの発表のどこかに、自分たちの名前がなかったかを考えていた。
聞き逃したのかもしれない。
そんなはずはない。
隣の二人も、動かなかった。
全国大会への推薦の中に、私たちの名前はなかった。
その事実だけが、少し遅れて、胸の中へ入ってきた。
拍手に合わせて手を動かしているのに、音は遠い。金賞の嬉しさをどこへ置けば、全国へ行けないことも一緒に受け取れるのだろう。三人でここまで来て、楽しく、よく吹けた。そのどれも嘘ではないのに、今は終わってしまったことばかり考える。
袖から陽菜の手が離れる。唇を結んで前を見るその目が赤く、何か言いたくても、声の出し方まで分からなくなる。
先輩を見る。
先輩は膝へ目を落とし、指を一度だけ握る。その動きに、言葉を失った。
先輩も、悔しいのだ。
私だけが、先輩の最後を惜しんでいるわけではない。
何を掛ければいいか分からないまま、立ち始めた客席の人たちへ道を空ける。いつもなら考えもしない動作を、一つずつ確かめながら行った。
鞄を持つ。
プログラムをしまう。
ケースを取る。
立つ。
隣に、二人がいた。
私は、そこだけを確かめながら、歩いた。
ロビーの明かりが、まぶしかった。
外の光は、朝より柔らかくなっていた。
何かが終わっても、建物の中の人の声は続いていた。
喜んでいる人がいる。
泣いている人がいる。
同じ金賞の賞状を持っていても、その顔は一つではなかった。
受け取った賞状は思ったよりしっかりした紙で、端を折らないよう両手で持つ。そこへ来た先生の姿を、顔を上げるより先に足音で知る。
「お疲れさま」
その声を聞いて、私は頷いた。
先生は、すぐに反省点を話さなかった。
推薦された組と、私たちを比べることもしなかった。
「今日の演奏のことは、また、落ち着いて聴きましょう。いまは、三人で、少し休んで」
私たちは頷いた。
先生は手続きがあるからと、受付の方へ戻った。
その背中を見送ったあと、私は二人へ向き直った。
何か言わなければ。
金賞、おめでとう。
一緒に吹けて、よかった。
ありがとう。
どれも伝えたい言葉なのに、口を開けば別のものが出てきそうだ。
少し離れたところから来た茜は、私たちを見て歩みを緩めた。すぐに何も言わない優しさが、今はかえって胸に迫る。
私は、笑おうとした。
「……よかった、ですよね」
声が、途中でかすれた。
何がよかったのか、自分でも分からない聞き方だった。
演奏か。
ここまで来たことか。
終わってしまった、この結果まで含めてなのか。
利香先輩が、私を見た。
私は顔を上げられなかった。
「金、だったから」
続きを言いたくても声にならず、持っていた賞状の端が少し曲がる。茜がそっと受け取ってくれたのに、ありがとうさえ言えない。
陽菜が一歩近づき、先輩は目の前へ手を差し出した。
「ひかり」
名前を呼んだ声が、優しかった。
その優しさに、私は、もう、笑えなかった。
先輩の手が、私の返事を待っていた。




