1-3 『竜は優しくない』
黒い声。
聞いた瞬間、そんな比喩表現が脳内に浮かぶ。
冷たい意思を秘めた、抑揚のない音。
それは、『死』そのものだった。
怒気を孕んでいない。哀愁を漂わせてもいない。殺意すら空虚。挨拶をするかのように当然といった調子で、淡々と『死』を告げている。
それは、全くの無感情な殺意の化身――
「ちっ!本当に規格外な野郎だな……竜神羅衣!!」
「――――」
竜神羅衣、そう呼ばれた黒い青年は、明らかに強がって吠える大男の言葉に、ただ超然と、悠然とした態度を崩さない。
そこには、事情を知らぬ第三者でも一目で分かる、絶対的な力量の差があった。
弱者と強者、獲物と狩人、蛇に睨まれた蛙という表現が最も適切に使用される場面だ。
思わず、本を抱える腕に力が入る。見つかったわけでは無いようだ。ようなのだが、ただ見ているだけのマユイですら、足がすくむようなプレッシャーに押しつぶされそうになる。
「クッソっ!」
硬直から解放された大男は方向転換して走り出し、リュウジン・ライなる人物から逃げ出す。
追われていたのだろう、逃亡という行為はこの状況で当然の選択肢だった。
しかしながら、迅速で的確な判断が求められる非常時では、通常では有り得ない選択を取ることもある。それが状況を覆す咄嗟のひらめきであるか、はたまた思考の錯乱であるかは結果でしか語れない。
マユイが上階を訪れるという有り得ない決断をしたように。大男もまた、恐らく通常では有り得ないだろう行動に出た。
――偶然目についたであろうスペース、袋小路でしかない本棚裏の隙間へと逃げ込んだ。
ちょうど、マユイが潜む隠れ場所へと、逃げ込んできた。
唐突な理由なき暴挙に巻き込まれ、傍観していたマユイは対応できない。
咄嗟に身を隠す場所、脱出ルートを模索するも、そんなもの見つかるはずも無く。ここは既に逃げ込んだ先、袋のネズミとはまさにこのこと。
こうなったらイチかバチか、マユイの存在に気付き硬直したその瞬間に真横を通り抜けて――
「ぶぉおっ!?」
「ぐぎゃっ!?――ぶぁ」
衝突。
目の前に居るというのに、大男はスピードを一切緩めることなく突っ込んで来た。体躯の差は歴然で、マユイは全く踏ん張れずに吹っ飛び、壁に全身を打ち付けられる。
気づくと、この狭い空間で仰向けに倒れこみ、分かりやすく驚愕を顔に張り付けた大男がマユイを覗き込むように見下ろしていた。
ずっと手にしていた御守りの本も、どこかに落としてしまったようだ。
まさか、ぶつかるその瞬間まで、マユイの存在に気付かなかったとでもいうのか。だとしたら。
「影が薄いってのも……考えもの……かな」
ぼやけた視界とまとまらない思考の中、そうボヤく。
額でも切れたのだろうか、景色が血で赤く滲み、口の中も鉄の味が広がる。
身体に一片の力も入らず、動けない。
もう手の施しようは無く、諦めて天運に身を委ねるしかないと諦めるのみだ。
そんなマユイを、大男は困惑しながらも抱え上げる。取り出した拳銃をこめかみに突きつけながら。
「おい、竜の野郎!俺は人質を取るぞ!」
叫びつつ、部屋の中央付近へと歩み出る大男。その腕の中で、マユイは辛うじて見た。
リュウジン・ライの顔を。
僅かに、しかし間違いなく見開かれた目。その奥底は見えないが、そこには確かに、何か色のついた感情が生まれている。
「……そいつは」
「先客だよ、最初からそこに隠れてたみたいだぜ……テメェも気付いてなかったのかよ」
「一応聞くが、今も”汚染”は発動中なんだよな?」
「この状況で切らすわけねえだろうが」
「だというのに、平然と生きているのか」
訳の分からない会話。彼らが意図することを考察する余裕は、今のマユイには無い。軽い脳震盪を起こしているのだろうか、頭が上手く働かない。
「そんなこたぁどうでもいいんだ。見逃すのか、コイツを見捨てるのか。どっちだ!?」
マユイという無辜の一般人の命を盾に、大男は選択を迫る。その声は震えており、自身が優位に立ったとは微塵も思わせない。
彼には分っているのだ。リュウジン・ライが下す決断が。
「もう一度言おうか?」
気付くと、男は窓枠から降りていた。
「お前に逃げ道は無い」
気づくと、男は目の前に居た。
「――交渉決裂だ」
気づくと、マユイは抱えられていた。
先程とは異なり、横抱き――俗っぽく言うならお姫様抱っこされた状態で、すぐ上にリュウジン・ライの整った顔が見えた。
数秒、あるいは数分ほど意識が飛んでいたのかもしれない。が、少なくともマユイ自身の認識としては、一連の動きは全て一瞬だったように思える。
何が起きたのか、何が起きているのか、理解が及ばない。及ばないが、一つだけ思ったことがある。
――私、この人のこと嫌いだ。
その気持ちを自覚したと同時に、マユイの意識は限界を迎えた。
␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣
背中の冷たく硬い感触と体の痛みが、意識を乱暴に揺さぶり起こす。
触覚、痛覚、それらを認識できるということはつまり。
「……生きてる」
『我思う、ゆえに我あり』といった格言を何時ぞやの授業で聞いた気がするが、その言葉の示す通り、思考することが出来ている以上まだ生きているのだろう。
目を開いてみる。飛び込んでくる景色は、非常に暗い室内の天井。もしこれが一面に広がる花畑や三途の川だったら、頭を抱えるところだった。
「――なんだ、命拾いしたのがそんなに不満か?」
少し離れたところから、聞き覚えのある声がする。見ると、リュウジン・ライが壊れた窓付近の壁にもたれ掛かってこちらに鋭い目を向けていた。
「そんな風に聞こえた?」
「ああ、とても残念そうだった。嫌いなヤツに救われるくらいなら死にたかったのかと」
「冗談キツいね。生きてるに越したことは無いでしょ。というか、『嫌いなヤツ』って……私、声に出てた?」
「ハッキリと聞こえたさ。助けてやったってのに、まったく、恩知らずな人間だ」
リュウジン・ライは、呆れたように笑う。
数時間ほど気を失っていたのだろう、外は完全に闇に包まれ、窓だった穴からは月明かりが差し込み、リュウジン・ライを照らしている。
ようやく直視することができ、気づく。リュウジン・ライは、驚くべきことにどう見ても同年代だ。長身だが屈強な体躯というわけでは無い。黒髪に黒い服、オマケに月明かりが逆光となってシルエットのようになっており、最初に抱いた『黒い男』という印象が強まる一方だ。
街中ですれ違えば、面の良いただの好青年だなとしか思わないだろうが、マユイ自身の失言のせいか、言葉の端々に棘が見え隠れしている。
言い切った通り、生きているに越したことは無い。だが、生きていることに驚きや戸惑いがあったのは事実だ。なぜならば、
「さっきの場面って間違いなく、見てはいけない類のものでしょう?てっきり、私の存在が露呈した時点で、口封じは免れないものかと」
そう、物語の定番、見てはいけない何かを目撃してしまったせいで死亡するキャラだ。たいていは、主人公サイドのそこそこ顔が広く人気もあるキャラが前触れなく退場し、後に真相が明らかになって株が上がるパターン。
しかしながらマユイのような、人間関係皆無で能力も無くただ本当に偶然居合わせてしまっただけなキャラは、名前も与えられず伏線のためのパーツとして消費される、可哀そうなモブが関の山。
どちらにせよ、生かされる理由が見当たらない。こうして今生きている以上、目が覚めてから絶望を与える目的でもない限り、殺されはしないのだろうが。
「簡単な話だ。お前を生かす理由ができた、それだけだ。悪いが、お前には俺に着いてきてもらおうか」
「えぇ?……はぁ、拒否権は無いようね。まあ、純度100%の善意で助けた、なんて言われるよりは信じられるかな」
「ああ、そうだな……俺は『優しさ』とは対極だから」
いったい、この主人公のような人物が、モブキャラやエキストラでしかないマユイに何を求めているのか。分からない、見当もつかない。
分からないが、分かったことが一つある。
「――やっぱり、私、あなたのこと嫌いだ」
嫌い。なぜそう感じるのか、自分でも説明できない。できないが、どうしても気持ち悪いのだ。彼を、リュウジン・ライを見ていて、未だかつて感じたことの無い不快感が心の芯から沸々と湧き上がる。
その嫌悪感を、真っ向からぶつける。
この男を、怒らせるべきではないと理解していながらも。
実際、ブチギレるとまではいかずとも、掌を返して殺されるには十分な材料となるだろう。初対面の、それも窮地から華麗に救った相手から、意味不明に罵られているのだ。彼からすれば、堪ったものではない。
殺すわけにはいかない理由があるのだとしても、今後の査定に響くのは間違いない。
だが。
「そうか。そりゃあ、結構なことだ。――そのままでいろよ」
許された、のだろうか。最後の呟きは、肯定にすら思えた。予想通りの反応だ。
予想、というと明らかに間違いではあるが、だが、強い言葉をぶつけても、否定されないような気がしていた。そんな風に思うのもまた、理由が分からなくて気持ち悪いのだが。
「いい加減、無駄話も切り上げて移動しよう。そこ、下にあった荷物を持ってきたから整理しとけ」
促されて見た方、部屋の隅には、2階に置いてきた鞄類や、取り出すだけ取り出しておいた課題プリントなどが置いてあった。
そして――
「あ、本……」
大男とぶつかった拍子に落としてしまった、読みかけの本。上階へと向かう勇気を貸してくれた大事な本が、綺麗な四角いクッションの上に置かれていた。他の鞄なども、同様に別のクッションの上にある。
記憶が正しければ、こんなクッションはこの廃ビルに無かったはずだ。つまり、このためにどこからかわざわざ持ってきたわけで、
「……ムカつく」
自分にしか聞こえない声量で吐き捨てる。
本を丁寧に扱う人。これは、本好きにとって『良い人』の最低条件だ。これが出来ない人と、関係を築くつもりなど毛頭ない。
リュウジン・ライは優しくないが、『良い人』である可能性がある。それが、無性に苛立つのだ。自分でも訳が分からないが。
「はぁ……」
風穴から風が入り込み、廃ビル内に溜まったアレコレを、夜特有のひんやりした空気でかき混ぜる。マユイだけでなく、ビルまでもがため息をついているのだろうか。
だが、マユイは知っている。ため息は、動き出した物語を止めるパーツにはなり得ない。




