1-1 『I.W.』
「では、連絡は以上です。皆さん、また明日」
担任教師の淡々とした挨拶を意識の隅で微かに拾い、顔は固定したまま視線だけ向ける。途端、視界には色が広がり、世界はモノクロになる。
下校前の諸連絡の時間がたった今まで行われており、眼前で教師が延々と話し続けていたわけだが、彼女――ユキシロ・マユイは意に介すことなく聞き流していた。
いや、『聞き流していた』という表現は些か不適切、不誠実だろう。マユイは最前列の席、教卓および教師の真正面に座っているにもかかわらず、堂々と悪びれる様子もなく持参の本を開き、頬杖をつきながら読書を行っていたのだ。それも、10分間丸々ずっと。
話している内容を聴こうとする気などまるで皆無、実際、終了時の挨拶とチャイムが辛うじて聞こえた程度だ。これはもはや、『聞き弾く』という新しい動作ではないだろうか。誇って言うことではないのだが。
だが――非常に勝手な言い分であることは理解しているが、仕方ないことなのだと主張したい。
だって、そうだろう。わざわざ設けられているこの『必要・重要事項の共有』を目的とした時間において、今このタイミングで知らなければならない情報が提供されたことなど、一度たりとも無いのだ。
さらに言うならば、本当に大切な内容であれば、掲示板に告知があったり、隙間時間に事前に共有がなされて生徒間でも既に広まっていたりと、全員の時間を10分間も拘束してまで伝えずとも事足りるものだ。
諸連絡の場を毎日必ず設けることは不要ではないか、というのがマユイの結論だ。
しかしながら、人間には――あるいは生物全般なのかもしれないが――『慣れる』という素晴らしい機能がある。無意味で退屈な時間であっても、毎週5日を何年も続ければ何も感じなくなる。
もしくは、無視という解決手段と、読書という代替行為を得たためだろうか。真面目に聞かねば、という義務感と同調圧力に屈していた小学生の頃は煩わしいことこの上なかったが、今で不満こそあれどわざわざ廃止を望んだりはしない。そこまでする、意味がない。
世の中、大抵のことは覆そうと決起、奮闘したところでそう易々とは通らない。
人間、とりわけ日本人は、積極的に物事を変えようとする勢力を好まない傾向があるように思う。改善、変革、良い方向に持っていこうとすれば、膨大なリソースを消耗する。体力気力、時間に金銭、考えるだけでうんざりだ。
環境を変えるのではなく、自身が変わるのでもなく、変わったように見せかけて適応する。これが、最も効率的で無難だ。
こう、自身の価値観を言語化してみると捻くれていると実感するが、きっと似たような考えを抱いている者はマユイ以外にも数多くいるはずだ。
現に、周囲の他生徒だって、諸連絡や世間話、ありきたりな有難い御話の数々を真面目に聴いてなどいない。机に突っ伏してスヤスヤと寝息を立てたり、窓の外を退屈そうな顔で眺めたり、友人同士で外野には訳の分からない内容を教師よりも大声で喋り続けている輩すらいる。
直接確認したわけではないが、昨日も今日も、同様の光景が広がっていたであろうことは容易に想像がつく。そして多分、明日も明後日も全く一緒。まったく、本来の意義を完全に失った無意味な時間がなぜ存在するのか、甚だ疑問だ。
校則のために付けているヘアゴムを弄りながら、ここまでのぼんやりとした思考を意識的に意識の端へと掃き捨てる。放課後となった今、教室に残る理由はもうないのだが、まだ少し読書のキリが悪いのだ。
小さく「ふっ」と、自分にだけ聞こえる音とともに息を吐く。ルーティーンというほどではないが、マユイなりのいつもの準備だ。
改めて、本の文章、物語の世界へと没入し直――
「――えっとー、雪代さん、どこかな」
自分の名前を呼ぶ声が近くから聞こえ、中断する。今度こそ目だけでなく顔を上げて見渡すと、直ぐ近くでキョロキョロと何か――セリフを考慮するとマユイだろう――を探す様子の女子生徒がいた。
同級生のことはあまり興味が無いので覚えていないことが多いが、この女子生徒、倉橋さんは記憶にある。確か、新学期最初に隣の席で、幾らか会話したはずだ。そこにいるだけで眩しい光が満ちるような、完全に陽に振れ切った、マユイとは対極の存在だ。
どこぞの社長令嬢だとか聞いたことがある。気がする。多分。
にしても、すぐ目の前とは言わないが、明らかに視界に入る距離と位置関係で探されると、少し悲しく感じてしまう。「もう帰っちゃったのかな…」などと呟いているようだが、彼女は意地悪で見えないフリをするような人物ではないと知っている。
単にマユイの影が薄いだけだろう。とはいえ、自分の席で堂々と本を読んでいるのだが。
「ここだよ、倉橋さん」
このままだと、本当に気付かれることなく帰ってしまいそうなので、こちらから声をかける。
「あ、居た!良かったぁ、これ今日中に渡しといたほうが良いと思って、探してたんだ!」
安心した表情と明るい声で、一枚のプリントを手渡してくる。見ると、先日提出した英作文の返却のようだ。
「ありがとう。わざわざ取ってきてくれたの?」
「ううん、教卓にあっただけだよ。赤ペンで添削したから修正版を明日提出しなさいって、先生さっき言ってたんだ。ふと見たら、雪代さんのだけ残ってたから…」
なるほど、連絡事項をガン無視するとこういうことも稀に起きるようだ。今後は多少、話を聞くようにしようか。
それにしても、相変わらず彼女は誰にでも優しい。クラス替え初日に「友達になろうよ!」と正面切って伝えてきた彼女を、不要だとバッサリ切り捨てたというのに。そもそも、いったい何を血迷ってこんな面白味の欠片もない人間と友人になろうと思ったのだろうか。
聞いてみたい、そんな欲求がふと湧き上がった。が、それを無視する。知ってどうなる。
「あ、そういえばさ、そういえばさ……何か、悩みとかあるなら聞くからね?」
「どうしたの、藪から棒に。そんな思い悩んでる風に見える?ああでも、確かに悩んではいるね。この面倒なプリントをうっかり失くしてしまうかどうか」
「課題はやらなきゃだよ!?じゃなくて!」
先ほど自ら手渡したプリントを素早く引ったくり、そこに書かれた文章を作者であるマユイ本人に見せ付けてくる。さながら、証拠を突きつける名探偵のような勢いだ。
「ほらこれ!手に取った時に見えちゃったんだけど、なんか、重いというか寂しそうに感じたというか……」
そう捲し立てながら指し示す一文に、当然ながら見覚えがある。
――『Life is intrinsically worthless.』
なるほど、これを目にして精神状態を心配したわけだ。普通ならスルーするか、そっと距離を置こうと心に留めるところを、善意の塊である倉橋さんはストレートに訪ねてきたのだ。
面倒だ。実際、かなり拗らせている自覚はあるが、解決すべきような問題があるわけでもない。十数年というまだ短い人生で培った拙い価値観とその背景事情を説明することは可能ではある。が、面倒にもほどがあるし、そんなことをする理由なんて無い。
マユイにとって、『面倒くさい』は何よりも優先される。
「あー、確かにこんなこと書いたね。別に深い意味なんてないよ、何も悩んでなんかいないし」
「……ほんとぉ?」
「ホントホント。そんなことより、ほら、そこで誰か待ってるみたいだよ」
ヘアゴムで手を遊ばせながらはぐらかしつつ、教室の後ろの入口付近へ彼女の意識を誘導する。そこには、倉橋さんと放課後によく遊びに行っているクラスメイトの女子が数人、こちらの様子を伺いつつ談笑していた。
倉橋さんも、さっきから視線があちらへと泳いでいた。マユイが彼女らと接点がないことも踏まえて、間違いなく倉橋さん待ちだ。
「あんまりお友達を待たせると、悪いんじゃない?」
「んー、分かった、今日は帰るね。でも――」
マユイの言葉に従い、予想以上にあっさりと引いていく。待たせている友人たちの方へ向かいながら、しかし一瞬振り返り、言葉を続ける。
「――本当に何か悩み事がある時は、いつでも相談してね。友達だもん!」
満面の笑みで言い放ち、そのまま去っていく。「遅くなってごめーん!」という倉橋さんの声に、「誰と話してたの?」と答える言葉が聞こえ、次第に遠ざかる。
いや、『誰』はおかしいでしょう。がっつり見てたでしょあなたたち。一応クラスメイトですよ?
改めて自身の存在感の無さを自覚させられたが、それ以上に――
「友達、ねぇ……断ったはずなんだけどな」
そんなことを独り呟きながら、結局キリの悪いままの本を鞄に丁寧に仕舞い、帰り支度をする。まだ校内だが、関係ないやとヘアゴムを外し、長くも短くもない髪の毛を解放してやる。
誰にも声をかけたりはしない。かけられることもない。物足りなさはあれどそれが心地いい、いつもの光景を背に教室を後にした。
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ユキシロ・マユイは、人間である。
――より詳細なプロフィールを欲するのであれば、平成末期生まれの18歳女性、日本生まれ日本育ちの平和ボケした一般市民だ。
以上。
――まだ足りないというならば、髪型や私服などの外見的特徴、交友関係や趣味などについて語ることは可能である。可能ではあるのだが。
「知りたいってなら、話す分にはいいよ。けど、それって意味ある?」
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