プロローグ 『アンカーランナー』
走る。走る、走る。
今この瞬間、自分の持てる力の全てを費やして、全速前進する。
黒に支配された世界、前も左右も、上も下も、視界に映るその全てが余すことなく黒一色で入念に埋め尽くされた無限回廊、足と共に交互に忙しなく前へと振り続ける腕が、指先から闇の一部と溶け合ってすっと消えてしまいそうな錯覚に眩暈すら覚えてくる。後方も同様なのだろうが、決して振り返ることはしないため、確かめる術はない。
でも、それはさして重要なことではない。今、唯一にして最も優先すべき事項はただ一つ。一刻も早く辿り着く。それだけだ。それだけではないが、今はいい。先のことは、その時に考えればいい。
駆ける。駆ける、駆ける。
靴底を通じて床を力強く蹴り、脚力を推進力へと変換する、その繰り返し。これほどまでに一歩一歩に全身全霊を込めたことなど無い。同様に、金輪際無いだろう。これが最初で最後、この疾走の結末で全てが決まる。全てが変わるのかは知らない。分からない。
たとえ変わるのだとしても、何がどう変わり何を意味するのかなど、私に分かるわけがない。
天才的なその頭脳の内側に理想を描き、その道筋を辿って未来へと到達すべく前代未聞の死闘を繰り広げている者、彼にしか分からない。
本気なら出来の悪い冗句だと誰もが笑い飛ばすような、いっそ吐き気すら覚えるほど甘ったるい理想論。その実現への第一歩だ。たったの一歩のために、いったいどれだけの犠牲を払っただろうか。
無意識に次々と浮かび上がる益体のない思考、くだらない日々の思い出を片っ端から脳の奥底へと押し込み、しまい込み、少なくとも一日くらいは出てこないようにと乱雑に封じ込める。
思い出すと、立ち止まってしまいそうになる。声を上げて涙を流し、悲哀の底に沈んでしまいたくなってしまう。分かっていても、こぼれる、溢れ出す、浮かんでくるのを自分の頭なのに止めることができない。
未来を目指す身体が、過去を引きずる重い感情に追いつかれる。途端、見えない鎖が絡まったかの如く足がもつれ、バランスを崩す。だが――、
――■■……■……!
最も暗く冷たい記憶が、感情の海底から飛び出してくる。
――■■は……■■な■■……■…!
思い出したくもない、だが脳に焼き付いて消えない情景が、停滞を許さない。
――■■を、■む
忘れてはならない声が、後悔という毒で心を蝕み、それ以上にあの日の覚悟と誓いを思い出させ、燻りかけた心に火を灯す。
いつだって現実は想像をあざ笑いながら飛躍し、希望はいつしか絶望へと堕ちる。それでも、変えたい現実がある。捨てられない希望がある。だから、転んでなんかいられない。躓くことも、減速さえ許されない。
走馬灯を想起させるほど刹那的で膨大な回想、それを全て振り払い、強引に身体を立て直し、全く安心できない純黒の中を貫き続ける。
走る。走る、走る、猛然と走る。放たれた矢の如く風を切り、感傷も希望も、全部全部まとめて炎に焚べて――
反転、世界は白に包まれた。
空気にまで着色されているのではないかと思えた黒景色は見る影もない。これ以上は存在しないと主張せんばかりの、極められた完璧な純白。無数の『白色』の中から選び抜かれた、何物も混じる余地のない孤高の白。それが、見渡す限りの全てを塗りつぶし、虚無を成している。
――ただ一つを除いて
酷使して、しかし一切の疲労が無い足をようやく止め、あまりにも目立つその『例外』に目を向ける。
途端に、全身、全心に例えようのない重みが生じる。物理的なものではない、プレッシャーと言い換えられる類のものだ。
『それ』は、在るだけだ。だけなのに、かつてない威圧感を放っている。当然だ。そこに在るのは、『■■』なのだから。
だが、怯みはしない。畏怖も恐怖も不要だ。リラックスは過言だが、落ち着いてすらいる。
いつだって私の周りには、圧倒的な強さ、理不尽な力、磨き上げられた精神の持ち主しかいなかった。真っ向勝負を挑めばきっと、その誰にも勝てない。だから、『■■』がどれだけ強いとしても、それはいつものことだ。
憂うべきは自分ではない。恐れることなど何もない。
私は今、紡がれてきた命の道の終点にいる。




