1-EX 『幕間劇Ⅰ ~日常的非日常の終わり~』
――ゴミ箱の中でだけ、夢を見られた。
砂埃の立つ街の中、道端に設置された鉄製の汚れたゴミ箱に身体ごと突っ込み、廃棄物を選りすぐっている者がいた。男か女かの区別もつかないが、便宜上『男』として扱おう。
男、そう表現するのも憚られるのは、彼が幼児だからであろう。齢は5か6といったところか、少なくとも就学するに値しない幼さであることは一目瞭然。
本来は周囲の大人や社会制度に守られるべきか弱い存在が、服と呼ぶにはあまりにも頼りない襤褸切れを纏い、最後に水を浴びたのがいつだかも見当が付かないほど濃い悪臭を放ち、雨風を凌げないばかりか観衆の目に晒される路上で生活する。
先進国に生きる者にしてみれば異常でしかないこの光景も、"この国"では日常である。
巨万の富の山頂に寝そべり人々の羨望と恭順を一身に浴びるごく少数の者と、その山を支える以外に日々を生きる術を知らずにただ労働力として消費されるだけのその他大勢。
外野という神の視点から俯瞰すれば滑稽とすら思えるこの構図からさえもあぶれているのが、ピラミッド最下層の世帯から生まれた子供だ。
家計の足しにする労働力として数えられ、食い扶持以上の収入を要求されている幼児も数多い。あるいは、ストレス解消の捌け口として暴力の矛先にされるケースも少なからず。
今回スポットライトを当てるのは、計画性の欠片も無い妊娠で生誕したことで捨てられた、スラム街を根城とするストリートチルドレンの方だ。
幸運であれば、孤児院のような場所に拾われることもある。そうでなくとも、同じ孤児の共同生活の輪に加わることが出来たならば十分以上。大人の力も生き抜く仲間も得られなかったならば、基本は死ぬ。乳幼児が自らの空腹を満たせる道理は無い。
男が育った環境は、不幸中の幸いと幸福中の不運が混在していた。
生後1日と経たない乳飲み子であった男を、無情にも両親は路上に置き去りにした。刃物で刺すでもなく、己が腕で首を絞めるでもなく、ただ地面に下ろすという単純な動作一つで我が子を殺そうとした。
そのまま短い人生が終わりを迎えなかったのは、スーツを着た大人に拾われたからだ。
スーツを着た大人は、奴隷商人だった。男と似た境遇の孤児や捨て子を集めたり、貧相な身なりの子を攫ったりして商品にして金を稼ぐ、とても悪い大人。
そんな悪い大人であっても、男にとっては救いだったと言える。どれだけ醜悪な性格の持ち主で、劣悪な環境を用意しようと、命を保証してくれる存在なのだから、保護者とすら呼べる。
育成施設での生活は、"この国"を基準に述べるならば、一概に酷いものとはいえなかった。商品たちは皆番号で管理され、毎日運動や作法の勉強などをさせられこそしたが、日に三度の食事と温かい寝床が必ず用意されているというだけでも十分すぎるほど贅沢だった。
男は、自分が恵まれているのであろうと認識していた。しかし同時に、その生活にどういうわけか生理的な嫌悪感を抱いていた。
だから、逃げ出した。スーツの大人による対面の健康チェックの際、隠し持った刃物で惨殺した。
逃げ出して一人になった男は、しかし、独りで生きる術を知らなかった。
スーツの大人は複数いる。捕まらないように、すぐ遠くへと移動した。施設は辺境の農村にあったから、都市部を目指した。
露店から食料と飲み水を奪い取り、怒号を背に都市を抜け。森林の獣道に駆け込み、獰猛な野生生物の目を掻い潜りつつ川を渡り。干乾びそうになりながらも荒野を越えて、目指した地へ辿り着く。
美しく発展した都市の中心部に、汚い無価値なドブネズミの居場所はなかった。
男は、礼儀作法がなっていないのが駄目だったのだと考えた。施設で叩き込まれた作法を以て、仕事を得ようとした。
怪訝な顔で蹴り飛ばされた。失敗した。
男は、身なりが整っていないのが駄目だったのだと考えた。先の安定のためと、少ない手銭を食い物ではなく水浴びと衣服のために使った。
軽くあしらわれたが、殴られはしなかった。失敗、だが進歩はあったと感じた。
男は、言葉が通じないのが駄目だったのだと考えた。教えられたわずかな知識を基に、独力で国の母語を会得した。
言葉を交わしたことで、はっきりと理解させられた。ただ疎まれるばかりのその理由が。
――男は、誰からも必要とされていなかった。
礼儀作法も、身なりも、言葉も、全てどうでもよくて。強いて駄目なところを挙げるならば、男が男であることで。男が存在しているのが駄目で。
都市のすぐ近くに巨大なスラム街がなければ、男は絶望と諦観の底で命を絶っていただろう。茫然自失の中で当ても無く彷徨い、ようやく安寧の地に辿り着いたのだ。
ここでは、無法であることだけが法だった。
奪うために強くあれ。奪われないために賢くあれ。生き残った者が尊ばれ、飢餓の地獄を味わう敗者はいれど勝者など無い。
この場所では、誰もが皆等しく無価値。男が男であることを理由に、スタートラインにすら立てないなんてことはない。
自分らしく生きていけると、ここから人生を始められるのだと、男は思った。
――男は、誰からも必要とされなかった。
動物にしては悪辣で、人間にしては理性に乏しいゴミ屑であっても、生存という目的のためならば徒党を組み、群れを成すことができる。どんな場所にだって、相応のコミュニティというものが存在するのだ。
男は、その輪からも弾かれた。
理由は単純、コミュニティの中心人物にして、スラムの区画の一つを取り仕切っていた屈強な青年を殺したからだ。新入りに対して力の差を見せつけようと襲い掛かってきたため、返り討ちにした。
屈強な青年は男を格下と侮り、油断した。男は、自分の身を守るために抗った。その結果、異端者に成り果てた。
屈強な青年は、支配区域に滞在する者から”ゼイの徴収”と称して金銭や食料を巻き上げていた。
奪うことしかせず、奪われる側になり得ない強者。そこに住まう人々を苦しめる極悪人。そんな人物なら、保身の域を超えて殺してしまっても構わないと思った。人々は喜び、男に感謝してくれると思った。
得られたのは、罵声と非難、恐怖の眼差しだった。
男は、憎んだ。何かを憎んだ。何を憎めば良いのか分からぬまま、やり切れない憎悪を胸に抱えた。
どこへ行っても、男は認められない。水が高きから低きへと流れるかの如く、そうなるのが当然で自然だと言わんばかりに、独りになる。何者かが、そうなるように仕組んでいるとしか思えなかった。
その正体が、男には理解できなかった。
また新天地を目指そうとも考えた。だが、留まった。どうせ、どこへ行ったところで孤独を脱却することなどできないのだから。
スラム街での生活は、満たされないことを除けば悪くは無かった。
男には、屈強な体躯は無くとも、小手先の技術を応用することに長けていた。積極的に他者から奪うことはせず、食い扶持は正々堂々と稼ぐ。しかし、奪おうと襲い掛かる者には容赦せず、正攻法を避けて狡猾に返り討ちにする。
飢え苦しんで死ぬ者も少なくない中、2年近くを生き抜いた男はそれでも飢えていた。腹ではなく、心が飢えていた。
――男は、自分自身を必要と思えなくなった。
誰の役にも立てない自分が嫌いになった。誰にも必要とされないならば存在する意味がないと思った。無価値であると、そう断じた。無意味であると、そう定義した。
だから、だろうか。街を彷徨い、ゴミ捨て場を漁る時だけは安らぎを得られた。まるで居場所のように感じられて。
男も、この場所に捨てられているのがお似合いだ。そう思いながら、ゴミ箱の蓋を開け、手を突っ込む。
生臭い悪臭が肺を冒す不快感も、ぐちゃぐちゃになった廃棄物の醜い見た目が視神経を刺激する嫌悪感も、数十年来の友人のように気安く受け入れられる。
聞くに堪えない音でかき混ぜながら、有用なものが何もないことを確認し、スペースを作って。
身体を、ゴミ箱の中へと突っ込む。未熟な身体を無理やりねじ込む。
すっぽり全身が汚い円柱の箱に収まる。通行人がいれば、直視しようとせず目を逸らすであろう光景。しかし、男にはこれが必要なのだ。
こうして自分をゴミに見立てている間だけ、現実から目を背けることが出来る。
――ゴミ箱の中でだけ、夢を見られる。
内側から蓋を閉め、引き籠る。男を苦しめるナニカから逃れるように、暗闇に身を委ねる。
周囲に満ちる汚物は、男の目には違って映る。誰かの役に立ったモノの残骸、役目を果たした証。それは、宝物も同然だ。
そんな偽りの世界、偽りの宝物庫で男はうつらうつらとゆっくり腐っていき――
「随分、つまらない選択をするものだ」
外界から訪れる声と衝撃、ニセモノの世界が傾いて中にいた男も転倒、弾みで外へ放り出される。思いの外長い時間が経過していたのか、日の光に瞼が灼かれて上手く開けない。
目と体の痛みに悶えることしか出来ない男に、ふと影が覆いかぶさる。
身なりの良い長身の人物が立っていた。顔立ちからして異国からの訪人だろう。
「そう睨まないでほしいね。私は、君に贈り物を渡しに来たんだ」
抑揚の無い声に、感情の見えない表情。スラム街では見たことの無いような掴み所の無い人物だ。
「………………」
「うん?この国の母語は通じると聞いてきたんだがね。私の言葉が分かるかな?」
男は、目の前の人物の言葉を理解していた。だが、動けなかった。口を開けなかった。相手は外見通り流麗な所作で、丁寧に接していた。だというのに、男の生存本能が危険信号を発していた。
「なるほど、私を恐れているか。見込み通りだ」
「――――」
「そうとも、君が欲するものをあげようと思ってね」
そう言いながら、ゴミの山の中に倒れ込んでいる男に手を差し伸べる。高級そうな服が汚れるのも気にせず、地に膝を付けながら。
「――何もないなら、私が与えよう。君だけの、君にしかできない役割を」
「――――」
手を取り、立ち上がる。その瞬間。
「――――」
「これで分かっただろう。君を妨げていたものの正体が」
体中に、何か凄まじいものが響いていく。流れていく。弾けていく。呑まれそうになる中で、声を聴き、答えを得る。
――運命だ。
男を孤独に陥れてきたもの、敵の正体は”運命”だ。そして今、たった今、この瞬間、その運命が変わった。
男は、運命に翻弄され奪われ苦しめられ施され絶望させられる側を脱した。
男は、運命を書き換える権利を手に入れた。
――ゴミの中でなくとも、夢を見られるだろうか。
男は、産声を上げた。世界への怨嗟と愛を載せて。
␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣
これで、ようやく始められる。世界を舞台にした、劇の準備が整った。
まだまだ役者が足りないな。もっと探さねば、掘り出し物はそう易々と見つからないものだ。
せっかくなんだ、最高のフィナーレにしよう。
「ああ、楽しくなってきた――なんて、言わせてくれたまえ」




