1-10 『※今、ここに』
揺蕩う。漂う。
セカイの一部として。あるいは、セカイから外れた部品として。
自他の境界を喪失し、一個体としての存在権利を放棄する寸前。自分が生物か物体か、判別できなくなるほどに、自我、意識、心、精神、そういった自己を支える重要なナニカが希薄になる感覚。
恐怖に類似するような感情は、一切湧き立たない。ただ心地よかった。ひたすらに、良い気分だった。
思考すら霧に呑まれ、天地も左右も不覚となる。暗闇も明光も無き迷宮にて、果てを待つだけの虚無。肉体も、意思も、感情も、␣␣␣を構成する何もかもが霧散してセカイへと還元されていく。
夢幻なるその不可視領域に、あるはずのない音が轟いた。聴覚など機能しないこの場所に、だ。どんな生物であっても、あるいは非生命体ですらも、その声から意識を逸らすことなど出来ようはずもない。
なぜなら、その咆哮の主は生物万物の頂点たる存在――竜の神だ。
ただそこに在るだけで、何者も何物も、彼を見る。彼を聴く。彼を感じる。意識の端から端までが引き付けられ、畏怖の念を抱かざるを得ない。
それを誇張表現であると笑い飛ばせないのは、リュウジン・ライに接したことの無い者だけだ。それだけの存在感が、あの竜にはある。
威風堂々、竜の覇気に中てられた␣␣␣に生じたものは、畏怖でも恐怖でも、呆れや放心ですらなかった。
――言い知れぬ嫌悪感。
筆舌に尽くせないそれを核として、消えかけていた␣ユ␣の魂が再構成されていく。
嫌悪感、疑問、諦観、微々たる安堵。感情と記憶が大気から抽出され、空の容器へと戻っていく。
それだけでは再び飛散しかねないそれを押さえなければ。そういった危機感が働き、容器を押さえつけ、蓋をしようとする意思を取り戻す。
中身があれど、ただの容器では意味を為さない。感情を、意思を、セカイに向けて露わにするために肉体を欲する。心臓膵臓肝臓肺腎臓脾臓大腸小腸胃食道脳血管神経足腰胴胸腕指頸頭鼻耳口目全て全て全て生成し再生し再構築し虚無の世界から強奪奪取。
画竜点睛、その果てに␣ユイは最後の仕上げをする。
――ユキシロ・マユイは一応、存在する。
暫定的な自己定義を行い、自己を確立する。自己を創り上げる。
「私は今、ここにいるらしい。取り敢えず、だけど」
␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣ ␣
肩を借りながら扉をくぐる。腰を据えて話を進めるのに、薄暗く冷たいビルは不適当だろうということで移動中。
相変わらず発生源の不明な人工の光がやけに眩しく感じられ、目を細める。細める目があること、眩しく感じられる視神経が機能していることを、実感する。
体格の小さいマユイを支えているのは、桃色の長髪を揺らす少女。151cmしかないマユイほどではないにしろ、彼女もこの場のメンバーの中では比較的背が低く、体格差を考慮するなら適任だったのだろう。
そのおかげで、どうにか歩くことが出来ている。
体は鉛どころか大型トラックの如く重苦しく感じられ、一歩、足を前に出す動作さえうまく力が入らない。吐息とともに体内のエネルギーが排出されていくような錯覚に、眩暈すら覚える。
皮膚の全面、内臓の一つ一つ、神経の末端から末端まで全身に痛みが走り続ける。太陽の炎に焼かれているような、高圧電流の通り道にされているような、拷問というワードが浮かぶ激痛に苛まれ、肉体操作の妨害が煩わしいことこの上ない。
それもそうだろう。肉体が細胞単位、原子単位に分解された後に、パズルのように再結成されたような認識なのだ。実際はそんなことないのだろうが、異様な過程を経たことは間違いないだろう。
この程度で済んでマシだったのかもしれない。
「も~、無茶しすぎだよ~マユちゃん!でもスゴいじゃん!」
「なんか、やってみたら出来たんだよね。暴走しちゃったっぽいけど」
「一人で椅子座れそ?」
「座ってるくらいなら、たぶん」
ゆっくり、大きな円卓へと戻ってくる。色の抜けたような真っ白な色が、先ほど自己を喪失して消えかけたマユイ自身と重なって見え、なんだか親近感が湧いてきた気がしないでもない。なんてことは置いといて、だ。
未だややぼんやりとする眼でゆっくりと周囲を見渡せば、全員お揃いである。元々残っていた根明兄妹やウサギ面の少女は当然として、緊急事態を察して助けに入ったのであろうリュウジン・ライ、潜伏するマユイを捜索する役を担っていた緋色のローブたちも戻ってきている。
それはすなわち。
「入団テスト……かくれんぼ大会とやらの結果は、どういう判定になるのよ」
全員戻ってきたならば、それは試験の終了を意味する。終わったならばその場で結果が発表されるのが普通、まさか選考待ちなど必要ないだろう。選考基準はひどく単純なのだから。
マユイ自身は、選考基準――『10分間の逃げ切り』を達成したのかどうかを知らない。体感時間7~8分経過くらいで、暴走してしまったためだ。そもそも、危険な状態に陥って外部から救出されたのだから、論外の失格を言い渡される可能性も否めない。
深く、息をつく。梅雨独特の香りがしない空気を、肺いっぱい吸い込む。
呼吸というなんの変哲もない行為が、マユイという個がセカイに繋ぎ留められていることの証明のように感じられ、僅かながら安堵をもたらしてくれる。
その安心感は同時に、どこか猛毒のようにマユイを蝕んでいるようにも思えて。
「そ~んな辛気臭い顔しなくても大丈夫だって~!この場の全員、マユちゃんを認めてるよ!絶対!きっと!たぶん!」
「そんな顔してる人間を、軽々と認めて大丈夫?セキュリティ緩くない?」
今日この日、マユイはセカイの異常性を思い知った。自分の知らないところで、人外たちがしのぎを削って夢を見ているのだと。
今日この日、マユイは自分の異常性を思い知らされた。その力は人外の目を欺き、竜の知覚から逃れ、マユイ自身すら消しかけた。
それを理解し反芻したうえで、マユイの自己評価は揺るがない。
すなわち無知。すなわち無力。故に、無価値。悲観でも厭世でもない。強いて言うならば諦観だ。人間なのだから、こんなものだという。
「そう言うなよぉ。勝負は真結の勝ちだってぇ僕は思うぜぇ?9分半で中断だけぇど、これぁ大金星だろぉよ」
「そうですわねぇ。私、とっても楽しませていただきましたの」
眠たげな眼の青年はケケケと笑い飛ばし、おっとりとしたお姉さんは花畑で歌でも歌っているような笑顔を見せる。それが部屋の明かりよりも眩しく感じられ、目を背ける。
楽しめたから、何だというのだろうか。9分半経過時点でリュウジン・ライが助けに入ったというのなら、勝利条件の10分を満たしていないではないか。
設定された目標を達成できていないのならば、それまでの全ては無意味に帰す。過程が大事なのだ、などという感情論がありがちだが、そんなものは虚言に過ぎない。合格点に達していない受験生を過程評価で採点する大学がどこにある。
「ボ、ボクはやっぱりあまり乗り気じゃ……あっ、ご、ごめん、真結さんの実力は理解したよ。だ、だからこれはボクの勝手なエゴだけど……関わらせたくないなって……」
「蒼雅の言も尤もだ。だが、私の目には、キミには鬱々としたこの世界で生きていくに足る胆力と精神力を持ち合わせているように見える。故に私は、キミを歓んで迎え入れたく思う、真結嬢よ」
左髪だけかき上げた少年は弱弱しく、しかし確かにマユイを心配する姿勢を貫き、赤ローブの長身男はその懸念に同意しながらもマユイの中に強さを垣間見る。
とんだ買い被りだ。心配も、称賛も、受け取るに見合った人間ではないというのに。マユイは自分に、その価値を見出せない。
「言ったでしょう?私は自分のためにあなたたちを利用して、あなたたちは目的のために私を利用する。このウィンウィンを維持するための道具として、命を担保にするだけ」
どれだけ学ぼうと、全てを知ることはできない。
どれだけ強かろうと、万事独力では成し得ない。
ならば人命の価値は、等しく無ではないか。マユイは命の平等性を尊重する。そして、価値観を他者に押し付けるような趣味はないので、これはマユイ本人のみに適用される。
マユイは、マユイを無価値と断じる。
「だが俺たちは、お前に価値を見た。それは他でもない、お前自身の行動がもたらした結果だ。お前の自己認識を否定はしないが、それだけは努々忘れるな」
「……できるだけ覚えておく」
「それから」
マユイに向き直っていた身体の向きを反転させ、竜は仲間たちに問う。
「決を採るまでも無いと思うが、入団テストの結果を正式に聞こうか。どうだ、お前ら?」
「ケケ、こんだけ無様な姿晒しといてぇ、今更反対するヤツなんかいないだろぉね」
「オレ様っちはハナから分かってたってのによ~。本ッ当、センパイ方は強ぇのにお頭ガッチガチなんだから~」
底抜けに明るい金髪サングラスの生意気な声に、しかしセンパイに該当する者たちも含めて笑みが浮かぶ。リュウジン・ライは不愛想にも無表情を貫いているが。
この光景を見ていると、ありふれた部活だとかサークルのような集まりと錯覚してしまいそうになる。竜の巣は、もっと殺伐とした場所だと思っていた。
「改めて、『竜の巣』は全会一致でお前を歓迎しよう。まあ、なんだ。軽く自己紹介でもしとけ」
目が向けられる。竜を構成する者たちの目、その瞳孔にマユイの姿が映りこむのを見る。それは、少なくとも物質的にマユイが存在することを保証してくれるもので。
誰とも目を合わせなければ、得られないモノ。さして重要でも何でもないけれど。
「――初めまして、じゃないね。私は、『竜の影』ユキシロ・マユイ。覚悟も信念も無いけれど、ささやかな目標は多分ある」
たった、8人。二桁にも届かない人数でこそあるが、これほどの人数から同時に注目を浴びることなどいつ以来だろうか。記憶に無い。学校でも、人外の精鋭チームすら翻弄した影の薄さを無意識に遺憾なく発揮し、観衆の目に晒されることは無かった。
慣れない。今後慣れる気もしない。でも、悪い気分じゃない。
自分の価値も意味も、まだよく分からない。それを見つけたいと思う段階にも未だ無いし、自身の存在を認めたことすらも一時的なものだと認識している。
だが、自分で宣言し、確かに心に抱いた気持ちもある。
――この場所の一員になってみたい。
――この場所で、ユキシロ・マユイという存在を探してみたい。
きっと現実は、憧れていた物語のようには美しくない。それでいい。それくらいが、マユイには丁度いい。あんまり周りが華やかだと、むしろ浮いて目立ってしまうではないか。
マユイは影。目立たないことが仕事だ。
「私に価値を見出してくれるなら、出来る限りをやってみたい。これから、よろしく」
上手く言葉が出てこず、捻り出すことすら放棄したテキトーな文面ではあったが、数名の拍手と温かな視線で迎え入れられる。
自己を持たない者が自己を紹介するという、なんとも滑稽な一幕であった。だが。
――今、ここに在る。
そういった意識を、ほんの僅かに感じられた気がする。ほんの、注釈程度でしかないが。
「よろしくな、『竜の影』マユイ。そして、ようこそ。――人外の宴、『竜の巣』へ」
無表情な、しかしどこか綻んだような印象を受ける嫌いな竜が、手を差し出した。
ムードメーカーな桃髪の少女と革ジャンの男が大騒ぎし、物腰柔らかなお姉さんがにっこりと笑う。円卓に寝転んだ青年はゆったりと拍手をし、緋色ローブとハーフバックの少年は静かに見守る。
仮面の巫女服少女がいつの間にか、どこからか人数分のグラスと飲み物を持ち出し、慣れた手付きで配っていく。全員に行き渡ったのを見届けた竜が、咆哮する。
「今日の出逢いに、来る理想の未来に、乾杯」
カンッ!という気持ちの良い音が、だだっ広い部屋に響いた。
「ほらほらマユちゃんも~!乾杯!」
「はいはい、乾杯。ところでこれ、何?柑橘系の匂いがするけど」
「こちら、勝手ながら用意させていただいたハーブティーです」
「いつもありがとね……って、トマちゃん飲んでないじゃん!?」
「いえ、私は――」
「今はそ~ゆ~の禁止!いいから飲も!トマちゃんも『竜の巣』の一員なんだから!」
「――承知致しました。恐縮ですが真結様、私ともグラスを合わせてくれませんか?」
「もちろん。はい、乾杯」
「はい、けーぴーです」
「……乾杯を『KP』って呼ぶの、もう古いんじゃなかったっけ」
「え!?そうなの~!?」
「いや私も全然知らないけど。知り合い……元隣人?にその辺詳しい人がいたから、なんとなく」
「ね~!おにぃのウソつき!KPってもう流行遅れなんだって~!……あれ、おにぃは?」
「一颯のヤツなら、羅衣と一緒にどっか行ったぜぇ」
「羅衣はそのまま、アメリカまで行ってくるらしいの」
「えぇ!まさかおにぃも一緒に連れてくつもりじゃないよね~?まだ安静にさせなきゃなのに!」
「さ、さすがにそれは無いんじゃない、かな」
「そうだな。羅衣は無茶こそさせど、無謀は嫌うゆえ、その心配は無い……とも言い切れんのが恐ろしい」
「マぁジでそれ。僕もそれなりに付き合い長いはずなんだがぁ、アイツの考えは読めないねぇ」
「わ~か~る~!マユちゃんが羅衣を嫌い!って言ってるのって、その辺が原因だったり?」
「んー……私自身、あんまりよく分かってないんだよね。あなたも羅衣のこと――」
「あ~ん!また名前で呼んでくれなくなっちゃった」
「ああ、ごめん。ええっと………………………………」
「あ、ごめ~ん!あたし、良い距離感ってやつ苦手で、ごめんね~!呼んでくれたら嬉しいってだけで、呼びやすいので――」
「そうじゃなくて、その」
「ごめん、名前なんだっけ。全員分、忘れた」
※ユキシロ・マユイは、どうでもいいことをすぐ忘れてしまう
※ユキシロ・マユイは、ここを大事に思いたい
※ユキシロ・マユイは今、ここに在りたい
※※成就はまだ遠いらしい
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
「マユイの育成を、お前に任せたい」
話がある、と前置きしたうえで一颯を廊下に連れ出し、開口一番そう伝える。少々面食らっていたようだが、問題ないだろう。いや、問題なくなるだろうと言った方が正しいか。
「オ、オレっちにはまだ、早いんじゃあ……それに、新人の育成は今までも羅衣が担当してきたって」
「過去は過去、今は今、状況は変化するものだ。なに、心配するな。お前が一番適任だと判断したうえでの指名だ。なにせ」
言葉を区切る。目の前の、金髪に濃いサングラス、革ジャンという形で外見を整えた年上の男。その胸中には不安が渦巻いているであろうことが、容易に想像がつく。
その混沌とした感情を多少なりとも取り除けるよう、言葉を紡ぐ。
「お前は、俺に近しい精度でマユイの位置を特定した。俺の手が塞がっている以上、今はお前に頼るしかなくてな」
羅衣――ライの言葉に瞠目、動揺を見せて逡巡する一颯。だがそれもほんの一瞬。
「――分かったぜ、任せてくれぃ、羅衣!」
力強く、言い切る。その言葉を絞り出すのに、どのような葛藤があったのか。他者の心中を勝手に推し測ろうとする悪癖を抑え込み、背を向ける。
「マユイには将来的に、潜入による情報収集を一任する予定だ。それを念頭においた鍛錬をさせておけ。具体的な内容は、お前に任せよう。質問が無ければ俺は行く」
「一つ、確認しときてぇコトがある……アレは、真結の嬢ちゃんの自己認識がトリガーになってる……ってことで合ってんだよな?」
「――そうだ」
「オ~ケ~りょーかーい!んじゃあ、後のことはぁ、このオレっちに任せとけ!」
頼もしがる声が、遠ざかる。声から、遠ざかる。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
誰もいないことを確認したのち、古びたビル――マユイと出逢ったビルの屋上へと姿を現す。
雲の無い夜、空には満月が浮かび、無造作な黒髪がなびく程度には風が吹いていた。
目指すはアメリカ、日本から約10,000km。その程度の距離、竜にとっては、ちょっとした段差を踏み越えるような感覚で移動可能。だが、それはしない。人間との交渉のテーブルに就かんとするならば、人間基準の体裁を整えねばならないというもの。
そういった礼儀を求められる面倒な相手も多い。
ふとスマホが振動し、その存在を主張する。こんなもの必要ないのだが、これも体裁のため。
着信画面を目を向け、”それ”を確認し、笑みを浮かべる。否、その表現は生温かった。
――口角を上げ、獰猛に牙を剥き出す。獲物を目前にした、竜さながらに。
その表情を見た者は、誰もいない。誰も、いなかった。
画面をタップし、着信音を停止させる。直ちに元通り、静寂が辺りを包み込み、
「―――――――」
「――ああ、俺だ」
月下、竜声が闇夜に吸い込まれた。




