第8章 ダブルB潜入
白鳥由梨が資料準備室を去ったあと、窓硝子に残っていた淡い明るさは、日没とともにゆっくり消えていった。机の上には、失踪者名簿と、透明な袋に入れられた白い招待カードが置かれている。あなたは、もう一人ではない。鏡文字のままでは読めないその言葉を、リョウはもう何度も見ていた。読めないのに、読める。反転させなくても、その意味だけが頭の奥に残っている。救いの言葉の形をした、冷たい鍵。アスカはその鍵を受け取った。自分の不安を、誰かに分けられると思った。リョウが届かなかった場所へ、あの言葉は届いてしまった。
「行く」
リョウが言うと、マナはすぐに首を振った。
「駄目よ」
「止められても行きます」
「そう言うと思ったから、先に駄目と言ったの」
「意味がないです」
「意味があるわ。あなたが今からしようとしていることが危険だと、誰かが言葉にしておく必要がある」
マナの声は低く、静かだった。資料準備室の空気は古い紙の匂いで満ちている。外では部活動の声が遠くなり、校舎は放課後から夜へ移る境目に沈もうとしていた。リョウは机の上のカードを見た。カードの表面には、先ほどまではなかった細い銀文字が浮かんでいる。旧校舎三階、空き教室。十八時十分。反転させなくても読める普通の文字だった。まるで、こちらが行くと決めるのを待っていたように。
「向こうから場所を出してきたんですよ。行けば何か分かる」
「分かる前に、持っていかれるかもしれない」
「何を」
「あなたの痛み。あなたの後悔。あなたがアスカさんを探したいと思う気持ちそのもの」
「持っていかれてでも、手がかりが欲しい」
マナの目が細くなった。怒りではない。悲しみに近い色だった。
「そういう言い方をする人が、一番危ない」
「じゃあ、他にどうすればいいんですか。アスカは消えた。電話はつながらない。学園は家庭の事情にしようとしてる。水鏡先生も、白鳥先輩も、みんな優しい顔で何も教えてくれない。ここで行かなかったら、僕は何を待てばいいんですか」
「待つことも必要よ」
「待っている間に、アスカの名前まで名簿の中で乾いていくんですか」
その言葉に、マナは黙った。リョウ自身も、言い過ぎたことは分かっていた。だが、引っ込められなかった。アスカの名前が一行の記録になった瞬間の痛みが、まだ胸の中で暴れている。彼女は記録ではない。被害者欄に書かれるべき存在ではない。彼女の席にはまだ体温の記憶があり、ノートには彼女の字が残り、リョウのスマホには彼女の名が光っている。
「マナ先輩」
ナギサが口を開いた。彼女はいつものように軽く笑おうとはしなかった。真剣な顔で、マナを見ている。
「あたしも行きます」
「ナギサ」
「止めても行きます。千尋のこともあります。さっきの白鳥先輩、千尋の言葉を知ってました。あたしが誰にも言ってないことを。あれを放っておくのは無理です」
「あなたまで危険に近づく必要はない」
「あります。あたし、もう巻き込まれてます。千尋が消えた日からずっと」
マナの表情が、ほんの少しだけ崩れた。クールな先輩の顔の奥から、後輩を本気で心配する少女の顔がのぞく。
「ナギサ。危ないと思ったら逃げなさい。私に遠慮しないで」
「それ、マナ先輩が一緒に来る前提ですよね」
「入口までは行く。でも中には入らない」
「どうして」
「私が入れば、向こうも警戒する。あなたたちだけなら、まだ参加者として扱われる可能性がある」
「それって、あたしたちを餌にするってことですか」
ナギサはわざと軽く言った。けれど、目は揺れていた。マナはその冗談に乗らなかった。
「そうよ」
あまりにまっすぐな答えに、リョウもナギサも黙った。マナは机の上の赤い栞を手に取り、名簿に挟んだ。
「だから、嫌ならやめて。私はあなたたちを安全に連れて帰れる保証がない」
「でも、行くしかない」
リョウが言うと、マナは目を伏せた。
「……そう言う人を、前にも止められなかった」
小さな声だった。誰のことか、リョウには分からない。アスカか。別の失踪者か。それともマナ自身の過去にいる誰かなのか。聞く前に、マナは顔を上げた。
「約束して。鏡を長く見ない。呼ばれても、すぐに返事をしない。自分の名前を聞かれたら、必ず自分の口で答える。相手がアスカさんや三枝さんの声を使っても、一歩目を踏み出す前に、互いの名前を呼ぶ」
「名前?」
「名前は、こちら側に戻るための杭になる」
マナはそれ以上説明しなかった。リョウは苛立つ余裕もなく、頷いた。ナギサも深く息を吸い、少しだけ笑った。
「じゃあ、先輩。合言葉決めましょう」
「この状況で?」
「大事ですよ。呼び戻す杭らしいので。あたしが変になったら、春日先輩は『椎凪ナギサ』って呼んでください。ちゃんと椎凪まで。ナギサだけだと、たぶん軽すぎます」
「分かった。ナギサも、僕が変になったら春日リョウって呼んで」
「了解です。春日リョウ先輩」
「先輩まで入れるのか」
「敬意です」
「今だけは、少し安心した」
「それはよかったです。あたしも半分くらい足が震えてます」
ナギサはそう言って、本当に少しだけ笑った。リョウも小さく息を吐いた。そのやり取りがなければ、自分の足も震えていたことに気づかなかったかもしれない。
旧校舎三階へ向かうころ、校舎の時計は十八時を少し過ぎていた。夕暮れはすでに沈み、窓の外には青黒い夜が降り始めている。本校舎の灯りはまだ明るいが、旧校舎の廊下は電灯がところどころ切れていて、奥へ進むほど光がまだらになる。床は古く、歩くたびにわずかに軋んだ。壁には剥がれかけた掲示物が残り、誰かが過去に書いた「文化祭準備室」の紙片が、セロハンテープの跡だけを残して黄ばんでいる。
マナは三階の階段前で止まった。黒い傘を手に、廊下の奥を見つめる。
「ここから先、私は少し距離を置く」
「本当に入らないんですか」
「ええ。入口の外で待つ。何かあれば、名前を呼ぶ」
「それで戻れますか」
「戻れる可能性を増やすだけ」
「いつも、断言しませんね」
「断言できることが少ないの」
リョウは黙った。マナの言葉は頼りない。だが、頼りないことを正直に言う人でもあった。すべてを知っているわけではない。知っていても言わないことがある。それでも、彼女はここにいる。逃げろと言いながら、最後のところでは背中を見張ってくれている。
「春日くん」
マナが言った。
「アスカさんの痕跡を見ても、すぐに信じないで」
「信じるなってことですか」
「違う。信じたいと思う自分を疑って」
リョウはその言葉を胸に沈めた。信じたいと思う自分。アスカの声なら、アスカの字なら、アスカが座っていた席なら、そこに本人が残っていると思いたくなる。その気持ちは、すでに自分の中にある。マナはそれを見抜いている。
「ナギサ」
「はい」
「あなたは、千尋さんを見ても走らないで」
ナギサの表情が固まった。
「……見えるんですか」
「見せてくるかもしれない」
「本人じゃないってことですか」
「分からない。だから、走らないで」
ナギサは唇を噛み、それから頷いた。明るさで自分を支えてきた少女の顔から、完全に笑みが消えていた。
二人は廊下を進んだ。空き教室の扉は、旧校舎三階のいちばん奥にあった。昨日まで黄色いテープで封鎖されていたはずの廊下には、何の痕跡もない。テープも、教師の姿も、立ち入り禁止の札も消えていた。代わりに扉の取っ手には、白い紙片が一枚挟まっている。そこには手書きで、小さくこう記されていた。
聞くだけでも、かまいません。
リョウはその文字を見た瞬間、アスカの字だと思った。丸みのある、少し右へ傾く文字。古典のノートで見慣れた筆跡。だが、すぐに違うと分かった。線の始まりが違う。払いが少し長い。丁寧すぎる。アスカの字を真似た誰かが、アスカならこう書くだろうと考えて書いたような文字だった。
「これ」
ナギサが囁いた。
「椎名先輩の字ですか」
「似てる。でも違う」
「嫌な似方ですね」
「ああ」
リョウは紙片を写真に撮った。触れずに済ませたかったが、扉を開けるには取っ手を握る必要があった。冷たい金属に手をかける。深呼吸をする。ナギサが隣で、椎凪ナギサ、と小さく呟いた。自分の名前を確かめているのだと分かった。リョウも、春日リョウ、と口の中で言った。
扉を開けると、空き教室の中は思ったより明るかった。
古い教室の蛍光灯が、すべて点いている。窓には厚いカーテンが引かれ、外の夜は見えない。机は教室の中央に円形に並べられ、その内側に椅子が置かれていた。中央には、大きな鏡がある。姿見より大きく、古い額縁に収められた全身鏡だった。教室にそんなものがあるはずはない。なのに、それは最初からそこにあったかのように、机の円の中心へ静かに立っていた。鏡面は曇りなく磨かれている。だが、そこには教室の光がはっきり映らなかった。表面の奥に、もう一枚暗い水面があるようだった。
参加者は七人いた。リョウとナギサを入れれば九人になる。白鳥由梨の姿もある。彼女は円の一角に座り、リョウたちを見ると穏やかに微笑んだ。驚いた様子はない。来ることを知っていた顔だった。他の生徒たちは学年も性別もばらばらで、見覚えのある者も、ない者もいる。みな椅子に座り、手元に小さな白いカードを置いていた。中央の鏡を囲むように、静かに待っている。
「こんばんは」
由梨が言った。
「来てくれてありがとう。ここでは、無理に話さなくていいの。聞くだけでもいい。途中で出てもいい。名前を言いたくなければ、言わなくてもいい。誰かの言葉を否定しない。笑わない。外へ持ち出さない。ここに置かれた痛みは、ここで少しだけ軽くなる。それが、私たちの約束です」
言葉は整っていた。宗教じみている、と思おうとした。だが、教室の空気は奇妙なほど穏やかだった。強制の匂いがない。脅しもない。異様な儀式めいた道具もない。ただ、悩みを抱えた生徒たちが、円になって座っている。学校の保健室よりも静かで、職員室よりも安全に見える場所。普通のカウンセリングよりも、相手の目線が近い。リョウは、それが怖かった。怪しさが分かりやすければ、拒める。だが、ここは本当に、救いの場所に見えてしまう。
「座ってください」
由梨が示したのは、円の中の二つの空席だった。リョウはそのうちの一つを見て、息が止まった。椅子の背に、小さな白いリボンが結ばれている。アスカがよく髪留めに使っていたものと似ていた。まったく同じではない。色が少し白すぎる。布の質も違う。それでも、一瞬でアスカを思い出すには十分だった。
「そこは」
リョウの声が掠れた。
「以前、椎名さんが座っていた席です」
由梨は穏やかに言った。
「座る?」
問いかけは優しかった。リョウは答えなかった。座れば、アスカに近づける気がした。同時に、アスカの代わりにそこへ収まってしまう気もした。ナギサが小さく首を振る。リョウは別の椅子を選んだ。ナギサはその隣に座った。白いリボンの椅子だけが、円の中で空いたまま残る。
会は、あまりにも静かに始まった。
最初に話したのは、一年の男子生徒だった。リョウは名前を知らない。彼は俯いたまま、家では兄と比べられること、テストの点を見られるたびに自分が欠陥品のように感じること、学校では明るく振る舞っているが、帰り道で急に消えたくなることを話した。言葉は途切れ途切れだった。誰も急かさなかった。誰も「そんなことない」と言わなかった。話し終えると、由梨が静かに頷いた。
「話してくれてありがとう」
それだけだった。けれど、その男子生徒の肩が少し下がった。張りつめていたものが、わずかに緩むのが見えた。次に、別の女子生徒が言った。
「比べられるの、苦しいよね。自分が自分でいるだけで怒られてるみたいになる」
また別の生徒が言った。
「兄弟じゃないけど、分かる。期待されるのも、期待されないのも、どっちもつらい」
誰も助言しない。誰も解決策を出さない。ただ、自分の中に似た痛みを探して、少しだけ差し出す。リョウは胸の奥がざわつくのを感じた。これは危険だ。そう思う。だが同時に、この場で救われる人がいることも分かってしまう。あの男子生徒は、少なくとも今、少し呼吸が楽になっている。それを悪だと断じることはできない。
次に話した女子生徒は、友達の輪の中にいるときだけ自分が空っぽになる、と言った。ナギサの指が膝の上で強く握られた。三枝千尋の悩みに似ていた。リョウは横目でナギサを見た。彼女は唇を結んで耐えている。由梨はその女子生徒にも同じように頷き、言った。
「ここでは、空っぽになってもいいの。私たちが少しずつ満たすから」
私たち。その言葉に、リョウの警戒が戻る。中央の鏡が、蛍光灯の光を受けて鈍く光った。鏡面には円になった参加者が映っているはずだった。だが、リョウは長く見なかった。マナに言われたことを思い出す。鏡を長く見ない。呼ばれても、すぐに返事をしない。
会が進むにつれ、リョウの前にも小さな白いカードが置かれた。誰が置いたのか分からない。気づけば机の上にあった。表には何も書かれていない。裏返すと、細い字で一文だけある。
あなたが覚えている限り、彼女はまだ遠くへ行かない。
リョウの心臓が強く鳴った。アスカのことだ。そう思った瞬間、視界の端で白いリボンの椅子が揺れた気がした。誰も座っていない。だが、そこに誰かの体温が残っているように見える。
「春日くん」
由梨が呼んだ。
「話したくなければ、話さなくていいわ。でも、あなたの痛みも、ここに置いていける」
「置いていく気はありません」
リョウは答えた。声が思ったより硬い。
「僕は、アスカを探しに来ただけです」
教室の空気がわずかに変わった。誰も驚かなかった。むしろ、その言葉を待っていたようだった。
「椎名さんは、ここに来ました」
由梨は言った。
「知ってます」
「彼女は、とても優しい人でした。自分の不安を話すときも、最初に誰かを傷つけないか心配していた。幸せなのに不安になる自分は、わがままなのではないかと、何度も言っていた」
リョウの胸が締めつけられる。アスカの声だ。昼休みの休憩所で聞いた声。幸せなのに、不安になるの。変だよね。彼女はここでも、それを話したのか。自分に言うより前に。あるいは、言ったあとに。ここで、誰かに。
「証拠は」
リョウは掠れた声で言った。
「アスカがここにいた証拠はありますか」
由梨は少しだけ悲しそうに微笑み、机の下から小さな箱を取り出した。中には、白いカードや紙片、短いメモが数枚入っている。参加者が言葉を残すための箱だという。由梨はその中から一枚を取り出し、リョウの前に置いた。
幸せなのに、不安になる。
大切な人がいるほど、消えたくないと思う。
でも、いつかその人の世界から、わたしだけが薄くなる気がする。
文字はアスカに似ていた。恐ろしいほど似ていた。丸み、行間、句読点の置き方。だが、やはり違う。アスカは「わたしだけが薄くなる」などとは書かない気がした。そう書きそうでもあり、書かなさそうでもある。リョウの知っているアスカと、誰かが想像したアスカが、紙の上で重なっていた。
「これは、アスカの字じゃない」
リョウは言った。
「似てるけど、違う」
「そう感じるのね」
「感じるんじゃない。違うんです」
「なら、あなたはよく覚えているのね」
由梨の声は優しかった。リョウはその優しさに苛立った。否定されないことが、こんなにも腹立たしいとは思わなかった。違うと言えば、違うと感じるのね、と受け止められる。怒れば、怒って当然よ、と返ってくる。どこにもぶつかれない。怒りが全部、柔らかな布に吸われていく。
由梨は次に、古いボイスレコーダーを机へ置いた。
「これは?」
「話した言葉を、本人の許可があるときだけ残すものよ。あとで自分で聞き返すために」
「アスカの声があるんですか」
「似ているものなら」
似ているもの。リョウはその言い方に引っかかった。だが、止める前に、由梨は再生ボタンを押した。
小さなノイズのあと、少女の声が流れた。
『リョウは、わたしがいなくなっても覚えててくれるって言った』
リョウの呼吸が止まった。
アスカの声だった。そう思った。だが、次の瞬間には違うと分かった。音程が少し低い。息の置き方が違う。アスカは「リョウ」と呼ぶとき、語尾にほんの少しだけ柔らかさが残る。この声には、それがない。アスカの声を誰かがなぞっている。あるいは、アスカ自身の声から、アスカらしさを少しだけ削ったもののようだった。
『忘れないって言ってくれた。でも、それは、今のわたしを覚えてくれるって意味なのかな。変わったわたしでも、薄くなったわたしでも、消えたあとのわたしでも、覚えてくれるのかな』
「止めて」
リョウは言った。由梨はすぐに止めた。誰も責めない。誰も続きを聞かせようとしない。その従順さが、また怖かった。
「今のも、違う」
リョウは言った。
「アスカの声に似てる。でも、アスカじゃない」
「そう」
「何なんですか、これは。字も、声も、席も、全部アスカに似てる。けど違う。誰がこんなものを作ったんですか」
由梨は答えなかった。代わりに、中央の鏡がかすかに鳴った。硝子が内側から爪で撫でられたような音だった。参加者たちは誰も驚かない。ナギサだけが肩を跳ねさせた。
「春日先輩」
彼女が小さく呼んだ。
「鏡、見ない方がいいですよね」
「見るな」
リョウは即答した。だが、ナギサの視線はすでに鏡へ引かれていた。中央の鏡面が、黒い水のように揺れている。そこには教室が映っていた。円形に並んだ机。蛍光灯。参加者たち。白いリボンの椅子。リョウ。ナギサ。由梨。けれど、その奥にもうひとつ、廊下のような空間が見えた。旧校舎の廊下ではない。もっと暗く、もっと長い、どこにも続いていない廊下。
ナギサの顔から血の気が引いた。
「千尋」
その名前が、彼女の口からこぼれた。
鏡の中に、少女が立っていた。制服のリボンは一年生の色。肩のあたりで切りそろえた髪。少し困ったように笑う表情。ナギサのノートに貼られていた小さな写真で見た、三枝千尋だった。鏡の奥の廊下で、彼女はこちらを見ている。声は聞こえない。けれど、唇が動いていた。
ナギサ。
ナギサは椅子から立ち上がりかけた。リョウは反射的に彼女の腕を掴んだ。
「椎凪ナギサ」
マナに言われた通り、フルネームで呼んだ。ナギサの体がびくりと震える。
「行くな」
「でも、千尋が」
「まだ鏡の中だ」
「でも、今、呼んだ」
「呼ばれてもすぐ返事をするなって言われただろ」
ナギサは息を荒くした。目は鏡に釘付けになっている。鏡の中の千尋は、泣きそうな顔で何かを訴えていた。ナギサの腕が震える。リョウは強く掴んだ。痛いかもしれない。それでも離せなかった。
「ナギサ。椎凪ナギサ」
「分かってる、分かってます。でも、千尋が、そこに」
そのとき、由梨が静かに言った。
「振り返って」
リョウの背筋が凍った。
「何を」
「椎凪さん。鏡だけを見なくていいの。あなたが会いたかった人は、もうこちらにもいる」
ナギサの呼吸が止まった。
リョウは振り返るな、と言おうとした。だが、その前に、背後で床が小さく軋んだ。誰かが立っている音だった。参加者たちは何も言わない。誰も驚かない。ただ、円の外、教室の後ろ側へ視線を向けている。
ナギサがゆっくり振り返った。
リョウも、彼女の腕を掴んだまま振り返った。
そこに、三枝千尋が立っていた。
鏡の中と同じ制服。同じ髪。同じ困ったような笑顔。けれど、鏡の向こうにいたときよりも、ずっと近い。手を伸ばせば触れられる距離にいる。教室の蛍光灯の下で、彼女は確かに床に影を落としていた。
「ナギサ」
千尋が言った。
声も、ナギサが覚えているものと同じなのだろう。ナギサの指から力が抜けた。リョウは彼女を支えるように腕を掴み直した。マナはいない。入口の外にいるはずだ。名前を呼べば届くかもしれない。だが、声が喉に引っかかった。
千尋は一歩近づいた。ナギサを見て、泣きそうに笑った。
「会いたかった」
その言葉に、ナギサの顔が崩れた。
「千尋……?」
返事をするな。そう言うべきだった。けれど、リョウもまた、動けなかった。目の前の少女は、あまりにも本物に見えた。失踪者名簿の一行ではない。ノートの中の名前でもない。ナギサが失った友人が、そこに立っている。
中央の鏡が、静かに揺れた。
白鳥由梨は、円の一角で穏やかに微笑んでいた。
「よかった」
彼女は、祈りのように言った。
「これで、また一人、寂しくなくなった」




