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ファントム・ローズ  作者: 秋月キアラ
第1部_ダブル
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第7章 戻ってきた者たち

 アスカの机から見つかった白い招待カードは、マナが持っていた透明な証拠袋の中に収められた。証拠袋といっても、警察が使うような本格的なものではない。資料準備室にあった未使用のビニール袋に、マナが赤いペンで日付と場所を書いただけのものだった。それでも、そこへ入れられた途端、カードはただの紙片ではなくなった。椎名アスカが最後に触れていたかもしれないもの。〈クラブ・ダブルB〉が彼女の机へ残したもの。あなたは、もう一人ではない。その鏡文字は、反転された画像の中でなら読めた。けれど、リョウにはもう、読めない形のままの方が正しいように思えた。あれは、こちら側の文字ではなかった。こちら側の理屈で読んではならない招待状だった。


 翌日、六道学園は平常授業を行った。掲示板にはまた新しい通達が貼られた。校内での無許可移動を控えること。旧校舎三階には立ち入らないこと。特定生徒に関する憶測を広げないこと。生徒の心情に配慮すること。文字だけを見れば、学園は生徒を守ろうとしているように見えた。だが、そこに椎名アスカの名前はなかった。名前を伏せることが配慮なのだと、誰かが決めたのだろう。けれどリョウには、それがアスカの輪郭を少しずつ削っているように感じられた。名前を呼ばれない人間は、校舎の中で最初からいなかった者へ近づいていく。そんな馬鹿げた感覚を、もう馬鹿げていると笑えなかった。


 朝の教室で、佐伯律はいつもの席に座りながら、何度もリョウの方を見た。声をかけたい。けれど、どう声をかければいいか分からない。そんな顔だった。リョウは自分から話す気になれなかった。アスカの席は空いたままだ。担任は出席確認で一瞬だけその席を見たが、名前を呼ばなかった。リョウは机の下で拳を握った。呼べよ、と思った。アスカの名前を。椎名アスカと。たとえ返事がなくても、そこに席がある限り、呼ぶべきだと思った。だが担任は、出席簿の上を滑るように次の名前へ移った。


 昼休み、リョウはナギサとマナに呼び出され、図書室奥の資料準備室へ向かった。昨日と同じ場所だが、空気は少し違っていた。机の上には失踪者名簿が開かれている。隣には、マナが書き足したばかりの新しい行があった。


 椎名アスカ。高等部二年。最終確認、旧校舎三階廊下。公式説明、所在確認中。備考、〈BB〉招待カード。鏡文字。


 自分の恋人の名前が、名簿の一行になっている。その事実に、リョウはしばらく声を出せなかった。人間は名前の横に説明を並べられた瞬間、事件になる。資料になる。記録になる。だが、リョウにとってアスカは、記録ではなかった。昨日まで隣で笑っていた人間だった。図書室でリョウの視線に気づき、見すぎ、と言って本から目を上げなかった少女だった。幸せなのに不安になるの、と言って、弁当袋の紐を握っていた恋人だった。


「先輩」


 ナギサの声で、リョウは我に返った。彼女はいつものように軽く笑おうとして、失敗した顔をしていた。笑えば空気が少し楽になると知っているから笑おうとする。けれど今は、笑いが途中で折れてしまう。三枝千尋の名前が名簿の中にあるからだ。アスカの名前が、その下に書き加えられたからだ。


「大丈夫、って聞くのは変ですよね」


「変だな」


「ですよね。じゃあ、今にも机を殴りそうな顔してます」


「それは大丈夫確認じゃないのか」


「現状報告です」


 ナギサはそう言って、やはり少しだけ笑った。リョウも口元を動かそうとしたが、うまくいかなかった。マナはそんな二人を見て、何も言わずに名簿の別のページを開いた。


「今日は、戻ってきた生徒を調べる」


「アスカを探すんじゃないんですか」


 リョウの声は硬かった。マナは顔を上げない。


「探しているわ。そのために、戻ってきた人を調べる」


「どういう意味ですか」


「消えた人が必ず戻らないわけではない。小野寺真琴さんのように、戻ってきた例がある。でも、戻った人間が元のままとは限らない。そこを見ないままアスカさんだけを追えば、あなたは見つけたものを全部アスカさんだと思おうとする」


「そんなこと」


「するわ」


 マナは短く言った。断定だった。リョウは反発しようとして、できなかった。もし今、アスカの声が廊下の向こうから聞こえたら。もし窓硝子にアスカの姿が映ったら。もし、彼女と同じ顔をした誰かが「リョウ」と呼んだら。自分は本当に冷静でいられるのか。自信はなかった。


「戻ってきた生徒には、大きく二種類いる」


 マナは名簿のページを指で押さえた。


「ひとつは、壊れて戻った人。小野寺真琴さんのように、名前、顔、記憶の認識が崩れている。鏡を怖がる。自分を自分として扱えない。短期間で再び消えるか、異常な事故に遭うことが多い」


 ナギサが唇を噛んだ。小野寺真琴の悲鳴は、リョウだけでなく、学園の多くの生徒に残っている。廊下の窓硝子に映った自分を見て叫んだ帰還者。私たちは、まだ帰ってきていない、と呟いた少女。あの言葉は、今も校舎のどこかに薄く貼り付いている気がした。


「もうひとつは?」


「以前より、良くなったように見える人」


「良くなった?」


「不登校だった生徒が登校するようになる。孤立していた生徒が周囲へ優しくなる。強い不安を訴えていた生徒が、穏やかに笑うようになる。教師や周囲から見れば、回復したように見える」


「それ、いいことじゃないんですか」


 ナギサが言った。問いというより、言ってみたかっただけの声だった。言った本人も、そう単純ではないと分かっている顔をしている。


「本当に本人が回復したなら、いいことよ」


 マナは答えた。


「でも、そうではない場合がある」


「ミラーズ」


 リョウが呟いた。マナは頷いた。


「表向きには、悩みを乗り越えた正式会員。けれど私が見てきた限り、彼らは少しずつ個人としての輪郭が薄くなっている。自分の痛みと他人の痛みの区別が曖昧になる。言葉が優しくなる。けれど、その優しさが、誰のものなのか分からなくなる」


「会えるんですか。その、戻ってきた人に」


「向こうから来ると思う」


「どうして」


 マナは窓の方を見た。資料準備室の窓硝子には、棚と机と三人の姿が薄く映っている。そこには今のところ、余計な影はなかった。


「あなたたちが、アスカさんを探しているから」


 その答えは、説明になっているようでなっていなかった。だが、リョウには何となく分かった。〈クラブ・ダブルB〉に関わる者たちは、悩みを抱えた生徒を見つける。救いを求める者を見つける。今のリョウは、誰よりも分かりやすく、何かを求めている。アスカを返してほしい。彼女を見つけたい。昨日までの世界に戻りたい。そういう願いは、たぶん鏡の向こうにまで届いてしまう。


「白鳥由梨」


 マナが名簿の一行を示した。


「高等部三年。以前は不登校気味。人間関係に強い不安を抱えていた。半年前に一度、数日間所在が曖昧になっている。その後、登校を再開。現在は穏やかで、教師からの評価も高い。悩んでいる生徒に声をかけている」


「ダブルBの正式会員?」


「可能性が高い」


「接触するんですか」


「もうしているかもしれない」


 そのとき、資料準備室の外で軽いノックがした。三人の視線が同時に扉へ向かう。マナは素早く名簿を閉じ、赤い栞を挟んだ。ナギサは立ち上がりかけ、リョウは息を止めた。


「鳴海さん、いる?」


 扉の向こうから、穏やかな女子生徒の声がした。柔らかく、聞く者に警戒心を抱かせない声だった。マナは一瞬だけ目を伏せ、それから扉へ向かった。


「いるわ」


 扉が開くと、そこに白鳥由梨が立っていた。


 第一印象は、綺麗な人、だった。長い髪は明るすぎない栗色で、丁寧に手入れされている。制服の着こなしは模範的で、スカート丈もリボンも規定通りだった。顔立ちは派手ではないが、目元が優しく、微笑むと相手を安心させる雰囲気がある。三年生らしい落ち着きと、誰にでも声をかけられる柔らかさ。廊下で会えば、悩みを相談したくなる先輩。教師が「良くなった」と言うのも分かる。彼女は、壊れて戻ってきた者には見えなかった。むしろ、壊れた場所を一度越えて、きちんと修復された人のように見えた。


「ごめんなさい。取り込み中だった?」


 由梨は室内を見回し、リョウとナギサに気づくと、小さく会釈した。


「こんにちは。二年の春日くんと、一年の椎凪さん、よね」


 名前を呼ばれ、リョウは背筋が冷えた。ナギサも一瞬だけ表情を硬くしたが、すぐにいつもの軽さを被った。


「有名人になった覚えはないんですけど」


「最近、二人の名前を聞くことが多いから。悪い意味じゃないわ。大切な人を探しているんでしょう?」


 その言葉は優しかった。だが、リョウはすぐに返事ができなかった。大切な人を探している。由梨はそう言った。間違ってはいない。だが、なぜそれを知っているのか。誰から聞いたのか。噂になっているからか。それとも、もっと別の場所から見ているのか。


「白鳥先輩は、何の用ですか」


 マナが言った。声はいつも通り静かだったが、そこには薄い警戒がある。


「鳴海さんが、また無理をしていないかと思って」


「私は大丈夫」


「大丈夫って言う人ほど、あまり大丈夫じゃないものよ」


「あなたに心配されるほどではないわ」


「そう」


 由梨は少し寂しそうに笑った。その笑顔は、拒絶されたことへの傷つき方として自然だった。自然すぎた。リョウは自分の中で警戒が揺らぐのを感じた。マナの方が冷たく見える。由梨の方が優しく見える。だが、その見え方自体が危ういのだと、頭のどこかで警報が鳴っていた。


「春日くん」


 由梨はリョウへ向き直った。


「椎名さんのこと、聞いたわ」


 リョウの指がぴくりと動いた。


「何を聞いたんですか」


「連絡がつかないこと。旧校舎で最後に見られたこと。あなたが、ずっと探していること」


「誰から」


「みんな心配しているから」


「みんな?」


「ええ。みんな」


 由梨は自然にそう言った。何気ない一語だった。だが、リョウにはそこだけが妙に引っかかった。個人名ではない。誰か、ではない。みんな。もっと言えば、私たちに近い響きだった。


「白鳥先輩は、ダブルBの人ですか」


 ナギサが直球を投げた。リョウは思わず横を見た。ナギサは軽い口調を保っていたが、目はまったく笑っていない。由梨は驚いたように瞬きし、それから困ったように微笑んだ。


「その言い方だと、秘密結社みたいね」


「秘密クラブではありますよね」


「そうね。正式な部活ではないから、そう呼ばれても仕方ないのかもしれない」


「否定しないんですね」


「悪いことをしているつもりはないもの」


 由梨の声は、どこまでも穏やかだった。逃げるでも、怒るでも、誤魔化すでもない。自分が正しいと強く主張するのでもない。ただ、そこにあるものを静かに説明しているような声だった。


「〈クラブ・ダブルB〉は、悩んでいる人が少し休める場所よ。学校や家では言えないことを、誰にも否定されずに話せる場所。春日くんも、椎凪さんも、そういう場所が必要だと思ったことはない?」


「千尋は、そこへ行ってから消えました」


 ナギサの声が低くなった。由梨は彼女を見た。目元に悲しみが浮かぶ。演技には見えなかった。


「三枝さんのことは、私たちも心配しているわ」


「私たち?」


 ナギサが聞き返した。由梨は一瞬だけ口を閉じた。自分の言い方が引っかかったことに気づいたのか、それとも最初から気づかせるつもりだったのか、分からない。


「クラブに関わっている子たち、という意味よ」


「三枝千尋は、どこにいるんですか」


「それは、私には分からない」


「本当に?」


「ええ」


「でも、心配はしてるんですね。私たちは」


 ナギサの言葉には棘があった。由梨はそれを責めなかった。むしろ、受け入れるように頷いた。


「怒って当然よ。大切な友達が消えたんだもの」


 その言い方に、ナギサの表情が一瞬だけ崩れかけた。怒って当然。泣いて当然。怖がって当然。そう言ってもらえることは、救いに近い。リョウにも分かった。由梨の言葉は、欲しい場所へ落ちる。強すぎず、弱すぎず、相手の痛みを否定しない形で届く。だから危ない。怖がるより先に、受け取りたくなってしまう。


「私もね、昔は学校に来るのが怖かったの」


 由梨は静かに話し始めた。誰も促していない。だが、その声は自然に場を作った。


「教室へ入る前、いつも廊下で足が止まった。中ではみんな普通に笑っているのに、私はその中へ入れなかった。嫌われているわけじゃない。いじめられているわけでもない。なのに、自分だけ硝子の外にいるみたいだった。話しかけられても、返事の仕方を間違えた気がして、家に帰ってから何度も思い出して苦しくなる。明日も同じことを繰り返すくらいなら、最初から休んだ方がいいと思った」


 リョウは黙って聞いた。由梨の言葉は具体的だった。苦しみの輪郭がある。作り話には聞こえない。ナギサも、怒りを保とうとしながら、耳を傾けてしまっている。マナだけが、冷静な顔で由梨を見ていた。


「でも、ある場所で話を聞いてもらった。誰も否定しなかった。私が弱いからだとも、気にしすぎだとも言わなかった。ただ、分かるよって言ってくれた。ひとりじゃないよって。私は、その言葉に救われたの」


「救われた」


 リョウが繰り返した。


「ええ。少なくとも、私はそう感じている」


「その代わりに、何を失ったんですか」


 由梨は微笑んだまま、ほんの少し首を傾げた。


「失った?」


「小野寺さんは壊れて戻ってきた。三枝さんはまだ戻っていない。アスカは消えた。あなたは戻ってきて、前より良くなったように見える。でも、それが何の代償もないとは思えない」


 由梨はリョウをじっと見つめた。その視線には怒りも悲しみもない。むしろ、彼の痛みを観察するような静けさがあった。


「春日くんは、椎名さんを取り戻したいのね」


「当たり前です」


「彼女が苦しんでいたことは、知っていた?」


 リョウは言葉を詰まらせた。アスカの声が蘇る。幸せなのに、不安になるの。変だよね。彼女は言っていた。少しだけ漏らしていた。リョウは聞いていた。けれど、届いていなかった。


「知ってた」


 答えは掠れた。


「でも、分かってなかった」


「そう。あなたは正直ね」


「褒められたいわけじゃない」


「責めているわけでもないわ」


 由梨は一歩近づいた。マナがわずかに身構える。


「人は、誰かの痛みを完全には分かれない。恋人でも、友達でも、家族でも。その人の中に閉じ込められた痛みは、その人ひとりを沈めていく。だから、分ければいいの」


「分ける?」


「ええ」


 由梨は、祈るように両手を重ねた。仕草は綺麗だった。演劇めいてはいない。むしろ、自然すぎるほど自然だった。


「痛みを、ひとりだけのものにしない。孤独を、ひとりだけの部屋に閉じ込めない。悲しみも、不安も、後悔も、みんなで少しずつ持てばいい。そうすれば、誰も壊れずに済む」


 その言葉は、水鏡紫影の言葉と似ていた。一人で抱えるから、苦しくなるの。支える手がひとつでは足りないだけ。優しさの形をした思想が、別の口から同じ温度で語られる。リョウはその一致に気づき、背筋が冷えた。


「私たちは、あなたの痛みも分けられる」


 由梨は言った。


 私たち。


 その言葉が、資料準備室の中に静かに沈んだ。ナギサの顔色が変わる。マナの手が、机の上の赤い栞へ触れた。リョウは由梨を見た。彼女は優しく微笑んでいる。おかしなことを言ったつもりはない顔だった。


「誰と、分けるんですか」


 リョウは尋ねた。


「あなたが望むなら、私たちと」


「僕は望んでない」


「今は、そう思っているだけかもしれない」


「勝手に決めるな」


「決めていないわ。待っているだけ」


 由梨の声は穏やかだった。怒鳴られても揺れない。拒まれても傷つかない。痛みを受け止めることに慣れすぎている。いや、受け止めているのではないのかもしれない。痛みを個人のものとして扱っていないのかもしれない。リョウはそこで、初めてはっきりと怖いと思った。


 小野寺真琴は、誰が見ても壊れていた。自分の名前に反応できず、鏡を怖がり、私たちはまだ帰ってきていないと呟いた。あれは分かりやすい異常だった。周囲の生徒は怯え、教師たちも隠そうとした。だが、白鳥由梨は違う。彼女は美しく整っている。傷ついた人の言葉を知っている。誰かを責めない。否定しない。欲しい言葉を、欲しい温度で差し出す。壊れていない。むしろ、救われたように見える。


 それが怖かった。


 救われたように見えるものを、人は疑いにくい。明るくなった。不登校だった子が登校できるようになった。誰にでも優しくなった。よかった。安心した。そう言われたら、そこで話は終わってしまう。誰も、明るくなったことの内側を疑わない。優しくなった声の持ち主が、本当にその人ひとりなのかを確かめない。


「白鳥さん」


 マナが静かに言った。


「今日は何をしに来たの」


「心配だったから」


「誰が」


「あなたたちが」


「それだけ?」


「ええ」


「嘘ね」


 由梨は少しだけ笑った。


「鳴海さんは、いつも厳しい」


「あなたたちは、優しすぎる」


「優しさは、悪いこと?」


「使い方を間違えれば」


「使うものじゃないわ。分けるものよ」


 会話は静かだった。だが、リョウには刃物を合わせているように見えた。マナは由梨を見ている。由梨もマナを見ている。二人は以前から知っているのだろう。どこまで知っているのか、どこで出会ったのか、リョウには分からない。だが、ここには初対面ではない緊張があった。


「春日くん」


 由梨がまたリョウへ向き直る。


「椎名さんのこと、あなたは自分の失敗だと思っている?」


 リョウの胸が締めつけられた。答えたくなかった。だが、答えはとっくに出ている。


「……思ってる」


「彼女の不安に気づけなかったから?」


「気づいてた。でも、軽くした。大丈夫だって言えば、本当に大丈夫になると思った。アスカが消えるなんて想像できないって、冗談みたいに言った」


「それで、後悔しているのね」


「してる」


「なら、その痛みもひとりで持たなくていい」


「やめろ」


「責めないわ」


「やめろって言ってるんだ」


 リョウの声が強くなった。由梨は引かなかった。優しい顔のまま、彼の痛みの中心へ近づいてくる。その近づき方が、あまりにも静かで、あまりにも正確だった。


「あなたが悪かったのではないわ。椎名さんは、あなたを大切に思っていた。だから言えなかったことがある。あなたも彼女を大切に思っていた。だから、彼女の不安を早く消してあげたかった。どちらも間違っていない。ただ、痛みがひとり分の器には大きすぎただけ」


 それは、リョウが聞きたかった言葉だった。誰かに言ってほしかった言葉だった。お前のせいじゃない。アスカもお前を大切にしていた。二人とも間違っていなかった。ただ苦しすぎただけだ。そう言われれば、どれほど楽だろう。リョウは、その言葉に一瞬だけ縋りそうになった。


 その瞬間、ナギサがリョウの袖を強く掴んだ。


「先輩」


 小さな声だった。けれど、リョウの意識を引き戻すには十分だった。彼は息を吸った。資料準備室の紙の匂い。窓の外の湿った空気。机の上の閉じた名簿。マナの赤い栞。ナギサの震える指。現実の輪郭が少し戻る。


「ありがとう、ナギサ」


 リョウが言うと、ナギサは少し驚いた顔をした。


「いえ。なんか、先輩が連れていかれそうな顔してたので」


「連れていかれそう?」


「言葉に」


 ナギサの表現は曖昧だったが、リョウには分かった。由梨の言葉は、手ではない。けれど、人を連れていく。痛みの奥へ入り込み、その痛みを優しく持ち上げて、どこか別の場所へ運ぼうとする。


「椎凪さん」


 由梨はナギサを見た。


「あなたも、つらいでしょう」


 ナギサの顔が強張った。


「千尋さんのこと。最後にちゃんと聞いてあげられなかったこと。明るいから分からないと言われたこと。ずっと、胸に刺さっているんじゃない?」


「どうして」


 ナギサの声が小さくなった。リョウも由梨を見た。なぜ知っている。千尋がナギサに言ったその言葉を、由梨はどうして知っている。


「痛みは、似ているから」


 由梨は答えた。


「言葉にされなくても、分かることがあるの」


「便利ですね、それ」


 ナギサは笑った。強引な笑いだった。


「何でも分かるって言えば、何でも当てられますもんね」


「何でもは分からないわ」


「じゃあ、千尋がどこにいるかは?」


「それは、まだ」


「まだ?」


 ナギサが一歩踏み出した。リョウが止めようとする前に、マナが二人の間へ入った。


「ナギサ、ここまで」


「でも」


「今は駄目」


 マナの声は強かった。ナギサは唇を噛み、下がった。由梨はその様子を穏やかに見ていた。怒りもしない。怯えもしない。ただ、悲しそうに見ていた。


「鳴海さんは、いつも守ろうとするのね」


「必要だから」


「守られることが、孤独になることもあるわ」


「孤独を理由に、境界を壊す必要はない」


 マナの言葉に、由梨の微笑みがほんの少しだけ薄くなった。初めて、彼女の顔から人間らしい揺らぎが消えたように見えた。その一瞬、リョウは由梨の目の奥に、別の暗さを見た。空洞ではない。むしろ、複数の視線が重なったような深さだった。ひとりの目ではない。そう感じた。


 しかし次の瞬間、由梨はまた穏やかな三年生の顔へ戻った。


「ごめんなさい。長居しすぎたわ」


 彼女は一歩下がり、扉の方へ向かった。


「春日くん、椎凪さん。怖がらせたなら謝るわ。でも、覚えておいて。苦しいときに、ひとりでいなくてもいいの。あなたたちが思っているより、手を伸ばしている人は多いから」


「ダブルBに来いってことですか」


 リョウが尋ねると、由梨は首を横に振った。


「決めるのは、あなたよ」


「アスカも、そう言われたんですか」


「椎名さんは、自分で選んだわ」


 その言葉に、リョウの中で怒りが燃えかけた。自分で選んだ。水鏡も似たことを言った。アスカの選択。彼女の願い。彼女の不安。どれも正しい言葉の形をしている。だが、その正しさはアスカが消えた事実を軽くしない。


「アスカは、消えたくて選んだわけじゃない」


「消えたとは限らないわ」


「じゃあ、どこにいるんだ」


 由梨は扉の前で振り返った。廊下から差し込む光が、彼女の輪郭を白く縁取っている。彼女は少しだけ、安心させるように微笑んだ。


「アスカさんも、もう一人じゃないですよ」


 その言葉のあと、資料準備室は一瞬、完全に静まり返った。


 リョウは動けなかった。ナギサも、マナも、声を出さなかった。由梨は丁寧に会釈し、扉の向こうへ出ていった。足音は廊下の奥へ遠ざかる。普通の生徒の足音だった。軽く、規則正しく、何も怪しいところのない足音。だが、その足音が消えたあとも、彼女の言葉だけが室内に残った。


 アスカさんも、もう一人じゃないですよ。


 それは慰めの言葉の形をしていた。だが、リョウには宣告に聞こえた。アスカが寂しくないという意味ではない。アスカの隣に、すでに誰かがいるという意味に聞こえた。あるいは、アスカがもう、ひとりのアスカではなくなり始めているという意味に。


 ナギサが小さく息を吐いた。


「……あれ、怖いですね」


「ええ」


 マナが答えた。


「でも、あれを怖いと感じられるうちは、まだ戻れる」


「戻れなくなったら?」


 リョウが尋ねた。マナは名簿へ視線を落とした。白鳥由梨の名前が書かれた行。その備考欄には、短くこう記されている。


 帰還。安定。勧誘傾向あり。


 マナはその文字を指でなぞらず、ただ見つめた。


「救われたと思うようになる」


 その答えは、廊下のどんな怪談よりも怖かった。


 リョウは窓硝子を見た。そこには三人の姿が映っている。リョウ、ナギサ、マナ。今度は余計な影はない。けれど、硝子の奥のどこかに、さっきまで由梨が立っていた場所だけが、わずかに明るく残っているように見えた。


 そしてその明るさが、リョウにはどうしても、救いには見えなかった。

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