第6章 アスカ失踪
椎名アスカの名は、スマホの画面の中に残っていた。連絡先にも、通話履歴にも、前夜の短いメッセージにも、その名は確かにあった。家に着いたよ。おやすみ。昨日までなら、それだけで十分だった。短い文面の向こうに、彼女の声も、表情も、少し眠たげに目をこする仕草も思い浮かべることができた。けれど今、春日リョウはその文字を見つめながら、まるで薄い硝子越しに沈んでいくものを見ているような感覚に襲われていた。電話はつながらない。何度かけても、返ってくるのは無機質な案内だけだった。電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため。たったそれだけの言葉が、アスカのいる世界とリョウの立っている世界のあいだに、冷たい壁を立てていく。
資料準備室を飛び出したリョウに、椎凪ナギサと鳴海マナが続いた。放課後の校舎は部活動へ向かう生徒たちでまだざわめいていたが、その音はリョウの耳に届いていなかった。階段を駆け下り、二年の教室へ向かう。廊下の角を曲がるたび、アスカがそこに立っているのではないかと思った。何でもない顔で、リョウ、どうしたの、と首を傾げるのではないか。そんな期待が一瞬ごとに生まれ、一瞬ごとに潰れていく。
二年三組の教室には、まだ何人かの生徒が残っていた。佐伯律が机の上に腰かけ、友人と何かを話していたが、リョウの顔を見るなり表情を変えた。
「春日? どうした、顔やばいぞ」
「アスカを見なかったか」
「椎名? 今日は休みじゃなかったのか」
「担任は体調不良って言ってた。でも連絡がつかない」
「いや、俺は見てないけど……」
佐伯の声から冗談が消えた。近くにいた女子生徒も会話を止め、こちらを見た。リョウはアスカの席へ向かった。窓際から二列目、前から三番目。そこに彼女の机がある。教科書は入っている。筆箱もある。昨日までと同じ。机の横にかけられた予備の袋、読みかけの文庫本、古典のノート。アスカがここに通っていた証拠は、いくつも残っている。それなのに、本人だけがいない。
「朝、鞄はあったんですか」
ナギサが息を切らしながら尋ねた。佐伯が首を振る。
「知らない。朝礼の時点では椎名の席、空だったと思う」
「誰か、椎名先輩の下駄箱を見ました?」
「俺らが見るわけないだろ」
「ですよね。すみません」
ナギサはすぐに引き下がったが、その目は教室中を素早く見ていた。誰が何を知っているか、誰が目をそらしたか、誰が不自然に黙ったか。明るい後輩の顔をしていた少女は、今は事件を追う者の顔をしていた。
リョウは机の中を覗こうとして、手を止めた。勝手に見ることへのためらいが、一瞬だけ残った。だが、次の瞬間にはそのためらいを押しのけていた。アスカがいない。電話がつながらない。今は礼儀や遠慮に従っている場合ではない。机の中には、教科書が数冊、プリントの束、折り畳まれたハンカチ、そして古典の単語帳が入っていた。特に変わったものは見当たらない。
「下駄箱へ行く」
リョウが言うと、マナが頷いた。
「私は職員室に行く。出欠記録と、校内の最終確認を調べる。ナギサ、春日くんと一緒に」
「はい」
「何か見つけても、勝手に触りすぎないで。写真を撮って」
「分かってます」
マナはそう言うと、黒い傘を手に資料準備室とは反対方向へ歩いていった。背筋はまっすぐで、足取りに迷いはない。リョウはその背を一瞬だけ見送った。頼れる。けれど、やはり何かを隠している。その二つの印象が同時に残る。
昇降口へ向かう途中、リョウは何度もアスカに電話をかけた。つながらない。メッセージにも既読はつかない。ナギサは隣を走りながら、自分のスマホで一年生のグループチャットを確認していた。
「下級生側には、まだ大きな噂は出てません。でも、旧校舎の三階で先生たちが何かしてるって書き込みがひとつあります」
「旧校舎?」
「はい。三階の廊下。放課後すぐ、立ち入り禁止にされたって」
リョウの足が速くなった。旧校舎。ダブルBの会場候補。アスカが以前行った空き教室。鏡のある場所。考えたくないものが、次々に一本の線へつながっていく。昇降口でアスカの下駄箱を確認すると、そこには彼女の外靴が残っていた。上履きがない。つまり、少なくとも今日、彼女は校舎内にいた可能性がある。
「体調不良で欠席じゃない」
リョウは低く言った。
「学校に来てたんだ」
「でも、担任は体調不良って」
「誰かがそう処理したんだ」
その言葉を口にした瞬間、リョウの中で何かが冷えていった。混乱が、少しずつ怒りへ変わっていく。アスカが学校に来ていたなら、なぜ担任は休みだと言ったのか。知らなかったのか。知らされなかったのか。それとも、知っていてそう言ったのか。
「春日先輩、旧校舎へ」
ナギサが言った。リョウは頷き、二人は旧校舎へ向かった。
六道学園の旧校舎は、本校舎の奥に影のように建っている。現在は一部の教室と資料室だけが使われ、放課後になると人通りは極端に少なくなる。階段の踊り場には古い掲示物が残り、廊下の壁には何度塗り直しても消えない細かな亀裂が走っていた。窓硝子は本校舎よりも少し波打っており、そこに映る人影はいつもわずかに歪む。夕方の光が弱まると、その歪みはただの古さではなく、何かが向こう側からこちらを覗くための薄い膜に見えた。
三階へ上がろうとしたところで、生活指導の教師に止められた。
「春日、椎凪。ここから先は立ち入り禁止だ」
「アスカがここにいたんですか」
リョウはすぐに聞いた。教師は顔をしかめた。
「誰から聞いた」
「答えてください。椎名アスカがここにいたんですか」
「今は確認中だ。生徒が勝手に動くな」
「外靴が下駄箱にありました。欠席じゃない。学校に来てたんですよね」
「春日」
教師の声が少し低くなった。廊下の奥では、別の教師が数人、何かを確認している。床には黄色いテープが貼られ、旧校舎三階の一角が封鎖されていた。その先に、ガラス窓の並ぶ廊下が見える。さらに奥には、普段は使われていない空き教室があった。リョウはそこを見たことがある。扉の横に古い姿見が掛けられている教室だ。演劇部が昔使っていた衣装合わせ用の鏡が、撤去されずに残っている。
「アスカはどこですか」
「落ち着きなさい」
「落ち着けるわけないだろ!」
声が廊下に響いた。教師が顔を強張らせる。ナギサがリョウの袖を掴んだ。
「先輩、今ここで押し切ると追い出されます」
「でも」
「情報を取る方が先です」
ナギサの声は小さかったが、はっきりしていた。リョウは歯を食いしばった。怒鳴れば扉が開くわけではない。分かっている。分かっているのに、体が前へ出ようとする。
そこへ、マナが職員室側から歩いてきた。表情はいつもより硬い。手には一枚のメモが握られている。
「春日くん」
「何か分かったんですか」
「最後に確認されたのは、旧校舎三階の廊下。放課後直後、防犯カメラに映っていた」
「アスカが?」
「ええ」
「一人で?」
マナは一瞬だけ沈黙した。その沈黙が答えを鈍らせた。
「カメラの映像では、一人」
「映像では?」
「廊下のガラス窓には、もうひとつ影が映っていた」
リョウの背筋が冷えた。ナギサも息を呑む。
「誰の影ですか」
「分からない。映像自体は粗い。けれど、アスカさんの隣に、背丈の近い人影があるように見えた。本人は振り向いていない。誰かと歩いているというより、ガラスにだけ並んで映っている」
「見せてください」
「無理よ。職員室の端末で、教頭と生活指導が確認していた。私も長くは見られなかった」
「見たんでしょう。なら、もっと何か」
「春日くん」
マナはリョウの言葉を切った。冷たい声ではなかった。だが、今は感情に付き合っている余裕がないという声だった。
「ここで私に詰め寄っても、映像は戻らない。今は、アスカさんがどの教室へ入ったかを確認する」
「奥の空き教室ですか」
「おそらく」
ナギサが小さく言った。
「鏡のある教室」
その言葉に、生活指導の教師が眉をひそめた。
「お前たち、何を知っている」
「知っているなら、こっちが聞きたいです」
ナギサが返した。普段の軽さはない。教師は一瞬たじろいだが、すぐに厳しい顔へ戻った。
「とにかく、生徒は下がりなさい。これは学園側で対応する」
「学園側って、また家庭の事情にするんですか」
リョウの声が低くなった。教師は目をそらした。ほんの一瞬だった。だがリョウには十分だった。
「やっぱり、そう処理するつもりなんだ」
「春日、言葉に気をつけなさい」
「椎名アスカは学校に来ていた。旧校舎で最後に映っている。なのに、体調不良だとか家庭の事情だとか、そんな言葉で片づけるんですか。小野寺さんのときも、三枝さんのときも、そうだったんですか」
「春日!」
教師が怒鳴った。廊下にいた他の教師たちがこちらを見る。空気が張り詰めた。そのとき、静かな声が割って入った。
「春日くん」
水鏡紫影だった。白衣の裾を揺らしながら、階段の方から上がってくる。彼女が現れた瞬間、廊下の緊張が少し形を変えた。教師たちは彼女を見ると、安堵したような、困ったような顔をした。生徒を落ち着かせる役割を期待しているのが分かる。リョウも、その声を聞いた瞬間、反射的に息を整えそうになった。保健室の柔らかな空気。白いカーテン。話を聞いてくれる大人。けれど今は、その柔らかさが胸の奥で引っかかった。
「水鏡先生」
リョウは彼女を見た。
「アスカはどこですか」
水鏡はすぐには答えなかった。目元に心配そうな影を浮かべ、リョウの前まで歩いてくる。
「今、先生たちが確認しているわ。春日くん、まず落ち着いて」
「落ち着けって、みんなそればっかりだ」
「大切な人のことだから、不安になるのは当然よ」
「当然だと思うなら、教えてください。アスカはここに来たんですよね。旧校舎の廊下を歩いて、鏡のある教室へ向かったんですよね」
「まだ確定したわけではないの」
「じゃあ、何が確定してるんですか」
水鏡はわずかに目を伏せた。その仕草は、以前なら痛みを分かち合おうとする優しさに見えたはずだった。だが今のリョウには、答えを避けるための白い布のように見えた。
「椎名さんは、少しだけ疲れていたのかもしれないわ」
その言葉を聞いた瞬間、リョウの中で何かが止まった。
少しだけ疲れていた。昨日も、似たような言葉を聞いた。アスカは少し疲れている。水鏡はそう言った。優しい言葉だった。誰かの弱さを責めない言葉だった。だが今、その言葉はあまりにも整いすぎていた。アスカが消えたかもしれない場所の前で、教師たちが情報を隠そうとしている状況で、その言葉だけが綺麗に置かれる。まるで、もう用意されていた説明のように。
「疲れていたら」
リョウはゆっくり言った。
「人は、旧校舎の鏡の前で消えるんですか」
水鏡の表情が、ほんの一瞬だけ動いた。驚きではない。怒りでもない。もっと微細な、硝子に走る細いひびのような揺らぎだった。すぐに彼女は穏やかな顔へ戻ったが、リョウは見逃さなかった。
「消えたと決まったわけではないわ」
「じゃあ、どこにいるんですか」
「それを、今探しているの」
「先生は、アスカがダブルBに関わっていたことを知ってましたよね」
廊下の空気がさらに重くなった。生活指導の教師が「春日」と止めようとしたが、マナが一歩前に出て、その視線を遮った。ナギサも黙ってリョウの横に立っている。
「保健室で、アスカの話を聞いていた。あの子が不安を抱えていたことを知っていた。ダブルBの噂も知っていた。それでも、先生は止めなかったんですか」
水鏡はリョウを見つめた。優しい目だった。あまりにも優しい目だった。
「春日くん。生徒が心の中に抱えているものを、外から無理に取り上げることはできないわ」
「取り上げる?」
「椎名さんは、誰かに話したかったの。誰かに、自分の不安を分かってほしかった。その気持ちを、ただ危ないからと否定するだけでは、彼女をもっと一人にしてしまう」
「それで、ダブルBに行かせたんですか」
「行かせた、という言い方は違うわ」
「じゃあ、何ですか」
「彼女の選択を、頭ごなしに否定しなかっただけ」
リョウは息を呑んだ。その言葉は、正しい理屈の形をしていた。だが、今はその正しさが残酷だった。アスカは消えた。少なくとも、連絡がつかず、最後に旧校舎で目撃されている。なのに水鏡は、選択という言葉を使う。まるでアスカが自分でそこへ向かったのだから、その結果も彼女の心の延長にあるのだと言うように。
「アスカは、消えたいなんて言ってない」
リョウの声が震えた。
「言ってないはずだ」
「そうね」
「なら、探してください。慰めじゃなくて、説明じゃなくて、アスカを探してください」
水鏡は静かに頷いた。
「もちろん、そのために動いているわ」
「本当に?」
「春日くん」
「先生の言葉は優しいです。でも、今はその優しさが怖い」
自分で言ってから、リョウは驚いた。胸の奥で曖昧だった違和感が、初めて言葉になった。水鏡紫影は敵には見えない。悪意ある教師には見えない。生徒を見捨てる大人にも見えない。むしろ、誰よりも生徒の痛みに耳を傾ける人に見える。だからこそ怖かった。彼女の優しさは、痛みを受け止める。だが、その痛みをどこへ運んでいるのかが見えない。
水鏡は、その言葉に傷ついたような顔をした。あるいは、傷ついたように見える顔をした。リョウにはもう、どちらか分からなかった。
結局、その場で旧校舎の奥へ入ることは許されなかった。教師たちは調査中という言葉で生徒を退け、教頭の折原が現れると、事態はさらに事務的になった。椎名アスカは校内で姿が確認されているが、現在所在を確認中。保護者へ連絡済み。警察への相談も検討している。生徒間で不確かな情報を広げないように。家庭の事情や精神的な不調が関係している可能性もあるため、配慮を求める。折原の言葉は、磨かれた石のように冷たく、どこにも引っかかる余地がなかった。
リョウは何度も食い下がったが、マナに止められた。
「今は引く」
「引けるわけないだろ」
「ここで暴れても、あなたが隔離されるだけ。動けなくなる」
「アスカが」
「探すために引くの」
マナの声は低かった。リョウはその目を見た。彼女も怒っている。表には出さないが、怒っている。リョウはそのことに気づき、かろうじて踏みとどまった。
教室へ戻ったのは、空が暗くなり始めたころだった。二年三組にはもうほとんど人がいない。佐伯が心配そうに残っていたが、マナに促されて先に帰った。教室の窓は夕暮れを映し、机の列は誰かが途中で止めた盤面のように静かだった。アスカの席だけが、やけに鮮明に見える。リョウはその机の前に立った。
「もう一度、机の中を確認しよう」
ナギサが言った。
「さっきは急いで見ただけです。見落としがあるかも」
リョウは頷いた。マナは教室の扉のそばに立ち、廊下を警戒している。ナギサがスマホのライトをつけ、リョウはアスカの机の中を一つずつ取り出した。教科書。ノート。プリント。単語帳。文庫本。何もない。何もないはずだった。
だが、古典のノートの下、机の奥の薄い隙間に、白いものが挟まっていた。
「待って」
ナギサがライトを近づけた。リョウは指を伸ばし、それを慎重に引き出した。小さなカードだった。名刺ほどの大きさ。表面は白く、光の角度によって銀色に光る。触ると、紙というより薄いプラスチックのような滑らかさがあった。隅には、二つのBを重ねたような記号が入っている。
「これ」
ナギサの声が震えた。
「招待カード……?」
リョウはカードを裏返した。そこには文字が書かれていた。だが、すぐには読めない。文字が左右反転している。鏡文字だった。リョウは窓硝子に映して読もうとして、手を止めた。鏡や窓に近づけたくない。そう思った自分に気づき、唇を噛む。
「写真を撮って、反転します」
ナギサが言った。彼女はカードに触れず、スマホで撮影し、画像を左右反転させた。画面に文字が現れる。白いカードの上に、銀色のインクで書かれた短い文。
あなたは、もう一人ではない。
リョウはその文字を見た瞬間、息が詰まった。アスカのスマホに届いた言葉。ダブルBの参加者が繰り返す安心の言葉。水鏡が何度も形を変えて語った言葉。一人で抱えなくていい。もう一人ではない。優しいはずの言葉が、今は底の見えない穴の縁に置かれた花のように見えた。
カードの下部には、小さくこう印字されていた。
Better Being
よりよく在るために。
リョウはカードを握りしめそうになり、マナに手首を掴まれた。
「触りすぎないで」
「これが、アスカの机に」
「ええ」
「これがあったのに、学校は家庭の事情って言うんですか」
マナは答えなかった。答えられなかったのかもしれない。ナギサは反転した画像を見つめたまま、顔を青くしていた。
「千尋も……同じカード、持ってたのかな」
その声は、友人を探す少女のものだった。
リョウはカードを机の上に置いた。窓の外はもう暗い。教室の硝子には、三人の姿が映っている。リョウ、ナギサ、マナ。そして、机の上の白いカード。だが、その硝子の中で、リョウの隣にもうひとつ、細い影が立っているように見えた。
リョウは振り返った。
誰もいない。
教室には、三人しかいない。
それでも、窓硝子の中の影だけは、アスカの机のそばに立ったまま、こちらを見ているように見えた。リョウは窓から目をそらし、机の上のカードを見下ろした。
あなたは、もう一人ではない。
その言葉が、救いではなく、宣告のように光っていた。




