第5章 鳴海マナの失踪者名簿
放課後までの時間は、ひどく長かった。授業の鐘は規則正しく鳴り、教師は黒板に文字を書き、生徒たちはノートを取り、六道学園はいつもの姿を保っていた。だが、春日リョウには、その日常が薄いフィルム越しに見えていた。椎凪ナギサの言葉が、何度も耳の奥で繰り返される。あたしの友達も、ダブルBの話をしてから消えました。小さな一年生の声は、軽口のときとは違って、乾いた刃物のようにまっすぐだった。冗談ではない。噂でもない。彼女の友人は本当に消えている。三枝千尋。リョウの知らない名前だった。けれど、一度聞いてしまえば、その名はもう知らない場所へ戻ってくれなかった。
昼休み、リョウはアスカに連絡を入れた。朝は教室で顔を見られなかった。欠席なのか、遅刻なのか、担任は明言しなかった。ただ「椎名は少し体調が悪いそうだ」とだけ言った。水鏡先生のところへ行っているのかもしれない。家で休んでいるのかもしれない。そう思おうとしても、スマホの画面に既読のつかないメッセージが残るたび、胸の奥で小さな警報が鳴った。
大丈夫?
今日、学校来てる?
送った文面は、あまりに普通だった。普通すぎて、今の状況には頼りなかった。リョウは何度も別の言葉を打ちかけた。ダブルBには行くな。水鏡先生と何を話した。何か隠しているのか。だが、そのどれも送れなかった。ナギサに言われたばかりだった。責める言葉になりやすい、と。リョウは自分がアスカを守りたいのか、問い詰めたいのか、もう自分でも分からなくなり始めていた。
放課後になると、ナギサは約束通り二年の教室の前に現れた。廊下の柱の陰からひょいと顔を出し、リョウを見つけると片手を上げる。まるで部活帰りの先輩を待つ後輩のような気軽さだったが、彼女の鞄には例の調査ノートが入っているはずだった。
「春日先輩、顔が怖いです」
「最初の一言がそれ?」
「挨拶です。お疲れさまです。顔が怖いです」
「二回言うな」
「大事なことなので」
ナギサは軽く笑った。だが、リョウの手の中のスマホに視線を落とすと、すぐに表情を変えた。
「椎名先輩、連絡つきました?」
「まだ。朝から返事がない」
「欠席?」
「体調不良って担任は言ってた」
「水鏡先生の保健室には?」
「行ってない。……と思う。確認してない」
「確認しましょうか」
「いや」
リョウは即答した。保健室へ行けば、水鏡紫影がいる。あの白いカーテンと、鏡に映った見知らぬ顔がある。もう一度あの場所へ行くことを、体が拒んでいた。ナギサはその反応を見て、深入りせずに頷いた。
「じゃあ先に、鳴海先輩のところへ行きます。椎名先輩のことも相談した方がいいです」
「鳴海先輩って、そんなに信用できる人なのか」
「信用できるかどうかで言うと、微妙です」
「連れていく相手への説明として最悪だな」
「でも、嘘はつかない人です。全部は言わないですけど」
「それも信用しづらい」
「ですよね。あたしも最初は、だいぶ腹が立ちました」
ナギサは廊下を歩き出した。夕方の校舎は、授業中とは違う顔をしていた。教室から生徒の声が流れ出し、運動部の掛け声が窓の外から響き、どこかで掃除用具入れの扉が乱暴に閉められる。日常の音が重なっているのに、リョウにはそれが安全の証には思えなかった。むしろ、騒がしいほど、その裏側に隠れている沈黙が濃くなる気がした。
ナギサが向かったのは、図書室ではなく、図書室の奥にある資料準備室だった。一般の生徒はあまり近づかない場所だ。廊下の端には古い郷土資料の展示ケースがあり、六道学園の創立当時の写真や、過去の制服のミニチュアが飾られている。展示ケースの硝子には、リョウとナギサの姿が細く歪んで映った。リョウは一瞬、そこに第三の影が混じっていないか見てしまった。何もいない。だが、何もいないことを確認する自分が嫌だった。
「鳴海先輩は、普段ここに?」
「日によります。図書室だったり、旧校舎だったり、空き教室だったり。神出鬼没です」
「怪しすぎる」
「本人に言うと、否定しないですよ。たぶん」
資料準備室の扉の前で、ナギサは軽くノックした。返事はすぐにはなかった。少し間があってから、内側から落ち着いた声がした。
「開いているわ」
ナギサは扉を開けた。室内には、古い紙の匂いが満ちていた。壁際には資料棚が並び、箱に入った卒業アルバムや学園史、古い新聞の切り抜きが積まれている。窓はひとつだけで、薄い灰色の光が差し込んでいた。机の上には黒い傘が立てかけられ、開いたノートのそばに赤い栞が置かれている。その栞は薔薇柄ではなかったが、深い赤色が妙に目を引いた。
窓際に、ひとりの少女が座っていた。黒髪は長く、暗い青みを帯びて見える。制服はきちんと整えられ、白い無地のヘアピンが前髪を留めていた。姿勢がよく、何もしていなくても目を引く。綺麗という言葉は当てはまるが、近寄りやすい綺麗さではない。澄んだ刃物のような静けさがあった。
「マナ先輩」
ナギサが呼ぶと、少女はノートから目を上げた。
「遅かったわね、ナギサ」
「授業は一応受けてきました。優等生なので」
「あなたが優等生なら、生活指導室に呼ばれる生徒の半分は聖人ね」
「ひどい。あたし、遅刻は少ないです」
「遅刻以外の項目に問題が多いの」
会話の調子は淡々としているが、そこには親しさがあった。鳴海マナ。六道学園の上級生。校内で少し有名な先輩。リョウも名前だけなら聞いたことがあった。近寄りがたい。成績がいい。いつも一人でいる。教師からの信頼は厚いが、生徒の噂にも妙に詳しい。そんな断片的な情報だけが、彼女の周囲には漂っていた。
マナはリョウへ視線を移した。感情の読みにくい目だった。冷たいわけではない。けれど、相手の表面ではなく、その奥にあるものを見てくるような目だった。
「春日リョウくんね」
「はい。……どうして僕の名前を」
「ナギサから聞いたわ」
「それだけですか」
「それだけ、ということにしておきましょう」
初対面の一言で、リョウはこの人が簡単には話してくれない種類の人間だと理解した。ナギサが「全部は言わない」と言った意味が、少し分かった気がした。
「マナ先輩、春日先輩には話していいと思います」
「あなたはいつも結論が早い」
「早くしないと、人が消えます」
ナギサの声が低くなった。マナはその言葉を受けても表情を大きく変えなかった。ただ、赤い栞に置いていた指をゆっくり離した。
「そうね」
その短い返事には、軽く流したのではない重さがあった。知っている人の声だった。消えた人の数を、ただの数字ではなく名前として覚えている人の声だった。
「座って」
マナは机の向かいにある椅子を示した。リョウとナギサが腰を下ろすと、彼女は開いていたノートを閉じた。その表紙は黒く、角が少し擦れている。ナギサの調査ノートよりも古く、何度も開閉された跡があった。
「ナギサから、どこまで聞いた?」
「三枝千尋さんのこと。ダブルBの噂。悩みのある生徒だけが招待されるらしいこと。参加した人が、急に明るくなる場合があること」
「椎名アスカさんのことは?」
アスカの名が出た瞬間、リョウの体がわずかに強張った。マナはそれを見逃さなかった。
「彼女にも招待が来ました。もう参加しています」
「そう」
「知ってたんですか」
「可能性は考えていた」
「どうして止めなかったんですか」
リョウの声には、自分でも分かるほど棘があった。ナギサが横で少し身じろぎする。だが、マナは怒らなかった。彼女はリョウの視線を受け止めたまま、静かに言った。
「私が声をかけたら、彼女は止まったと思う?」
「少なくとも、危ないって言えたはずです」
「危ないと言われて、救われそうな場所から離れられる人ばかりなら、こんなことにはなっていないわ」
「それでも、言うべきだった」
「そうかもしれない」
あまりにもあっさり認められ、リョウは言葉を失った。マナは目を伏せた。長い黒髪が頬にかかり、白いヘアピンだけが薄い光を受ける。
「言うべきだったことは、たくさんある。止めるべきだった人も、たくさんいる。けれど、後から分かる正しさで、前の失敗は消えない」
その声には、後悔があった。抑えられているが、確かにあった。リョウは苛立ちを完全には消せなかったが、少なくともこの人が事件を面白がっているわけではないと分かった。
「マナ先輩、名簿を」
ナギサが促した。マナは少し迷うように沈黙し、それから机の下の鞄から一冊のファイルを取り出した。黒い表紙。背に小さく「欠席・失踪関連」と手書きで記されている。教師の資料ではない。だが、生徒が持つにはあまりに整っていた。
「これは、公式な記録ではないわ」
マナは言った。
「学園が公表したものでも、警察資料でもない。私が集めた名前と日付、目撃情報、噂、欠席理由、帰還の有無。正確でないものも含まれている。だから、扱いには注意して」
「失踪者名簿……」
リョウが呟くと、マナは頷いた。
「そう呼んでいるわ」
ファイルが開かれた。最初のページには、表があった。氏名、学年、最後に登校した日、公式な説明、実際の目撃情報、帰還の有無、備考。小野寺真琴の名前がある。高等部二年。数日間行方不明。公式説明は家庭の事情。備考には、帰還後混乱、鏡への拒絶反応、再消失、と記されていた。リョウはその文字を見ただけで、昨日の廊下の悲鳴を思い出した。
次の行には、三枝千尋の名があった。高等部一年。公式説明は体調不良ののち家庭都合。備考には、失踪前に〈BB〉の話。机上メモ「もう少しだけ、楽になりたい」。帰還なし。
ナギサはその行から目をそらさなかった。唇を結んでいる。泣かないようにしているのではない。泣いている場合ではないと、自分に言い聞かせている顔だった。
「この名簿、学園が公表してない名前もありますよね」
リョウが言うと、マナはページをめくった。
「あるわ。むしろ、公表されていない名前の方が重要」
「どういう意味ですか」
「表に出た失踪は、まだ見つけられる。教師も保護者も、同級生も、その生徒がいなくなったことを覚えている。でも、そうではない名前がある」
マナはある行で指を止めた。
雨宮透。高等部二年。最終確認日、不明。公式記録、該当なし。クラス名簿、該当なし。座席表、痕跡あり。備考、誰も覚えていない。
リョウはその行を何度も読み返した。
「誰も覚えていないって、どういうことですか」
「文字通りよ。少なくとも、私が確認した範囲では、誰もその生徒を覚えていない」
「でも、名前がある」
「あるわね」
「誰も覚えてないのに、どうして」
マナはその行の右端を指した。そこには、細い黒ペンで小さく署名のようなものが残っていた。
K.A.
たった二文字のアルファベットだった。乱暴に書かれたものではない。むしろ、記録を残す習慣のある人間が、必要最小限の証として書いたような筆跡だった。
「これは?」
「分からない」
マナは即答した。
「分からない?」
「ええ。誰の署名か、何の意味か、まだ分からない。ただ、この名簿を作り始めた頃から、学園内の古い資料や、消えかけた掲示、端末のログに、ときどき同じ署名が残っている。K.A.。記録者のサインのようにも見えるし、警告のようにも見える」
「誰かが、消えた生徒の名前を記録している?」
「可能性はあるわ」
「その誰かを探さないんですか」
「探している」
「見つかってない?」
「見つかっていたら、ここであなたに曖昧な説明はしていない」
リョウはファイルを見下ろした。小野寺真琴。三枝千尋。雨宮透。知っている名前と知らない名前。覚えられている失踪と、誰にも覚えられていない失踪。その差が何なのか分からない。ただ、名簿の行が増えるほど、六道学園という場所そのものが、見た目よりずっと深い穴の上に建っているように思えた。
「この雨宮透って生徒、本当にいたんですか」
「分からない」
「またそれですか」
リョウの苛立ちが戻った。マナは静かに見返す。
「分からないことを分かると言う方が危険よ」
「でも、何か知ってるんでしょう。ナギサはあなたを頼れって言った。あなたは名簿まで持ってる。なのに、肝心なところになると、全部分からないで済ませる」
「春日くん」
「アスカにも招待が来てるんです。もうダブルBに行ってる。今日、学校にも来てない。僕は何をすればいいんですか。何を知れば、アスカを守れるんですか」
リョウの声は資料準備室の空気を震わせた。紙の匂いが濃くなる。窓の外で風が吹き、古い硝子がかすかに鳴った。ナギサが「先輩」と小さく呼んだが、リョウは止まれなかった。
「知ってるなら教えてください。危ないなら危ないって言ってください。説明できない理由があるなら、それも言ってください。何も言わずに覚悟しろとか、深入りするなとか、そんなの、ずるい」
マナはしばらく黙っていた。怒っているようには見えない。ただ、何かを測っているようだった。リョウの怒りではなく、その怒りの奥にあるものを。やがて彼女は、ファイルを閉じた。
「あなたの言う通り、私はずるい」
静かな声だった。
「知っていることを全部話せば、あなたは今より早く危険に近づく。話さなければ、あなたは私を疑って、それでも自分で調べる。どちらを選んでも、あなたは近づく。だから私は、言葉を選ぶしかない」
「結局、説明しないってことですか」
「今、言えることだけ言う」
マナはリョウをまっすぐ見た。
「〈クラブ・ダブルB〉は、ただの悩み相談ではない。小野寺真琴さんも、三枝千尋さんも、そこに関わった可能性が高い。参加した生徒の一部は戻ってくる。けれど、戻ってきたからといって、元のままだとは限らない」
リョウは、息を止めた。
「一部は、戻らない。戻ったように見えても、何かが違う。周囲は良くなったと思うこともある。本人も、楽になったと言うことがある。でも、名前の呼び方、鏡への反応、痛みへの反応、記憶の厚み。そういうものが、少しずつずれている」
「それ、どういう状態なんですか」
「まだ名前をつけない方がいい」
「また」
「名前をつけると、それを見ようとしてしまう。見ようとすれば、向こうからも見つけられる」
その言葉は、都市伝説のようだった。根拠も仕組みも分からない。だが、リョウは笑えなかった。鏡の中の顔。スマホの通知。見知らぬ招待。こちらが見る前から、すでに何かに見られている感覚。それらがマナの言葉を補強してしまう。
「アスカは、どうなるんですか」
リョウは声を落とした。
「彼女は……戻ってこなくなるんですか」
マナはすぐには答えなかった。その沈黙が、どんな答えよりも怖かった。
「まだ、決まっていない」
「決まってない?」
「だから急いで」
「何を」
「アスカさんを一人にしないで」
その言葉は、命令に近かった。ナギサも顔を上げた。
「一人にしないって、物理的にですか」
「それも含むわ。けれど、それだけでは足りない。彼女がどこへ行こうとしているのか、何を求めているのか、ちゃんと見て。止めるなら、言葉を選んで。怖いから駄目だと言うだけでは、彼女はもっと遠くへ行く」
「遠くって、どこへ」
「ここではない場所」
マナは答えた。それ以上は言わなかった。リョウは拳を握った。説明されないことへの苛立ちと、説明されないからこそ大きくなる恐怖が、胸の中で絡み合う。
「春日くん」
マナが彼の名を呼んだ。
「アスカさんを探すなら、覚悟して」
探すなら。その言葉に、リョウは強く反応した。
「探すって、どういう意味ですか。アスカはまだ消えてない」
「そうね」
「縁起でもないこと言わないでください」
「縁起の問題ではないわ」
「じゃあ何なんですか」
「あなたがこれから向き合うかもしれない現実の話」
マナの声は冷静だった。冷静すぎて、リョウには残酷に聞こえた。
「真実を知れば、彼女が戻るわけじゃない。名前を追えば、傷つくのはあなただけでは済まない。見つけたものが、あなたの望むアスカさんとは限らない。それでも探すなら、覚悟して」
「僕は、アスカを見つけたいだけです」
「それが一番危ない」
リョウは言葉を失った。なぜ、大切な人を探すことが危ないのか。なぜ、忘れないことが危険の入口のように言われなければならないのか。マナは明らかに何かを知っている。だが、その中心だけは見せない。リョウは彼女を信じたいのか、疑いたいのか分からなかった。ただ、今この場で分かることはひとつだけだった。彼女はアスカの失踪を、まだ起きていない出来事としてではなく、すでに始まっているものとして見ている。
ナギサが沈黙を破った。
「マナ先輩。椎名先輩に、今すぐ連絡した方がいいですよね」
「ええ」
マナは短く頷いた。
「春日くん、電話して」
リョウはすぐにスマホを取り出した。アスカの名前をタップする。画面に表示された名前は、いつも通りそこにあった。椎名アスカ。アイコンには、以前一緒に撮った写真の一部が使われている。顔は写っていない。二人で買った飲み物と、図書室の机の上に置いた栞。何でもない日常の断片だった。
通話ボタンを押す。呼び出し音が鳴る。リョウは耳にスマホを当てた。鳴る。一回。二回。三回。ナギサが息を潜めている。マナは机の上に置いた赤い栞を見つめていた。四回。五回。つながらない。
やがて、呼び出し音が途切れた。
電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため、かかりません。
無機質な音声が耳の奥に流れ込んだ。リョウは一瞬、意味を理解できなかった。通話を切り、もう一度かける。結果は同じだった。電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため。そんなはずがない。アスカはスマホを切らない。少なくとも、何も言わずにリョウからの電話を切るようなことはしない。
「もう一回」
ナギサが言った。声が少し震えていた。リョウは三度目をかけた。つながらない。四度目。つながらない。画面の中の「椎名アスカ」という文字だけが、やけに鮮明だった。まるで、その名前だけが世界から浮き上がっている。
「家に」
リョウは慌てて連絡先を開こうとした。指が震えて、画面をうまく操作できない。マナが立ち上がった。
「落ち着いて」
「落ち着けるわけないだろ!」
声が出た。資料準備室の紙束が震えた気がした。ナギサがびくりとする。リョウはすぐに後悔したが、謝る余裕はなかった。
「アスカは、朝から学校に来てない。電話もつながらない。マナ先輩、あなた、何か知ってるんですよね。こうなるって分かってたんですか」
「分かっていたわけじゃない」
「でも、予想はしてた」
「可能性は」
「何でそれを先に言わなかったんですか!」
マナは答えなかった。リョウの怒りを受け止めるように、まっすぐ立っている。窓の外で、風が強くなった。硝子が小さく鳴る。机の上の赤い栞が、わずかに動いた。
「春日くん」
マナは低く言った。
「今は私を責める時間じゃない。アスカさんが最後にどこにいたかを確認する。水鏡先生、担任、下駄箱、昇降口、旧校舎。動けるところから動く」
その声には、迷いがなかった。感情を出さないのではない。感情より先に、必要な行動を選んでいる声だった。リョウは歯を食いしばった。怒っている場合ではない。そんなことは分かっている。だが、怒りを手放せば、その下から恐怖が噴き出してきそうだった。
「ナギサ」
マナが言った。
「あなたは一年の連絡網を確認して。三枝さんのときと同じ噂が流れていないか見て」
「分かりました」
「春日くんは、椎名さんの教室と下駄箱。私は保健室と職員室を確認する」
「保健室……」
リョウの脳裏に白いカーテンが揺れた。水鏡紫影の声。一人で抱えなくていいのよ。アスカが保健室へ入っていった背中。自分がその扉の前で立ち尽くしていた時間。もっと早く、もっと強く、何かできたのではないかという後悔が、早くも胸を締めつけ始める。
スマホが、リョウの手の中で震えた。
アスカからかと思い、彼は飛びつくように画面を見た。だが、表示されたのは通話ではなかった。通知でもなかった。メッセージアプリの画面が勝手に開いていた。差出人名はない。本文もない。ただ、白い入力欄に、一文字ずつ、見えない誰かが打ち込むように文字が現れていく。
探さないで。
リョウの呼吸が止まった。ナギサが横から画面を覗き込み、顔色を変える。マナはスマホを見るなり、鋭く目を細めた。
次の瞬間、その文字は消えた。履歴にも残らない。通知にも残らない。画面には、ただアスカへの不在着信の記録だけが並んでいた。
「今の」
リョウは掠れた声で言った。
「今の、見ましたよね」
「見た」
マナは答えた。初めて、彼女の声にもわずかな緊張が混じっていた。
「春日くん。もう一度言うわ」
マナは黒い傘を手に取った。室内なのに、まるでこれから雨の中へ出るような仕草だった。
「アスカさんを一人にしないで」
リョウはスマホを握りしめた。画面の中で、椎名アスカという名前だけが光っている。まだ名前はある。連絡先にも、通話履歴にも、彼女の名はある。だから大丈夫だ。そう思いたかった。名前が残っている限り、彼女はまだここにいる。そう信じたかった。
だが、通話はつながらなかった。
何度かけても、アスカの声は返ってこなかった。




