第4章 椎凪ナギサ
翌朝の六道学園には、よく手入れされた庭園のような静けさがあった。正門にはいつもより早い時間から生活指導の教師が立ち、校舎へ続く石畳の両側では、朝露を含んだ植え込みが薄く光っている。生徒たちは制服の裾を整え、挨拶をし、靴箱の前で他愛ない会話を交わした。けれど、その声は一枚の膜をかぶせられたように低かった。誰も騒がない。誰も走らない。誰も、失踪という言葉を口にしない。口にしなくても、全員がその言葉を知っているからだ。噂は廊下の隅に溜まり、掲示板の画鋲の影に潜み、スマホの黒い画面の奥で息を潜めていた。
春日リョウは昇降口で靴を履き替えながら、下駄箱の上に貼られた新しい掲示に目を留めた。生徒指導部からの通達。無許可の集会、匿名チャットへの参加、校内掲示物の無断掲示を禁ずる。見慣れた事務的な文章だったが、今朝はそこに「不審なQRコードを見つけた場合は、速やかに教職員へ連絡すること」という一文が加えられていた。昨日までなかった文言だ。リョウはしばらくその文字を見つめた。QRコード。匿名チャット。無許可の集会。どれも、アスカのスマホに届いた招待とつながって見える。見えてしまう。
「春日先輩、ですよね」
背後から声がした。女子の声だった。明るい。けれど、明るさの下にわずかな緊張がある。リョウが振り返ると、少し小柄な少女が立っていた。制服のリボンの色から一年生だと分かる。髪は肩のあたりで軽く跳ね、下フレームの細い眼鏡の奥で、よく動く目がこちらを見上げていた。知らない顔だった。少なくとも、リョウの記憶にはない。
「そうだけど」
「よかった。人違いだったら、朝から知らない先輩に声をかけた不審者になるところでした」
「今の時点で、だいぶ不審だけど」
「あ、そこは否定してくれないんですね。厳しい」
少女は軽く肩をすくめた。初対面とは思えない距離感だった。リョウが返答に困っていると、彼女は自分の胸に手を当てて、少しだけ姿勢を正した。
「一年の椎凪ナギサです。椎凪は、椎名さんの椎に、凪です。名前はカタカナでナギサ。たぶん珍しいので覚えやすいです」
「椎凪……ナギサ」
「はい。覚えました?」
「まだ今聞いたところだから」
「じゃあ三回くらい心の中で唱えてください。椎凪ナギサ、椎凪ナギサ、椎凪ナギサ」
「何の勧誘?」
「自己紹介の定着作業です」
軽口の調子に、リョウは少しだけ毒気を抜かれた。だが、すぐに警戒が戻る。知らない一年生が、自分の名前を知っている。昇降口で待っていたように声をかけてきた。偶然ではない。
「それで、椎凪さんが僕に何の用?」
「ナギサでいいです。椎凪さんって呼ばれると、なんか生活指導室に呼ばれたみたいで落ち着かないので」
「じゃあ、ナギサ。僕に用?」
「はい。春日先輩、椎名アスカ先輩と付き合ってますよね」
その名が出た瞬間、リョウの胸が少し強張った。アスカはまだ登校していない。昨夜、校門で合流したあとも、彼女はいつもより口数が少なかった。水鏡先生のことを聞くと、少しだけ話しただけだよ、と笑った。その笑顔を信じたいのに、保健室の鏡に映った見知らぬ顔が、リョウの頭から離れない。
「それ、誰から聞いたの」
「下級生の間でも有名ですよ。二年の春日先輩と椎名先輩、いつも一緒にいるって。あと、佐伯先輩がわりと大きい声でからかってるので」
「佐伯か……」
「良い宣伝塔ですね。本人にその気がなくても情報拡散力があります」
「それで、アスカに用があるなら、本人に」
「いえ、今日は春日先輩に用があります」
ナギサの声から、ふっと軽さが抜けた。リョウはそこで初めて、この少女がただ人懐っこいだけではないことに気づいた。彼女の目は笑っているように見えたが、その奥は笑っていない。何かを決めて、ここに立っている目だった。
「少し、話せませんか。ここだと目立つので」
「僕、ホームルームがあるんだけど」
「五分でいいです」
「五分で済む話?」
「済ませるつもりはあります。でも、たぶん済みません」
「正直だな」
「嘘をつくと話が早くなるときもありますけど、あとで信頼を失うので。今はまだ、先輩に信頼を失われるほど信頼されてないですし」
理屈が妙に回っている。リョウはため息をつき、昇降口の掲示板から視線を外した。
「どこで話す?」
「旧校舎の渡り廊下の手前。朝は人が少ないです。あと、そこ、鏡がないので」
最後の一言に、リョウは反応した。ナギサはそれを見逃さなかった。彼女はすぐにいつもの軽い顔へ戻したが、その目だけはリョウの反応を記録していた。
「……どうして鏡がない場所を選ぶんだ」
「先輩も気にしてるかなと思って」
「鏡を?」
「はい。最近、みんな気にしてます。気にしてないふりをしてる人ほど、横目で見てます」
ナギサはそう言うと、くるりと背を向けた。歩き出す足取りは軽い。まるでただの朝の寄り道のようだ。だが、リョウの中には、すでに引き返せない感覚が生まれていた。昨日の保健室で見た顔。水鏡の言葉。アスカの沈黙。そこに、この一年生の言葉が新しい線を引く。鏡がないので。リョウはその背を追った。
旧校舎へ続く渡り廊下は、本校舎の喧騒から少し離れていた。窓の外には中庭の一角が見え、植え込みの向こうに古い水盤がある。雨上がりの朝はどこも湿っていて、床のリノリウムにも薄い冷気が残っていた。渡り廊下の手前には非常階段へ続く小さなスペースがあり、使われていない掲示板と、回収忘れの椅子が二脚置かれている。ナギサはその椅子のひとつに腰を下ろし、もうひとつをリョウに示した。
「どうぞ。密談っぽいですね」
「自分で言うと怪しさが増す」
「じゃあ健全な情報交換ということで」
「何の情報を交換するんだ」
ナギサは眼鏡の位置を直した。軽口の続きで笑うのかと思ったが、彼女の表情は急に静かになった。
「六道学園失踪事件について」
その言い方が、あまりにもはっきりしていた。リョウは黙った。生徒たちはみな噂している。小野寺真琴のことを、ダブルBのことを、半分は怖がり、半分は面白がって話している。けれど、それを事件と呼ぶ者は少ない。学園がそう呼ぶことを避けているからだ。家庭の事情。一時的な家出。精神的な疲労。教師たちは言葉を選び、生徒たちもその選ばれた言葉の周囲で遊ぶ。だがナギサは、真正面から事件と言った。
「その言い方、誰かに聞かれたら怒られるよ」
「怒られますね。たぶん生活指導室で三十分くらい説教です。反省文も追加かも」
「分かってて言うんだ」
「分かってるから、ここで言ってます」
ナギサは鞄から一冊の小さなノートを出した。表紙は無地で、角が少し擦れている。中を開くと、細かい字で日付と名前、目撃情報らしい短い文が並んでいた。リョウは思わず身を乗り出した。
「それ、何?」
「個人的な調査ノートです。かっこよく言うと失踪者メモ。普通に言うと、あたしの悪趣味な不安ノート」
「自分で悪趣味って言うんだな」
「言わないと、先輩に言われそうなので先に」
「言わないよ」
「ほんとですか? 今、ちょっと言いそうな顔でした」
ナギサはそう言って笑ったが、その笑みは長く続かなかった。彼女はノートのページを一枚めくり、ある名前のところで指を止めた。
三枝千尋。
高等部一年。日付は、小野寺真琴が戻ってくるより少し前だった。
「三枝千尋。あたしの友達です」
ナギサの声が低くなった。さっきまでの軽い響きが消え、ひどく慎重なものになる。名前を乱暴に扱えば、その子まで傷ついてしまうとでもいうように。
「失踪したの?」
「はい。学校は、家庭の事情って言ってます」
「またか」
「便利ですよね、家庭の事情。何でも包めます。家出も、病欠も、喧嘩も、失踪も。外から見えない箱に入れて、蓋をして、はい終わり」
言葉は皮肉っぽかったが、声は震えていなかった。震えないようにしている声だった。リョウはノートから目を離せなかった。
「警察は?」
「親御さんは届けたみたいです。でも、学校ではあまり話すなって。千尋は人間関係で少し悩んでたから、一時的に家を離れている可能性があるとか、そういう説明でした」
「小野寺さんと同じだ」
「はい。小野寺先輩が戻ってきたとき、あたし、思ったんです。千尋も戻ってくるかもしれないって。怖いのに、期待しました。戻ってくるなら、どんな状態でもいいって、一瞬思いました」
ナギサはそこで唇を噛んだ。小さな仕草だったが、リョウには見えた。彼女は明るく振る舞うことに慣れている。冗談を先に置き、相手の警戒をほどき、自分の痛みを見えにくくする。けれど、友人の名前を口にしたときだけ、その仮面が薄くなる。
「でも、小野寺さんはまた消えた」
リョウが言うと、ナギサは頷いた。
「だから、戻ってくればいいって話じゃないんだって思いました。帰ってきた人が、本当に帰ってきたのか分からない。じゃあ、千尋が戻ってきても、あたしは何を確認すればいいんだろうって」
その問いは、リョウの胸にも刺さった。昨日の保健室の鏡に映った顔。小野寺真琴が言った、私たちは、まだ帰ってきていない、という言葉。本人の姿をして、本人の声で話しても、それが本人だとどうやって信じればいいのか。そんなことは、本来考える必要のない問いだった。けれど、この学園ではもう、その問いを避けて通れなくなっている。
「ナギサは、どうして僕に声をかけたんだ」
「椎名アスカ先輩が〈クラブ・ダブルB〉に関わってるって聞いたからです」
リョウは息を止めた。
「誰から」
「下級生の噂です。正確には、二年の先輩と旧校舎で会った一年の子がいて、その子が『椎名先輩も来てた』って話してました。名前を出していいかは迷いましたけど、ここまで来てぼかす方が不誠実なので言います」
「その子は、ダブルBに行ったのか」
「たぶん。本人は、ただの相談会だって言ってました。悩みを話すだけ。誰にも否定されない。行った人は少し楽になる。正式な会員になれば、もっと変われる。そういう話」
リョウの頭に、アスカの言葉が重なった。そこは、悩みを話すだけの場所。参加者はみんな優しい。正式会員になれば、もっと心が軽くなるらしい。アスカの声で聞いた言葉が、ナギサの口から同じ形で出てくる。偶然ではない。
「下級生の間では、そんなに広がってるのか」
「かなり。上級生より広がりが早いと思います。たぶん、悩んでる子にだけ届くから」
「悩んでる子にだけ?」
「そういう噂です。探しても見つからない。参加したいって言ってるだけの人には来ない。でも、本当に困ってる子のスマホには通知が来る。校内掲示板に一瞬だけQRコードが出る。鏡に映った自分の後ろに、招待文が見える。馬鹿みたいでしょ」
「馬鹿みたいとは、思わない」
リョウは低く言った。ナギサが、少しだけ目を細める。
「春日先輩も、何か見ました?」
リョウは答えなかった。保健室の鏡。見知らぬ顔。わたしたち、と動いた口。話すべきか迷った。目の前の一年生に、あれを信じろと言うのは無理がある。だが、ナギサはリョウの沈黙を見て、勝手に結論を急がなかった。
「答えなくていいです。今すぐは」
「随分、慣れてるな」
「慣れたくて慣れたわけじゃないです」
その返しには、少しだけ本音の棘があった。ナギサはすぐに視線をノートへ戻し、別のページを開いた。
「下級生の噂をまとめると、〈クラブ・ダブルB〉は、いくつか共通点があります。ひとつ、場所が毎回違う。旧校舎の空き教室だったり、視聴覚室だったり、図書室の奥だったり、保健室の奥の相談スペースだったり。ひとつ、招待は個別に届く。ひとつ、参加した子は口を揃えて『危ないところじゃない』って言う」
「アスカも言ってた」
「ですよね」
「知ってたみたいに言うな」
「予想はしてました。行った子、みんな同じ言い方をするので」
リョウは不快になった。同じ言い方。それはつまり、アスカの言葉がアスカだけのものではない可能性を意味する。誰かに言わされているとは思いたくなかった。けれど、同じ場所へ行った者たちが、同じ安心の言葉を持ち帰る。それはただの相談会にしては、あまりに整いすぎている。
「もうひとつあります」
ナギサは声を落とした。
「参加した子の中に、急に明るくなる子がいるんです」
「明るく?」
「はい。前は教室の隅で一人だった子が、急に誰にでも優しくなったり。人間関係で泣いてた子が、次の日から何もなかったみたいに笑ってたり。先生は、良くなったんだって言います。周りも、よかったねって言います。でも、近くで見ると、なんか違うんです」
「違うって、どういうふうに」
「うまく言えません。笑い方が同じになるんです」
リョウは眉をひそめた。
「同じ?」
「同じっていうか、誰かに教わったみたいな笑い方。こっちが一番安心する角度で笑うんです。言ってほしい言葉を、ちょうどいい温度で言う。優しいんです。すごく。でも、優しすぎて怖い」
その表現に、リョウは水鏡紫影の顔を思い出した。彼女の言葉は、いつも正しい場所へ落ちる。痛みを否定せず、焦りを責めず、誰かの不安を包み込む。あの優しさと、ナギサが語る「優しすぎる」人たちを同じものにしてはいけない。そう思う一方で、どこかで線がつながりそうになる。
「千尋さんも、ダブルBに?」
リョウが尋ねると、ナギサの手が止まった。ノートの端を押さえる指に力が入る。
「話してました」
「参加したって?」
「それは分かりません。少なくとも、行きたいとは言ってました」
ナギサはしばらく黙った。廊下の向こうで予鈴が鳴った。遠くの教室から、生徒たちが慌てて移動する足音が聞こえる。だが二人は動かなかった。鐘の音が消えるまで、ナギサはノートを見下ろしていた。
「千尋、人間関係で悩んでたんです」
やがて彼女は言った。
「クラスの中で、誰かと喧嘩したとか、いじめられてたとか、そういう分かりやすい話じゃありません。友達はいる。でも、その輪の中にいる自分が本物じゃない気がするって。みんなと笑ってても、帰り道で急に空っぽになるって。あたしには、そう言ってました」
リョウは息を呑んだ。アスカの声が重なる。幸せなのに、不安になるの。変だよね。違う人間の悩みなのに、どこかで同じ場所へ向かっている。幸福の中にある不安。友人の輪の中にある孤独。誰にも否定されない場所を求める気持ち。
「それで、千尋が言ったんです。『そういうのを聞いてくれる場所があるらしい』って。悩みを話したら、少し楽になる。自分が自分でいるのが苦しくなくなる。正式会員になったら、もう一人じゃなくなるって」
「もう一人じゃなくなる……」
「はい。今思えば、そこに引っかかるべきでした。でもそのときは、あたしも軽く聞き流しました。よかったじゃん、相談できるなら行ってみたら、くらいのことを言いました」
ナギサは笑った。自分を責めるための笑いだった。
「最低ですよね。友達が危ないものに近づいてるかもしれないのに、あたし、ちゃんと止めなかった」
「それは違う」
リョウはすぐに言った。自分でも驚くほど強く出た。ナギサが顔を上げる。
「知らなかったなら、止められないだろ。僕だって、アスカが悩んでるのを知ってたのに、ちゃんと分かってなかった。……分かってたつもりで、何も分かってなかった」
「椎名先輩のこと?」
「うん」
アスカのことをどこまで話すべきか迷った。だが、ナギサはもう十分に踏み込んでいる。ここで隠せば、情報交換ではなくなる。
「アスカにも招待が来た。彼女はもう、ダブルBに行ってる。危ないところじゃないって言ってた。悩みを聞いてくれる場所だって。正式会員になれば、もっと楽になるって」
「やっぱり」
ナギサは低く呟いた。そこに勝ち誇る響きはなかった。むしろ、当たってほしくない予想が当たったときの顔だった。
「椎名先輩は、今どこに?」
「まだ教室には来てないと思う」
「連絡は?」
リョウはスマホを取り出した。アスカからのメッセージは来ていない。昨日の夜は、家に着いたという短い連絡があった。それ以降はない。リョウはメッセージ画面を開き、文字を打とうとして手を止めた。何を送ればいいのか分からない。大丈夫? 昨日のことだけど。ダブルBにまた行くな。どれも違う気がした。
「春日先輩」
ナギサが静かに呼んだ。
「椎名先輩を責めないでください」
「責めるつもりはない」
「でも、不安だと責める言葉になりやすいです。あたしも、千尋にそうだったから」
リョウはスマホを握ったまま、ナギサを見た。彼女は一年生だ。自分より年下で、さっきまで軽口ばかり叩いていた。けれど、今の彼女の言葉は妙に重かった。すでに一度、友人を失っている者の言葉だった。
「千尋さんには、何て言ったんだ」
「『そんな変な集まり、やめなよ』って」
「普通だろ」
「普通です。でも、千尋はそのとき、変な集まりに行きたいんじゃなかった。誰かに聞いてほしかったんです。自分が空っぽになるって話を。あたしはそこを聞かないで、場所だけ否定した。そしたら千尋、笑って言いました。『ナギサは明るいから、分からないよ』って」
ナギサはそこで言葉を切った。唇を結び、目を伏せる。明るいから分からない。その言葉が、彼女の中にまだ刺さったままなのだと分かった。明るい者は傷つかないわけではない。けれど、明るく振る舞うほど、人はその傷を見落とす。ナギサはきっと、友人の痛みに届かなかった自分と、明るいと言われてしまう自分の両方を抱えている。
「そのあと、千尋は?」
「次の日、学校を休みました。風邪って連絡があって、その次の日も来なくて。三日目に、家にもいないって分かりました」
「失踪前に、何か残してないのか」
「スマホは家にありました。ロックがかかってて、中は見られなかったみたいです。でも、千尋の机に、メモが一枚ありました」
ナギサはノートの間から折りたたんだ紙を取り出した。コピーだろう。薄い罫線のあるメモ用紙に、丸い文字で短く書かれている。
もう少しだけ、楽になりたい。
リョウはその文字を見つめた。たった一文だった。だが、その短さがかえって重い。長い遺書のような悲壮さはない。誰かを責める言葉もない。ただ、疲れた人間が廊下の壁にもたれかかるように書いた願い。もう少しだけ。楽になりたい。そこに悪意はない。怪しい組織へ向かう覚悟もない。ただ、痛みの端を誰かに持ってほしいという小さな願いがある。
「これ、先生には?」
「提出しました。でも、家庭の事情と精神的な疲労の範囲だって。あたしにはそう聞こえました」
「学園は隠してるのか」
「分かりません。隠してるのか、本当に分かってないのか。どっちにしても、千尋は戻ってません」
ナギサはメモをノートに戻した。その動作は丁寧だった。まるで友人の名前を、乱暴な世界から守るように。
「春日先輩、あたしと組みませんか」
「組む?」
「事件を調べるんです。先輩は二年側の情報を持ってる。椎名先輩のこともある。あたしは下級生側の噂を集められます。お互い、先生には聞けないことを聞ける」
「探偵ごっこじゃないんだぞ」
「ごっこだったらよかったです」
ナギサの声が、少しだけ硬くなった。
「でも、千尋が消えてます。小野寺先輩もおかしくなって戻って、また消えました。椎名先輩にも招待が来てます。これを見て何もしない方が、あたしには無理です」
「危険かもしれない」
「はい」
「ナギサまで巻き込まれるかもしれない」
「もう巻き込まれてます」
返答は早かった。迷いがなかった。リョウは言葉を失う。ナギサはそれを見て、少しだけいつもの軽さを戻した。
「それに、先輩一人だと危なっかしいですし」
「会って十分の後輩に言われたくない」
「十分で分かるタイプの危なっかしさです。椎名先輩のことになると、視野が三センチくらいになりそう」
「そんなに狭くない」
「じゃあ五センチ」
「広げたつもり?」
「譲歩しました」
リョウは思わず息を吐いた。笑ったつもりはなかったが、少しだけ口元が緩んだ。ナギサもそれを見て、小さく笑った。その笑いは、今度は少しだけ本物に近かった。
しかし、すぐに予鈴の残響が消え、本鈴が鳴った。渡り廊下の空気が一段冷える。授業が始まる。日常へ戻れという合図だった。けれど、リョウはもう、完全には戻れないところまで来ている気がした。
「とりあえず、今日の放課後」
ナギサはノートを閉じながら言った。
「旧校舎の掲示板を見に行きたいです。昨日、一年の子が『変なQRが貼ってあった』って言ってました。今朝の通達、見ましたよね?」
「見た」
「先生たちが剥がしたかもしれません。でも、跡くらいは残ってるかも」
「アスカにも話す」
「その方がいいと思います。でも、言い方は慎重に。椎名先輩がダブルBに救われたと思っているなら、頭ごなしに否定すると、逆に遠くなります」
「分かってる」
「分かってなさそうな顔でした」
「ナギサは遠慮がないな」
「先輩が遠慮してほしいタイプなら、今からします」
「いや、いい」
「じゃあ遠慮しません」
ナギサは椅子から立ち上がった。ノートを鞄にしまい、リボンを整える。動作は軽い。だが、その肩に乗っているものは軽くない。リョウはそれを見て、彼女をただの明るい後輩だとは思えなくなっていた。
「最後に、確認していいですか」
ナギサが言った。
「何を」
「春日先輩は、椎名先輩を本気で助けたいんですよね」
「当たり前だろ」
「当たり前って、意外と信用できない言葉なので。ちゃんと聞きたかったんです」
「本気だよ」
リョウははっきり答えた。ナギサはその顔を数秒見つめ、それから頷いた。
「分かりました。じゃあ、あたしも本気で手伝います」
「どうしてそこまで」
「言ったじゃないですか。友達が消えたからです」
「それだけ?」
ナギサは一瞬だけ黙った。廊下の向こうから教師の足音が近づいてくる。彼女は早く教室へ戻らなければならないはずなのに、その場を動かなかった。やがて、いつもの軽さを少しも混ぜずに言った。
「あたし、千尋に言われたんです。『ナギサは明るいから、分からないよ』って。たぶん、あれが最後にちゃんと聞いた千尋の声です。だから、次に誰かが同じ場所へ行こうとしてるなら、今度は分からないままにしたくないんです」
その言葉には、痛みがあった。だが、泣き声ではなかった。前へ進むために、何度も胸の中で磨かれた痛みだった。
ナギサは鞄を肩にかけ直し、教室へ戻ろうとした。だが数歩進んだところで、振り返った。
「あ、そうだ。肝心なこと、まだ言ってませんでした」
「まだあるのか」
「あります。というか、これが一番大事です」
ナギサは今度こそ、冗談を消した顔でリョウを見た。廊下の窓から差す朝の光が、彼女の眼鏡に白く反射する。その向こうの目は、友人を失った少女のものだった。
「あたしの友達も、ダブルBの話をしてから消えました」
その一文は、渡り廊下の冷えた空気に落ち、しばらく消えなかった。
リョウは何も返せなかった。窓の外の水盤が、風もないのに小さく揺れた。揺れた水面に、二人の影が一瞬だけ映る。二人のほかに、もうひとつ、少女の影が重なったように見えた。
次の瞬間には、ただの濁った水面に戻っていた。




