第3章 保健室の白いカーテン
保健室の白い扉は、閉じられてしまえばただの扉だった。硝子窓は曇り、向こう側の気配を薄くぼかしている。廊下の夕光はすでに力を失い、南校舎の床には灰色の影が長く流れていた。春日リョウは、その扉の前に立ったまま、しばらく動けなかった。中から聞こえた水鏡紫影の声は、薬湯に落とした蜂蜜のように柔らかかった。一人で抱えなくていいのよ。その言葉は、怒りや疑いを起こさせるにはあまりに優しすぎた。だからこそ、リョウの胸には別の痛みが生まれていた。アスカは、自分ではなくこの扉の向こうの人に、何かを話している。昼休みに自分へは言い切れなかった不安を、もしかすると水鏡先生には話している。その事実が、廊下の冷気よりも深くリョウの体を冷やした。
声をかけるべきか、帰るべきか。リョウは何度も扉の取っ手へ手を伸ばしかけ、そのたびに引っ込めた。中では、何かを問い詰める声も、泣き声も聞こえない。聞こえるのは、布がわずかに揺れる音と、水鏡の低い声だけだった。言葉の内容までは分からない。けれど、耳を澄ませている自分に気づき、リョウは唇を噛んだ。盗み聞きだ。そう思った。恋人が誰かに相談している。その秘密を、廊下で立ち尽くして盗もうとしている。自分がひどく卑しい人間になった気がした。
踵を返しかけたとき、扉の向こうで椅子を引く音がした。リョウは思わず柱の陰へ身を寄せた。すぐに扉が開き、アスカが出てきた。彼女の目元は少し赤かったが、泣いたあとのような腫れはない。むしろ、入る前よりも表情は落ち着いていた。胸の奥に抱えていた重い荷物を、誰かに少し持ってもらったような顔だった。その安堵を見た瞬間、リョウはほっとした。ほっとして、同時に傷ついた。自分では彼女をそんな顔にできなかったのだと、思い知らされたからだ。
「リョウ?」
アスカが彼に気づいた。驚きより先に、困惑が浮かんだ。責める顔ではなかった。それがまた苦しかった。
「帰ったんじゃなかったの?」
「待ってるって言っただろ」
「でも、先に帰っててって」
「待ってた」
言葉が硬くなった。アスカは少しだけ目を伏せた。
「ごめん」
「謝らなくていい」
「でも、リョウ、怒ってる」
「怒ってない」
「怒ってるとき、そういう声になる」
リョウは何も言えなかった。アスカは彼のことをよく知っている。自分の感情を隠しているつもりでも、彼女にはすぐ分かってしまう。なのに、自分はアスカの不安に気づけなかった。その非対称さが、情けなかった。
「水鏡先生に、何を話してたんだ」
言ってから、すぐに後悔した。問いの形をしているが、責めているように聞こえた。アスカもそれを感じたのだろう。肩を小さく揺らし、保健室の扉を振り返った。
「ごめん。今はまだ、うまく言えない」
「僕には言えないこと?」
「リョウに言えないっていうより、言葉にすると、ほんとになる気がして」
「じゃあ、水鏡先生には言えるのか」
アスカの顔が少しだけ強張った。リョウは自分の声に棘が混じったのを聞いた。止めたいのに、止められない。
「先生は、聞いてくれるから」
「僕だって聞く」
「うん。聞いてくれる。でもリョウは、わたしが何か言うと、すぐに何とかしようとしてくれるでしょ」
「悪いことか」
「悪いことじゃない。嬉しいよ。すごく嬉しい。でも、まだ何とかしてほしいわけじゃないときもあるの。ただ、怖いって言ってもいい場所がほしいだけのときがある」
それは静かな言葉だった。怒っているのでも、拒んでいるのでもない。ただ、自分の中にある形のない不安を、壊さないように差し出している言葉だった。リョウはそれを受け止めたかった。だが、受け止め方が分からなかった。自分が何かを間違えたことだけは分かる。けれど、どう間違えたのかまでは見えない。
扉の内側から、水鏡紫影が姿を現した。
「春日くん」
名前を呼ばれ、リョウは反射的に背筋を伸ばした。水鏡は白衣の袖を整えながら、穏やかに微笑んでいた。髪は暗い紫を含んだ黒で、低い位置にまとめられている。目元には疲労の影があるが、それは不健康というより、夜通し誰かの話に耳を傾けてきた人の静かな疲れに見えた。派手さはない。生徒に威圧を与えないように選ばれた柔らかな声と、白衣の清潔さと、微かに漂う消毒薬の匂い。そのすべてが、彼女を「ここにいていい」と言ってくれる大人に見せていた。
「待っていてくれたのね。寒くなかった?」
「いえ」
「椎名さんを心配して?」
答える前に、アスカが口を開いた。
「先生、わたしが悪いんです。リョウに、ちゃんと説明してなかったから」
「悪い、という言い方はしなくていいのよ」
水鏡は、アスカを責めなかった。リョウも責めなかった。ただ、二人の間に張った見えない糸がこれ以上強く引かれないように、そっと指を添えるような言い方だった。
「誰かに話せることと、まだ話せないことは違うの。話せないから信頼していない、ということではないわ」
その言葉はリョウに向けられていた。柔らかいが、逃げ道はない。リョウは自分の幼さを見透かされたようで、頬が熱くなった。
「……すみません」
「謝る必要もないわ。大切な人が自分の知らないところで悩んでいたら、不安になるもの。春日くんが心配するのは自然なことよ」
水鏡はそう言うと、保健室の扉を少し広く開けた。白いカーテンが奥で揺れている。薄い布の向こうにベッドの輪郭があり、窓際には小さな鉢植えが置かれていた。机の上には体温計、消毒液、記録用のファイル。何も不自然なものはない。ただ、放課後の光を受けた白いカーテンだけが、病室のものというより、舞台の幕のように見えた。その向こうに、誰かの物語が隠されている。
「よければ、少し話していく? 椎名さんのことを詳しく話すことはできないけれど、春日くんが不安なら、その不安は聞けるから」
「先生」
アスカが小さく声を上げた。水鏡は微笑んで頷いた。
「大丈夫。椎名さんの話を、勝手にはしないわ。約束する」
アスカはリョウを見た。行く? と目で尋ねるようだった。リョウは迷った。水鏡と話すことは、アスカの秘密を覗くことではないのか。けれど、このまま帰れば、何も分からないまま不安だけが膨らむ。結局、リョウは頷いた。
「少しだけなら」
「では、椎名さんは先に帰っていてくれる? 暗くなる前に。春日くんも、長くは引き止めないから」
アスカはリョウの顔を見た。そこには心配とためらいが混じっていた。自分だけが知られるのは怖い。けれど、リョウが一人で不安を抱えることも嫌だ。そんな表情だった。
「リョウ」
「大丈夫。僕も、少し話すだけ」
「……うん。じゃあ、校門のところで待ってる。十分だけ」
「分かった」
「十分過ぎたら、置いて帰るから」
「それは困るな」
アスカはようやく少し笑った。その笑みは頼りなかったが、リョウにはありがたかった。彼女は水鏡に小さく頭を下げ、廊下を歩いていった。曲がり角で一度振り返り、リョウを見た。リョウが軽く手を上げると、アスカも同じように手を上げてから、姿を消した。
保健室へ入ると、廊下よりも空気が少し暖かかった。窓際の白いカーテンが外の曇り空を透かし、室内全体を淡い灰白色に染めている。消毒薬の匂いの奥に、かすかな花の香りがあった。強い香水ではない。雨上がりの庭で白い花がひっそりと開いたような、淡い匂いだった。リョウは、それを旧校舎の空き教室の話と結びつけそうになり、意識して考えを止めた。ここは保健室だ。花の匂いくらいあってもおかしくない。
「座って」
水鏡は丸椅子を示した。自分は机の向こうに座らず、リョウの斜め前の椅子に腰を下ろした。机越しではなく、向かい合いすぎず、逃げ道を塞がない距離。その配置だけで、彼女が生徒の話を聞くことに慣れているのが分かった。
「お茶は出せないけれど、水ならあるわ」
「大丈夫です」
「そう。じゃあ、少しだけ話しましょうか」
水鏡はファイルを閉じた。そこには何かの記録が挟まれているようだったが、彼女はリョウの視線に気づくと、さりげなく裏返した。隠した、というより、見せるべきではないものを正しい場所へ戻しただけの動作だった。だからリョウは、それを不審とは思いきれなかった。
「椎名さんのことが心配なのね」
「はい」
「彼女は、最近少し疲れているみたい」
「それは、何にですか」
「ごめんなさい。相談内容は話せないの」
予想していた答えだった。だが、実際に言われると胸に重く落ちた。
「僕は、彼氏です」
「そうね」
「それでも、ですか」
「それでもよ」
水鏡の声は変わらなかった。優しい。けれど、そこには明確な線があった。
「恋人でも、家族でも、友人でも、本人が話したくないことを他の誰かに渡すことはできないわ。春日くんが椎名さんを大切に思っていることは分かる。でも、大切に思っているからこそ、彼女が自分で話すまで待つことも必要なの」
「待っている間に、何かあったら?」
言葉がこぼれた。小野寺真琴の名は出さなかった。だが、室内の空気がわずかに沈んだ気がした。水鏡は目を伏せ、少しだけ間を置いた。
「その不安は、分かるわ」
「本当に分かってますか」
リョウは自分の声が鋭くなったことに気づいた。だが、止められなかった。
「学園は、小野寺さんのことを家庭の事情だって言ってます。でも、先生も見ましたよね。昨日の廊下で、小野寺さんは普通じゃなかった。自分の名前も分からないみたいで、鏡を見て叫んで、それで、その夜にまた消えたって」
「春日くん」
「アスカも、ダブルBに関わってます。あのメッセージが来て、実際に行ったって言ってました。小野寺さんのメモにも、その名前があったんです。それなのに、みんな、まるで普通の相談事みたいに」
「普通の相談事ではないわ」
水鏡の声が、初めてわずかに低くなった。リョウは息を呑んだ。彼女はすぐに、柔らかな表情へ戻った。
「ごめんなさい。怖がらせたいわけではないの。ただ、春日くんが感じている不安を、私は軽いものだとは思っていないと言いたかった」
「先生は、ダブルBを知っているんですか」
水鏡はすぐには答えなかった。窓の外で、枝が風に揺れる。白いカーテンがふわりと膨らみ、また落ちた。その動きが呼吸に見え、リョウは無意識に指を握った。
「噂としては知っているわ」
「噂だけですか」
「学園には、色々な噂が生まれるものよ。悩みを抱えた生徒たちが、自分たちだけで集まることもある。教師や保護者に知られたくない話を、同じ立場の誰かに聞いてほしいと思うこともある。そういう場所のすべてを、危険だと決めつけることはできない」
「じゃあ、安全なんですか」
「安全だと断言することもできない」
「どっちなんですか」
「どちらかに決めつけるには、まだ足りないことが多いわ」
リョウは苛立ちを覚えた。水鏡の答えは、どれも正しい。正しいが、欲しい答えではない。止めてほしいのだ。危ないから近づくなと言ってほしい。アスカを守るために、何かはっきりした線を引いてほしい。けれど水鏡は、リョウの焦りをそのまま受け止めながら、決して彼の望む断定を与えなかった。
「先生は、アスカを止めないんですか」
「椎名さんが自分で選ぶことを、すべて私が止めるわけにはいかない」
「でも、危ないかもしれない」
「だから、私は話を聞いているの」
「聞くだけで、何か変わるんですか」
水鏡は、ほんの少し悲しそうに微笑んだ。
「変わらないことも多いわ」
その言葉は、意外だった。リョウは彼女が、聞けば楽になるとか、話せば大丈夫だとか、そういうありふれた慰めを言うと思っていた。だが水鏡の声には、長く積もった諦めのようなものがあった。
「話を聞くことしかできない日もある。休ませることしかできない日もある。担任につなげても、家庭に連絡しても、状況が良くなるとは限らない。生徒が抱えているものは、保健室のベッドで眠ったくらいでは消えないわ」
「じゃあ、どうすれば」
「だから、一人で抱えるから、苦しくなるの」
水鏡は静かに言った。まるで、何度も自分自身に言い聞かせてきた言葉を、今ここでリョウにも分け与えるように。
「痛みも、不安も、孤独も、ひとりの中に閉じ込めてしまうと、形が分からなくなる。自分だけがおかしいのだと思ってしまう。こんなことで苦しい自分が弱いのだと責めてしまう。でも、誰かに少し渡せたら、その苦しさは名前を持つわ。名前を持てば、向き合うことができる」
それは優しい言葉だった。少なくとも、この時のリョウにはそう聞こえた。アスカの「幸せなのに、不安になるの」という声が蘇る。彼女は、その不安を自分の中に閉じ込めていた。リョウはその蓋を開けるための言葉を持たなかった。水鏡は、その言葉を持っているように見えた。
「春日くん」
水鏡は、少し身を乗り出した。
「椎名さんは、あなたを信頼していないからここへ来ているのではないわ。むしろ、あなたを大切に思っているからこそ、あなたに渡せない不安があるのだと思う」
「大切だから、話せない?」
「そういうこともあるのよ。大切な人には、綺麗な自分を見せたい。安心させたい。失望されたくない。重荷になりたくない。そう思うほど、言葉は喉の奥で固まってしまう」
リョウは膝の上で拳を握った。水鏡の言葉は、アスカの表情と重なった。昼休みの休憩所で、彼女は自分に言った。幸せなのに、不安になるの。変だよね。そのときリョウは、変じゃないと答えた。大丈夫だと、忘れないと、いなくならないでと。だが、それはもしかすると、彼女の不安に蓋をする言葉だったのかもしれない。不安でいるアスカを見たくなくて、早く安心したかったのは自分の方だったのかもしれない。
「僕は、何をすればいいんですか」
リョウは、ほとんど吐き出すように聞いた。
「アスカを守りたいんです。でも、何から守ればいいのか分からない。何を聞けばいいのかも、何を聞いちゃいけないのかも分からない」
「まずは、椎名さんの言葉を急がせないこと」
「待つだけですか」
「待つことは、何もしないことではないわ」
水鏡の目が、リョウをまっすぐに見た。柔らかな目だった。だが、その奥には、深い水面のような静けさがあった。
「そばにいる。名前を呼ぶ。普段通りに話す。変に扱わない。けれど、様子が違うときは見過ごさない。あなたにできることは、きっと多いわ。全部を解決することだけが、支えるということではないの」
「先生は、アスカがダブルBに行くことを止めるべきだと思いますか」
どうしても、そこへ戻ってしまう。水鏡は、少しだけ困ったように眉を下げた。
「今は、椎名さん自身が何を求めているのかを見るべきだと思う」
「求めているもの?」
「彼女は、危険に近づきたいのではないと思うわ。ただ、誰かに分かってもらいたいのよ。自分でも名前をつけられない不安を」
「それなら、僕が」
「ええ。春日くんも聞いてあげて。でも、あなた一人で彼女のすべてを背負おうとしないで」
その言葉に、リョウは顔を上げた。
「一人で背負うな、ってことですか」
「そう。あなたも、椎名さんも」
水鏡は静かに微笑んだ。
「一人で抱えるから、苦しくなるの」
同じ言葉が、もう一度落ちた。今度は少し違って聞こえた。優しさは変わらない。けれど、その優しさの輪郭が、ほんのわずかに広すぎるように感じた。人を包む布のようでもあり、逃げ道を覆う白い幕のようでもあった。リョウはその違和感を、まだ言葉にできなかった。
そのとき、保健室の奥で、かすかな音がした。水滴が落ちたような音だった。リョウは反射的に振り向く。奥の手洗い場には、小さな丸い鏡が掛かっていた。銀色の縁を持つ古い鏡で、磨かれてはいるが、ところどころに曇りが残っている。そこに、リョウと水鏡の姿が小さく映っていた。白衣の先生。椅子に座る自分。窓際のカーテン。何もおかしくない。
そう思った次の瞬間、鏡の中に、もう一人の顔が映った。
アスカではなかった。
いや、一瞬だけアスカに見えた。黒髪の少女。青白い頬。けれど目元が違う。唇が違う。こちらを見ている角度が違う。見知らぬ誰かの顔だった。小野寺真琴かと思った。だが違う。昨日、廊下で見た彼女の崩れた表情とも違う。もっと薄く、もっと遠く、幾人もの顔を一枚の硝子に重ねたような顔だった。その口が、鏡の中で微かに動いた。
わたしたち。
声は聞こえなかった。けれど、リョウにはそう読めた。
「誰だ!」
リョウは椅子を蹴るように立ち上がり、振り返った。保健室の奥には誰もいなかった。白いカーテンが揺れているだけだった。ベッドは空。手洗い場の水道は閉まっている。床も濡れていない。窓の外には、灰色の夕空と黒い枝があるだけだ。
「春日くん?」
水鏡の声がした。驚いたような、心配するような声だった。リョウはもう一度鏡を見た。そこには、自分の顔と水鏡の白衣だけが映っていた。自分の顔はひどく青ざめている。
「今、誰か」
「誰か?」
「鏡に、誰か映って」
言いながら、リョウは自信を失っていった。鏡には何もいない。保健室にも誰もいない。水鏡は立ち上がり、奥へ歩いていった。カーテンの向こう、ベッドの下、手洗い場の周囲を確かめる。その動作は落ち着いていた。疑うでも、笑うでもなく、生徒の訴えをきちんと確認する大人の動きだった。
「誰もいないわね」
「でも、確かに」
「疲れているのかもしれない」
水鏡はそう言った。だが、その言い方は、否定ではなかった。見間違いだと片づけるのではなく、彼が何かを見たという体験だけは受け止める声だった。
「小野寺さんのこと、椎名さんのこと、〈クラブ・ダブルB〉の噂。短い間に、たくさんのことが重なっている。春日くん自身も、かなり緊張しているはずよ」
「……そう、かもしれません」
「怖かった?」
リョウは答えられなかった。怖かった。だが、それ以上に、見たものが自分だけに向けられていた気がしてならなかった。鏡の中の顔は、こちらを見ていた。ただ映っていたのではない。こちらを知っていた。
水鏡は、机の上から小さな紙コップを取り、水を注いで差し出した。
「飲んで。少し落ち着きましょう」
リョウは受け取った。水は冷たかった。喉を通る感覚が、自分の体の輪郭を少しだけ取り戻してくれる。水鏡は鏡を見た。彼女の瞳にも、鏡面の光が小さく映った。その表情は読み取れない。心配しているようにも、何かを知っているようにも見えた。
「春日くん」
「はい」
「怖いものを見たとき、人は一人で確かめようとしてしまう。でも、無理に一人で確かめなくていいのよ」
また、その言葉だった。一人で。一人ではない。抱えなくていい。優しい言葉が何度も形を変えて戻ってくる。そのたびに、リョウの不安は少し和らいだ。和らぐのに、なぜか胸のどこかがざわめいた。
「椎名さんを、お願いします」
リョウは言った。自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。まるで、水鏡がアスカの近くにいることを受け入れてしまうような言葉だった。
「もちろん」
水鏡は静かに頷いた。
「でも、春日くんも彼女のそばにいてあげて。あなたの代わりに、誰かが彼女を支えるのではないわ。支える手が、ひとつでは足りないだけ」
それは正しい言葉だった。正しすぎて、リョウは反論できなかった。保健室を出るころには、廊下の灯りがついていた。窓の外は薄暗く、校舎の影はすでに夜の色へ沈み始めている。リョウは扉の前で一度振り返った。水鏡は保健室の中に立ち、白いカーテンの前で微笑んでいた。白衣と白い布が重なり、彼女の輪郭を少しだけ曖昧にしている。
「春日くん」
水鏡が呼んだ。
「はい」
「もし、また何かを見たら、来て。椎名さんのことだけじゃなく、あなた自身のことも大切にして」
「……ありがとうございます」
リョウは頭を下げた。廊下を歩き出すと、背後で扉が静かに閉じた。硝子窓に映った保健室の白い光が、細く縮んで消える。校門へ急がなければならない。アスカが待っている。十分はとっくに過ぎているかもしれない。そう思って足を速めた。
だが、階段の前でリョウは一度だけ振り返った。
廊下には誰もいない。保健室の扉も閉じている。けれど、その硝子窓の奥で、白いカーテンがゆっくりと揺れていた。風はない。窓も閉まっているはずだった。
そして、硝子に映るリョウの背後に、ほんの一瞬、見知らぬ少女の顔が重なった。
リョウが振り返ると、そこにはやはり、誰もいなかった。




