第2章 クラブ・ダブルB
椎名アスカがその名を口にしたのは、招待の文字が彼女のスマホに現れた翌日のことだった。朝から六道学園の空は低く、雲は古い校舎の屋根に触れそうなほど垂れ込めていた。雨は降っていない。それでも空気には水の気配が満ち、廊下の窓硝子は薄い膜を張ったように白く曇っていた。登校する生徒たちは、正門をくぐるときだけ少し声を落とした。小野寺真琴のことは、もう誰も大声で語らなかった。教師たちが強く禁じたからではない。むしろ逆だった。禁じられたことで、噂は口から口へではなく、視線から視線へ、沈黙から沈黙へ移った。誰かが鏡の前で立ち止まる。誰かが水飲み場を避ける。誰かがスマホの通知音に肩を揺らす。そういう小さな反応が、学園全体に目に見えない紋を広げていた。
リョウは、二年三組の教室でアスカを待っていた。いつもなら彼女は、予鈴の少し前に教室へ来て、扉のところで控えめに手を振る。リョウが気づかなければ、佐伯がからかうように「春日、姫のお迎えだぞ」と言う。そうしてリョウが顔を上げ、アスカが少し困ったように笑う。それが朝の決まりごとのようになっていた。だが、その日は予鈴が鳴っても、アスカは来なかった。授業が始まる直前になって、ようやく彼女は教室へ入ってきた。髪はいつも通り整っていたし、制服のリボンも曲がっていなかった。けれど、目元にうすい疲労がある。夜を越したというより、夜の中を歩いてきたような顔だった。
「おはよう、リョウ」
声はいつもと同じだった。むしろ、いつもより柔らかかった。だからこそ、リョウはその下に隠された何かを見つけてしまった。
「おはよう。昨日、ちゃんと帰れた?」
「うん。大丈夫」
「通知のこと、まだ気にしてる?」
アスカは椅子に座りかけた手を止めた。ほんの一瞬だったが、リョウには十分だった。彼女は笑って首を振る。
「本当に、大したことじゃなかったよ」
「見せてくれないのに?」
「リョウ、意外としつこい」
「心配してるって言っただろ」
「うん。知ってる」
そこで会話は途切れた。担任が入ってきたからだ。アスカは前を向き、リョウも仕方なく教科書を開いた。だが、黒板に並ぶ文字は意味を結ばなかった。チョークの白い粉。教師の低い声。窓の外で揺れる枝。すべてが少し遠い。リョウの意識は、隣の列に座るアスカの横顔と、彼女の鞄の中に沈んでいるスマホへ向かっていた。昨日の夕暮れ、階段の踊り場で見えた文字。あなたは、もう一人ではありません。〈クラブ・ダブルB〉へようこそ。あの言葉は、宣伝文句にしては奇妙に親密だった。知らない誰かが、アスカの内側にある傷を知っているような響きがあった。
昼休みになっても、アスカは自分からその話をしなかった。リョウが弁当を持って中庭へ向かおうとすると、彼女は「今日は別の場所にしない?」と言った。選んだのは、旧校舎へ続く渡り廊下の端にある小さな休憩所だった。今はあまり使われていない場所で、壁際に古い木製のベンチが二つ向かい合わせに置かれている。窓の外には中庭の北側が見え、曇り空を映した水盤が鉛色に沈んでいた。人通りは少ない。ときおり遠くで靴音が響くだけで、その音もすぐに旧校舎の暗がりへ吸い込まれていった。
二人は並んで座った。アスカは弁当袋を膝に置いたまま、しばらく何も言わなかった。リョウも待った。急かせば、彼女はきっと「やっぱり何でもない」と言う。リョウはそれを知っていた。アスカは本当に苦しいことほど、言葉にする前に蓋をしてしまう。誰かに迷惑をかけまいとして、弱音を薄く畳んでしまう。だから待った。だが、待っている時間は思ったより長く、胸の奥がじりじりと焦げるようだった。
「リョウ」
「うん」
「昨日のメッセージのこと、話してもいい?」
「もちろん」
「でも、怒らないでね」
「内容による」
「そういうところ、正直で好きだけど、今は少し困る」
アスカは困ったように笑った。その笑みには、いつもの柔らかさが戻っていた。だが指先は弁当袋の紐を強く握っている。
「わたし、行ってみたの」
「どこへ」
答えは分かっていた。だが、聞かずにはいられなかった。アスカは一度だけ息を吸い、ゆっくり吐いた。
「〈クラブ・ダブルB〉」
その名が口に出た瞬間、休憩所の空気がわずかに冷えたように感じた。遠くの廊下で誰かが笑っている。その笑い声が、ここまでは届かないはずなのに、妙に近く聞こえた。
「行ったって、いつ」
「昨日。帰ってから。メッセージに、時間と場所が送られてきたの。最初は行くつもりなかった。でも……」
「でも?」
「気になったの。小野寺さんのメモにも、その名前があったでしょ。行かないで、って。だから余計に」
「危ないって思わなかったのか」
「思ったよ。でも、危ない場所かどうか、知らないまま怖がるのも変だと思って」
「一人で行ったのか」
リョウの声は、自分でも思ったより低くなった。アスカは肩をすくめた。
「怒ってる?」
「怒ってるというか、心配してる。小野寺さんのことがあった直後だろ。そんな怪しい招待に、一人で行くなんて」
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃなくて」
「うん。分かってる。でも、ごめん」
その謝り方がいつものアスカで、リョウはそれ以上強く言えなくなった。彼女は人を怒らせまいとして、先に自分を小さくする。そうされると、リョウの怒りは行き場を失い、心配だけが残った。
「どんな場所だったんだ」
リョウが尋ねると、アスカは少し考えた。怖かった、と言うのかと思った。気味が悪かった、と言ってくれれば、リョウは迷わず止められた。だが、彼女の口から出た言葉は違った。
「普通だったよ」
「普通?」
「うん。拍子抜けするくらい。旧校舎の空き教室だった。場所は毎回違うみたいだけど、昨日は三階の端の教室。机を丸く並べて、真ん中に小さな花瓶が置いてあった。白い花。名前は分からないけど、いい匂いがした。参加していた人は六人くらい。学年もばらばらで、知らない人ばかりだった。でも、みんな優しかった」
アスカの声は、少しずつ落ち着いていった。思い出しているうちに、その場の空気が彼女の中でまた広がっているのだろう。リョウは黙って聞いた。
「最初に、そこは悩みを話すだけの場所だって説明されたの。無理に話さなくていい。聞くだけでもいい。誰かの言葉を否定しない。笑わない。外に持ち出さない。そういう約束があって」
「誰が説明したんだ」
「三年生の人。白鳥由梨さんって言ってた。知ってる?」
リョウは首を振った。
「名前だけなら聞いたことある気がする。不登校だった人?」
「そう。本人もそう言ってた。前は学校に来るのが怖かったんだって。でも、ここで話を聞いてもらって、少しずつ楽になったって。今は、来られるようになったって」
アスカの目が、そのときだけ少し明るくなった。リョウは胸の奥に鈍い重さを覚えた。彼女は怪しいものを信じているのではない。救われたように見える人を見てしまったのだ。苦しんでいた人が、今は穏やかに笑っている。その事実は、どんな警告よりも強い。
「それで、アスカも話したのか」
「少しだけ」
「何を」
アスカは黙った。窓の向こうで風が吹き、水盤の水面が揺れた。校舎の影が歪み、空が細かく裂ける。彼女はその揺れを見ないように、視線を膝へ落とした。
「全部は、まだ言えない」
「僕にも?」
「うん」
その返事は小さかったが、はっきりしていた。リョウは息を詰めた。頭では、誰にだって言えないことはあると分かっている。恋人だからといって、心の中をすべて開けるわけではない。それでも、アスカが自分ではなく見知らぬ誰かに先に話したのだと思うと、胸の奥に小さな棘が刺さった。
「僕じゃ、駄目だった?」
言ってから、子どもっぽい問いだと思った。だが取り消せなかった。アスカは驚いたように顔を上げ、それから苦しそうに眉を下げた。
「駄目じゃない。リョウだから、言えないこともあるの」
「それ、どういう意味」
「リョウを傷つけたくないって意味」
「僕は、何も知らない方が傷つく」
「知ってる」
「じゃあ」
「でも、知ったら、もっと傷つくかもしれない」
リョウは言葉を失った。アスカはいつもよりずっと静かだった。静かで、頑なだった。その頑なさが、リョウの知らない場所で育っていたことが怖かった。
「クラブではね」
アスカは、ゆっくり言葉を選ぶように続けた。
「誰かが悩みを話すと、みんな黙って聞くの。途中で助言しない。そんなの気にしすぎだよ、とか、恵まれてるんだから大丈夫だよ、とか言わない。ただ、聞いてくれる。終わったら、ひとりずつ、少しだけ言葉を返してくれるの。分かるよ、とか、ひとりじゃないよ、とか。普通の言葉なんだけど……」
「嬉しかった?」
アスカは頷いた。
「うん。少し、怖いくらいに」
「怖いくらい?」
「だって、わたしが言葉にする前から、欲しかった言葉を知っているみたいだったから」
リョウの背筋に冷たいものが走った。だが、アスカの表情には恐怖だけではないものがあった。安心。ためらい。救われたいという願い。リョウはそれを見て、何をどう言えばいいのか分からなくなった。
「正式会員っていうのがあるらしいの」
アスカは、声をさらに小さくした。
「正式会員?」
「うん。〈ミラーズ〉って呼ばれてた。悩みを乗り越えた人たち。もう少し深く参加すると、もっと心が軽くなるんだって。今より、ちゃんと自分でいられるようになるって」
「それ、宗教みたいじゃないか」
「そう言うと思った」
「実際、怪しいだろ。正式会員とか、心が軽くなるとか」
「でも、危ないところじゃないよ」
「どうしてそう言える」
「だって、誰も無理に誘わなかった。名前も住所も聞かれなかった。お金も取られない。嫌なら途中で帰っていいって言われた。実際、途中で帰った子もいた」
「そういう問題じゃなくて」
「分かってる。でも、リョウが思っているような、怖い儀式とか、変な薬とか、そういうのじゃない」
「僕が心配してるのは、そういう分かりやすい危なさだけじゃない」
アスカは目を伏せた。リョウは、少し言い方が強くなったことに気づいたが、止められなかった。
「小野寺さんのメモに、その名前があったんだぞ。行くなって。なのに、どうして」
「行くなって言われる前に、行ってしまった人はどうなるのかな」
「アスカ」
「ごめん。変な言い方した」
彼女は笑おうとした。だが、笑えなかった。リョウはその顔を見て、怒りを失った。代わりに、どうしようもない不安が広がった。アスカは今、リョウの隣にいる。手を伸ばせば触れられる距離にいる。けれど、彼女の心の一部はすでにどこか別の場所へ足を踏み入れている。その場所へリョウはまだ入れない。
「アスカは、何に悩んでるんだ」
できるだけ穏やかに聞いた。今度は問い詰めるのではなく、受け止めるつもりで。
「僕でよければ聞く。ちゃんと聞くから」
アスカはリョウを見た。その目に、ほんの少しだけ揺らぎがあった。言いたい。でも言えない。そういう揺らぎだった。やがて彼女は、息を吐くように言った。
「幸せなのに、不安になるの。変だよね」
リョウはすぐに否定しようとした。変じゃない、と言うつもりだった。だが、その前にアスカが続けた。
「リョウは優しい。わたしを大事にしてくれる。学校も、家も、別にひどいことがあるわけじゃない。友達もいる。毎日、普通に楽しい。なのに、急に怖くなることがあるの。何も壊れていないのに、いつか全部なくなる気がする。今が幸せなら幸せなほど、これを失ったらどうしようって考える。わたしがいなくなっても、世界は普通に続くんじゃないかって思う。わたしだけが、この幸せにしがみついているんじゃないかって」
「そんなことない」
リョウは反射的に言った。アスカは微笑んだ。言われると分かっていた、という顔だった。
「うん。リョウならそう言ってくれると思った」
「本当に、そんなことない。アスカがいなくなったら、僕は」
そこで言葉が詰まった。僕は、どうなるのか。泣く。探す。忘れない。そんな言葉はいくつも浮かんだ。だが、アスカが本当に求めている答えは、そのどれでもない気がした。リョウは、彼女を安心させたいのに、彼女の不安の形を正しく見られていない。目の前に差し出された硝子細工に、分厚い手袋をしたまま触れようとしているようだった。
「ごめんね」
アスカが言った。
「謝るなよ」
「だって、リョウを困らせてる」
「困ってるのは、アスカが話してくれないからで、話してくれたことに困ってるわけじゃない」
「そういうところ、リョウは優しいよね」
「今、褒められても嬉しくない」
「じゃあ、少しだけ嬉しくない顔して」
「難しい注文だな」
アスカは小さく笑った。リョウもつられて笑いかけた。だが、笑いはすぐに消えた。二人の間に置かれた弁当は、ほとんど手つかずのままだった。昼休みの終わりを告げる予鈴が、遠くから響いた。鐘の音は渡り廊下の柱に反射し、旧校舎の奥へ幾重にも重なって消えていった。
「もう行かないでほしい」
リョウは言った。命令にならないように、できるだけ慎重に。
「せめて、僕に黙って行くのはやめて」
アスカは答えなかった。リョウは、その沈黙だけで胸が沈むのを感じた。
「また行くつもりなのか」
「……分からない」
「分からないって」
「行きたいわけじゃない。でも、あそこなら、今のこの感じをちゃんと聞いてもらえる気がしたの」
「僕じゃ、ちゃんと聞けない?」
「聞いてくれる。リョウは、いつも聞いてくれる。でも、リョウはわたしを大事にしてくれるから、わたしがこんなことを言うと、リョウの中でわたしが壊れたものみたいになる気がする」
「ならない」
「ならないって、今は言えるよ。でも、いつか面倒にならない? また不安なのかって、思わない? 幸せなのにどうしてって、思わない?」
「思わない」
「本当に?」
「本当だ」
リョウは強く言った。だが、強く言うほど、アスカの目の奥にある不安は消えなかった。むしろ、その言葉が届く前に、どこか透明な壁にぶつかって落ちたようだった。
午後の授業中、リョウは何度もアスカの方を見た。彼女は普通にノートを取り、教師に指名されれば答え、休み時間には友人と短く話した。表面だけなら、何も変わっていない。だがリョウには、彼女の輪郭が少しだけ薄く見えた。人が本当に遠ざかるときは、背を向けて走り去るのではないのかもしれない。隣に座ったまま、笑ったまま、ほんの少しずつ、こちらの知らない言葉を覚えていくのかもしれない。
放課後、リョウはアスカを一緒に帰ろうと誘うつもりだった。だが終礼が終わると、アスカは「今日は少し用事がある」と言った。
「用事って?」
「委員会の確認。すぐ終わると思う」
「待ってる」
「大丈夫。先に帰ってて」
「待つよ」
リョウがそう言うと、アスカは困ったように眉を下げた。その顔を見て、リョウは自分が彼女を追い詰めているのかもしれないと思った。けれど、ここで引けば、また何かを知らないまま置いていかれる気もした。
「じゃあ、少しだけ」
アスカはそう言って、鞄を持った。教室を出るとき、彼女のスマホが短く震えた。リョウは気づいた。アスカも気づいた。けれど、彼女は画面を見なかった。そのまま廊下へ出て、階段へ向かった。リョウは少し距離を置いて後を追った。追いかけているというより、同じ方向へ歩いているふりをした。そんな自分が嫌だった。恋人を疑うような真似をしている。だが、足は止まらなかった。
アスカが向かったのは、委員会室ではなかった。彼女は二階の渡り廊下を抜け、保健室のある南校舎へ入った。南校舎は日当たりが悪く、廊下には夕方の影が早く落ちる。窓の外には中庭の木々が見え、枝葉の隙間から鈍い光が差していた。床は磨かれているはずなのに、どこか水を含んだ石のように冷たく見えた。
保健室の前で、アスカは一度だけ立ち止まった。白い扉の硝子窓には、彼女の顔が薄く映っていた。リョウは曲がり角の手前で足を止めた。声をかけるべきだと思った。何をしているのか聞くべきだと思った。だが、アスカがその扉を前にしている姿は、昼休みに自分へ話していたときよりも、どこか安堵しているように見えた。その安堵が、リョウの胸を刺した。
扉が内側から開いた。
「椎名さん」
柔らかな女の声だった。白衣をまとった水鏡紫影が、扉の向こうに立っていた。黒とも紫ともつかない暗い髪をゆるくまとめ、目元には静かな疲労と、相手を包み込むような優しさがあった。彼女はアスカを責めるでも驚くでもなく、まるで来ることを知っていたかのように微笑んだ。
「来てくれたのね。無理はしていない?」
「大丈夫です。少しだけ、話したくて」
「ええ。もちろん。ここでは、何を話してもいいのよ」
水鏡はそう言って、扉を広く開けた。保健室の奥には白いカーテンが揺れていた。風はないはずなのに、その布だけが静かに呼吸しているようだった。薬品の匂いに混じって、かすかに花の匂いがした。昼にアスカが話していた、旧校舎の教室に置かれていた白い花の匂いを、リョウは知らない。知らないはずなのに、その匂いを同じものだと思った。
アスカは保健室へ入った。扉が閉まる直前、水鏡紫影の視線が、廊下の曲がり角にいるリョウの方へ向いた気がした。見えているはずがない距離だった。だが、彼女はほんの少しだけ、こちらへ微笑んだように見えた。
白い扉が閉じた。
リョウは廊下に残された。夕方の校舎は静かで、遠くから部活動の声が届いている。日常の音だ。普通の学校の音だ。それなのに、目の前の保健室の扉は、どこか別の場所へ通じる門のように見えた。硝子窓にはリョウ自身の顔が薄く映っている。その背後に、誰かの影が重なった気がして、彼は思わず振り返った。
廊下には誰もいなかった。
ただ、保健室の中から、水鏡の穏やかな声がかすかに漏れてきた。
「一人で抱えなくていいのよ」
その言葉は、あまりにも優しかった。だからリョウは、すぐには怖いと思えなかった。




