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ファントム・ローズ  作者: 秋月キアラ
第1部_ダブル
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第1章 六道学園失踪事件

 小野寺真琴がふたたび消えた翌朝、六道学園は、何事もなかったように鐘を鳴らした。古い講堂の尖塔から落ちる鐘の音は、湿った空を裂き、校舎の窓硝子を震わせ、正門へ続く石畳の上に薄く残った雨の匂いを押し流していく。だが、音だけはいつもと同じでも、その下を歩く生徒たちの顔には、普段の朝にはない影が差していた。誰もが明るく振る舞おうとしていた。誰もが昨日のことを知らないふりで語ろうとしていた。けれど、廊下の奥で誰かが水道を使うだけで、近くにいた数人がそちらを振り返った。窓に映る自分の姿を、さりげなく避ける者もいた。スマホの黒い画面を見つめたまま固まる者もいた。噂とは、目に見えない霧のようなものだ。触れられない。けれど、吸えば肺の底に冷たく沈む。


 春日リョウは、二年三組の教室の窓際で、机に頬杖をついてその霧を眺めていた。朝の教室は、いつもなら宿題の写し合いや小テストへの悪あがきで騒がしい。だがその日は、声量だけが妙に抑えられていた。机と机の間で交わされる会話は短く、笑い声はすぐに途切れた。黒板の右端には、昨日の放課後に担任が書き残した「不確かな情報を拡散しないこと」という文字が、白い粉をまとってまだ残っている。その文字は、どこか墓石の刻字に似ていた。


「聞いたか、春日」


 前の席から佐伯律が椅子ごと振り返った。彼はいつも通り制服の襟を少し崩し、片手でスマホを弄んでいる。顔には軽い笑みを浮かべているが、その目は落ち着きなく画面と廊下を行き来していた。


「聞いたって、何を」


「小野寺のやつ。昨日の夜、家でまた消えたって」


「……そういう話、するなって言われただろ」


「教師が言うなって言う話ほど、だいたい本当なんだよ」


 佐伯は声を潜めた。潜めたつもりの声は、かえって周囲の耳を引き寄せた。近くの女子二人がちらりとこちらを見る。リョウは眉をひそめたが、佐伯は気づかないふりをした。


「浴室だってさ。風呂場。母親が外で待ってたのに、中から消えた。窓は閉まってた。鍵もかかってた。で、スマホだけ残ってた」


「どこ情報だよ」


「高等部のグルチャ。小野寺と同じ中学だったやつの親戚が、近所なんだと」


「それ、何段階も人を挟んでるだろ」


「でも、昨日の廊下、見ただろ。あれを家庭の事情で済ませるのは無理がある」


 リョウは答えなかった。小野寺真琴が窓硝子に映った自分の顔を見て悲鳴をあげた瞬間が、まぶたの裏に残っている。あの叫びは、人に向けられたものではなかった。世界のどこかに開いた穴を、うっかり覗き込んでしまった者の声だった。思い出すだけで、指先が冷える。けれど、それでもリョウは、教室の中では平静な顔をしていた。怖がってしまえば、昨日見たものが本物になってしまう気がしたからだ。


「でさ、最後のメモがあったらしいんだよ」


 佐伯はそこだけ、少し芝居がかった声にした。


「ダブルBには、行かないで、だって」


 その言葉が出た瞬間、教室の空気がわずかに変わった。誰かのシャープペンの芯が折れた音がした。窓の外では、雲間から差した朝の光が中庭の水たまりを銀色に照らしていた。リョウはその光から目をそらした。


「何だよ、ダブルBって」


「さあ。新しい都市伝説じゃないの。ダブルブッキングの略とか、呪いの部屋が二つあるとか、馬鹿みたいな説ならもう出てる」


「楽しそうに言うな」


「楽しそうにしてないと怖いだろ」


 佐伯は笑った。その笑いは、いつもの軽薄さと似ていたが、ほんの少しだけ乾いていた。リョウはそこで初めて、佐伯も本当は怖がっているのだと分かった。人は恐ろしいものを、笑い話にして自分の外へ追い出そうとする。だが、追い出したつもりのものほど、足元の影のようについてくる。


 担任が教室に入ってくると、噂のざわめきは一度に沈んだ。担任は出席簿を教卓に置き、昨日よりも固い声で朝礼を始めた。小野寺真琴について、学園から新たに伝えられることはない。無責任な噂を広げるな。本人とご家族の心情に配慮しろ。SNSへの書き込みは厳しく指導対象にする。そうした言葉が並べられた。だが、そのどれにも「真琴は無事だ」とは含まれていなかった。リョウはそれに気づいてしまい、気づいた自分を少し嫌になった。


 授業は形だけ進んだ。古典の教師は、黒板に書いた助動詞の活用を二度間違えた。数学の教師は、問題を解く生徒を指名するたびに、出席簿の名前を確認する時間が妙に長かった。昼休みが近づくころには、教室の誰もが表向きは普段通りに戻っていたが、その普段通りは薄い紙で作った城のように見えた。指で少し押せば、すぐに潰れてしまう。


 昼休み、リョウは購買へ向かう人波を避け、渡り廊下を通って中庭へ出た。六道学園の中庭は、古い校舎に囲まれた小さな箱庭のような場所だった。中央には水盤があり、縁には季節外れの白い花が数輪咲いている。水盤の水は浅く、底には青いタイルが敷かれていた。晴れた日にはそこに空が映る。だが雨の翌日の今日は、水面が濁り、空も校舎もぼんやりと混じり合っていた。


「リョウ」


 呼ばれて振り返ると、椎名アスカが弁当袋を両手で持って立っていた。柔らかな黒髪が肩のあたりで揺れ、制服の袖からのぞく指先は白い。彼女はリョウを見つけると、少しだけ安心したように笑った。その笑顔を見ると、教室に溜まっていた不穏な空気が、ほんの少し遠ざかる。リョウにとってアスカは、そういう存在だった。特別な言葉をかけなくても、隣にいるだけで、世界の輪郭が正しく戻る。


「購買じゃなかったの?」


「混んでたから。あと、佐伯が変な話ばっかりするから、ちょっと逃げた」


「佐伯くん、また噂?」


「うん。小野寺さんのこと」


 アスカの表情が、その名を聞いた瞬間だけ曇った。あまりにも小さな変化だったが、リョウには分かった。二人は中庭の端にある石のベンチへ並んで座った。遠くで昼休みの喧騒が聞こえる。誰かが笑っている。誰かが廊下を走って叱られている。日常は、事件の周囲で平然と息をしていた。


「リョウは、怖くない?」


 アスカは弁当箱の蓋を開けずに尋ねた。


「怖いっていうか……気味は悪いよ。でも、警察とか学校が調べてるだろうし、僕たちがどうこうできることじゃない」


「そう、だよね」


「小野寺さんとは、そんなに親しかった?」


「同じ委員会で少し話したことがあるくらい。優しい人だったよ。声が小さくて、でも、頼まれると断れない感じで」


「アスカみたいだ」


「え?」


「いや、少し似てるなって。頼まれると断れないところ」


 リョウは軽く言ったつもりだった。だが、アスカは笑わなかった。膝の上に置いた弁当袋の紐を、指先で何度も撫でていた。


「わたし、そんなに断れなさそうに見える?」


「見える。無理して引き受けて、あとで一人で困ってそう」


「ひどいなあ」


「心配してるんだよ」


 そう言うと、アスカはようやく小さく笑った。けれど、その笑みはいつものように長く続かなかった。彼女は水盤の方へ目を向けた。濁った水面に、校舎の窓がいくつも映っている。風が吹くたびに窓の形が崩れ、ひとつの顔のように歪む。アスカはそれを見て、ほんのわずかに肩を強張らせた。


「ねえ、リョウ」


「うん」


「人って、いなくなったら、どれくらいで忘れられるのかな」


 リョウは箸を止めた。唐突な問いだった。だが、完全に脈絡がないわけではなかった。昨日からずっと、学園は「いなくなった人」の話で満ちている。


「忘れないだろ。家族とか、友達とか、恋人なら」


「でも、最初はみんな探すよね。心配する。泣く。怒る。でも、そのうち学校は授業をするし、電車は走るし、お店は開くし、季節も変わる。そうしたら、いなくなった人のことって、少しずつ日常の外に追いやられていくんじゃないかな」


「アスカ」


「ごめん。変なこと言ってるよね」


 彼女は慌てたように笑った。リョウは、その笑顔の方がよほど変だと思った。怖いなら怖いと言えばいい。不安なら不安だと言えばいい。だがアスカは、自分の不安に名前をつける前に、先に謝ってしまう。


「小野寺さんのことがあったから、考えすぎてるだけだよ」


「そうかな」


「そうだよ。あんなことがあったら、誰だって変なこと考える」


「……リョウは?」


「僕?」


「リョウは、わたしがいなくなっても覚えててくれる?」


 風が止んだ。中庭の水面が、ぴたりと静まった。遠くの教室から聞こえていた笑い声も、その瞬間だけ遠く薄くなった気がした。リョウはアスカを見た。彼女は冗談の続きを待つような顔をしていた。けれど、その目は笑っていなかった。そこには、リョウがこれまで見たことのない暗い深さがあった。


 いなくなる、という言葉は、昨日まではただの比喩だった。卒業する。転校する。連絡を取らなくなる。そういうありふれた別れの形に使う言葉だった。だが今は違う。小野寺真琴が消えたあとでは、その言葉の底に、冷たい水が満ちている。


 それでもリョウは、軽く答えてしまった。そうしなければ、アスカの不安を本物にしてしまうと思ったからだ。


「忘れるわけないだろ」


「本当に?」


「本当。というか、アスカがいなくなるとか、想像できないし」


「想像できないことって、起きないのかな」


「起きないよ」


「どうして?」


「僕が困るから」


 リョウはわざと笑った。少し乱暴で、少し幼い冗談だった。アスカもつられるように笑った。今度は本当に、少しだけ笑った。


「なにそれ」


「アスカがいなくなったら、昼ごはん一人で食べることになる。佐伯に絡まれる。古典のノートも見せてもらえない。僕の日常が破綻する」


「わたし、便利な存在だね」


「かなり重要」


「ひどい」


「だから、いなくならないで」


 言ってから、リョウは少し照れた。思ったよりも素直な言葉になってしまった。アスカは目を丸くして、それから頬を赤くした。弁当袋の紐をいじっていた指が止まる。


「……うん」


 その返事は小さかった。だが、胸の奥に届く声だった。リョウはそれで十分だと思った。彼女の問いに、ちゃんと答えたつもりだった。忘れない。いなくならないで。そう言えば、不安はほどけるものだと思っていた。言葉は、鍵のように何かを閉じてくれるものだと信じていた。だがそのとき、アスカが本当に求めていたものが、もっと別の深い場所にあったことを、リョウはまだ知らなかった。


 午後の授業が終わるころ、学園の噂は形を変えていた。小野寺真琴の名は教師たちによって押さえ込まれ、代わりに「失踪事件」という大きな影が生徒たちの間を歩きはじめた。去年も似たようなことがあったらしい。高等部だけじゃなく中等部にもいるらしい。戻ってきた生徒の中には、前より明るくなった者もいるらしい。悩みが消える集まりがあるらしい。正式な部活じゃない。先生たちは知らない。招待された人にしか場所が分からない。噂は噂を呼び、見たことのないものに、少しずつ名前を与えていった。


 放課後、リョウとアスカは図書室へ向かった。二人とも図書委員ではなかったが、アスカは静かな場所を好み、リョウも彼女に付き合ううちに自然と図書室で過ごすことが増えた。六道学園の図書室は古かった。壁一面の書架は天井近くまで伸び、上段の本を取るための梯子が備えられている。西側の窓から差す夕光は、書架の影を床へ長く落とし、埃の粒を金色に浮かび上がらせていた。その光景は、学園というより、古い城の書庫に迷い込んだようだった。


 リョウは参考書を開いたものの、文字はほとんど頭に入らなかった。向かいの席では、アスカが文庫本を読んでいる。ページをめくる指は静かで、横顔は穏やかだった。昼の問いをした少女と同じ人物には見えないほど、いつものアスカだった。リョウはそのことに安心した。結局、あれは事件のせいで一時的に不安になっていただけなのだ。そう思いたかった。


「見すぎ」


 アスカが本から目を上げずに言った。


「見てない」


「見てた」


「気のせい」


「じゃあ、わたしが見てたことにする」


「それ、どういう理屈?」


「リョウがわたしを見てるとき、わたしもリョウを見てることにすれば、引き分け」


「勝負だったんだ」


 アスカは小さく笑った。そのやり取りはいつも通りだった。何度も繰り返してきた、くだらなくて穏やかな会話。リョウは、その穏やかさを大切なものとして認識していたが、それが壊れ得るものだとは考えていなかった。世界は、毎日同じ顔で続くものだと思っていた。朝が来れば登校し、昼になれば並んで弁当を食べ、放課後には図書室で少しだけ勉強し、帰り道でコンビニに寄る。そういう小さな儀式の積み重ねが、自分たちの関係を守っているのだと、無邪気に信じていた。


 閉館時刻が近づき、二人は図書室を出た。廊下には西日が長く差し込み、窓硝子が橙色に燃えている。生徒たちの姿はまばらで、運動部の掛け声が遠くから聞こえた。階段を下りる途中、アスカのスマホが震えた。短い通知音だった。彼女は何気なく画面を見た。次の瞬間、その足が止まった。


「アスカ?」


 リョウも数段下で立ち止まる。アスカはスマホを胸元に近づけ、画面を隠すように持っていた。顔色が少し変わっている。


「どうした?」


「ううん。なんでもない」


「なんでもない顔じゃない」


「本当に、ちょっと通知が来ただけ」


「誰から?」


 アスカはすぐには答えなかった。階段の踊り場には大きな窓があり、夕暮れの光を背に受けた二人の影が床へ伸びていた。窓にはアスカの横顔と、リョウの姿が薄く映っている。だがその画面よりも、リョウの目はアスカの手の中のスマホに引き寄せられた。黒い画面に白い通知が浮かんでいる。見知らぬ送信者。差出人名はなかった。ただ、短い文章だけが、まるで水底から浮かび上がる泡のように表示されていた。


 あなたは、もう一人ではありません。


 リョウが読み取ったのは、そこまでだった。アスカは慌てて画面を消した。


「迷惑メッセージだよ、きっと」


「今の、何」


「だから、迷惑メッセージ」


「アスカ」


 名前を呼ぶと、彼女は一瞬だけ怯えたような顔をした。その表情は、リョウに向けられたものではなかった。もっと遠く、もっと暗い場所から、すでに何かが自分を見つけていたことに気づいた者の顔だった。だが次の瞬間には、アスカはいつもの笑みを作っていた。


「大丈夫。変な広告か何かだよ。最近、匿名相談とか、占いとか、そういうの多いし」


「匿名相談?」


「うん。悩みを聞きます、みたいな」


「見せて」


「やだ」


 即答だった。リョウは少し驚いた。アスカがそんなふうにはっきり拒むのは珍しかった。彼女自身もそれに気づいたのか、すぐに言葉を和らげた。


「ごめん。でも、本当に大丈夫だから。心配しないで」


「心配するなって言われても」


「リョウは心配性だなあ」


「アスカが隠すからだろ」


「隠してないよ。……今は、まだ」


 最後の言葉は、ほとんど息のように小さかった。リョウは聞き返そうとした。だが、その前に下の階から教師の声が響いた。下校時刻を知らせる声。部活動のない生徒はすみやかに帰るように。立ち止まっていた二人は、階段の上で日常へ追い立てられるように動き出した。


 校門へ向かうまで、アスカは普段より少しだけよく喋った。今日の古典の小テストが難しかったこと。図書室の新着本のこと。佐伯がまた授業中に居眠りしていたこと。どれも他愛ない話だった。だが、話せば話すほど、彼女が何かを話さずにいることが、リョウには分かってしまった。校門の前で別れるとき、リョウはもう一度尋ねようとした。しかしアスカの方が先に口を開いた。


「リョウ」


「何?」


「今日の昼のこと、覚えててね」


「昼?」


「わたしが聞いたこと」


 リョウは一瞬考え、それから「ああ」と頷いた。


「覚えてるよ。アスカがいなくなっても、ってやつだろ」


「うん」


「忘れるわけない」


 今度は少し真面目に言ったつもりだった。アスカはそれを聞いて、静かに笑った。夕暮れの光の中で、その笑顔はひどく綺麗だった。綺麗すぎて、なぜか遠く見えた。


「ありがとう」


 そう言って、アスカは背を向けた。リョウはその後ろ姿を見送った。彼女のスマホが、制服のポケットの中でふたたび微かに震えたことには気づかなかった。


 画面には、消したはずの通知が再び浮かんでいた。


 〈クラブ・ダブルB〉へようこそ。


 あなたの願いを、私たちは知っています。

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