序章 帰ってきた生徒
その朝、六道学園の正門は、いつもよりも早く開かれた。六月の雨は夜明け前にやみ、石畳には薄い水の膜が残っていた。古い礼拝堂を思わせる講堂の尖塔も、蔦のからむ西校舎の窓も、まだ眠りの名残をまとって白く霞んでいる。登校してくる生徒たちは、湿った風に髪を乱されながら、傘をたたみ、靴底についた水を払って、いつものように校門をくぐった。だが、その日だけは、学園の空気がどこか違っていた。朝の挨拶はいつもより低く、廊下を走る足音は少なく、教師たちの声には、隠しきれない緊張が混じっていた。誰もが知らぬふりをしながら、誰もがひとつの名を避けていた。小野寺真琴。高等部二年、数日前から姿を消していた女生徒の名である。
彼女は、まるで行方不明になどなっていなかったかのように、朝の職員通用口の前に立っていた。警備員が最初に見つけたのだという。校門ではなく、職員通用口。制服姿。鞄なし。靴は泥ひとつついていないのに、靴下だけが水に浸したように濡れていた。髪は肩のあたりで湿り、頬は青白く、唇は紫を帯びていた。けれど傷はなかった。血もなかった。怯えているようにも見えなかった。ただ、雨上がりの朝に置き忘れられた人形のように、硝子の扉の前でじっと立っていたという。
教頭の折原は、校内放送を使わなかった。担任を走らせ、職員室で何事かを確認し、保護者へ電話をかけ、警察には「本人が無事に戻った」とだけ伝えた。数時間後には、学園内でひそやかな説明が配られた。小野寺真琴は家庭の事情により一時的に自宅を離れていた。本人は混乱しているが、命に別状はない。詳細について詮索しないように。教師たちはその言葉を、まるで呪文のように繰り返した。だが、六道学園の生徒たちは、その程度の言葉で沈黙できるほど幼くはなかった。すでに廊下の端々では、彼女がどこへ行っていたのか、誰といたのか、なぜスマホも財布も持たずに戻れたのか、声を潜めた問いが羽虫のように飛び交っていた。
春日リョウがその姿を見たのは、一限が終わったあとの廊下だった。保健室へ続く白い廊下の向こうから、担任と養護教諭の水鏡紫影に付き添われて、小野寺真琴が歩いてきた。リョウは反射的に足を止めた。隣にいた椎名アスカも、胸の前で教科書を抱えたまま動かなくなった。小野寺真琴は、見た目だけなら記憶にあるままの小野寺真琴だった。肩にかかる黒髪。細い顎。少し伏し目がちな癖。制服のリボンをきちんと結ぶ真面目さ。だが、彼女の歩き方は奇妙だった。一歩ごとに、自分の体の重さを確かめているようだった。右足を出す前に、右足が本当に自分のものか迷っている。左手が袖の中で微かに震えている。誰かに操られているのではなく、むしろ、初めて人間の身体を与えられたものが、見よう見まねで歩いているように見えた。
「小野寺さん」
通りすがりの女子生徒が、思わず声をかけた。明るく呼ぼうとして失敗した声だった。真琴は立ち止まらなかった。聞こえていないのかと思ったとき、彼女は三歩ほど進んでから、ゆっくりと振り返った。遅い。あまりに遅い反応だった。まるで、遠い場所から投げられた石が、深い水の底へ沈み、ようやく何かに触れたかのように。
「……おの、でら」
真琴は唇だけを動かした。自分の名を初めて読む子どものように、音をひとつずつ選んでいる。
「真琴さん、大丈夫?」と水鏡が静かに声をかけた。「無理をしなくていいわ。保健室へ戻りましょう」
「まこと」
真琴は、水鏡の言葉を聞いていないようだった。自分の胸元を見下ろし、制服の名札に指を触れた。そこには、小野寺真琴、と確かに印字されていた。彼女はその文字をなぞった。だが、自分の名札に触れているというより、見知らぬ墓標を読む者の手つきだった。
「それが、わたしの名前ですか」
廊下にいた者たちは、誰もすぐには答えられなかった。折原が咳払いをし、「小野寺、今は静かにしていなさい」と取り繕うように言った。だが、真琴は教頭の方を見なかった。彼女の視線は廊下の窓へ向いていた。雨雲の切れ間から差し込んだ朝の光が、窓硝子を鈍く光らせている。その硝子に、真琴の姿が映っていた。制服の少女。青白い頬。濡れた髪。本人と同じはずの顔。しかし、真琴はそれを見た瞬間、喉を裂くような悲鳴をあげた。
その声は、人の声というより、鍵のかかった箱の内側から爪で引っかく音に近かった。廊下の生徒たちが一斉に身を引いた。アスカが息を呑み、リョウの袖を掴んだ。真琴は両手で自分の顔を覆い、膝を折った。水鏡がすぐに抱きとめようとしたが、真琴はその手から逃げるように床へ崩れた。
「ちがう……ちがう、ちがう、ちがう……」
「真琴さん、落ち着いて。ここは学校よ。あなたは帰ってきたの」
「帰ってない」
真琴は顔を覆ったまま、囁いた。泣いているのではなかった。声だけが震えていた。水鏡はその背に手を置き、廊下の生徒たちへ下がるよう目で合図した。折原は険しい顔で「授業に戻りなさい」と命じた。だが、誰ひとりすぐには動かなかった。廊下の窓には、真琴のうずくまる姿がいくつも映っていた。窓の数だけ、彼女がいる。いや、一瞬、リョウにはそう見えた。床にいる真琴よりも、窓の中の真琴たちの方が先にこちらを見たように。
「私たちは」
真琴が言った。ひどく小さな声だったのに、廊下にいた全員の耳へ届いた。
「私たちは、まだ帰ってきていない」
その言葉のあと、廊下には呼吸の音さえ残らなかった。リョウは、自分の手が冷たくなっていることに気づいた。アスカの指も同じように冷たかった。彼女はリョウの袖を掴んだまま、真琴から目を離せずにいた。水鏡だけが、静かだった。彼女は真琴を抱き起こし、優しい声で何度も名前を呼んだ。小野寺さん。真琴さん。大丈夫。あなたはここにいる。だが、その声の穏やかさが、かえって奇妙だった。まるで彼女は、真琴の言葉を聞いても驚く必要がないと、初めから知っていたかのようだった。
その日の午後、学園は一層静かになった。教師たちは廊下に立ち、休み時間の雑談を短く切り上げさせた。保健室のカーテンは閉ざされ、小野寺真琴は保護者が迎えに来るまでそこで休むことになった。放課後前には、折原から各教室へ説明があった。生徒の個人的事情であり、本人もご家族も深く傷ついている。噂を広げることは二次被害になる。家庭の事情、一時的な家出、精神的な疲労。整えられた言葉は、磨かれた銀食器のように冷たく光っていた。だが、どれほど綺麗に並べても、その言葉の隙間からは、どうしても腐った水の匂いが滲んでくる。
リョウは放課後、昇降口でアスカを待っていた。空は夕方になっても晴れず、雲は低い。中庭の水たまりに、校舎の窓が逆さに映っていた。風が吹くたびに、そこに映る六道学園は揺れ、尖塔は歪み、窓は細長い目のように伸びた。
「ねえ、リョウ」
アスカが小さく言った。
「小野寺さん、本当に帰ってきたのかな」
「帰ってきたんだろ。実際にいたし」
「うん。そうなんだけど」
アスカは言葉を探すように、水たまりへ視線を落とした。そこには二人の影が並んで映っていた。リョウとアスカ。いつもと同じ距離。いつもと同じ制服。だが、揺れた水面の中では、二人の肩が触れているのか離れているのか分からなかった。
「あの子、自分の顔を見て、あんなに怖がってた」
「混乱してたんだよ。何日も行方不明だったんだから」
「でも、自分の名前まで……」
リョウは答えられなかった。小野寺真琴が名札をなぞった手つきが、頭から離れなかった。名前とは、自分をこの世界につなぐ鎖のようなものだと、彼はそれまで考えたこともなかった。呼ばれれば振り向く。書かれていれば自分だと分かる。誰かがその名を口にすれば、その人はここにいることになる。そんな当たり前の仕組みが、今日だけはひどく脆いものに見えた。
「帰ってきたのに、まだ帰ってないって、どういう意味なんだろう」
「分からない」
「……だよね」
アスカはそう言って、無理に笑った。その笑い方が、リョウには少しだけ気になった。怖いなら怖いと言えばいいのに、彼女はいつもそうしない。誰かを不安にさせないように、先に自分の不安を薄く笑ってしまう。リョウはそれを優しさだと思っていた。けれどこのとき、その笑顔の奥にあるものを、彼はまだ見ようとはしなかった。
小野寺真琴は、夕刻、母親に連れられて学園を出た。車に乗り込む直前、彼女は一度だけ振り返った。校舎を見たのではない。門を見たのでもない。彼女は、中庭の端にある雨水の溜まりを見ていた。そこには、夕暮れの校舎が黒く沈んでいた。真琴の唇が何かを動かした。声は届かなかった。だが、リョウにはなぜか、その言葉が「数が合わない」と言ったように見えた。
夜になると、六道学園の噂は校舎の外へ出た。生徒たちは家に帰り、それぞれの部屋でスマホを開き、今日見たことを誰かに送った。すぐに消す者もいた。面白半分に盛る者もいた。恐ろしくなって既読だけつける者もいた。小野寺が戻った。けどおかしい。鏡を見て叫んだ。私たちって言った。まだ帰ってないって言った。教師が隠してる。あれ絶対ただの家出じゃない。やがてその噂は、学園の匿名掲示板や、閉じたグループチャットの中で形を変えた。真琴は異界へ行っていた。真琴は誰かと入れ替わった。真琴はもう死んでいて、帰ってきたのは別のものだ。笑い混じりの文字列は、画面の光の中では軽く見えた。だが、そのひとつひとつが、暗い井戸へ石を投げ入れる音のように、見えない底へ沈んでいった。
そのころ、小野寺家の浴室では、真琴が湯船の前に立っていた。家族は彼女を一人にしたがらなかったが、本人が強く望んだ。ひとりで入りたい。大丈夫だから。そう言った声は昼間よりも落ち着いていて、母親は泣きながら何度も確認したあと、脱衣所の外で待つことにした。浴室の灯りは白く、壁のタイルは淡い水色だった。洗面器。鏡。シャワーヘッド。湯船に張られた湯。どれも普通の家庭の浴室にあるものだった。だが、その夜、それらはすべて、何かを映すためだけに存在しているようだった。
真琴は服を脱がなかった。制服のまま、浴室の床に立っていた。靴下は朝と同じように濡れていた。湯気が上がっているのに、彼女の体は少しも温まらなかった。鏡には、制服姿の真琴が映っていた。青白い顔。濡れた髪。震える唇。だが鏡の中の真琴は、彼女よりも少しだけ早く瞬きをした。
「……小野寺真琴」
真琴は自分の名を呼んだ。昼間から何度も聞かされた名前。名札に書かれていた名前。母が泣きながら呼んだ名前。教師が呼んだ名前。けれど、その音はまだ彼女の内側に沈まなかった。胸の奥には、もっと多くの名がひしめいていた。誰かの泣き声。誰かの笑い声。誰かの願い。誰かの悩み。誰かが言った「大丈夫」。誰かが言った「もう一人じゃない」。それらが濁った水のように混ざり、自分という器の縁を越えて溢れようとしていた。
「わたしは、どれ?」
鏡の中の真琴が微笑んだ。真琴自身は笑っていない。彼女は後ずさろうとした。しかし浴室の床は濡れており、足が滑った。手をついた先にスマホがあった。帰宅後、母が持たせたものだった。行方不明になる前から使っていたもの。画面には通知がいくつも溜まっていた。友人からの心配。知らないクラスメイトからの探り。教師からの連絡。けれど、それらの上に、一つだけ開きかけのメモアプリがあった。
真琴は震える指で画面を触れた。何かを書かなければならない。何かを残さなければならない。昼間、廊下で言った言葉では足りない。母にも、教師にも、生徒たちにも、自分の声は届かない。名前を呼ばれても、ここに戻れない。顔を見ても、自分だと分からない。ならば、せめて、まだ向こうへ行っていない者たちに。
湯船の水面が揺れた。窓は閉まっている。換気扇の音もしない。だが水面は、誰かが底から指でなぞったように、ゆっくりと輪を描いた。真琴は息を止めた。湯の表面に浴室の灯りが映り、その光の中に、真琴の顔が映った。ひとつ。ふたつ。みっつ。水面が揺れるたび、彼女の顔は増えた。どれも真琴で、どれも真琴ではなかった。口元だけが違う。目だけが違う。泣いているもの。笑っているもの。怒っているもの。助けを求めているもの。その全員が、同じ声で囁いた。
帰ろう。
真琴は首を振った。違う。帰っていない。まだ誰も帰っていない。そう言おうとしたが、喉が凍りついたように動かなかった。湯船の中から、白い指が伸びた。水でできた指だった。水面そのものが手の形を取り、真琴の手首へ触れた。冷たくはなかった。むしろ、ひどく優しかった。疲れた子どもの手を引く母親のように、怖がる必要はないと告げるように。
脱衣所の外で、母親が扉を叩いた。
「真琴? 大丈夫? 返事して」
真琴はスマホを握りしめた。画面に文字を打つ。指が濡れていて、何度も誤字になった。息が浅くなる。鏡の中の自分たちが近づいてくる。湯船の水が床へ溢れている。水音はしない。音もなく、透明な手が足首を包んでいる。母の声が遠ざかる。浴室の灯りが、鏡の奥へ吸い込まれる。世界が、薄い銀色に折り畳まれていく。
「真琴!」
母親が扉を開けたとき、浴室には誰もいなかった。湯船の湯は縁まで張られたままで、床は水浸しになっていた。制服も、靴下も、脱衣所には残っていない。鏡には大きなひびが入っていたが、割れてはいなかった。ひびは中心から左右へ伸び、人の背中に生えた翼のようにも、何かを映す眼の亀裂のようにも見えた。洗面器の中には、真琴のスマホが落ちていた。防水の画面はまだ光っていた。開かれていたのは、未送信のメモだった。
そこには、短い一文だけが残されていた。
ダブルBには、行かないで




