第9章 ミラーズ
三枝千尋は、そこに立っていた。旧校舎三階の空き教室、円形に並べられた机の外側、黒板の前でも窓際でもなく、教室の後ろの暗がりに、ひとりで立っていた。蛍光灯の白い光は彼女の肩まで届いている。制服のリボンは一年生の色。髪は肩のあたりで切りそろえられ、少し内側へ跳ねている。頬の輪郭も、目元も、ナギサが調査ノートに挟んでいた写真のままだった。だが、写真の中の千尋よりも、目の光が静かすぎた。失踪した友人と再会した少女なら、泣くか、駆け寄るか、叫ぶかするはずだった。少なくとも、そういう反応をリョウは想像していた。けれど、目の前の千尋は、最初からここに来ることを知っていたように穏やかで、まるでナギサの悲鳴が落ち着くのを待っているようだった。
「千尋……?」
ナギサの声は、問いというより祈りだった。返事をしてほしい。本人だと言ってほしい。違うと分かっていても、そう言ってほしい。リョウには、その震えが腕越しに伝わっていた。彼はナギサの腕を掴んでいた。強く掴みすぎている自覚はあったが、離せなかった。離したら、ナギサは走る。鏡の奥へでも、目の前の千尋へでも、走ってしまう。そのとき戻れる保証はない。
「ナギサ」
千尋はもう一度呼んだ。声は本物だった。少なくとも、ナギサにとってはそうだったのだろう。彼女の肩から力が抜け、膝が崩れそうになる。リョウは慌てて支えた。
「春日先輩、離して」
「駄目だ」
「あれ、千尋です」
「まだ分からない」
「分かります。あたしには分かる。あの声、あの顔、あの言い方。千尋です」
ナギサは泣いていなかった。目に涙は浮かんでいる。けれど、泣くより先に、確かめたいという気持ちが彼女を前へ引っ張っていた。目の前の友人に触れたい。体温を確かめたい。本当にそこにいるのだと知りたい。その衝動は、リョウにも分かった。もしここにアスカが立っていたら、自分はナギサを止める資格などない。たとえ誰に止められても、きっと手を伸ばしてしまう。
「ナギサ、名前」
リョウは低く言った。
「自分の名前を言え。今すぐ」
ナギサは一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。だが、マナの忠告を思い出したのだろう。唇を震わせながら、かすれた声で言った。
「椎凪ナギサ」
「もう一回」
「椎凪ナギサ。……あたしは、椎凪ナギサ」
その言葉を聞いた千尋が、ふっと微笑んだ。
「うん。ナギサはナギサだよ。昔から、そうやって無理に明るくして、怖いときほど声を大きくする」
ナギサの顔が歪んだ。
「覚えてるの?」
「覚えてるよ。中等部の文化祭で、焼きそばの屋台を任されたこと。ナギサがソースの分量を間違えて、全員に『濃い味の方が青春っぽい』って言い張ったこと。雨の日に、傘を忘れた私に、自分の折りたたみ傘を貸して、自分は濡れて帰ったこと。テスト前、勉強するって言いながら、結局ずっと恋愛相談の真似事をしてたこと」
「やめて」
ナギサの声が震えた。否定ではない。思い出が本物すぎて、聞いていられない声だった。
「覚えてる。全部」
千尋は一歩ずつ近づいた。リョウはナギサを引き戻そうとしたが、教室の空気が水のように重く、体が思うように動かなかった。机を囲む参加者たちは、誰も止めない。白鳥由梨は円の一角で、祈るように両手を重ねている。他の生徒たちも同じように千尋とナギサを見ていた。その視線は好奇心ではない。歓迎に近かった。帰ってきた者を迎える、静かな優しさ。だから余計に気味が悪かった。
「でも、千尋」
ナギサは泣きそうな顔で笑った。
「どこにいたの。みんな探してた。あたし、ずっと」
「うん。知ってる」
「知ってるって、どこで」
「見てたから」
千尋は優しく言った。
「ナギサが泣かないようにしてるところ。あたしの机を見ないようにしてるところ。調査ノートにあたしの名前を書いて、でも何度も消そうとして、結局消せなかったところ。全部、見てたよ」
リョウの背筋が冷えた。千尋の言葉は、ナギサに寄り添っている。だが、見ていた、という言い方があまりにも近すぎる。友人がどこかで見守っていたというより、窓硝子やスマホ画面や水面の奥から、ずっと覗いていたような響きがあった。
「じゃあ、帰ってきてよ」
ナギサは言った。
「見てたなら、帰ってきてよ。何で今まで黙ってたの。何で、あたしに何も言わなかったの」
「ごめんね」
千尋は少し首を傾けた。その仕草は写真の中の彼女と同じだった。けれど、謝罪の温度が薄い。言葉は優しいのに、痛みの中心には届いていない。
「でも、あたしたちは、もう前みたいには戻れないの」
「あたし、たち?」
ナギサの目が止まった。
千尋は自分の言い方に気づいたのか、気づいていないのか、微笑んだままだった。
「あたしは、もうひとりじゃない。だから、怖くない。教室で空っぽになっても、帰り道で寂しくなっても、誰かの言葉が胸に刺さっても、その痛みをひとりで持たなくていい。みんなで持てる。みんなで分けられる。だから、もう泣かなくていいよ。あたしたちになれば、寂しくない」
ナギサの手が、リョウの腕を掴み返した。痛いほど強い力だった。
「千尋は、そんなこと言わない」
その声は小さかったが、はっきりしていた。千尋は悲しそうに眉を下げた。
「言えるようになったんだよ」
「違う」
「ナギサも、ずっと寂しかったでしょ。明るいから大丈夫って、みんなに思われて。つらいのに笑って、怖いのに冗談を言って。私が消えてからも、あたしのためって言いながら、自分を責める理由を探してた」
「違うって言ってるでしょ」
「違わないよ。私たちは知ってる」
今度は、はっきりと「私たち」だった。
リョウは一歩前へ出た。足元がひどく重い。中央の鏡が、低く震えている。鏡面には千尋の後ろ姿が映っているはずだった。だが、そこには千尋が何人もいた。微妙に表情の違う千尋。笑っている千尋。泣いている千尋。俯いている千尋。ナギサを見つめている千尋。その全員が、同じ口の動きで「私たち」と言っているように見えた。
「三枝千尋」
リョウは名前を呼んだ。
千尋がリョウを見た。初めて、彼女の目がナギサ以外へ向いた。その目は穏やかで、底がなかった。
「君は、三枝千尋なのか」
「そうだよ」
「なら、自分の名前を言って」
「三枝千尋」
答えはすぐ返ってきた。淀みはない。小野寺真琴のように名前へ遅れて反応することもない。だからこそ、リョウは次の問いを重ねた。
「君は、ひとりか」
千尋は微笑んだ。
「ひとりでいる必要が、もうないの」
「答えになってない」
「ひとりにこだわるから、苦しくなるんだよ」
その言葉は、白鳥由梨の言葉にも、水鏡紫影の言葉にも似ていた。一人で抱えるから苦しくなる。痛みを分ければいい。救いに見える侵食が、別々の口から同じ温度で流れ込んでくる。
「ナギサは連れていかせない」
リョウが言うと、千尋は悲しそうに目を伏せた。
「春日先輩は、アスカ先輩を探してるんですよね」
その名が出た瞬間、リョウの内側で何かが跳ねた。ナギサもこちらを見る。由梨は目を閉じ、参加者たちは静かに呼吸を合わせるように黙っていた。
「アスカを知ってるのか」
「知ってるよ」
千尋の声が、ほんの少し変わった。いや、千尋の声ではなく、教室全体の空気が変わった。中央の鏡が水面のように揺れ、円形に並べられた机の影が少しずつ歪んでいく。蛍光灯の光が白く伸び、教室の壁が遠ざかる。リョウは反射的に鏡から目をそらした。だが、声だけは避けられなかった。
「リョウ」
アスカの声がした。
喉が締まった。今度は録音ではなかった。空き教室の奥、鏡の内側、あるいは自分の耳のすぐ横から、アスカが呼んだ。音の高さも、息の揺れも、呼び方の柔らかさも、今まで聞かされた似せ物よりずっと近い。あまりに近くて、リョウは一瞬で現実の床を失った。
「アスカ?」
返事をしてはいけない。そう分かっていた。分かっていたのに、名前がこぼれた。ナギサが「先輩」と叫ぶ。だが、その声は遠い。リョウの目は、中央の鏡へ向いていた。鏡面の奥に、旧校舎の廊下が見える。放課後の薄暗い廊下。窓硝子に映る夕暮れ。そこにアスカが立っている。制服姿で、少し困ったように笑っている。あの日の階段の踊り場で見た笑顔。校門で別れたときの、遠くて綺麗な笑顔。
「リョウ、こっち」
アスカは言った。
「わたし、ちゃんといるよ」
リョウは一歩踏み出した。ナギサが腕を掴む。だが、千尋がナギサの前に立った。いや、千尋だけではない。参加者たちが静かに立ち上がり、円の外側を塞ぐように動く。誰も荒々しくない。誰も暴力的ではない。ただ、こちらが追うべきものと、止めるべき手を、静かに切り離そうとしている。
「春日リョウ!」
廊下の外からマナの声がした。遠い。水の底から聞こえるような声だった。
「名前を忘れないで!」
リョウの足が一瞬止まる。春日リョウ。自分の名前。アスカを探している自分。まだ鏡の外にいる自分。だが、鏡の中のアスカが、泣きそうな目でこちらを見る。
「忘れないって言ったよね」
その言葉で、昼休みの中庭が蘇った。リョウは、忘れるわけないだろと答えた。アスカがいなくなったら困るから、日常が破綻するから、だからいなくならないでと冗談めかして言った。あの軽さが、胸を刺す。もし今、行かなければ、あの約束まで嘘になる気がした。
「アスカ」
リョウはもう一歩進んだ。鏡の中のアスカも手を伸ばした。指先が硝子の向こう側から近づいてくる。届く。届いてしまう。そう思った瞬間、背後からナギサが叫んだ。
「春日リョウ!」
その声は、泣いていた。けれど、強かった。
「行かないでください! 先輩まで、あたしの前から消えないで!」
リョウの足が止まった。アスカの指先が、鏡の内側で硝子に触れる。そこから白い波紋が広がった。アスカの顔が揺れる。笑顔が歪む。目元が少し変わる。唇の形が違う。今まで見ていたアスカの顔に、別の何人もの顔が重なっている。三枝千尋。白鳥由梨。小野寺真琴。名前を知らない生徒たち。そして、アスカの姿をした、アスカではない何か。
「リョウ」
それでも声はアスカだった。
「わたしを、ひとりにしないで」
リョウは歯を食いしばった。行きたかった。助けたかった。あの声に応えたかった。だが、応えた瞬間、自分が何を助けるのか分からなくなる。アスカなのか。アスカの声なのか。アスカを失いたくない自分自身なのか。
「春日リョウ」
今度は、すぐ近くでマナの声がした。扉の向こうではない。教室の入口に、マナが立っていた。顔色は白く、息が乱れている。黒い傘を握る手が強張っていた。
「鏡を見るな!」
その瞬間、白鳥由梨が立ち上がった。穏やかな顔のまま、リョウとマナのあいだに視線を置く。
「鳴海さん。邪魔しないで」
「ここで終わりにする」
「終わらせる必要はないわ。みんな、少しずつ楽になっている。誰も責められない。誰もひとりで泣かなくていい。春日くんも、椎凪さんも、こちらへ来れば」
「それは救いじゃない」
「救いかどうかは、本人が決めることよ」
「本人の輪郭を溶かしてから、本人に決めさせるの?」
由梨の微笑みが、初めて完全に消えた。教室の空気が一段冷たくなる。参加者たちが一斉にマナを見た。その動きは揃いすぎていた。別々の人間が同時に振り向いたというより、ひとつの合図で複数の顔が動いたようだった。
「境界は、痛みを生むわ」
由梨が言った。声は由梨のものだったが、背後で何人もの声が重なっている。
「私とあなた。こちらとあちら。覚えている者と忘れられた者。救う者と救われる者。そうやって分けるから、誰かが落ちる。誰かが消える。誰かがひとりになる」
「境界がなければ、人は人でいられない」
マナは低く返した。
「あなたは、またそれを言うのね」
「何度でも言うわ」
リョウは二人を見た。マナは普通の上級生のはずだった。失踪者名簿を持ち、黒い傘を持ち、赤い栞を挟み、いつも肝心なことを語らない先輩。だが今、彼女の影が少しだけ違って見えた。教室の蛍光灯の下で、マナの足元から伸びる影の輪郭が、黒い薔薇の蔓のように揺れている。見間違いかもしれない。だが、由梨はそれを見て確かに警戒した。
「ナギサ」
マナが言った。
「千尋さんから離れて」
「でも」
「それは、あなたの知っている千尋さんの記憶を持っている。声も、姿も、思い出もある。でも、あなたを呼ぶその言葉は、千尋さんひとりのものじゃない」
ナギサは千尋を見た。千尋は悲しそうに笑っていた。
「ナギサ。あたしはここにいるよ。やっと帰ってきたのに、また置いていくの?」
「違う」
ナギサは首を振った。涙がこぼれた。
「あたしは、千尋を置いていきたくない。でも、千尋があたしをどこかへ連れていくのも違う。千尋は、そんなふうに笑わなかった。あたしが泣きそうなとき、そんなに綺麗な言葉を選ばなかった。もっと、困って、怒って、えっと、って言って、それから、変なこと言って笑わせようとしてくれた」
千尋の表情がわずかに固まった。
「ナギサ」
「あたしの千尋は、あたしを『あたしたち』になんて誘わない」
その瞬間、千尋の顔がぶれた。蛍光灯が激しく明滅する。中央の鏡の中で、アスカの顔も、千尋の顔も、由梨の顔も、無数の顔が重なっていく。参加者たちが一斉に息を吸った。まるで教室そのものが呼吸しているようだった。
「ひとりに戻るのは、苦しいよ」
千尋が言った。声が少しずつずれていく。千尋の声の後ろに、他の少女たちの声が重なる。
「苦しくても」
ナギサは泣きながら言った。
「あたしは、あたしのままで千尋に会いたい」
その言葉が落ちた瞬間、鏡に大きなひびが入った。
最初は細い線だった。中央から斜めに走り、次に枝分かれし、蜘蛛の巣のように広がっていく。教室中の生徒たちが同時に振り返る。由梨の目が見開かれた。アスカの声が鏡の奥で叫んだ。
「リョウ!」
リョウは反射的にそちらへ手を伸ばしかけた。だが、マナが叫んだ。
「伸ばさないで!」
鏡が割れた。
硝子の破片が、爆発するように飛び散るはずだった。だが、破片は空中で止まった。無数の小さな鏡片が、蛍光灯の光を受けて宙に浮かぶ。その一枚一枚に、違う顔が映っていた。アスカ。千尋。由梨。小野寺真琴。知らない生徒。リョウ自身。ナギサ。マナ。そして、そのすべての映り込みを切り裂くように、黒い影が破片の奥から現れた。
黒衣だった。
夜を布にしたような外套。顔の上半分を覆う、白く冷たい仮面。仮面の片側には、ひび割れた薔薇の意匠が刻まれている。長い黒髪とも影ともつかないものが肩へ流れ、足元には赤黒い花弁のような影が散った。人間の形をしている。だが、教室のどの生徒とも違う。廊下の怪談や匿名チャットの噂ではなく、明らかに現実の境界を踏み破って現れた存在だった。
参加者たちが後ずさった。由梨の顔から血の気が引く。千尋がナギサへ伸ばしていた手を止めた。マナは息を呑み、黒い傘を握りしめていた。その横顔には、驚きよりも痛みがあった。まるで、来てほしくなかった人が来てしまったときの顔だった。
黒衣の仮面は、割れた鏡の破片の上に立っていた。足元の硝子は音もなく砕け、黒い花弁のように散る。仮面の奥の視線が、リョウとナギサを一度だけ見た。それから、ミラーズたちへ向く。
「境界を越えすぎた」
声は低く、性別も年齢も判別しづらかった。だが、その一言だけで教室の空気が変わった。優しい相談会の空気が剥がれ、下に隠れていた冷たい水面が露出する。ここが救いの場所ではなく、どこかへ接続された入口なのだと、リョウは初めて肌で理解した。
由梨が呟いた。
「ファントム・ローズ……」
その名を聞いた瞬間、マナの指が微かに震えた。リョウは振り返りかけたが、黒衣の仮面が一歩前へ出たため、視線を戻した。
ファントム・ローズは、無数の鏡片の中で静かに立っていた。その背後では、アスカの声がまだ、遠くからリョウを呼んでいる。
「リョウ」
泣きそうな声だった。
「行かないで」
リョウの胸が裂けるように痛んだ。だが、黒衣の仮面はその声を振り返らなかった。ただ、リョウへ向けて短く言った。
「追うな」
命令だった。説明ではない。慰めでもない。
「探せ。だが、追うな」
リョウは意味を聞き返そうとした。けれど、その前に割れた鏡の奥から、何か巨大な気配がこちらを覗いた。顔ではない。形でもない。ただ、無数の視線と、無数の声がひとつに溶けたような気配。教室の参加者たちが一斉に笑った。白鳥由梨も、三枝千尋も、同じ角度で微笑んだ。
「もう一人ではない」
彼女たちの声が重なった。
ファントム・ローズの外套が揺れた。黒い影が薔薇の蔓のように広がり、鏡片の光を切り裂いていく。リョウはナギサの腕を掴み直した。ナギサは泣きながらも、千尋から目をそらさなかった。
「千尋」
彼女は最後に、友人の名を呼んだ。
「また、あたしの名前を呼んで。私たちじゃなくて、千尋の声で」
千尋の笑顔が、一瞬だけ崩れた。
その奥に、泣きそうな少女の顔が見えた気がした。だが次の瞬間、教室の照明が弾けるように消え、すべてが黒い花弁の影に呑まれた。




