第10章 ファントム・ローズ
光が消えた瞬間、教室は夜になった。旧校舎の空き教室ではない。六道学園のどこにも属していない、鏡の裏側に貼りついた夜だった。蛍光灯の白い輪郭は砕け、机も椅子も床も、黒い水面の下に沈んだように遠くなる。リョウはナギサの腕を掴んだまま、足元の感覚を失っていた。何かが床を這っている。水ではない。影でもない。割れた鏡の破片から滲み出した、冷たい膜のようなものだった。それが靴底を濡らし、足首へ絡み、こちら側の体温を奪っていく。耳元では、いくつもの声が重なっていた。もう一人ではない。ひとりに戻らなくていい。痛みを分ければいい。境界は苦しみを生む。救いの言葉が、繰り返されるほど救いから遠ざかっていく。
ナギサが震えていた。彼女の視線は、少し離れたところに立つ三枝千尋から動かない。千尋の姿をした少女は、泣きそうな顔でナギサを見ていた。先ほどまでの穏やかな微笑みは消え、その奥に、ほんの一瞬だけ本物の痛みが浮かんでいるようにも見えた。だが、その顔の背後には、無数の千尋が重なっている。鏡片の一枚一枚に、違う角度の千尋が映る。笑う千尋。泣く千尋。手を伸ばす千尋。口を揃えて、あたしたち、と言う千尋。どれが本人なのか、そもそも本人という言葉に意味が残っているのか、リョウには分からなかった。
「ナギサ」
千尋が呼んだ。
ナギサの体が前へ傾く。リョウは腕に力を込めた。
「椎凪ナギサ」
リョウは彼女の名を呼んだ。ナギサはびくりと肩を震わせる。
「先輩……」
「行くな」
「分かってます。分かってる、けど」
ナギサの声が崩れた。彼女は泣いていた。明るく、軽口を叩き、怖いときほど冗談を言ってきた少女が、もう誤魔化せないところまで来ていた。目の前に失った友人がいる。自分を呼んでいる。会いたかったと言っている。その友人に駆け寄らないためには、どれほどの力が必要なのか。リョウはナギサを止めながら、自分ならできるのかと考えていた。アスカが目の前にいたら。アスカの声で呼ばれたら。行くなと言われても、行かずにいられるのか。
割れた鏡の奥で、アスカの声がした。
「リョウ」
心臓が握られた。黒い夜の中、鏡片のいくつかが淡く光る。そこにはアスカが映っていた。教室の片隅に立つアスカ。中庭の水盤の前にいるアスカ。階段の踊り場でスマホを隠すアスカ。保健室の白い扉の前で振り返るアスカ。どのアスカも少しずつ違った。髪の揺れ方、目元の影、唇の形、リョウを見る角度。けれど、全部がアスカに見えた。全部が、リョウの知っているアスカの欠片で作られていた。
「こっちに来て」
声が言った。
「わたし、まだここにいるよ」
リョウの足が動きかけた。ナギサを掴む手から力が抜ける。その瞬間、黒い花弁が彼の視界を横切った。花弁は硝子の破片を切り、音もなく宙へ散る。甘く、冷たい香りがした。薔薇の香りだった。花壇に咲く薔薇ではない。夜の礼拝堂に置かれた、誰かのための供花のような香り。美しいのに、喪失を連れてくる香り。
黒衣の仮面が、鏡片のただ中で立っていた。
ファントム・ローズ。
白鳥由梨が呼んだその名が、リョウの中でもう一度響く。黒い外套は風もないのに揺れ、その裾から赤黒い影が薔薇の蔓のように伸びていた。仮面は白い。左目のあたりから頬へかけて、ひび割れた薔薇の紋様が走っている。顔は見えない。だが、仮面の奥から向けられる視線だけは分かった。冷たい。けれど、無関心ではない。突き放しているようで、確かにこちらを守る位置に立っている。
「下がれ」
ローズが言った。
命令だった。リョウは反射的に言い返そうとした。だが、その声には人を黙らせる重さがあった。説明ではなく、今ここで従わなければ死ぬ、あるいはもっと悪い場所へ落ちると体に分からせる声だった。
ミラーズたちが、いっせいに微笑んだ。白鳥由梨も、三枝千尋も、名を知らない参加者たちも、同じ角度で口元を上げる。揃いすぎている。ひとつの鏡の中で複数の顔が動いたようだった。
「邪魔しないで」
由梨が言った。その声に、背後から無数の声が重なる。
「ここは、痛みを分ける場所。ひとりをひとりのまま苦しませない場所。あなたはいつも、境界を切る。分かたなくていいものまで、切り離す」
「混ざれば救われると思うなら、なぜ小野寺真琴は壊れた」
ローズの声が落ちた。教室の空気が鋭くなる。
「なぜ三枝千尋は、自分の声で泣けない。なぜ椎名アスカの声を、他人の願いに使う」
その名を聞いた瞬間、リョウは顔を上げた。
「アスカを知っているのか」
ローズは答えなかった。代わりに、右手をわずかに動かした。黒い袖口から、赤黒い蔓が伸びる。薔薇の茎のように細く、鞭のようにしなやかで、表面には小さな棘が並んでいる。蔓の先端に、血のように濃い赤の花弁が開いた。その瞬間、教室の黒い水面が一斉に波打った。
薔薇の鞭が振るわれた。
音はなかった。だが、空気が裂けた。机の円を囲んでいた黒い膜が切断され、鏡片に映っていた無数の顔が一瞬だけ悲鳴の形に歪む。参加者たちの足元から伸びていた影の糸が切れ、白鳥由梨がよろめいた。三枝千尋の姿をした少女も、胸を押さえるように一歩下がる。ナギサが息を呑んだ。
「千尋!」
「呼ぶな」
ローズが鋭く言った。
「今、名を呼べば、つながる」
「でも、千尋が」
「椎凪ナギサ」
その呼び方に、ナギサの体が止まった。
リョウも息を止めた。ローズの声は仮面越しで低く変わっている。けれど、その名前の呼び方に、聞き覚えがあった。ナギサ、と呼ぶときの短い間。叱るようでいて、心配を隠しきれない硬さ。鳴海マナがナギサを止めるときの声に、ひどく似ていた。
ナギサも気づいたのだろう。涙を浮かべた目で、ローズを見た。
「……マナ先輩?」
黒衣の仮面は答えなかった。
その沈黙が、答えのようにも、拒絶のようにも見えた。リョウは入口の方を見た。さっきまで教室の扉のそばにいたはずのマナの姿はない。黒い傘も、赤い栞もない。ただ、扉の近くの床に、白い無地のヘアピンがひとつ落ちていた。リョウはそれを見て、喉の奥が冷たくなった。
由梨が笑った。笑おうとした、という方が近い。その笑顔は綺麗な形を保とうとしていたが、ローズの一撃で何かがずれたのか、口元が少し引きつっていた。
「その子を名前で縛るのね」
「名前は縛るためだけのものではない」
ローズは言った。
「帰るための目印にもなる」
「帰る場所が苦しいなら?」
「苦しくても、本人の場所だ」
「本人の場所で壊れる子たちを、あなたは何人見捨てたの」
由梨の声が変わった。白鳥由梨のものだけではない。水鏡紫影の柔らかさにも似た響きが重なり、さらに奥から、知らない無数の生徒たちの声が重なる。
「痛みを抱えたまま、名前だけを守って、何になるの。ひとりでいるから泣く。ひとりでいるから消えたいと思う。ひとりでいるから、誰かの世界から薄くなる。なら、ひとりをやめればいい」
「ひとりをやめることと、奪われることは違う」
「誰も奪っていないわ。みんな、望んだの。分かってほしかった。ひとりじゃないと知りたかった。椎名アスカも」
「アスカを語るな」
リョウの声が出た。自分でも驚くほど低い声だった。由梨が彼を見た。千尋の姿をした少女も、他の参加者たちも、いっせいにリョウを見る。無数の視線が刺さる。だが、リョウは引かなかった。
「アスカは、消えたくてここに来たんじゃない。ひとりになりたくなくて来たんだ。そこにつけ込んで、アスカの声で僕を呼ぶな」
鏡片の奥で、アスカの顔が揺れた。泣きそうな表情。リョウの知っている表情。だが、その背後に知らない顔が重なる。
「リョウ」
声が言った。
「わたしだよ」
リョウの心が揺れた。アスカではない。そう思いたい。けれど、声はアスカだった。リョウの名を呼ぶその響きだけで、何度でも崩れそうになる。
ローズの薔薇の鞭が、リョウの目の前を横切った。鏡片に映ったアスカの顔が切り裂かれ、無数の光へほどける。リョウは思わず手を伸ばした。
「やめろ!」
ローズは振り返らなかった。
「見えるものを信じるな」
「アスカだった!」
「アスカの形を使っている」
「それでも、アスカの一部かもしれないだろ!」
その言葉に、ローズの手が止まった。仮面の奥の視線が、初めてリョウだけへ向いた。
「そうかもしれない」
短い答えだった。リョウは息を詰めた。
「だったら」
「だから危ない」
ローズは言った。
「欠片は本人ではない。だが、本人と無関係でもない。声は声だ。記憶は記憶だ。願いは願いだ。だからこそ、触れれば引かれる。抱きしめれば境界を失う。救おうとして、別のものを連れ帰る」
「じゃあ、どうしろって言うんだ」
「探せ」
ローズの声は低く、硬かった。
「椎名アスカを探せ」
「取り戻せるのか」
リョウはすぐに聞いた。聞かずにはいられなかった。
「アスカを、取り戻せるのか」
ローズは答えなかった。
その沈黙に、リョウの胸の底が冷えた。言ってくれないのではない。言えないのだと分かった。取り戻せる、と。大丈夫だ、と。信じて進めば救える、と。そういう言葉を、ローズは決して口にしない。白鳥由梨や水鏡紫影なら、きっと優しい言葉をくれる。ひとりじゃない、と。痛みを分ければいい、と。けれどローズは違った。救える保証のない道を、それでも進めと言う。
「ふざけるな」
リョウは言った。
「探せって言うなら、何を探せばいいのか教えろ。アスカはどこにいる。何が起きてる。ダブルBは何なんだ。ミラーズは何なんだ。君は何を知っているんだ」
ローズは沈黙した。薔薇の香りだけが濃くなる。割れた鏡片が、宙でかすかに揺れている。そのひとつひとつに、リョウの顔が映っていた。怒っている顔。怯えている顔。泣きそうな顔。アスカを探す顔。アスカの声に引かれてしまう顔。その全部が春日リョウで、全部が少しずつ違っていた。
「答えろ!」
リョウが叫ぶと、ローズは静かに言った。
「名前を忘れるな」
「答えになってない」
「答えだ」
ローズは薔薇の鞭を構え直した。
「椎名アスカ。春日リョウ。椎凪ナギサ。三枝千尋。名前を忘れるな。相手がどれほど似ていても、名前を呼ぶ前に、自分が誰かを確かめろ。名前を呼ばれたとき、返事をする前に、誰の声で呼ばれたかを疑え。鏡の向こうは、欲しい言葉でこちらを開く」
ナギサが涙を拭った。千尋の姿をした少女は、彼女のすぐ前にいた。手を伸ばせば触れられる。それでもナギサは動かなかった。
「千尋」
ナギサは言った。声は震えていたが、逃げてはいなかった。
「あなたが本当に千尋なら、あたしを連れていかないで。あたしの名前を、私たちじゃなくて、あんたの声で呼んで」
千尋の表情が揺れた。目の奥に、ほんの一瞬だけ本物の困惑が浮かんだ。ナギサ、と唇が動く。だが声になる前に、背後の無数の影がそれを覆った。
「ナギサ」
それは千尋の声であり、千尋だけの声ではなかった。
ナギサは目を閉じた。涙がこぼれた。
「違う」
その一言と同時に、ローズの鞭が千尋とナギサのあいだを切った。見えない糸が弾ける。千尋の姿が大きく揺れ、いくつもの鏡片へ分かれた。ナギサが悲鳴を上げかけたが、リョウが支えた。彼女はリョウの腕にしがみつき、声を殺して泣いた。
「ひどい」
由梨が言った。もう、その顔は完全には由梨ではなかった。目の奥で無数の光が揺れ、口元の微笑みは割れた硝子のように歪んでいる。
「また、ひとりに戻すのね」
「ひとりに戻る時間が必要なこともある」
「それを孤独と呼ぶのよ」
「孤独と、自分でいることは同じではない」
ローズは一歩踏み込んだ。薔薇の鞭が床を打つ。黒い水面が裂け、教室の床が露わになった。机が元の重さを取り戻す。蛍光灯の一本がちらつきながら点灯する。空き教室の輪郭が、少しずつこちら側へ戻ってくる。
だが、鏡の奥から伸びる気配は消えなかった。割れた鏡の中心、破片が集まった黒い穴のような場所から、巨大な視線がこちらを見ている。形はない。名前もない。だが、そこには明確な意志があった。こちらを憎んでいるというより、こちらを理解しようとしている。理解して、取り込もうとしている。
ローズはその気配へ向かって、低く言った。
「まだ早い」
返事は声ではなかった。教室中の窓硝子が一斉に震えた。参加者たちが膝をつく。由梨の体もぐらりと傾き、机に手をついた。リョウの耳元で、またアスカの声がした。
「リョウ、忘れないで」
今度の声は、泣いていた。似せ物かもしれない。欠片かもしれない。本物のアスカの願いが、どこかから漏れたのかもしれない。リョウには分からなかった。だからこそ、彼は答えなかった。返事の代わりに、自分の胸の中でその名を呼んだ。
椎名アスカ。
その名前だけを、何度も。
ローズの外套が大きく翻った。薔薇の香りが教室いっぱいに広がる。甘さの奥に、血のような鉄の匂いが混じる。薔薇の鞭が最後にもう一度振るわれ、割れた鏡の中心を斜めに切った。硝子ではなく、空間が裂ける音がした。黒い穴が悲鳴のように震え、そこから伸びていた無数の視線が一斉に閉じる。
教室に光が戻った。
蛍光灯が明滅し、古い床が軋み、机と椅子が円形に残っている。中央の大きな鏡は完全に割れていた。破片は床に散らばり、そのどれにももう顔は映っていない。参加者たちは倒れ込むように椅子へもたれ、白鳥由梨は机に手をついたまま荒い呼吸をしていた。先ほどまでそこにいた三枝千尋の姿はない。ナギサは床に膝をつき、リョウの袖を掴んだまま、声を押し殺して泣いていた。
教室の入口に、マナの姿はなかった。
代わりに、黒衣のローズが、割れた鏡の前に立っている。白い仮面は無表情で、そこから何を考えているのかは読めない。だが、ナギサを見る視線だけが、ほんの少しだけ揺れたように見えた。
「椎凪ナギサ」
ローズはもう一度、彼女の名を呼んだ。
その声音は、さっきよりもはっきりとマナに似ていた。ナギサは涙で濡れた顔を上げる。
「……はい」
「あなたは、まだこちら側にいる」
ナギサは唇を噛み、頷いた。
「千尋は」
声が途切れる。
「千尋は、どこにいるんですか」
ローズは答えなかった。答えられないのか、答えるつもりがないのか、リョウには分からなかった。ナギサはそれ以上聞かなかった。ただ、俯いて涙を落とした。
リョウは立ち上がった。膝が震えていた。だが、ローズから目をそらさなかった。
「君は何者なんだ」
ローズは沈黙している。
「マナ先輩なのか」
その問いに、仮面の奥の視線がわずかに動いた。けれど、返事はなかった。
「アスカはどこにいる」
それにも答えない。
「アスカを探せって言った。なら、手がかりくらい残せよ。全部知ってるみたいな顔で、黙って消えるな」
ローズはしばらくリョウを見ていた。やがて、割れた鏡の破片を一枚拾い上げた。黒い手袋に包まれた指先に、小さな硝子片が載る。そこには何も映っていなかった。ローズがそれをリョウへ差し出す。
「持て」
「これは」
「彼女が通った跡」
リョウは硝子片を受け取った。冷たかった。だが、ただの硝子ではない。触れた瞬間、胸の奥にかすかな声が響いた。言葉にはならない。けれど、アスカの気配がした。図書室の紙の匂い。昼休みの弁当袋。雨の日の石畳。スマホ越しの短いおやすみ。そうした小さなものが、硝子片の奥で薄く瞬いた。
「アスカは、ここにいるのか」
「ここではない」
「じゃあ、どこだ」
「まだ、完全には向こうにもいない」
ローズはそこで、初めてリョウが求めていた答えに近いものをくれた。
「椎名アスカは、まだ完全には消えていない」
リョウは硝子片を握りしめた。指に痛みが走る。切れたのかもしれない。だが、その痛みで、自分がまだこちら側に立っていることが分かった。
「完全には、ってことは」
ローズは背を向けた。黒い外套が揺れ、薔薇の香りが薄くなる。
「探せ」
「待て!」
「取り戻せると思って探すな」
ローズは振り返らずに言った。
「本当に椎名アスカなのかを、確かめるために探せ」
その言葉は、希望よりも重かった。アスカを見つけることと、アスカを取り戻すことは同じではない。声があればいいわけではない。姿があればいいわけではない。記憶を語れば本人というわけでもない。リョウはこれから、その違いを見極めなければならない。見極めた先に、救いがあるとは限らない。それでも探せ、とローズは言う。
黒衣の輪郭が、割れた鏡の破片に溶けるように薄れていく。
「名前を忘れるな」
最後に、その声だけが残った。
「忘れた瞬間、探しているものは別のものになる」
薔薇の香りが、ふっと消えた。
教室には、リョウとナギサ、倒れた参加者たち、割れた鏡、そして白いカードだけが残された。廊下の外から、遠くで誰かが走ってくる足音が聞こえる。教師かもしれない。マナかもしれない。あるいは、また別の何かかもしれない。
リョウは手の中の硝子片を見た。そこには何も映っていない。けれど、何も映っていないはずの硝子の奥で、かすかにアスカの声がした気がした。
リョウ。
今度は返事をしなかった。
ただ、彼はその名を胸の中で呼び返した。
椎名アスカ。
忘れないために。追いかけるためではなく、探すために。




